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    saltsalt__shio

    魔道祖師にドボンした屍

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    すれ違い最高

    魏無羨、藍忘機とお別れする1話

     少なくとも俺は、こうして囲われる為だけに藍湛と付き合い始めたわけではなかった。居場所が欲しかった俺に、「隣」という帰る場所を与えてくれたのは間違いなく藍湛。だけども俺が本当に欲しかったのは、広い高級マンションの一室で穀潰しのように悠々自適に暮らせる環境でも、名ばかりの恋人という立ち位置でもなかったのだ。
     確かに藍湛を付きまとい続けたのは俺だろう。潔癖で気高く誰からも一線を引いているような近寄りがたい雰囲気をまとっていて、俺はいつもその顔を崩してみたかった。それがどんな理由であっても、俺が原因であるなら何でもいい。ただ笑ってほしくて、ひたすらに藍湛の背を見つけては追いかけ続けていた。江澄に何を言われたって、聶懐桑に揶揄われたってやめることができない。藍湛はモテる男だったが、それは俺にとっても例外でなくそれはそれは魅力的な男だったのだ。でもだからと言って藍湛を好きになったのは何も顔がタイプだったからというわけではない。俺は美しいものが好きだけど、顔だけで選んだ相手に自分自身を捧げられるほど自己肯定感の低い人間ではないのだ。
     
     両親が死んだとき、残ったのは両親が俺の為に少しだけ無理をして買った大きな一軒家だけだった。もともと両親の実家とは疎遠であったから、二人がいなくなった途端に俺は一人ぼっちになった。他のどんな場所よりも温かくて大好きだった家は、一瞬にして暗く寂しいだだっ広いだけの建物に変わる。食器棚のお茶碗も、クローゼットの中の洋服も、寝室のベッドも洗面所の歯ブラシだって三人分あるのに、ここには一人しかいない。いくら帰りを待っていても、両親が帰ってくることはない。ソファーの上で膝を抱えたまま夜も寝ずに待ち続けたって、リビングの電気が灯ることはない。「ただいま」の声が聞こえることもない。
     
     暗い部屋で時計の秒針が時を刻む音だけが響くこの状況は、一人で両親を待ち続けたあの夜に酷似していた。
     藍湛が仕事で帰りが遅くなるということは夕方の時点で連絡が入っていたし、そもそもよくあることだ。一週間の半分は日をまたいでから帰ってくると言ってもいい。孤独に怯えて帰ることのない人間をひたすらに待ち続ける俺を孤独から救い出してくれたのは藍湛だったのに、今は一人ぼっちで藍湛を待ち続けている。藍湛は毎日会社で一生懸命働いているけれど、俺だけが孤独に怯えたあの頃に戻ったままここにいる。
     それってどういうことなんだ? 藍湛にとっての俺って何なんだろう。俺一人じゃ答えを出すこともできない問いを頭の中でぐるぐると考え続けては、布団の中で藍湛が夜中にシャワーを浴びている音を聞く毎日は、何の解決もできないまま過ぎていく。多分潮時。もともと釣り合う相手じゃなかった。そう思っても、付き合い始めた当初の幸せが忘れられなくて、今日こそはあの頃に戻れるんじゃないか、今日こそは抱いてくれるんじゃないかってずっと考えている。毎日だって言ったくせに最近ではすっかりご無沙汰な『天天』なんて笑える。言葉の意味を成してない。

    「別れたい」
     言葉にしてみれば一人ぼっちの部屋にポツリと落ちていった声は枯れていて、なぜだか今の俺達がどれだけ心をすり減らして生きているのかがよく分かった。逆になぜ今まで思いつかなかったんだろうと自分を罵りたくなるほど、そのアイデアは実に名案であった。
     そうだ、別れたらいいんだ。ずっと養われていた俺が今更社会復帰できるかなんて、考えるまでもない。俺はまだ若いんだからなんだってできるし、やる前からできないことを考えるなんて俺らしくもない。一度思いついてしまえば、ここ数週間ずっと沈みっぱなしだった気持ちが嘘のように浮上してきて、心の霧も晴れたように思えた。思い立ったが吉日、先手必勝。どうせ毎日何もせずに生きてきたんだから、今更俺がいなくなったところで藍湛が困ることはないだろう。しいて言えばベッドの中のぬくもりが消えることぐらいだろうが、その代わりに寝るスペースが広くなるんだから嬉しいくらいじゃないか。住むところだってもともと住んでいた家があるのだから問題ない。ずいぶん長い間掃除していなかったことが気がかりだか、いざとなったら江澄の家にでも行こう。そうと決まればすぐに行こう。早くこんなところ逃げ出してしまおう。
     ソファーから立ち上がって部屋を見渡してみると、昔は殺風景で必要最低限のものしか置かれていなかった部屋は俺の物で溢れて、すっかり生活感のある空間へと変わってしまっていた。これが全部なくなって、俺もいなくなっていたら、藍湛はどう思うんだろう。少しくらい悲しんでくれたらいいけど。
     携帯と財布、それと大学で使っていたパソコンとか下着類とかをバックパックに詰め込んで残りのいらないものは全てごみ袋に入れた。やっぱり恋人と別れる者として元カレから貰ったものを持っていくのはなんとなく嫌だったから全部捨ててやったら、あれだけ物があったのが嘘みたいに手元にはほとんど何も残らなかった。つまり、藍湛は俺にたくさんの物を買い与えていて、俺はほとんどの物を藍湛に頼って生きてきたってことだ。改めて考えると恐ろしいよな。俺は今まで本当に、藍湛がいないと生きていけない状態だったんだから。
     時刻は午後十一時。そろそろ藍湛が帰ってくるかもしれない時間だ。本当はもっと早く出て行ってやろうと思っていたけど、荷造りに時間がかかってしまったのだから仕方ない。
     最後に今まで暮らしていた部屋を見渡して、テーブルの上にお別れと今までの感謝を告げた手紙を置いた。メールしないのは少しでも藍湛が気づくのを遅くするため。追ってこないかもしれないけど、わざわざ置手紙を残したのは、万が一捜索願を出されないようにするためと「もしかしたら探してくれるかもしれない」というほんの少しの期待があるからだ。未だに期待してしまうあたり、やっぱり藍湛が好きなんだなぁと思う。こんなに傷ついていても嫌いになれないんだから本当にどうしようもない。あぁこんなことなら好きにならなければよかった。藍湛に縋ってしまわなければよかった。
     あぁ、本当に俺はどうしようもない奴だ。

     誰も居もしないのにこっそりと部屋を出てエレベーターに向かう。バックパックを背中に背負って大きなごみ袋を提げたまま電子パネルを見ると既に誰かが乗っているようで、一階から上昇してきていた。携帯がピコンと音を鳴す。画面を確認しなくても、俺に連絡してくるのは藍湛しかいないのだからそのまま踵を返して階段を使うことにした。あらかたさっきのメッセージは「もう着く」とかそんなあたりだろう。それならあのエレベーターには藍湛が乗っているかもしれない。せっかくあの部屋からエスケープしてきたのに鉢合わせるなんて御免だ。ここは二十八階だから降りるのは少し面倒だけど、安全のためだから我慢しよう。誰も居ない階段を降り続けていると、ずっと下を向いているからか鼻水が出てくる。ズズッと啜っても出てくるものだからティッシュで鼻をかんで、一階のごみ置き場に袋を置いてなどとしているうちに外に出てしまった。もうこのマンションともさよならだ。外はすごく寒くて、せめて買ってもらったコートだけでも持ってこればよかったと思った。その辺でタクシーでも拾って家に帰ろう。大通りに出て手を挙げれば、あっけなく一台のタクシーが捕まる。行き先を告げて、だんだんとずれていく地面と遠ざかっていくマンションを眺めていると、目の奥が熱くなった。
     少しもしないうちに熱いものが頬を伝っていく。俺は逃げ出したんだ。自由になったんだ。そう思うのに、
     やっぱり藍湛が好きなんだ。でも出来るならもっと幸せに愛し合いたかった。

    2話

    今日はいつもより早く仕事を終えることが出来たから、駅前で魏嬰の好きなケーキを買って帰ることにした。ずっと寂しい想いをさせている自覚はある。以前は夕食の時間までには必ず帰宅するようにしていたのに、ここ数週間はずっとそれが叶わなかった。それは現在、私の勤める会社が他社との競走の真っ最中だからであるし、私がその企画での重要な仕事を任されているからでもある。寂しい思いをさせていると分かっていても、彼は魅力的な人だから、どこにも行ってしまわないように、誰にも奪われないように、マンションの一室に閉じ込めておかなければ、不安で不安でとても仕事になんて行っていられない。朝起きた時や仕事から帰ってきた時、魏嬰がそこにいるのを確認しなければ、私は少しも安心できない。だから魏嬰が外に出たがっていても、私と共にでなければそれを許せないのだ。
    甘すぎない生クリームの上に乗った赤く瑞々しい苺を見て彼はどんな顔をするだろう。起きている魏嬰と会うのは数日振りだった。朝が弱い魏嬰は時々早く起きた時は「おはよう」と半分とろけたような瞳を向けてくれるけれど、やはり私は起きている魏嬰が表情をコロコロと変えながら話すのを見るのが好きなのだ。私はただ魏嬰がいてくれさえすれば、それだけでどれだけでも頑張ることが出来る。魏嬰がいるから、私はここに生きているのだ。

    エレベーターが到着のベルを鳴らした。私はエレベーターを降りると、浮かれたような気持ちで部屋へ向かう。私は本当に幸せな気持ちだった。本当に仕事を頑張って良かった。久しぶりに早く帰ってきた私に、彼が一体どんな反応を見せるのか、どんな表情を浮かべるのか。考えただけでも少なくとも十通りの未来が予測できる。そしてその一つ一つが全て愛おしく、魏嬰がどんな反応をしたって構わなかった。早く会いたいという気持ちをどうにか押し込めて部屋の鍵を取り出すと、鍵穴に差し込む。鍵を回す動きに合わせて鍵穴の中で回転していくものの重みすらもどかしい。
    私は本当に浮かれていたのだ。

    「魏嬰?」
    ドアを開けた先は暗闇に包まれていた。開けたの玄関のドアから、電灯の光が廊下に私の影を伸ばしている。これは想像していなかった。私はずっと、魏嬰が出迎えてくれるものだろうと思っていたのだ。だって前はそうだったから。腕時計を見やるとまだ午後十一時を過ぎて少し経ったばかりだった。魏嬰が寝るにしても早い。いや、最近はそもそも十一時に帰ることなどなかったから、魏嬰が夜更かしをやめたのを私が知らないだけなのかもしれない。珍しいことだが、魏嬰は既に夢の中なのだろう。私は自室に向かい、スーツや鞄を置きに行くことにした。

    私は二人の空間に他のものを持ち込みたくないと思っている。それは例えば仕事であったり、他の人間のことを思い出すようなものであったり、果ては外界の匂いさえ気になってしまう。だから基本的には風呂に入って、携帯は自室に置いてから寝室に向かうのだ。魏嬰を起こさぬようにそっと寝室のドアを開けると、キングサイズのベッドですやすやと眠る魏嬰の隣へと身体を滑り込ませる。ベッドの中は魏嬰の体温で温まっていて気持ちがいい。私の方へ無意識に擦り寄ってきた魏嬰を胸の中に抱き込み、魏嬰の甘く柔らかな黒髪越しに口付ける。身じろぐ魏嬰が起きる事はない。私は毎晩、世界でただ一つだけの宝物をこの胸に抱きながら眠るのだ。
    ところが今日はそうではなかった。魏嬰が居ない。いつもならばこんもりと山を作っている羽毛布団は綺麗に撫でつけられたままで、あまりにも薄い。電気を付ける。居ない。
    「魏嬰?」
    ……きっとどこかに隠れているのだ。こういうことは以前もあった。初めて遅く帰った時、部屋の隅にうずくまって「もう帰ってこないかと思った」と泣いていた。あぁ、私はなんて酷いことをしたのだろう。魏嬰が寂しがっていることは知っていたはずなのに、また同じ過ちを繰り返している。
    「魏嬰、遅くなって済まなかった。どうか出てきてくれ」
    返事はない。私の声が響く部屋に、背筋に冷たいものが流れた。自室の電気を付ける。魏嬰は居ない。書斎。居ない。クローゼットの中。居ない! 私はもう泣きそうな気持ちでフラフラとリビングに向かった。帰宅して直ぐに風呂に入ったからまだリビングには行っていなかった。魏嬰はソファーで眠ってしまっているのかもしれない。待ち疲れてベッドに戻る事も出来なかったのかもしれない。本当に酷い話だが、私はそれほどに魏嬰に寂しい思いをさせている自覚があった。そしてその「待たれている」という状況も嫌いじゃなかった。だから今回もそうなのかも知れない。いや、私はそうであって欲しいのだ。本当はもう電気を付けるのも怖かった。彼が居なかったら。彼が居なかったら私はどうすればいい。

    リビングの電気をつけた瞬間、目の前に広がる光景が信じられなかった。脳が拒否したのだ。今朝まで彼のもので溢れていた空間は空っぽになっていたのだ。色のない家具と、飾り気のないソファーだけが静かにそこに佇んでいた。
    「なんだ、これは……」
    生活感などまるでない。必要最低限のものがただ並べられただけの部屋に時計の秒針の音が響く。そうだ、ここはかつての私の部屋だ。何も無かった私の部屋に色を付けてくれたのは魏嬰。魏嬰が来てから私は変わったのだ。魏嬰がいたから私は笑ったのだ。それなのにここにあるのは色の消えた部屋だけだ。魏嬰が居ない。

     いつだったか彼とこんな話をしたことがあった。友情は言わなくても通じ合うことができるが、愛情は言葉にしなければ伝わらないのだと。
    「俺は藍湛の事なんでも分かっちゃうからな! 俺にかかれば言わなくたって、藍湛がどれほど俺を愛しているかなんて分かっちゃうんだよ」
    彼はそう言って笑っていたか。しかしそんなはずがないのだ。人間に心の声を読む能力は備わっていない。心の声が聞こえるなら私たちはとっくの昔に付き合っていただろうし、彼が自分を孤独であると思うこともなかった。だから彼が言った言葉は出鱈目でしかない。だけれども確かにあの頃はそうだったのだ。間違いなく彼だけには私の想いが伝わっていて、私たちは確かに通じあっていたのだ。
    しかしそんな理想郷は既に無くなってしまったのだ。私は魏嬰が消えた静かな部屋に立ち尽くした。テーブルの上に置かれた紙に気づき、手に取る。これがただのメモ書きであったなら。もしくはただの置き忘れであったなら!

    藍忘機は紙を握りしめたまま、かつて二人が過ごした温かなリビングで息もできないでいる。その日はただ、部屋の電気だけが煌々と灯り続けていた。

    3話

    だってあそこは退屈で退屈で死にそうだったんだ。藍湛といられるのは嬉しいけれど、待ち続ける時間の方がずっと長い。朝起きて、誰もいない部屋で藍湛が用意してくれた朝食を温める時間なんて本当に虚しくて空しくて、きっと世界一美味しい藍湛のご飯も何故だか味がしなくなってしまう。夜、藍湛が俺を抱きしめて眠っているのは知っていた。それでも俺はほんとうに、寂しくて仕方なかったんだ。
    思えば俺たちの繋がりは執着であったかもしれない。恋だとか愛だとか、そういう甘酸っぱいものではなくて、ただ相手に孤独を埋めてもらっているような状態。愛を欲している藍湛と、孤独が恐ろしい俺の、言うなれば代償行為でしかない。もしくはセラピー?
    でも、そうだとしても俺は、お前を想う気持ちに嘘はなかったんだ。それだけは誓う。お前は捨てられたのだと怒るかもしれないけど、それでも、俺の恋は嘘じゃなかった。

    久しぶりに帰った家の中は思っていたより綺麗で、埃が被っているだろう思っていた両親の部屋も昔のままだった。ただいま、なんてついつい昔の癖で言ってしまったけれど、当然返事はない。というか、つい昨日までは俺がおかえりと迎える側だったんだから、この言葉を言うのはなんだか変な感じがした。藍湛はもう家に帰ってきているはずなのに連絡は無い。もしかしたら今日も仕事が長引いているのかもしれないけど。

    ステンドグラスがはめられたアンティーク調のドアをくぐれば、ドアベルがカランと音を立てた。窓際の席に江澄が座っている。さっきまで普通の顔してコーヒーを飲んでいたのに、俺に気づいた途端に眉間に皺が寄ったのが分かった。いい加減にその皺も取れなくなりそうだが、昔からよく睨まれていると勘違いされる目つきの悪い視線を向けられるのが何故だかとても安心してしまった。あいつ、いつになったら彼女出来るんだろう、なんて呑気なことを考えられるようになるくらいには。
    「江澄! 久しぶりだな!」
    「相変わらずだな。何年も音信不通かと思えばいきなり呼び出しやがって」
    「なんだよ江澄だって俺に会いたかったくせにー!」
    ウエイターが運んできたコーヒーがゆらゆらと湯気を立てては消えていく。俺たちが連絡をとっていなかった三年間で、江澄の姉さんは結婚して子供が生まれたらしい。ついにあの孔雀男と結婚したのかと思うと癪だが、姉さんがあの男をどれくらい好きだったかは知っていたから何だか安心した。姉さんの子供はきっととびきり可愛くていい子に育つんだろう。何よりも江澄が嬉しそうに語るのだから、みんな幸せであるに違いない。
    「はぁ。それにしても急に呼び出すなんて、お前、何かあったんだろう? 藍忘機はどうした」
    「えぇ? 俺が呼び出すのってそんなに変かな。俺はただ、久しぶりに江澄に会いたかっただけなのに」
    「どうだか。……最近はなんだ、その、藍忘機とは上手くやってるのか」
    「別れた」
    「別れた?!」
    「うん」
    「…信じられない。あんなに鬱陶しくいちゃついていた癖に今更別れるなんて」
    「俺が嘘ついてるって? 残念だけど本当。藍湛だって俺のことなんてもうなんとも思ってないさ」
     ミルクを垂らしたコーヒーがマーブル状の渦を描き、混ぜるのをやめてもひとりでにグルグルと回り続けている。湯気はもう立たなくなっていた。
    「はぁ? お前ら同居してただろう」
    「うん。でも……藍湛、夜遅くにしか帰ってこないから。最近は会話すらしてなかった」
    「……まさかずっと1人で待っていたのか?」
    「だって、仕方ないだろ? 俺と違って忙しいんだし、外にも出してもらえないんだから家にいるしかない」
     江澄は口の中で何かをぶつぶつと呟いていて、こんなこと話さなければよかったなと思った。せっかく久しぶりに会えたんだから、こんな話題必要ない。ただ昔みたいにふざけながら何気ない会話をしたかっただけなのに。
    「……今日は俺の家に来い。今日は姉さんが帰ってきているから夕食でも食べておけ」
    「江澄?」
    「……俺は、お前が幸せに暮らしているのだと思ってた」
    「あ? 別に幸せじゃなかったなんて言ってないだろ。こんな話はもういいんだよ」
    「大学を出た途端仕事もさせずずっとお前を1人にしていたんだろう! それを軟禁と言わず何と言うんだ! 今日だってそうだ、俺が何度お前に連絡しても返事ひとつ返さなかったくせに今更呼び出してその上別れただと? だから俺は藍忘機は止めておけと何度もいったんだ」
    「やめろ。仮にも藍湛は俺の好きだったやつだ。これ以上悪く言うなら怒るぞ」 
    いつの間にか俺は手をきつく握りしめていて、藍湛の家から出てきて以来すっかり伸び切っていた爪が深々と皮膚に突き刺さった。
    「……悪かった。だが、姉上もお前を心配してたんだ。一度くらいは家に帰って来い。
    「あぁ」
     全く、こいつは口は悪いけど本当人いい奴だ。「俺も」なんて珍しく素直だな。
     江澄はカップの中のコーヒーを一気に飲み干すと、伝票を引っ掴んでから行ってしまった。
     いつもそうだ。ウニみたいにトゲトゲしているくせに中身はとびきり優しくてその上俺には甘い。
     不覚にも緩くなってしまった涙腺を右手で擦ると、江澄のようにコーヒーを飲み干してを出た。

    人は金がなければ生きていけない。長年の恋人と別れたからといっていつまでも感傷に浸っているわけにもいかないので、俺は仕事を探すことにした。とりあえず駅とかに置いてある求人誌で良さげなバイトを探していたときに、偶然店の前を歩き、そしてこれまたいきなりスカウトされて働くようになったのがこの弁当屋だった。
    曰く、若いバイト君が怪我をして人手が足りていないと。
     曰く、俺ほどのイケメンなら客も喜ぶと。
     店長の奥さんに恐ろしい形相で懇願され、おまけに余ったおかずを自由人持ち帰ってもいいというものだからあっさり承諾してしまった。
    「じゃあ魏くん、これを夷陵ビルまでよろしくね」
    「了解です!」
    今日配達するビルはよく店を利用してくださるお得意様だ。店に来たついでに軽く会話をすることがあるのだが……何かトラブルがあったとかで籠城3日目らしい。おまけでデザートを付けておいたから、少しでも力になれたらいいな。

    ビルの前に店のバイクを止め、エレベーターで五階に上がると、オフィスの入り口をコンコンと叩いた。
    「あれ! 今日の配達は魏くんなんだ!」
    数日ぶりに会うその人は少しやつれていて、いつもは綺麗に剃ってある髭がすっかり伸びてしまっていた。
    「忙しいとは聞いていたんですが……本当に大変そうですね」
    「そうなんだよ! 最近トラブル続きでさぁ。でもあともうひと踏ん張りだから!
    魏くんのとこの弁当で気合入れるわ! ……先方はあとどれくらいで到着する?」
    「あと十分程かと!」
    「了解! じゃ、配達ありがとね!」
     お代を受け取ってからすっかり軽くなった」配達用の箱を抱えてエレベーターに乗りこむと、一階のボタンを押した。

    藍湛と別れてから、俺の世界は広がったように思う。ずっと藍湛と俺の2人だけしかいないあの小さな部屋ではなくて、江澄やバイト先の人達や日を追う事に出会うお客さん達。俺はいつかのようにおしゃべりな性格を取り戻して、いつの間にか会話の輪が広がっていて、数ヶ月前じゃ考えられないほど人に囲まれている。もしかしたら本当に分かれて正解だったのかな、藍湛はどうしているんだろう。ちゃんと眠れているんだろうか。自分からあいつの側を離れたのにそんなことがすぐに頭に浮かんで仕舞うものだからたまったものじゃなかった。
    エレベーター内に到着のアナウンスが流れ、俺は荷物を抱えなおすとエレベーターを降りる。ドアの前にはスーツに身を包んだサラリーマンが立っていて、皆ハンカチやハンドタオルで肩や胸元を拭っていた。どうやら雨が降っているようだ。ガラス張りのフロントの外をお見やると確かに空は灰色に沈んでいて、道行く人は色とりどりの傘を差して早歩きで通り過ぎていく。
    全く、ツイてないな。
    すれ違いざまに未だに袖の雨を拭きとっているサラリーマンに軽く会釈をすると、俺は小走りでビルの前に止めてあるバイクへと向かった。
     すれ違う瞬間、懐かしい檀香が鼻を掠めた気がしたが、俺は振り返らなかった。
    (……まさかな)
     今振り返って彼がこっちを見ていたら。彼が俺に気づかずにとっくにエレベーターに乗り込んでいたら。そのどちらも嫌だった。そして未だに彼を気にしている自分自身でさえ。
    「……くそっ」
     空は冷たい雨を振りまいている。雨がこの気持ちを洗い流してくれるように。そう思いながら、俺はバイクのエンジンをかけた。
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