マレビト育成キット 女の喘鳴が聞こえる。
肺に水が溜まっているような、酷い音だ。
がらんとしたワンルームは明るかった。住む人間のいない部屋は、何も無い展示ケースのように淡々として静謐だ。だがそこに、濡れそぼった女の放つ濁った喘ぎ声だけが繰り返されている。
暁人はためらいつつ、リビングに足を踏み入れた。すぐ後ろでKKも息を潜めている。
カーテンの無い掃き出し窓から、昼下がりの柔らかい光が部屋を照らしている。
女は壁の隅にいた。住人が残した忘れ物のように、脈絡もなく倒れ伏していた。
暁人が近づくと、女はゆっくりと顔を上げた。
ごぼごぼと篭ったような水音がする。こんなにも明るい部屋にいながら、濁った深い水底を思わせる。重く、暗く、茫洋とした水。それはこの女の、胸腔にあたる所から聞こえる音だ。
女は笑った。黒い唇から尖った歯が覗く。青白い顔に、磁器のように罅が広がる。
水を含んだ歪な尾を揺らして、女はべちゃりと音を立てた。
マレビトを飼っていた人間がいる、とエドは言う。
「冗談言うならもっと笑えるやつにしろ」
KKは苦々しい顔をしていた。エドが普段から冗談を言ってくれるような人柄だったら、とりあえず少しは笑えたかもしれない。
エドは構わずレコーダーを続けた。
まだ憶測の域を出ない。だがその可能性は高い。飼い主は、先月頃に都内で亡くなった女性だ。自宅であるアパートの浴室で溺死した。
『何かを飼っている素振りがあったようだ』
だがそれが何かは、最後まで誰も知らなかった。そもそも本当に飼っているのかさえ怪しかった。
亡くなった女性の知人によれば、彼女はここ最近、通りすがりのペットコーナーを眺めることがよくあったそうだ。何かの餌を手に取って、興味深そうに説明を読み込む姿も見た。いかにも購入意欲がありそうな風だったが、実際に購入したところは結局見なかったという。
また同時期から、彼女はしきりに自宅を気にするようになった。仕事が終わればすぐに帰宅するようになり、飲み会への出席も減った。どうにも、自分がいない間のことを心配しているらしかった。目を離している間に何かあってはいけない、と。
ある同僚は彼女からこんな言葉を聞いた。
「きれいな魚を飼っている」と。
それにしては不可解だった。
どんな魚かと聞いても答えない。どんな水槽で、どんな餌が必要なのかと聞いても、曖昧な返事が返ってくる。しばらく考えて今度は「蛇だったかも」と言い出す始末。
魚と言ったかと思えば次は蛇。適当な嘘を言っているのだろうと同僚は呆れ、それきりその話をやめた。
だが次第に、彼女の様子はおかしくなっていった。
以前はいつも身なりに気を遣っていて、人当たりも悪くなかった。それが、ちょうど魚の話をした頃を境に、目に見えて崩れ始めた。
まず不愛想な態度が増えた。笑顔が減って自分本位な物言いが増え、周囲から距離を置かれるようになった。
風貌もどんどん不健康になっていった。体は痩せて髪も肌も荒れ、深いクマを刻んだ目元は次第に落ち窪んでいった。何か危ない薬でも服用しているのか。はたまた経済的な問題か、私的な人間関係の縺れか。周囲の気遣いの言葉も、彼女の悪罵で撥ね退けられる。ほぼ完全な孤立状態だった。
彼女の最期は前述のとおりだ。
仕事から帰宅した後、入浴中に脳溢血が起こり、バスタブで溺れて亡くなった。
事故死だ。それは間違いない。
そして、実際に彼女が何かを飼育していたかどうか。結論としては、「飼育していなかった」としか言いようがない。
生き物の飼育に必要な物、例えば魚であれば水槽であったり、バケツであったり、エアポンプや、水草、砂利、餌の袋など。蛇であれば飼育用のケース、保温器具、水入れ、床材など。
そういった物は一切無かった。
彼女の部屋に、生き物を思わせる痕跡など何一つ無かったのだ。
だから結局、生前の彼女の言葉は妄言というほかない。
――強いて、気になる物を挙げるとすれば、用途のわからない丸いグラスと、スポイト。その二点だけ。どちらにも使用した形跡は無かった。…少なくとも、一般人の目には何も視えなかった。遺品を整理した遺族の一人の証言だ。
『精神を病んだ女性の妄想だったのかもしれない。だがそれにしては奇妙だ。事実、彼女の部屋は穢れていたんだからね』
側で聞いていた絵梨佳が頷く。
曰く、友人と街を歩いていた時に、とあるアパートの一室から穢れが発生しているのを発見したそうだ。エドに報告し、調べてみたところで、その部屋に住んでいた女性が最近亡くなったことがわかった。今回の件の端緒はそこにあった。
要因がなければ穢れは発生しない。その女性の生前の行動を調べた末に、エドは結論づけた。
『彼女は本当に、何かを飼っていたんだろう。ただし生き物じゃない。なんらかの呪物から生まれた化け物だ。それを手元に置き続け、育ててしまったんだろう』
専用の飼育用品や飼料が無くても、人間がそこにいるだけで育つもの。
やがては人を死に至らしめるもの。
彼女の場合は、黒土女だったようだ。
不気味な人魚、あるいは蛇女というべき姿をしたマレビト。
酷く苦しげな呼吸音を立てながら、しかし笑っている。身を起こして暁人とKKを見ているが、その場から動こうとはしない。
「気味が悪いな」
KKが暁人の気持ちを代弁してくれた。
敵意が無いのか、動くことができないのか。べちゃ、べちゃ、と尾を揺らしながら笑っているだけだ。悪寒が足元から這ってくる。暁人はぐっと拳を握り、深く呼吸した。
暁人が近付くと、黒土女は媚びるように痩せ細った腕を伸ばしてきた。
FRAGILE ワレモノ注意
真っ赤なテープが貼られた青白い顔に、重なるように御札を飛ばす。そのまま素早く印を結び、暁人はあっけなく黒土女を浄化した。
KKがはーっと深く息を吐いた。
「これだけでいいんだよね」
「多分な」
部屋のクリーニングは済んでいるので、見た目はきれいだ。前の住人の忌まわしい置き土産も、今消えた。
霊視を行ってみる。すると、穢れの名残かフローリングが黒く水面のように揺れた。
波紋が導くようにリビングを出て、浴室まで続いている。暁人はためらいつつもそれを追った。
女性の最期の場所である浴室は、昼の光で白々としていた。こちらもリビング同様、前の住人の気配は、――死の匂いは全て洗い流されている。一見すれば普通の清潔な浴室だ。
だが、暁人たちのような霊能力者だけが視える暗い波紋は、ずっとバスタブを示している。
もう一度霊視を行うと、景色にざざっとノイズが走った。
暗い。
小窓の外は夜。
空の筈のバスタブには並々と黒い液体が満ちている。
樹木に似た穢れが黒い水から生えて、浴室を埋めんばかりに枝を伸ばしている。
ぽつりぽつりと水面に丸い模様ができたかと思うと、水中からゆっくりと細い茎が伸びてきて、ヒツジグサに似た水草が葉をもたげた。生気の無い墨色の葉は、ゆらりゆらりと浴室を漂う。
淀んだ沼のようだった。
穢れの木と水草の合間に、ぐったりと水に浸かる女性の裸体が見えた。
既に息は無い。力を失った白い肌が、真っ黒な泥の中に沈んでいく。徐々に。
ほんの数秒の間の光景だった。
再びノイズが走り、一転して視界は明るくなる。目の前には静かな浴室があるだけだ。暁人が何も言えずバスタブの前で立ち尽くしていると、ぐっと肩を引かれた。
「終わったな。帰るぞ」
少し強引に部屋から連れ出される。
今日は晴天。穏やかな初夏の午後。アパートの外廊下には爽やかな風が吹いている。暁人は何度も深呼吸した。
「吐くなよ?」
「吐かないよ。大丈夫」
ぽんぽんと背を叩くKKの手。KKは、殺人などの凶悪犯罪を担当する捜査一課の刑事だった。こういった場面にも慣れているのだろう。
彼を見てみると、いかにも煙草が吸いたそうな顔をしていた。基本的に暁人は喫煙に賛成していないが、どうせKKは吸うのだし、今は彼の煙草の匂いが恋しいような気さえした。
彼女が手にした何かは、カプセルトイだったらしい。
正確には、カプセルトイから出てきた、おもちゃのように飾られた何か。
その場にいたという友人から話を聞くことができた。
飲みに行った帰りの夜道でのことだった。寂れたゲームセンターの入り口で、カプセルトイを回したのだ。彼女の手にころりと落ちてきたのは、小さな箱だった。
彼女が回した販売機はゆるキャラのフィギュアだった筈だ。なにこれ!と二人で爆笑した後、おそらく彼女は、それを持ち帰った。捨てたところは見ていない。バッグに投げ入れて、そのまま持ち帰ったのだろう。
酔っていたので詳しいところまでは思い出せないが、箱に「育成キット」という文字があったのは覚えている。
『得られた情報は以上だ。』
アジトの空気は重苦しい。
暁人とKKが現場に赴いて、目にしたのは一匹の黒土女と短い幻視のみ。
だがエドと凛子の結論が正しければ、悍ましいという他ない事件だった。
「何が入っていたのかが気になるところだけれど、検証はきっと難しいわ。これ自体がひとつの怪異現象と言えるのかもしれない」
どんな生き物にも、それを愛好して育てる人間がいる。だがマレビトを育成や飼育の対象にはできない。あれは人から生まれ、人に害を及ぼす化け物だ。それをどうして、人為的に生長させようと思えるだろうか。
「その女性には、どんな風に見えていたのかな」
暁人が呟くと、KKが表情を歪めた。
「考えるな、そんなこと。どうせろくなもんじゃない」
きれいな魚、と女性は言った。
彼女が手にした箱に入っていた「キット」。
彼女が何かを生み、育て、亡くなるまでの過程。
小さなグラスとスポイト。
がらんとした部屋に取り残され、笑うばかりで動かないマレビト。
「胸糞が悪い」
KKが吐き捨てた。
「見て、なにこれ!」
少女がおかしそうな声を上げる。
帰り道にあるカプセルトイで、流行りのアニメのキーホルダーを回した筈だった。それなのに、出てきたのは変な小箱だ。ポップもデザインもいかにも安っぽくて、子供にだって文句を言われそうだ。
「はぁ?なにこれ、キーホルダーじゃないじゃん!」
「え、違うの入ってたってこと?ヤバいじゃん、クレーム入れよ?」
「入れようかな?あはは!」
何かの育成キットらしい。だが箱の中身や育て方はおろか、そもそも何が育つのかすら書いていない。あなた次第、なんていう陳腐な文句。ますますチープだ。
友人たちとひとしきり笑って、せっかくだしとスクールバッグに放り入れた。