ぼんやりと、冬の朝日が雪の上を照らし出すように意識を取り戻したのは幸運だった。フェリクスはその身を包んでいる温もりが、毛布ではなく湯によるものだと知覚したあとも、寝息を装い瞼を閉じたままでいる。ちゃぷ、と水面を揺らして、背後にいる誰かがフェリクスの肩に湯をかけている。その誰かの裸の胸板がフェリクスのぐったりと力の抜けた背を受け止めて、首を肩に凭れ掛からせている。小さく聞こえる機嫌のよさそうな鼻歌。フェリクスはまだぼんやりとする頭で薄っすらと目を開き、蝋燭の炎にちらちらと揺れる湯船を見た。
そこから先は、ほぼ脊髄反射で体が動いたと言って良かった。
まず最初に、背後の人間以外、周囲に人の気配が感じられなかったことがフェリクスをそうさせたと言える。それに、狭い浴槽の中に大の男が二人詰め込まれていたことで、足が不自由なフェリクスでも相手の足の間で体を支えることができた。なにより相手が油断しきっていたことが勝因だったが、彼も数時間にわたっての性交に疲労していたのだろう。だからフェリクスは、瞬時に身を翻して彼の濡れた赤い髪を掴み、渾身の力を込めて浴槽の縁に頭を叩きつけてやることができた。
ガツン!!
フェリクスの激情に紋章が応える。不意を突かれたシルヴァンはこめかみの辺りから血を流しながら、それでもフェリクスの手を掴み返そうとした。ブチブチ、髪の毛の抜ける嫌な感触。フェリクスは容赦なく、シルヴァンの頭が彼自身の一物に挨拶できるようそのまま両手で思いきり湯の中に沈めてやった。がぼ、ごぼ、慌てたように抵抗する素振りがあったが、浴槽の中に座った格好では力が入るまい。フェリクスは全体重をかけて、彼が息絶えるのを待った。待とうとした。
ふと蝋燭の火が遮られ、フェリクスは顔を上げた。カラスの濡れ羽色の彼の髪を、先ほど自分がシルヴァンにやったのと同じように掴まれたのだ。ゾッと背筋が凍り付くほどの殺気を身に受けても、フェリクスはシルヴァンを押さえつける腕の力を抜くことは無かった。しかしフェリクスの長い黒髪を片手で鷲掴みにした人物―――ディミトリは、口元に僅かに微笑みを浮かべて無造作に腕を振った。
ゴッ!!
浴室の壁に鈍い音が響いた。ディミトリが手を離すと、ぐらり、フェリクスは頭から血を流しながら湯の中に落ちてゆく。
ディミトリは一つため息を吐いてシルヴァンとフェリクスを湯船から引き上げると、まずシルヴァンの頬を軽く叩いた。酷い出血だ。
「シルヴァン、起きろ」
「……ッウ!ゴホッ!ゲッホ……!!あッ……へ、へーか、俺……すみません」
何度か胸を押してやると、シルヴァンはすぐに息を吹き返した。緩慢に体を起こそうとしてもがく腕を、ディミトリが掴んで引き寄せてやる。
「油断したな。血が出ているぞ」
「くっそ、フェリクスの奴……」
体を拭くために用意していた布は、一先ず血止めに使われることとなった。シルヴァンは自分の頭に適当にそれを巻き付けると、直ぐにフェリクスに治癒魔法をかける。
「しばらく放っておいてもいいんじゃないか?」
「確かにお灸を据えてやらなきゃならないですけど、頭が割れちまってますよ……」
「そうか……少し力が入りすぎたかな。だがお前が風呂で死ぬのは見たくない」
「今更、お互いの裸なんて見慣れたでしょ。……けどほんと、助かりました」
ディミトリはシルヴァンの礼に笑みを返すと、フェリクスをひょいと抱き上げた。ついでにふらついているシルヴァンを支えてやりながら浴室を後にする。
「寝ている方が大人しくて良いが、次から風呂に入れるときは起こすことにしよう」
「ですね」
気を失っているフェリクスの顔は、皮肉なほどに穏やかで無垢に見える。ベッドに下ろしてやると、傷に響くのか、眉間に皺が寄ってしまった。さて、大切な仲間を、愛すべき幼馴染を傷つけた代償をどう支払ってもらおうか。重い鎖を足に取り付けてやりながら、ディミトリ愛しいフェリクスの寝顔を見つめた。シルヴァンはフェリクスの濡れた黒髪の下に布を敷いてやると、額にこびり付いていた血を舐めとるように口付けを落とす。
「ったく、あとで覚えてろよ……」
「シルヴァン、お前の手当てが先だ」
「ええ……すみませんけど、医務室まで肩貸してもらってもいいですか?」
「ああ。担いでやってもいいぞ」
「いえ、肩だけで……」
あーあ、なんて言い訳にしましょうかね。シルヴァンはディミトリにほとんど全体重を支えられながら、フェリクスの冷たい部屋を出た。頑丈な錠が下ろされ、あとに残されたフェリクスの指先がピクリと動く。布に滲む血は止まりかけだ。しかし、意識が戻るまでにはまだ時間がかかるだろう。忘れられた浴室で残された血の痕跡もやがて乾き、いつしか蝋燭の炎は音もなくふ、と、消えてしまっていた。