きみは星の子第1話 告白――セイヤク――
まるで、豹のようだ。
力強くもしなやかで、どこか艶めかしくもある俊敏な動きを舞台セットの袖から眺め、総士は感嘆の溜め息をこぼした。
山中のくたびれかけた神社で、野宿をしようとした山賊たちが、参道の中心へ片足を踏み入れた途端、神官装束の一騎演じる『白鬼』があらわれ、神域を穢そうとした男どもを蹴散らしていく。演技上のことだから、お互いに紙一重のタイミングで動いているということを理解してはいるものの、その動きのキレは凄まじく、迫力があった。
黒い袴が翻るたびに、小麦色の引き締まった脚が純白の足袋とのあいだで覗くのが目に毒だとおもうのは、惚れた欲目だけではない。なぜなら、総士のまわりのスタッフや休憩中の役者ですら一騎ひとりに釘づけになっているのだから。
「ここをどなた様のお社と心得ておる」
汗で湿った横髪をかきあげると、白鬼の面がずれ、琥珀色のカラーコンタクトを入れた瞳が鋭く問いかける。
「命が惜しくば、去るがいい」
しかし、半狂乱に陥った山賊たちは耳障りな雄叫びをあげ、凶刃や拳を白鬼へ振りかざす。
そこで、白鬼は面を片手で抑えた。
青緑の照明が一騎の纏う僅かな白を、染めあげた。能力を使った際の演出という設定だが、神秘的な雰囲気が漂い、伏せられた横顔に表れた憂いと調和して、人外の孤独感が出ている。
「愚かな」
山賊役の男どもが、一様に奇妙な動きで倒れ伏す。まるで、見えないなにかに刺されたかのように。
暗転
そこで、総士は舞台袖から躍り出て、白い照明の下で跪いた一騎の前に仁王立ちをする。
「ゆめゆめ忘れるなよ。おまえは鬼。もう人には戻れない。その身が、我が竜血を浴びたときから、不死身の兵なのだ」
「承知しております」
総士の役は、一騎を従える竜神という設定だった。戦場跡から這々の体で社へたどり着き、そこで事切れていた彼へ、総士演じる竜神が血を与え、人ならざるものーーつまり鬼として生き返らせたという関係である。
「ならばいいが」
無造作に長い指が伸ばされ、一騎の前髪を掴み上げて上を向かせる。ふたり、あるいは一柱と一鬼の視線が交差した。
「おまえは贄だ。この社より外へ出ること叶はず、吾から逃げることも赦されず、ともに永久に近い孤独を分かつ者。それが、おまえだ」
「存じ上げております」
理不尽な束縛のはずなのに、竜神を見上げる白鬼の瞳には感涙さえにじみ、頬はうすべに色に火照っていた。
舞台の原作もとである、ボーイズラブ小説『竜神様の寵愛』の挿し絵を忠実に再現するかのように。あるいは、演者そのものに恋い焦がれているかのように。
一騎の容姿に惹かれ、彼を好評する総士だったが、総士自身も恵まれた容姿をしている。
日本人ばなれした、はっきりとした顔立ちは、彼の知性や厳格さがあらわれていて、こういった上の立場を演じるにあたって、役柄のイメージが適合するのだ。それは、涼やかな美貌と、天性の素質のなせる業ともいえた。
彼と同じ年代の青年に、総士の演じる役はこなせない。それは、彼と携わった堅物の監督たちが口々に言うことだった。
それに、現役のモデルと並んでも劣らぬ均整のとれた、しなやかで引き締まった痩躯は、ストイックな印象とともに眼を引く。
「月が空に高くあがるまでに、支度をしておけ。忠誠心を見せるのだ」
「御心のままに」
台詞のままに夜伽の相手を命じる総士だったが、彼は自分自身の鼓動や脈拍がおもてに出ていないかとしきりに心配していた。
というのも、3ヶ月前に海辺の町で真壁一騎と出会ったときから総士は、科学的に説明がつかない既視感と強烈な恋慕を抱いていたからだ。
忠告と命令だけをして、竜神は白鬼へ背を向ける。
血を分け与えたことにより、竜神自身の力が弱まり、実体化できる時間が削られてしまったという設定なのだ。
「竜神さま」
背後から聞こえる衣擦れの音に、振り返ろうとする衝動を、総士は鉄の理性でこらえた。
「あなたさまが、望んでくださるのなら、どこまでも、いつまでも」
しっとりとした声音が、蠱惑的な意図をもって発せられると、総士は体中が発火したかのように熱を感じた。
やがて、ゆっくりと照明が絞られ、自らの衣装の肩を掻き抱く一騎の指さきを照らし、興奮で小刻みに震えるそこを印象づけると、今度こそ幕が閉じた。
「おつかれさま」
「ああ」
舞台あいさつを終え、さきに控え室で待っていた総士へ、一騎がスポーツドリンクを差しだす。
「やっぱり、緊張するな。舞台だと、やり直しがきかないし」
「そうだな」
演劇は初体験だからと断ろうとした一騎を、どうにか説得して共演させたのは総士だったが、彼は2つの意味で困ってしまう事態に陥っていた。
まず、原作がしっとりとしたBL作品であること。さすがに濡れ場は省略されるものの、それでも際どい台詞が目立つ。2つ目は、一騎の演技が意外とうまい事だった。とくに殺陣と、憂い顔。それから、総士の演じる竜神へ向ける好意。
もしなにか起きたらフォローするという手間を含めても一騎との共演を望んだというのに、いざ相手をまえにすると、総士は自分の心を抑えるのに苦労した。
好きな相手が、自分のほうを見て、熱烈な台詞を、衆人環視の状況で告げているのだ、いくら場数を踏んでいたとしても初恋の彼には荷が勝った。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
「一騎」
「この舞台がはじまってからお前、俺を避けてるだろ」
「そんなことは」
ないとは言い切れず、総士は唇を噛む。
「……やっぱりな。どうせ、途中からグループに入ったし、全体的に素人だし、世話焼くのに疲れたんだろ」
「決してそんなことはない」
「どうだか」
「あとでゆっくり話そう。ここでは目立つ。事務所のグループ用の部屋だ」
「いい。しばらく練習に集中したいから」
「話せば分かる」
「いいよ。どうせ」
廊下側から聞こえる足音が近づいてくる。一騎は皮肉げに、左側だけで微笑んだ。
「また来週」
男らしいというには細めの指先が、ボストンバッグを引っ掴んだ。
「おいっ」
総士が掴もうとした手をかわし、一騎はロングコートを羽織ると廊下へ出てしまう。
そんな格好では目立つと伝えて引き止めればよかったと総士が後悔したのは、他の役者に遮られ、一騎を見失ってからだった。
「どうかしたのか」
竜神役が頭からかぶる薄衣をそのままに、舞台メイクも落とさず立ちすくむ総士に山賊役が尋ねるが、彼はよそ行きの微笑をうかべ、あいまいに誤魔化した。美形の笑みというものは、あらゆる効果をもたらす。
魅了することで、本音をぼかしたり、追求から逃れたりと、それはもう多彩に。
案の定、見惚れて言葉を失った役者に背を向け、総士は手早く着替えを済ませると、衣装を掛け、舞台役者が共有している楽屋をあとにした。
そのあとを、慎重に追う影に気付かず。
屋上手前の階段の影で早着替えをして、一騎はひと息つく。総士の態度にもやもやとした気持ちを抱え、声を荒らげてしまったことに後悔をしていた彼は、衣装を抱え込んだ。
ヒット作のメディアミックスだからか、舞台映えするようにか、コストに釣り合ったいい素材の生地を使われているのだろう衣装は顔にあたっても痛くない。
「そうし」
あの日、崖からおちるとき、総士とともに海に沈むものかとも覚悟していた。それでもいいとも思っていた。しかし、あの美しいおもてに疵を残したものの、ふたりして肩を並べ、表舞台で共演している。ありがたいことに、それが許されるだけの評価を得てもいた。
仕事運は順風満帆ともいえるのに、ただ総士の心だけが見えないのが、一騎の心へ影を落としていた。
近づいたぶん欲が生まれ、見えなくなったものがある。彼は客観的な視点を失いつつあった。
自分がどれほど皆城総士に想われているのかを自覚できないのだ。
「……」
近づいた瞬間に、鼻先をくすぐったシャンプーの香りと、白檀をベースにしたウッド系の香水、かすかに漂った汗の匂いを思い出し、一騎は顔をうつむかせた。
あれだけ近い距離にいるのに、自分の意志で総士を抱き寄せることすら叶わない。陰ながら総士を見守り、危険から守っていたころが懐かしくすらある。顔を晒してしまった今となっては、そんな目立つことをするわけにはいかず、それが弱みにすらなってしまう可能性すらあるのだ。
やるせないという一文を喉奥で潰し、一騎は深呼吸する。
あとどれほどの時間を我慢しなければいけないのだろう女性アイドルと違って、男性アイドルはあまり年齢に左右されない。つまり、彼が愛した男へ思いを伝えるのはまだ何年も先になる可能性すらあった。
カラーコンタクトをはずし、専用のケースに入れる。それからメイクを落とし、スマホの通知音が鳴ったので、ボストンのそこをさらう。
すると、マネージャーである立上芹からのメッセージで、総士とともに事務所へ戻ってほしいというものだった。
一騎は、さきほどの自分の行動をふり返り、顔を歪める。カッとなっていたとはいえ、突き放すようなことを言ってしまったあとだ。しかし、わざわざメッセージが来たということは、なにか重要な用件があったのかもしれない。
荷物をしっかり詰め、カバンを斜がけにして、チャコールグレーのキャスケット帽を目深にかぶる。服装は、シャツにオレンジ色のカーディガンとジーンズだったが、暖色を挟んだことで彼の中性的なイメージが際立ち、遠目からは性別があいまいに見えた。
変装のためのファッションだったが、これをコーディネートしたのも総士だ。一騎の日常には、総士のこだわりが溶け込んでいる。
やっぱり、あとできちんと話そう。
そんな思いとともに、一騎は総士へメッセージを送ってから、ひとまず楽屋へ戻った。
さすがに総士は移動してしまったらしく、自分の衣装をハンガーへかけ、一騎は廊下に出た。
電話をかけてみれば、総士の声とは違うものが聞こえた。
「皆城総士は、あずかった」
「だれだ総士をなんのために」
「なんのために、という質問だけ答えよう。これは、生きているだけで価値がある。そうは、思わないか」
殺害することはないと言っているが、相手の素性も知らないため、油断はできない。それに、生かしておいたとして、酷いことをしないという保証はないのだ。
「……総士に伝えておいてくれ。必ず迎えにいくと。そして、お前は、首を洗って待ってろよ」
相手が怯む気配に一騎は嘲笑し、屋上階へ続く階段へもどると、施錠されたドアを蹴破った。
「いるんだろうバード」
アルヴィスが連絡用、記録用として開発した鳥類型の飛行ロボットは、海鳥やカラス、ドバトなどの種類があり、都内の空へ飛ばすバードとして、今回はドバト型が選ばれたらしい。
はじめは海鳥型で作られていたが、さすがに都内の空を海鳥が飛ぶと目立ってしまう。そういう配慮と、開発者の趣味も含めて種類が増えたのだという。
「おいで」
慣れたようすで、一騎はバードへ指先をゆるやかに差し伸べ、数秒待つと、バードの顔認証システムが所有者を認識して、屋上にいた5羽のバードのうちのリーダー格らしき一羽が、一騎の指へ止まった。
「皆城総士の行方を探している。情報を掴みしだい、報告をくれ」
バードの足輪をはずし、一騎は通信機になっているそれを、自分の耳殻へ装着した。表面が平べったいシルバーリング状のイヤーカフのような外観からは、メカニックな仕組みが備わっているようには見えず、シンプルばデザインは一騎の容姿にもよく馴染んだ。
「ザイン」
片手でスマートフォンのマイク部へ囁やけば、アルヴィスのロゴマークが液晶に写ったのち、彼の愛機を示すマップが表示される。
優秀なスタッフがアルヴィスの格納庫から、地下の駐車場へ移動させてくれたらしい。
「カノンかなあとでお礼を言わなきゃ」
くすりと微笑み、彼はスマートフォンをポケットへしまうと、腰をかるくかがめ、両手でかかえたバードを空へと放った。
上昇の勢いをつけたバードが空を滑空する。それにならって、残りの4羽も空へ発った。灰色の街には、鈍色の羽色がよくなじむ。
「さて」
ぐるりと肩を回し、彼は深呼吸をした。
この世界で、ようやく出会えた『片割れ』をお迎えに行かなくては。
「こんな場所に連れ出して、なんのつもりだ」
総士は、訝しげな顔を相手へ向けた。
彼と同じ亜麻色の髪を高い位置で結わえた少年が、総士の方を振り返る。
「蒼生」
生き写し、あるいは兄弟のようによく似た顔立ちだが、蒼生と呼ばれた少年には総士のもつ独特な雰囲気、威厳や禁欲的などの冷たい印象はない。
「べっつにー、深い意味はないよ」
14歳。生意気盛りの遠縁の少年に、総士は頭を抱える。決して自頭は悪くはないはずなのだが、感情的に行動してしまう悪癖をもつ蒼生だが、その本音はひねくれているわけではなく、大切にしている相手ほど自分の善意を押しつけてしまう強引なところがあった。
「一騎が、困っていた」
総士は、ぼやくと手を滑らせ、熱くなった頬を抑える。
首を洗って待っていろ
犯人がこんな少年だとは思いもしなかったゆえの言葉だろうが、かなり過激なセリフだ。それに比例して、自分がどれだけ想われているのかを思い知らされ、総士は面映ゆい気分になった。
「見てらんないな」
毒づく蒼生に苦笑し、給湯スペースから戻ってきた蔵前果林が、ふたりの前のテーブルへコーヒーとコーラ、それから自分のぶんの紅茶を置いて腰を下ろす。
孤児である果林を、総士の父、皆城公蔵が引き取って義理の姉弟になったのは、彼らが14歳の頃だった。それ以来、歳が近く、頭もいいふたりは喧嘩しながらも近くにいた。
「そう私は、面白いとおもうけどね。あのクールを越して冷血な皆城総士が、たったひとりの男の子に振り回されているなんて」
「君は、相変わらず手厳しいな」
「あら、私に優しくされるような心当たりがあったのかしら」
「いや、今のままで充分だ」
長年衝突しあい、ストレートにぶつかり合ってきた存在だ。いまさら優しくされても反応に困ると、総士は腕をさすった。
政治家であった皆城公蔵がある事件に巻き込まれ他界、愛人を名乗る女が現れ、その女と長年に渡る裁判で、実母である皆城鞘が精神的にも衰弱。まだ総士が13歳の頃のことだ。体の弱い妹、乙姫と母の病室を往復する日々の中で、果林と話す時間があったからこそ、総士は今まで家族を守るために頑張ってこられた。
たとえ、仲が良いとは言い切れないとしても、血の繋がりがないとしても、苦しい時期をともに乗り切ったこと、いつも本音でぶつかってきてくれる果林の存在に総士は支えられてきた。だから、彼女の存在にも感謝しているのだ。言葉にしたことはなかったが。
「そ。……なら、いいかげん座ったら」
「ああ」
「う、ん」
家主には逆らえないと、総士と蒼生は、従うようにして腰を下ろした。総士が公蔵から継いだ遺産は母と妹の入院費用や自分たちの学費・生計をふくめた生活費としてほとんどを費やしてしまったが、果林に与えられた実家の土地と選挙活動の拠点であったビルだけはそのまま残していた。彼らが今いるのは、そのビルの一室だ。階下には喫茶店などがあり、そのテナント料などが果林の収入であった。
「芸能界って、楽しいのか」
「え」
蒼生のといかけに、総士は声を詰まらせた。
しゅわしゅわと、炭酸が発する音だけが、室内に漂う数分、彼は頭のなかに出た候補のなかから、蒼生がもっとも納得するであろう言葉を選ぼうとしたが、果林が首を振ったことで考えを改める。
眼鏡のレンズ越しの瞳は、おとなしそうな女性像とはうらはらに、意志の強い光を宿している。皆城家の、家長たるものの目だった。
蒼生を丸めこむのではなく、正直に話し合えと語る眼差しだった。在りし日の父が、総士のことをたしなめるときにしていた眼だ。
「楽しいばかりではないが、やりがいがある仕事だ」
「こんなこと、書かれても」
アルヴィスには劣るものの、ゴシップ誌として有名な雑誌の表紙を指差した蒼生に、総士は切れ長の瞳を円くした
【アイドルたちの秘密】
皆城総士と真壁一騎の関係とは
「これは」
「兄さんを、邪推して見てる奴らがいるんだよ。僕、こういうのヤダ」
「蒼生」
まっすぐに育った少年のなかには、まだ幼さが残っている。
健やかに育った証なのだろう。
総士は、慈愛を帯びた視線を蒼生へ向けた。遠縁の子ということにされていた彼が、鞘が人工子宮でもうけた最後の子だったと判明したのは、裁判の決着がつき、鞘が退院したあと、話し合いをした時のことだった。
いまだに公蔵のことを逆恨みした輩からの脅迫が届くこともあり、穏やかなところで揉め事とは無縁に育ってほしいという鞘の願いどおり、日野道夫、弓子夫妻のもとで実子の美羽とともに育てられた。
惜しみなく愛情を与えられ、ときに叱られ、きちんと育ってくれた皆城家の末っ子。
「ああ」
「おかしいよ。そういう関係じゃないのに、生きてる人間なのに。肖像権とか、プライバシーとか」
「たしかに、そういう観点からしたら悪いことなのかもしれない。けれど、需要があるからこそ、娯楽文化は継承され、噂もされる」
曇らせた表情をうつむくことで隠した蒼生に、総士はやわらかく笑った。
「僕が許す」
「ゆる、す」
果林が盛大なため息をついた。
「割れ鍋に綴じ蓋だわ」
「それ、どういうコト」
ひとの感情に鋭い果林と、鈍い蒼生。そんなふたりに、聞こえるか、聞こえないかほどの声で総士は付けたす。
「一騎との噂だけは、な」
「総士、お迎えが来たみたいよ」
キシリと、車椅子の車輪が軋むおととともに、妹の乙姫があらわれた。車椅子を押しているのは、総士をスカウトした女性でありマネージャーの、立上芹だ。
「お前の第六感には、ほんとに驚かされるな」
バイクの駆動音がビルの近くで止まる。
乙姫がはっきりと告げたのだから、きっとバイクに乗って現れたのは、総士が会いたいと望んでいた彼なのだろう。
まもなく、エレベーターに乗って彼らの前に姿を見せた一騎は、総士が見たことないほど不機嫌な表情だった。
「どうしてここが」
乙姫のお告げがあったとはいえ、なんの手掛かりもなく総士の居場所を突き止めた一騎に、蒼生が怯えた表情をする。
その様子に、彼は総士のまわりを見渡した。
机と椅子の間でリラックスしたようすの総士を見るに、拉致や監禁などの物騒な雰囲気にはおもえない。それに、血縁者らしき少年や、車椅子ユーザーの少女をふくめて、周囲が総士へ自然に接しているようだったので、気心知れた仲なのだろう。
「狂言誘拐」
つまり、茶番だったと察した一騎は肩の力を抜く。
「お前がどうやってここを突き止めたかは、あとで話し合う必要がありそうだが、ひとまず」
席を立った総士へ視線が集中するも、彼は一騎へ向けてやわらかく微笑み、飲み物を用意しようと言ったが、それには応えずに一騎はズカズカと早足でそちらへ迫り、自分より少しだけ上背のある青年の肩を掻き抱いた。
「そうじゃないだろ。心配しすぎて、どうにかなりそうだった」
「あ、ああ、すまない」
総士は、一騎の右肩ごしに、蒼生の顔を伺う。
蒼生としては、自分が懐いている相手が心労をかかえていそうだったので、数日間だけこの事務所で身内のみで囲い、休ませようという心持ちだったのだ。さきの電話だって、数日すれば無事にかえすと伝えるつもりだった。
まさか、ここまで真壁一騎が総士に執着していたなど考えもせず。
「兄さんを、離せこの不審者っ」
「不審者って、俺のことか」
「他に誰がいる」
ふたりの間に割って入るように、蒼生が両手を差し込み、彼らの腕をそれぞれ押しのけ、距離をとらせた。
「お前が、兄さんとベタベタするから、兄さんが困ってるんだ」
「ベタベタ」
身に覚えがないとばかりに、眉をハの字にして困惑した一騎に鼻白みながら、キャンキャンと抗議する蒼生に、一騎は手を伸ばした。
「うわっな、なにをするっ」
ポニーテールの結び目のあたりをぽんぽんと優しく撫でた動きに、反抗期独特の過敏さで、相手の手を無遠慮に弾いた蒼生に、一騎がふわりと笑う。
「なんか、かわいいなって」
「か、かわっふざけるな」
「か、一騎は可愛い方が好きなのか」
蒼生の白い肌が、羞恥と怒りでカッと赤らむ横で、総士がわなわなと震えている。
そんな兄と弟を尻目に、乙姫は芹に自分の飲み物をねだった。
彼女は、蒼生の杞憂と暴走は説得だけでは収まらないことを見越し、どうせだったら兄の『お相手』である一騎のことを実際に見てみたいというささやかな願いを叶えられて満ち足りた心地で、彼らを眺めた。
昔からなにかと苦労をしてきた兄に、幸せを掴んでほしかった。
けれど、自分が望むまでもなく、兄自身が掴んだ運命をこの目で見定めることができて、彼女は自分が抱えてきた負い目などが軽くなった気がした。
「もう、大丈夫みたいね」
左目にとんでもない疵をこさえて帰ってきたときにはさすがに動揺したけれど、総士本人はあの日から不安定さが薄れたようにおもう。と、乙姫は幸せそうなふたりへ満足そうにうなずいた。
にぎやかな応酬が落ち着くのを待って、果林が声をかける。
「結果オーライね」
立上芹が、その言葉に笑う。
「そうだ、立上さん、なぜマネージャーのあなたまで狂言誘拐なんか」
総士と蒼生をかわるがわる構っていた一騎が、立上のほうへ体を向ける。
「わからない」
すっと、立上の手が、乙姫の頬をなぞった。
「乙姫が、頼んだんですか」
総士が訪ねると、立上は苦笑する。
「ちがうよ。あたしが、乙姫ちゃんに協力したかったの」
「芹ちゃん」
澄んだ二対の瞳が互いの姿を映す。そんなふたりから顔をそらし、総士はバツが悪そうにつぶやいた。
「身内が、騒がせてしまったようだ」
「総士が無事だったから、いいさ」
「一騎」
ふた組の、なんともいえない空気にあてられて、果林は無言で窓を開けた。蒼生はむず痒そうにしながら、一騎によって乱された結び目を結い直す。
「とにかく、ふたりでちゃんと話し合いなさいね。姉命令よ。画面越しでもギクシャクしてるのが伝わってきて、小っ恥ずかしいわ」
「そうそれ兄さんは、さっきああ言ったけど、はじめより仲が」
果林と蒼生の指摘に、一騎がもの言いたげに総士の顔を仰ぎ見る。
「やっぱり僕らには話し合う時間が必要なようだ」
「そうだな」
「蒼生」
「な、なに」
「あれこれと気を遣ってくれてありがとう。だが、ここからさきは2人で話し合うよ」
「兄さん」
総士は、室内を見渡し、一人ひとりへ向けて礼をつげると、一騎の手を引いてエレベーターへ滑り込んだ。
「手」
「こうしてれば、逃げられないだろ」
「もう逃げないよ。ここで逃げたら、さっきの子にド突かれそうだ」
「ちがいない」
おかしくて、声を上げて笑い合うと、ふいに一騎が真顔になった。
「総士は、乗り物酔いとか、大丈夫か」
「乗り物大抵のものなら」
「じゃあ、大丈夫か」
数分後、総士は一騎の背中へヘルメット越しに頭を、腰に腕をしっかりとくっつけ、振り落とされないように気をつけながら過ぎ去る街並みを眺めていた。
エンジン音で、お互いの声が聞こえないことから、ふたりは黙ったまま昼下りの往来を縫うように進んでいく。
やがて、一騎があるアパートのまえでバイクを止めた。どうやら、そこが目的地のようだった。
「おりて。俺は、コイツをしまってくるから」
「ああ」
アイドルの住まいにしては簡素で、そこそこ年季が入っている、おそらく木造のアパートは外壁に蔦が絡み、薄暗い印象だった。近未来を連想させる先ほどの白い単車は、かなり浮いた存在のように映るだろう。
「行こうか」
案内するつもりで、外階段をのぼり始めた一騎に、総士はためらう。
「いいのか自分の部屋に」
「まさか、同性の友達を部屋に上げちゃいけないなんて、言わないよな」
「ともだち」
胸の奥が温かくなるような、すこし残念なような気持ちに、総士は目を見開いた。
違ったかと首を傾げた一騎は、自分がなにか気に触るようなことをしたのかという不安をにじませているが、それと同時に、間違ったことは言っていないはずだという確信も持っている。
「あ、いや、大丈夫だ。それでいい」
今のところは、と総士は口の中にしまった言葉を飲み込む。
「ほら、あがれよ」
「ああ」
促されるまま、階段を上ってドアをくぐる。ワンルームのこじんまりした造りの部屋だ。どこに何があるか、すぐにわかる。
「外観からおおよそ、察してはいたが」
礼儀正しく靴を脱ぎ、お邪魔しますと呟いてからの感想に、一騎は苦笑する。
「静かなところが好きなんだ」
「そうか。それにしてもセキュリティ面が」
「こうみえて、腕っぷしは悪くないし」
「住むところの件も、あとで話す必要があるようだな」
「お茶用意してくる」
会話をはぐらかすための口実に、総士は肩をすくめた。
「おまたせ」
といって、数分しか経っていないが、そこは形式美というものだろう。湯呑みセットを木製のトレイから配膳し、ふたつの湯呑みらしきものへ交互につぎ淹れていく。
お茶の淹れ方ひとつで、きちんとしたおもてなしを心得ているのが伺え、総士は切れ長の目尻に甘さを含んだ弧を描いた。
穏やかで寛容なようで、特定の事柄にはこだわりを持つ、やや偏愛気質に見られる傾向だ。
透きとおった翡翠色の水色はほのかに湯気を立て、一騎の伏せられた眼を映していた。縁取りの長いまつ毛が震えている。
「......さっきは、わるかった」
水面にうつるおもてを注意深く観察しながら、総士は一騎の声に耳を傾ける。
「楽屋でのことだ」
雨音のごとく、ぽつりぽつりと零れる声は、ずっと聞いていたいほど耳に心地いい。
「このごろ、不安になることばかりで、あたってしまった」
ずっと聞いていたいほどだったが、そこで総士は返事をしなければならなかった。
「そこは、かまわない。ただ、僕と話をせずに立ち去ってしまったことのほうが問題だ」
ようやく本題に戻ったことと、自分の想いと一騎のもとめる答えがズレていたらという恐れに、総士の脈拍があがる。ステージにあがっている時よりも、目の前の男と向かい合っているときのほうが緊張するなんて、とどれだけ自分が相手に首ったけなのかを自覚して、彼は息をついた。
「だが、ここまで連れてきたということは、もう逃げる気はないのだろう」
「ああ」
家、もっともプライベートな空間。ただ話をするだけなのに、わざわざ招いてくれたということが嬉しかった。それだけ、自分とのことを真面目に考えてくれているようで、と総士は気を持ち直す。
まったく『脈』がないわけではないのだろう。
そうおもえば、少しだけ勇気が湧いた。
「このところ、避けられてる気がして、それがどうしようもなく苦しくて、悲しかったんだ」
「そうか」
「教えてくれ。どうして、近づいた分だけ遠のくんだ舞台からおりたら、素っ気なくなるのはなぜだ」
「……その答えは、ほんとうなら、お前自身に気づいてほしかった」
言葉にしなければ伝わらないということを、総士が忘れかけていたという理由もあったが、彼は一騎に、なんでも通じている気でいたのだ。
出会ったときから、抱きしめられたときから、瞳と瞳、手と手、服越しのぬくもり。触れ合うほどに、馴染んでいく心地すらしていた。それはステージ上での演出での、息のあった動きがそれを裏づけている、と総士は信じていたのだ。
けれど、恋心を自覚したときから、変わってしまった。そうして、意識してしまうと、今までの距離感が、べつの意味を持ってしまう。
誰よりもそばにいるからこそ、近づいてはいけないのに。皆城総士は、アイドルなのだから、『恋』は許されないことなのに。
「この世界に引きずり込んで、なかば強引にお前をそばにおいた。そのことを後悔してはいないが、罪悪感を抱いたことはある。現に、いまお前を苛む悩みの種は、僕のせいだ」
「なにを言ってるんだ」
眉をひそめる一騎へ、片手をかざすと、従順な兵士が上官の指示に従うように、一騎が静止する。
「聞け。僕は、僕の選択のせいで、にっちもさっちもいかなくなってしまった」
何という不覚。何という皮肉。
皆城総士は、凛とした雰囲気を崩し、ちからなく笑った。
「どうやら、僕は当初の予定よりも、お前を好きになってしまったようだ」
「は」
気の抜けた声を出すや、一騎の顔がみるみるうちに赤くなる。
「好きだ。友達以上に」
「そ、れは、親友ってヤツじゃないか」
段階的にと確認をする一騎に、総士は首を振った。ゆるく結われた亜麻色の髪が、たわみながら揺れる。
「この部屋に、あがれなくなる方の意味でだ」
「それ」
「ああ、清々した。ずっと伝えたくて、しょうがなかったんだ。いつか、抑えがきかなくなるまえに言えてよかった」
「そうし」
「だいじょうぶだ、無理強いはしない。仮にも理性と知性をもつ生き物だ。自分の欲くらいは、コントロールしてみせるさ」
「おい」
「だが、もう思わせぶりなことはしないでくれ。お前が近くにいるだけで、心も体も自分のものじゃなくなったみたいに、あたたかくなるんだ。さっきみたいな言葉を際限なくかけてしまいそうになる」
「なんだよ、それ」
肩をふるわせ、拳を握って、唇を噛んだ一騎が顔を上げた。真正面から総士を睨みつけ、彼ははじめて総士に噛みつく。
「そんなの、こっちから頼みたいくらいだあの海で、怪我を追わせてしまったときから、ずっと一緒にいたいと思ってたから、俺はあんなことを言ったんだ。負い目だけじゃない心が、お前を求めてた」
「一騎つまり、お前は」
「俺は馬鹿だ。でも、お前も同じくらいの馬鹿だ」
「っ聞き捨てならないな」
「だったら、なんだって言うんだよ馬鹿と馬鹿でお似合いじゃないかっ」
ここまで激しく責め立てられたのは、いつぶりだっただろうかと、総士はふいに思いかえした。成績も記憶力も機転も利く自分のことを叱ってくれる人というのは、彼にとってかなり貴重な存在だ。
「お似合い、だと」
「ああ、そうだ。俺とお前、同じ気持ちを向けあっていて、こんなに熱くなって、それでも離れる気なんかないんだからなっ」
「かず」
ドン
隣室とを隔てている壁が鈍い音をたてた。どうやら、苦情のつもりらしい。
「そうだろ上っ面だけ誤魔化して、まだ繋がりを持っていたいから、独りよがりな事ばっかり言えるんだ」
少し、トーンをおとして一騎がトドメの一撃を刺すと、こんどは総士のほうが顔を赤くした。
「いい加減認めようぜ」
「だが、僕らは」
「アイドルだけど、真壁一騎と皆城総士だろヒトとしての権利がないわけナイよな」
「…...ごういんだ」
「そうかでも、今のお前、いい顔してるぞ」
ちょんと、頬をつつかれ、総士は呆然とする。
「っと、これだけで可愛い反応するのな」
まだまだ先は長く、そのぶん楽しめそうだと、一騎は上機嫌になる。
「かわ、いいというのは、訂正してもらおう。僕は」
「クールキャラが売りだろ」
「そ、そうだ」
「でも、俺の前にいる今の総士はかわいいよ」
「なん、だと」
今日一日で、随分と色々な表情の総士をみれたと、一騎は目を細める。
だが、これから自分は誰も見たことがない皆城総士を知ってゆくのだろう。
優越感で胸のうちが満たされていく感覚。それを彼は総士に教えてもらったと考えていた。きっと、出会えなければ、知らないままでいたものだと。
「ステージをおりてる間、周りにだれもいなかったときは、俺の恋人になってくれ」
「リスクが高い」
総士はぼやきながらも、一騎へ花がほころぶような笑みをたたえた貌を向ける。
「だが、わるくない提案だ」
一騎にしか聞こえない骨伝導で、5羽ものバードたちから通信が入った。真壁一騎が借りているアパート周辺で、皆城総士を見つけたという報告が相次ぐ。
「ん、じゃあ、よろしく」
むず痒いような、くすぐったいような、微弱な刺激にくぐもった声をこらえながら、彼は通信機をいちど遮断し、部屋のカーテンを引いた。
「かずき」
外界からの視界を塞ぐ生成り色の布に、総士が動揺する。
「はやく、お茶飲めよ。猫舌だとしても、もう飲めるころだろ」
ニコリと首を傾けた彼の表情に裏はなく、総士は肩透かしを食らった気分で、湯呑みへ口をつけた。
薫り高い苦味と、ほのかな甘さが抜け、あとには清涼感が残る。
まだ、そういった事までは意識していない様子の一騎を、湯呑み茶碗の縁の影から盗み見て、総士は内心でため息をついた。
ドラマティックな恋をしている。映画みたいに鮮烈だけれど、たった一回、2時間程度じゃ終わらない恋だ。脚本もない。この世に一つしかない、自分と彼だけの、想いの形。
最初で、おそらく最後の恋だ。そんな予感がする。
きっと、末永く続いていくと。そうだったら良いという願いに満ちている。
「一騎」
湯呑をそっと置き、総士は緊張に震える声で告げた。
「大事なことだから、これだけは、言っておく。僕は、独占欲が強いぞ」
「知ってるよ」
練習中も、テレビの収録や取材中も、一騎のそばに居る共演者やスタッフを総士が鋭い目で監視していたことを振り返り、彼は肩をすくめた。
「そして、お前が考えている以上にお前が好きだ」
「へえ」
ぞくりと、一騎の肌を、甘い電流のようなものが駆けていった。
歓喜からくる身震いを、どうにか抑えようとして、形のいい唇だけがわななく。
「付き合うからには、どれだけ時間がかかっても、それを伝えていこうとおもう」
「それは、楽しみだ」
「ああ」
星の子がふたり。
アイドルというきらびやかな職業を背負い、その下では、隠しきれない想いを向けあった彼らの秘密を知るものは、まだ少ない。
「覚悟しておけ」
そう宣言すると、不敵な表情をみせた総士に、一騎の心音がさらに高鳴った。
第2話 心音――ココロネ――
「かずきが」
かっこよくて、かわいくて、つらい。
「はあ」
昔なじみであり、かかりつけ医の近藤医院を営む近藤剣司のまえで、盛大なため息とともに口走った言葉に、剣司は怪訝な顔をする。
「お前ね、そんなん収録中にでも言ったら、刺されるぞ。一騎が」
「なに」
聞き捨てならないとばかりに、総士が鋭い目つきで剣司を睨めつけた。
「ただでさえ、あいつ、皆城総士過激派に目の敵にされてんだから」
画面の向こうで、軽々と土佐犬を抱えあげて、穏やかな笑みを浮かべる真壁一騎を見、剣司は冷や汗をかいた。
ときには人を襲うことすらある巨躯をもつ、いかめしい風貌の犬と、ぱっと見は儚そうな雰囲気を持つ細身のアイドルというミスマッチもさることながら、1頭抱き上げるにもかなりの筋力を必要とする犬種を、単純な腕力だけで持ち上げているのだから、ホラー作品のような恐ろしさを感じずにはいられない。
外見からは想像もつかない怪力と並外れた運動神経を誇る彼は、ときおり人外説が浮上するが、こういう場面がおおやけの電波に証拠として残っているのだから、そういった荒唐無稽な話に信憑性を感じるやからが居るのも頷ける。
人間離れしているといえば、剣司の向こうがわの椅子に腰掛けている患者も、つくりものめいた美貌と並列処理能力を有しているので、ある意味ではお似合いなのかもしれない。
グループ名の由来が旧約聖書の神が土から人間を作ったエピソードと、メンバーたちの人並み外れた特殊能力に由来すると公式ページに書いてあったので、普通ではなく特別な存在だという比喩を含んでいるのも皮肉が効いていると、彼は口元を歪める。
「過激派物騒な響きだな。しかし、一騎を狙うとは」
「女ってだけで、お前と結ばれる可能性を夢見ちゃってるやつもいるってこと。その矛先が、あいつに向いてるんだとよ」
「難儀な生き物だな」
「まったくだ」
「それを止めるには、一騎と距離をとるのがベストなのだろうが、それは個人的に避けたいな。なにより、一騎がまた発作を起こしそうだ」
「発作ねえ」
細く、形のいい顎先へすらりとした指先を添えて、悩んでいる仕草をした総士に、剣司は苦虫を噛み潰したような顔で応じた。
たかが3日、仕事の都合上で離れていた一騎が、総士の健康状態をひどく心配したり、会いたいなどと各所でこぼし、周囲に精神科を勧められるほど不安定になっていた時期を思いだしたのだ。
カメラを向けられたときはビジネス用の表情をつくるものの、それ以外は虚無感を滲ませる悲壮な表情をしているのが恐ろしかったと、剣司は腕をさすった。
「離れないほうがいいだろうな。むしろ、そばにいてやれ」
深々と首肯した医師に、総士は「やはりか」とでも言うような顔をした。
「で、診断は」
「馬鹿につける薬はねえ」
「ばそんなはずは」
「安心しろ。一騎のヤツとおなじ病気だ」
「びょ、病気一騎もどこか悪いのか」
「おう。深刻な恋煩いよ」
ぶわりと、とたんにのぼせ上がった自分の頬を、総士が手で覆う。
「よく、こんだけバレバレで逃げ延びてきたな」
「役者もやっているからな」
それだけではなく、亡き父の周りにいた狡猾な大人どもをやり過ごしてきた時期のおかげもあったが、総士はそこを省いて、簡潔に説明した。
「そうか。……よっぽどの事じゃないと自分から相談なんてしてこないお前が血相変えてくるから何事かと思ったぜ」
「すまない」
「ほんとだよ。コーヒーでも奢れ」
「ああ、わかった。そろそろ、時間か」
「そうだな。じゃあ、コーヒーは今度だ。このあとは、結構つっかえてるんでね。こう見えて、評判いいのよ。うち」
「だろうな」
「おい、どこ見てんだよ」
いちど、剣司の腹囲へおとした視線をあげ、総士は荷物おきから小さめのメッセンジャーバッグを抜いた。
「診察ってほどのことじゃねえし、お代はいらんよ。ただの、昔なじみが遊びに来たってだけだ」
「たすかる」
「今度は、診察室じゃなくうちに来いよ。子どもたちが、お前と遊びたがっている」
「……善処する」
剣司の子どもとは、以前待合い室で会ったのだが、その際に、子どもたちが絵本の読めない部分を読んでやったら『物知りおじさん』というあだ名をつけられ、懐かれたという経緯があったが、総士が受付けで呼ばれるまで本を読む羽目になったことを思い出し、彼は少し複雑な気分になった。
「まあ、忙しいだろうからな」
「あ、ああ」
声が出ないと仕事に差し障るということを説明する前に、剣司が苦笑いしたことで、総士はほっと息をついた。
そういう流れで近藤医院を抜け、特徴的な髪をハンチング帽にまとめて押し込み、ラフな格好で彼は家へ戻った。
一騎のワンルームアパートと間取りは似たりよったりだが、あちらより真新しく、セキュリティもしっかりしている部屋は、どこか無機質でもあった。
本棚とテレビ、それからテーブルとベッド。ミニマリストというわけではないが、趣味以外には無欲なたちなので、彼のプライベートスペースには、雑貨の類がない。
「たしか、ああ、あった」
ちょうど昼時だったので、冷蔵庫を開け、蓋をしたままで温められる容器を取り出し、レンジへ入れてから、冷やしていたお茶のボトルをとる。
温めているあいだに手洗いうがいを済ませ、部屋に漂いはじめた料理の匂いに、彼は頬をほころばせた。
付き合いはじめてから、たまに一騎が総士へ持たせてくれる差し入れは、彼の楽しみであり、癒やしでもあった。
美味しいご飯は日々を充実させてくれると、一騎は言っていたが、彼の作る食事に舌が慣れてしまうと、以前のバランス栄養食では物足りなさを覚えてしまったので、一騎の主張は正しかったのだと、総士は認めざるをえなかった。
レンジから出したタッパーの蓋を開けると、食欲をそそる匂いがいっそう際立ち、キャベツの鮮やかな色と、卵のきつね色に、口内が潤った。
献立は肉みそキャベツと卵焼きだ。ご飯が進まないわけがないと、総士はおかわり分のためにレトルトご飯をレンジへ入れた。
その日の体調によって、若干の食べムラはあるのだが、恋人のつくったものは自分でも驚くほど食べてしまうと、総士は頬を染める。だからといって、量を増やしてほしいとはさすがに言えないので、たりないときはこうして、補充をしているのだ。
「いただきます」
工場で作られたものを食べるときには言わなかった、食材への感謝の言葉を言うと、一騎がふわりと笑った顔を思い出し、彼は照れ隠しをするように、ご飯を頬いっぱいに掻き込んだ。
「ごちそうさま」
あっというまにおかわり分まで食べ終え、総士は腹をさすった。
なにか、したい。
それは、ごく自然な思いつきだった。
あれこれと尽くしてくれる一騎に、お返しがしたい。と、彼が望んだのは。
「え、一騎のこと」
スマートフォンで慣れ親しんだ番号を押し、甲洋へ尋ねれば、彼は少し困ったような声を出した。
「静かな場所と、美味しい食事が好きって言ってたけど」
「なるほど」
「あ、だからってかしこまった場所も苦手だと思うぞ」
先手を打つようにつけ加えられ、総士は瞠目した。大変な時期があったとはいえ、育ちのいい彼が、静かで美味しい食事と聞けば、どのようなところへ一騎をつれていくか想像に難くないと、察してのことだった。
「そうか」
唸るような声とともに沈黙したリーダーを、甲洋はおかしそうに茶化す。
「お前も、人の子なんだな」
「どういう意味だ」
「遠見先生に失恋したときとは別の意味で、おもしろい」
「失恋って……彼女のそばは、居心地が良かったから」
「ふーん」
心理カウンセラーで、芸能界の事情にも理解のある遠見真矢という女性に、総士が一時期懐いていたことを揶揄したらしいが、総士にとっての真矢はそういう対象ではなかった。
父のことや、芸能界に入ったはじめの頃、頑なだった心を強引にこじ開けて、話を聞いてくれる、姉のような存在。だけれど、果林が躊躇して言わないような、言葉のナイフを無遠慮に向けてくる、優しさと無慈悲をもったひとだった。
「おまえこそ、はじめはあんなに険悪だったのに、すっかり仲良しじゃないか」
「健全な意味でな」
「健全って」
「お前らみたいに特別感はないってコト」
「…...」
「まあ、一騎って穏やかで、無口だから一緒にいて楽だし、料理のこととかで意見交換とかできるし。なんか、たまに、守ってやらなくちゃっていう気分になるんだ」
「守る」
「へんな意味じゃないよ。ただ、漠然とそう思うっていうか。まだ芸能界入りして浅いからかな」
「ああ、そういうことか」
「じゃ、ちょっと用事があるから」
「用事だったら、はじめから断ってくれてもよかったんだが」
「はは、あの冷徹なリーダーの悩みとやらに興味があっただけだよ。じゃあな」
そう言って電話が切れたので、総士は別の番号へかける。
「一騎の行きたがる場所」
「ああ」
「総士がいるところだったら、どこでもいいと思うんだけどな」
「そ、それじゃ、答えになってない」
「えー、じゃあ、服を買いに行くとか」
「そうか、そろそろ衣替えも兼ねて、見に行くのもアリだな」
「一騎ってば、そういうの無頓着だし選んであげなよ」
「ありがとう」
もうひとりのメンバーである来主操からの提案に、総士は答えが出たとぬか喜びをした。
その晩。一騎の家へタッパーを返しに行くまでは。
「総士は、苺すきか」
「え」
「あ、嫌いだった」
「いや、ふつうだが」
「よかったこないだスーパーで知り合ったひとが、近場にいい苺農家があるって言ってて、気になってたんだ」
「そ、そうか」
「疲れには甘酸っぱいのが良いだろうし、自然な甘さだったら総士も大丈夫かなっておもって」
「ああ」
出鼻をくじかれるという表現が浮かぶほど、一騎の語調には勢いがあった。
「そんなに、苺が好きなのか」
「え、いや、普通だけど」
「じゃあ、なぜ」
「……デートするのに、目立たないだろ」
「うん」
「しゃがんでれば、総士の顔とか、よその人に見られにくいし。汚れてもいい服装とかだったら、キラキラしたオーラみたいなのも抑えられるだろうし、男ふたりだからって白い目で見られることも少ないかなって」
トーンを落として、早口気味に語る一騎に、総士はあっけにとられた。なにせ、語っている間ずっと目線を彷徨わせて、頬を赤らめている彼が可愛らしかったのだ。
「そう、だな。お前のそういう可愛い顔も、他人に見られなくて済むだろうし」
「かっ眼鏡の度数あってないだろ」
「僕の目は正常だ」
「そんなわけない」
「恋人の言う事が信じられないのか」
「こっう」
びくりと、首をすくめ、床にのの字を書く姿を、自分の手もとに閉じ込めたいという欲求のまま、総士は長い腕を広げ、一騎の肩を抱えた。
「お前は、かわいいよ」
「……言っとくけど、お前だってかわいいんだからな」
「なに」
「俺が作った料理を食べてるときに、幸せそうな顔してたり、カレーの日なんかとくにご機嫌だし。犬苦手なのを隠してるけど、実は指が震えてたり、乙姫ちゃんが髪を結んでくれた時なんか、一日中思い出に浸ってるみたいに切ない顔してるし。事務所もお前もクールキャラで売ってるけど、俺からしたらクーデレ枠だから」
「クーデレ」
「表面上はクールだけど優しいってコト」
「なるほど」
それでも、特定の人物に限るのだが、一騎から見ればそうなのだということを知れて、総士はひとつ頷く。
「一騎。認識の齟齬があるとはいえ、お前が僕をちゃんと見てくれているのはわかったぞ」
「なんだよ、そのニヤケ面っ」
「嬉しいとおもっては、いけないか」
「いけ、なくは、ない、けど」
片手をふたりの中間距離へつき、迫ってきた美貌に、一騎は腰を引かせた。
「ちょっと待てよ」
慌てつつ、動きを制するように呼びかけるも、総士は獲物を追い詰めた猫のように、すごぶる楽しそうに目を細めた。
左の瞼から頬を縦断した疵痕が引き攣れて、歪む。
「ぁ」
見えない引力に引き寄せられるように、一騎は無意識にそこを撫でていた。
「ん」
再生された皮膚はやはり他の部分よりも敏感なのか、それとも総士自体がくすぐったがりなのか、吐息混じりの声がこぼれる。
「一騎」
「……俺がつけたんだよな。コレ」
「ああ」
「なんだろ、後悔と罪悪感しかなかったのに、お前の体に俺が残してしまったんだと考えると」
綺麗なものに、総士の美貌に残ってしまった痕をあらためて認識し、一騎は陶然とした表情でささやく。それに、総士は優しく眦をさげ、同意した。
「奇遇だな。僕もだ」
「なぁ、もう少し、触ってもいいか」
「もちろん。おまえの気が済むまで」
指先が、羽で触れるような軽い動きで傷痕を辿る。総士は目を瞑り、もどかしい感触に耐えた。ともすれば、くすぐったさとは別の刺激を得そうになる危うさをこらえ、幾度も漏れそうになる声を噛み殺していると、ふいにもう一方の手が、その人差し指が、総士の上下の唇のあいだへ、轡のかわりとして差し入れられた。
「声も、聞かせてくれ」
「男の、声だぞんっ」
「知ってるよ。知ってて、惹かれて、好きになったんだ。今さら、性別なんか関係ない」
薄いけれど、ほのかな柔らかさをもつ唇が動くと、一騎が息をつく。
「そうし」
「んっ」
「すきだよ。この傷も、性別のことも含めて」
「ぁ」
傷痕を愛撫していた指が引き、やわらかくて、指よりもあたたかいものが押しつけられ、総士が目を見開く。
「」
「あ、ごめん」
数秒にも満たない接触だった。しかし、彼には自分に触れたものの正体がわかってしまっていた。
「おまえ、いまっ」
「だから、ごめんって」
瞼を抑え、赤面した総士に背を向け、一騎は素早く距離をとるとキッチンスペースへ逃げてしまう。数歩あるけばとどく距離だが、あえて総士は後を追わず、自分よりも華奢な背中を睨みつけた。
総士のほうから距離を詰めると動揺するくせ、自分のタイミングで迫っては総士の心を掻き乱す困った恋人は、鍋の中へ意識を集中させてしまっている。
ことことと、かすかに音を立てて鍋の中身が汁の中で浮き沈みするころには、上品なだしの香りが部屋に漂いはじめていた。魚介系の旨味がたっぷりと煮出されているのだろう、鰹や煮干しだけのシンプルなものではなく、何種類かの魚介が混ざっている。
「これは」
ぐううと、総士の腹が鳴った。さきほどとは別の恥ずかしさで、彼はふたたび頬を染める。せっかくもとの白肌に戻っていたというのに、と悔しい気持ちになりながらも、総士は自分の腹をさすった。
「ちゃんと、玉子も入ってるんだ。カラシは」
「それは楽しみだ。カラシは、まだいい」
「食べれないのあったっけ」
「とくにないな」
「じゃあ、適当に盛るよ」
晩食は、おでんを用意してくれていたようで、多種多様な具を一騎が菜箸でひょいひょいと掬っては盛りつけていってくれる。
「お、おい、さすがに量が多いぞ」
「わるい。栄養をちゃんと摂ってほしくて。食べきれなかったら俺が食べるから」
一騎が振り返って、総士の方を見た。へにょりと眉を下げて、困り顔をしている。
「……わかった」
この顔には、つい譲歩してしまうと、自分の甘さを内心で笑いながら彼は頷いた。
次の皿はふつうの量だったので、総士はそちらの皿を求めたが、料理上手な一騎が用意したおでんは、どれをつついても味がしみていて、結局はじめの皿よりも多く食べてしまったことに、総士は驚いた。
「うどん、用意してたけど、いらなかったな」
「そうだな。大根もロールキャベツも味がしみていて、ちくわぶやシラタキがあとになって膨れてきて」
「ちゃんと野菜も食べてくれたし、良かったよ」
「べつに野菜嫌いなわけでは」
「言ったろ栄養を摂らせたいって」
ほかにも、ニンジンやレンコン、練り物などが入っていた鍋はいまやほぼカラにひとしい。
「わ」
箸を器の上へ置き、一騎の頭へ手を伸ばした総士に、一騎が驚いた表情をするも、優しい手つきを躱すことはしない。
「いつも、ありがとう」
「そのカオ、ずるい」
「は」
「いや、なんか、嬉しくて」
「嬉しいのに、ズルいのか」
「...…もっと好きになるから」
「は」
「そういえば、おまえ、お兄ちゃんだったんだな」
「なんだそれ。僕は、乙姫が生まれたときから兄だぞ」
「だろうな」
甘やかすタイプの。
ぼやくように付け加えて、一騎は野菜と魚介の旨味が混ざったつゆを口に含んだ。
「おい」
皿から口をはなすと、横髪がわずかに濡れた唇にひとすじ貼りついていて、その煽情的な横顔に、総士は続く言葉を忘れてしまう。
「あー」
自分で気付いた一騎が、そちら側の髪を手櫛で耳へ掛け、つゆで濡れた唇を、舌でぬぐった。
「っ」
「総士」
「部屋、ちょっと蒸すな。窓を開けてもいいか」
「いいけど」
「ちょっと、風にあたりたい」
「麦茶、出そうか」
「いや、いい」
窓の外では、蛙が数匹鳴いている。夜中くらいには降るのかもしれない。
「帰るときにさ、傘持ってけよ」
「お前はどうするんだ」
「上下に別れたタイプのレインコートがあるから」
「そうか」
「あ、でも、送ってる途中で降ってきたら相合い傘になっちゃうな」
「あいあいがさ」
ギクリという擬音が聞こえそうなほど、総士の肩がこわばった。その背中を眺め、一騎は少しの切なさを感じた。もうすこしだけ、自分のほうが大きかったら、あの背中を包み込めたのに、と。自分の成長期は終わってしまったから、これ以上骨格が伸びることはないのが悔やまれる。
舌っ足らずに繰り返す響きが、どんなに可愛らしくても、さっき触れ合ったばかりでまたくっつくのは、ガッついているようでカッコ悪いのではないかという気後れもあったので、彼は愛しい人の向こうの叢雲に覆われた月へ、雨が降ればいいのにと祈った。
「ほどほどにしとけよ。体が冷える」
「わかってるさ」
甘い空気というものを体感するような時間が、不意に途切れた。総士のスマートフォンにメッセージが入ったらしい。彼が、自分のバッグからスマートフォンを抜き、内容の確認をする。
「あすの予定が、前倒しになったらしい」
「そうか。……なら、もう帰らないとな」
事務所からの連絡を、苦々しそうな顔つきで説明した彼に、一騎が寂しそうな表情でうなずいた。理解はしているが、名残惜しいというのが伝わってくる。
「皿洗いをしよう。それくらいの時間はあるだろう」
「ああ、たのむ」
流しへ向かいながら、総士が一騎へ言う。
「今日の弁当も、おでんもおいしかった。ごちそうさま」
「うん。満足してもらえてよかったよ」
律儀にお礼を伝えてくることまで好ましい。
と、返しつつ、一騎はあることに気付いた。父とアルヴィスの近くにあるアパートで生活していたころは、質素な和食で生活していたが、総士はそういうもので満足してくれるだろうか。
この美しい男が、納豆や卵かけご飯をすすり、掻き込む姿など想像できないのだが、と自分の想像におかしくなって、一騎がくすりと笑う。
さいわい、洗い物に夢中になっている彼は、気付かないようだった。
まだ一緒に夜を越えたことはない。けれども、いつかは一緒にシーツを乱し、朝にシャワーを浴びて、朝食を摂る日が訪れるのだろう。それが待ち遠しくて、しょうがないと、一騎は目を伏せた。
こんなことを考えていると知られれば、気が早いと窘められてしまうだろうかと。
「すまない、タオルを貸してくれないか」
たったニ枚の皿と箸が2膳だけだったので、すぐに洗い終わったらしい彼が振り返った。
「わかった」
タオルを収納ケースから出して手渡すと、総士の濡れた腕に、しずくの玉が浮いているのが見えた。肌理がこまかい証だ。
衝動的にそちらに伸びそうになる手を、どうにかこらえて、総士の上着を掴むと、それを羽織らせると、お礼を言われるよりさきに冷蔵庫からタッパーを出し、ランチバッグに詰めて手渡す。
「何からなにまで、すまないな」
「俺が、好きでやってることだから」
「いや。甘えてばかりなのも良くない」
手を拭って上着に袖を通し、またメッセンジャーバッグに手を伸ばすと、彼はその中から封筒を取り出した。
「受け取ってくれ」
「これは」
怪訝そうな顔をした一騎に、総士は真剣な表情で言う。
「食費だ。こういうのは、はっきりさせておく必要がある。僕は、お前と対等でいたいし、こういうやりくりで揉めるパートナーもいると聞く」
「……総士」
「受け取ってくれるな」
「うん」
収入の面では、まだ一騎にも記者時代の蓄えがあったが、総士がした説明に心を打たれたこともあり、彼は素直に封筒を受け取ると、窓の脇においた三段ラックの上段に封筒を置き、史彦お手製の陶器の文鎮を置いた。
「おい。そんなところに置くな」
「こんなとこでアレだけど、お前にもらったものだから、飾っておきたいんだ」
「…...今度、ちゃんとしたものを贈る」
「言っておくけど、ねだった訳じゃないからなお前が真剣に、これからを考えてくれてたのが嬉しかったっていうか。気持ちが嬉しかったっていうか」
「」
「ただ、これからも近くにいてくれたらそれでいいんだ」
「そ、そうか」
「うん」
同じ色に染まった頬に、気づかないふりをして、一騎は濡れたタオルを片手に掴んだままの総士から奪うと、もう一方の手で、透けるような白さの手首を掴んだ。
「一騎」
「雨、ふる前に帰らないとな」
「そうだな」
自分の荷物を総士が掴み上げると、一騎はそのまま玄関へ向かう。途中で、洗濯機のふたにタオルを載せて。
「ちょっと待っててくれ」
ドアをくぐり、戸締まりをして、壁に立てかけていた傘を片手に持ち、一騎が歩きだした。薄暗がりに呑まれた階段を、ふたりが降りていく音が、静かに響く。
「じゃあ、また」
「ああ」
大通りに近づいたあたりで一騎の手が離れ、総士の上着のフードを引っ張った。
「目立つんだから、油断するなよ」
ぶっきらぼうにぼやいた一騎に、ちいさく詫びる総士は、恋人の独占欲をあなどっている。彼がフードを被せたのは、心配だけではなく、美しい恋人を周囲から隠してしまいたいという心の表れだとはつゆ程も思っていないのだから。
第3話 逢瀬――ふたりぼっち――
デート当日。一騎がレンタルしてきた車で、総士の住むマンションへお迎えに行くと、普段よりもラフな姿の彼に、新鮮な気持ちで声をかけた。
「こういうのも、似合うんだな~、アイドルっていうより、お忍びのモデルみたい」
「モデルか、悪くないな」
一騎なりに褒めてくれたらしいというのが彼の表情から伝わり、総士は照れたようにダークモカ色の綿のパーカーの裾を引っ張った。ボートネックシャツに、ブラックデニムパンツ、キャンパス地のハイカットスニーカーという、誰かと出掛けるというより、ひとりで散歩をするときのような装いなのだが、一騎が喜んでくれたようで良かったと、彼は胸をなでおろした。
一騎のほうは、チャコールグレーのパーカーとVネックシャツに、濃いめのジーンズを合わせている。足元はスポーツブランドのスニーカーだった。
ふたりとも、中に着ているのは白いシャツなのだが、総士はリブ編み調で、一騎は無地のタイプなので、また印象が違う。アウターはどちらもゆったり目なのに、総士はチュニック丈の物なので脚の長さが際立っていた。
フードを被ってしまえば、その美貌も相まってファンタジー作品に出てくるエルフの類いと言われても納得できそうな姿に、一騎は改めて恋人の容姿の良さを再認識した。
その傍らで総士は、一見、自然体な姿に見える一騎がさり気なくおしゃれをしていることに、すこしだけ胸をときめかせている。泥はねひとつないスニーカーは、一騎の性格的に違和感がある。きっと、この日のために用意してくれたのだろう。あのファッションに無頓着な彼が。自分のため、この日のために……そう考えると、彼は数多いる恋敵への嫉妬心から開放された気分になった。
予約したとおりの時間に苺農家のビニールハウスまで向かったものの、ほぼ付きっきりで苺の品種の蘊蓄を語っていた経営者に、一騎の機嫌が下がっていく。
「これは、新種で」
「ほう、すると品種名の上に書いてあるのが掛け合わせた株か」
「はい」
フードを被っても、顔を伏せても、指どおりの良さそうな艷やかな髪や、知性をにじませる穏やかな声までは誤魔化しきれない。それに、本人が品種改良に興味を示すものだから、教え甲斐があると経営者も張り切っているのだろう。
悪気がないのはわかるものの、一騎はデートのつもりで来ていて、しかもふたりにとっては初めてのお出掛けなのだ。
「......こっち」
「あ、おい」
総士の片手をぐいっと、自分の方へ強引に引き寄せ、バランスを崩しかけた彼の腰を抱くと、一騎は目を伏せながら、静かにつぶやく。
「俺のこと、忘れてないか」
「そんなことはっ」
「でも、俺と話すより、楽しそうだったじゃないか」
「そ、それとこれとは」
「お前が好奇心旺盛なのは知ってるけど、仕事の気分転換のためにチョイスしたんだから、ただ味とか香りとかを純粋に楽しんでほしい」
寂しそうな素振りをみせ、暗に要求を匂わせると、さすがに察したのか、経営者は売店コーナーの方へ向かい、ビニールハウスを出た。
「一騎」
「わかってるよ。子供っぽいコトしたなって」
「なら」
「ふたりきりになりたいって、思うことは、悪いことなのか」
「ちがうっ」
「...…何回でも来ればいいだろ。来年も、再来年でも。そしたら、もっといろんな品種とか増えてるかもしれないし」
「お前」
「ほら、深呼吸してみろよ」
ゆっくりと呼吸をすると、バラ科の植物特有の芳香と、甘酸っぱい香りが混ざりながら、総士の鼻先をくすぐった。
「いい香りだ」
「さっきは、わからなかったか」
「ああ、そうか。木を見て森を見ず、だな」
「ん」
「目先のことばかり見ていたということだ」
「ふーん」
「興味深い話だったが、たしかにお前の主張ももっともだな。そうだ、僕はお前とデートをしているんだった」
「ようやくわかったか」
「ああ」
突然、一騎がしゃがみ込むと、畝の上の株から苺をもいだ。真っ赤で、形のいい実だ。
「ほら」
しゃがんで近づく総士の口へ、実を押しつけた一騎にためらいつつ、総士が口を開ける。
ひとくちで、果肉の熟した部分をおさめ、ヘタの部分を噛み切ろうとした総士だったが、誤って一騎の指先を齧ってしまったようで、一騎が肩をすくめた。お互いに驚いて目を見開くも、総士は口にものを入れたままでは話せず、彼が口内の果肉をあわてて咀嚼して飲み込むまでに、一騎はその指をとっさに自分の口腔へ含んでいた。
「すまないっ」
「いや、大丈夫」
「だが」
「……じゃあ、手当てしてくれ」
「え」
人差し指と親指が、総士の口へ無遠慮に捩じこまれた。
「ん」
突然の行動に戸惑いながら、ちろちろと舌で指先を慰撫しようとする総士は、一騎の顔色を伺っている。普段はリーダーとして、堂々としている皆城総士が、だ。そのギャップにめまいを覚えながら、指先を包む内頬の熱さや粘膜の感触に、一騎はくしゃりと表情を歪めた。
こんなに可愛らしい場所で、昼に、シチュエーションに釣り合わない欲を催しそうになっている自分が滑稽に思えて、彼は総士の舌先を指で捉えた。
「っ」
「キスよりはやく、指で触っちゃったな」
苺のように赤くなる総士に、一騎が複雑そうな顔を向けた。
「もういいよ、ありがと」
あと少しでも指を咥えられていたら、危ない。
一騎は、自分の方からねだったものの、指を総士の口から抜き、果汁で潤った唇へ触れる。
「間接キスだ」
「っ」
いまさらなのだが、自分の唾液をまとった指で唇をなぞられると、総士はいたたまれないほどの羞恥をおぼえて、目を逸らそうとするも、一騎の瞳からは逃れられない。
「かわいい」
「かわいくなんて」
「かわいいよ。綺麗なのに、すごくかわいい」
「それは......重症だな」
「そうか」
照れ隠しに毒づく彼に、一騎がさらに赤い果実を差し出す。
「さあ、せっかくだし、もっと食べよう」
流れを突然断たれ、総士は肩透かしを食らった気分になるも、今度は一騎の指を噛まないように注意しながら、果肉に歯を立てた。
「......けっこう食べたな」
「ああ、2パックかそれ以上食べたかもしれない。って、おい」
「総士、苺の匂いがする」
「それは、お前もだろ」
果汁が手や袖口についてしまったのか、甘酸っぱい香りをまとわせた彼らは、子供時代にすることのなかった無邪気な顔で微笑みあった。
「あ、そうだ、せっかくだから」
ジャム作りののぼりを見つけ、一騎がパーカーの袖をまくった。
「さすがだな」
1時間弱して、作ったジャムを6個のガラス瓶にうつし、一騎はご機嫌な表情でそのうちのふたつを総士へ手渡す。
「総士の分と、乙姫ちゃんたちに」
「ありがとう。きっと喜ぶ」
「あとは、父さんと、事務所と、甲洋と来主に」
素材本来の甘さを活かして砂糖を控えめにしたジャムは、味見をした総士も満足する美味しさだった。
「事務所と甲洋たちのには焼き菓子でも添えて、つまみやすいようにしとけばいいよな」
「そうだな。妥当だろう」
ジャムは日持ちするものだが、保存料を使わない手作りを瓶ごととなると、消費ペースによっては傷んでしまう。
史彦は甘党というわけではないが、エネルギー補給のためと伝えれば食べるだろうという目論見があった。
「おみやげも用意したし」
ジャムの代金を含め、割り勘にしようとした総士から、彼の分だけを受け取り、一騎が残りを払う。
「さっきは、すみませんでした」
「あ、いえ、こちらこそお邪魔してしまって。てっきり、農大の学生さんがご友人同士でいらしたのかと」
なるほど、総士のようすなどを含めると、学生や友人同士に思えたのも理解できると、一騎は同意する。
「......とても美味しい苺でした。あいつも、ここが気に入ったみたいだったので、また来ると思います」
「ありがとうございます」
会計も済ませて、一騎が総士のそばへ駆け寄る。その背中を、一騎とよく似た顔立ちの女性が見送った。
「子供の成長って、ほんと一瞬」
彼女は、我が子と仲睦まじいようすの青年の姿を眩しそうに見つめ、彼らが見えなくなるまでそこを動かなかった。
「さっきの人さ」
「お前と、似た顔をしていたな」
「うん。......亡くなった母さんに、似てたんだ」
はっと、総士が息を呑む。
「だから、つい邪険にしちゃったのかもしれない。似てるからこそ、受け入れられなくて。それに、女性のとなりでお前が笑ってると、自信を無くしそうになるし」
「一騎」
ハンドルを握る横顔を、総士は静かに眺めた。
「俺、周りが思ってるより、器が狭いみたいだ」
雑誌の記事や公式プロフィールに記された真壁一騎は、温厚な性格の青年だった。しかし、いま総士のまえで自嘲する彼もまた、真壁一騎なのだ。
「......ドライブがしたい」
「え」
「海が見たい」
唐突な要求と、かなり遠回りなプランに、一騎は数分間黙考し、やがて穏やかに笑った。
「お前って、ほんと不器用だな」
だが、そんな不器用な優しさが、たまらなく心地良い。
真昼の青空を、鳥たちが横切っていく。しばし、ふたりは無言で移りゆく景色を眺めた。窓から入る風が、徐々に湿気を帯び、ほのかに潮の香りをまとう。
「ついたぞ」
ただ同じ景色をみていると言うことが、誰かとの間にある沈黙が、心にやすらぎを与えてくれるということを、一騎は総士と会うまで知らずにいた。
「せっかくだ。少し歩こう」
「そうだな」
ふたりは、砂浜の海岸をつかず離れずの距離で歩いた。ときおり、手の甲がかすれ、顔を見なくてもお互いの存在が伝わる。
「シチュエーションは違うが、こんな感じだったな」
水平線の向こうに呑まれかけた西日が、総士の艷やかな髪をひときわ輝かせ、夕暮れの海面が風で煽られ、金の波がさざめく。
「そうだっけ」
「ああ、お前が忘れても、僕が覚えている」
出会った直後、左側の視力を失った総士のリハビリもかねて、ふたりはよく砂浜を散歩した。瀬戸内海の澄み渡る海とは違うけれど、傍らに一騎がいて、ともに歩いているのはおなじだと、総士は大事な思い出を噛みしめる。
「覚えてないっていうか、総士の目のことや、これからのことで頭がいっぱいだったから」
総士に近いほうとは反対の手で、一騎が頬をかく。
「そうか」
余裕がなかったから記憶がうすいと打ち明けられても、怒る気にはならない。総士がどれだけ説得しようとしても、一騎は傷痕のことをずっと考えていたのだから、それも当然だと総士は理解している。
それでも、総士にとってのリハビリ期間は、蜜月のような夢のひとときだった。
都内へ戻れば、一騎ひとりだけと一緒にいるという我が儘は通らないことを、彼が一番知っていた。大勢の人間と携わってメディアという媒介が成り立ち、エンターテイナーという存在が立つ場所ができるのだ。人々との繋がりなくして、アイドルの皆城総士は成立しない。
「だからっていうのもヘンだけど、思い出がいっぱい欲しいんだ」
一騎がふいに顔をあげて、立ち止まった。それから、沈みゆく西日へ向けて歌い始める。あたりに人影はないので、彼のよく伸びる優しい歌声が、ストレートに総士の耳へ届く。
いつの時代の歌姫よりも甘やかに響くそれに、胸がいっぱいになり、溢れかえった感情が、涙となって、総士の瞳から溢れる。
「そんな顔をさせるために歌ったんじゃないんだけどな」
「うるさい」
守りたいと思った存在のために戦うという歌詞に秘められた確かな愛情が、総士へ届いたのだとわかって喜色満面になりながらも、照れ隠しで指摘した一騎に、総士が勢いをつけて抱きついた。
「わっ」
そのまま砂浜へ倒れ込んだ一騎へ、馬乗りになった状態で、総士がキスをする。頬、唇、鼻先、倒れ込んだときにあらわになった額へと、顔中に降りかかるやわらかさに、一騎の瞳がとろりと溶けると、彼の手が手さぐりに、総士の指を捉えた。
砂浜の上で、左右の十指がそれぞれ絡み合い、亜麻色の髪と黒髪のさきが縺れ合う。
「っは、すき、だ」
「んっ」
「すきなんだ」
「しってる」
シーズンオフの黄昏時の海に、人影がいないのをいいことに、総士は普段抑えていた好意を伝える。
「あっ」
一騎の控えめな喉仏を、総士が唇で食んだ。
「僕のためだけに歌えばいいのに」
「なんだよ、それ......そんなの、俺の方がずっと前から思ってたよ」
カラーコンタクトを入れていないはずの瞳が、西日を汲んで、蜂蜜色をうつしていた。刹那、その目もとが蠱惑的に細まる。
獰猛な愛が、そこにあった。
皆城総士という名の獲物をまえに、今にも箍が外れそうなのを辛うじて堪えている。そんな眼をしていた。
「電波越しに聞こえる声が、液晶越しに見える姿が、もどかしくてしょうがなかったよ」
「かず」
「……帰ろうか。どこかで、美味しいものでも食べてさ。じゃないと、お前をもっと泣かせてしまう」
ムードを壊したセリフのあとで、とてつもない破壊力を持った爆弾を落とされ、総士の体がこわばった。
「どいてくれ。無理強いはしたくないんだ」
その気になれば、総士くらい軽々と押しのけられるだろうに、わざわざそう言った一騎に、総士は首肯すると身を引いた。
「ザラザラだな」
自分の後頭部の砂をはらうより先に、総士の毛先についた砂を気にする一騎を、総士は複雑な想いで見下ろした。
「どこかでシャワーを」
「だめだよ。言っただろ無理強いはしたくないって。据え膳を用意されたら、我慢なんかできない」
総士の髪についた砂を払い終え、自分の頭を雑に掻き、一騎は立ち上がった。
「僕は、僕は……それでもいいと思っている」
覚悟を決めたものの、不安と緊張が滲んでいる。そんな印象の声に、一騎は慈愛の心が湧いてくる思いがした。狂わしいほどの欲が、穏やかな愛に呑まれてゆく。
「総士。ゆっくりでいいんだ。大切にしたい」
夜の帳が下りた空の果てで、一番星が煌めいている。かつて真壁一騎が憧れた、アイドルの皆城総士は、あの星のような存在だった。どれだけ背伸びをして、手を伸ばしても届かない、彼方の人。
そんな彼が、今は自分の隣りにいて、甘やかな言葉を惜しみなく囁やき、この少し歪で度の過ぎた愛を求めてくれる。
手が届く前のころをおもえば、総士の心がきちんと整うまでは、まだ堪えられるだろうと、彼は自分のなかの獣を諭した。
「ほら、明日は仕事だろ」
「…...ああ」
現実を突きつけることで、根は真面目な総士を促し、彼らは車に乗り込んだ。
「さっきの僕はどうかしていた。......浮かれていたのだろう」
「そうか」
「ずっと、ふたりでいられるのが嬉しくて、今までの時間を取り戻すことに固執してしまった。その、かなり大胆なことをしてしまったが、嫌わないでほしい」
「嫌う要素なんて、どこにあるんだよ」
ご機嫌に、アクセルを踏み込んだ一騎に、総士は目を見開く。
「我慢したし、させたし、お互い様だろ」
「ああ」
お互い様という言葉に、ようやく総士は自信を取り戻す。
一騎の態度などから、自分が受け入れる側なのだろうと推察し、一歩引いてしまっていたが、一騎は対等な関係を望んでくれているのだとわかり、彼は重しが外れたように胸がすく心地がした。
「その、一騎が嫌でなければ、さっきみたいに、僕から触れても良いだろうか」
「許可とかいるのか現場とかで、あれだけハグとかしてるのに」
「こ、恋人としてのスキンシップは、また別だろうそれに、お前が役割りとか、そういうのにこだわるのか分からなくて」
「役割り」
「リードする側なのか、される側なのか」
男役、女役と言わずに、誘導すると表現した総士に、一騎は微笑む。
「両方って言ったら、引くか」
「両方」
「お前が思ってるより、俺は欲張りみたいだ。誰も知らない総士をいっぱい見たい。それに、この人生は1回きりなんだから、楽しみ尽くしたいじゃないか」
「それは...…そう、だな。いいと、おもう」
総士から一騎へ触れたときの反応を振り返り、とっさに彼は口もとを覆った。
驚きと喜びが一緒になったような一騎の表情や、戸惑うようす、そして
「それで、隠してるつもりか」
「」
「ほんと、不器用だな」
いつの間にか、シーフード料理の店の駐車場に入っていたらしく、一騎がシートベルトをはずす。
「先に席を取ってる」
総士は、あわててシートベルトをはずすと、ドアを開けて外へ出た。
「いらっしゃいませ」
前髪ごと後ろでくくった、さばさばした印象の女性と、ピンク色の髪を2つしばりにした、快活な印象の少女が声を揃える。
「何名様ですか」
「ふたりだ」
「はいお好きな席へどうぞっ」
まだディナーにしては早目の時間だったからか、店内に他の客はいないが、著名な作家の色紙がカウンターに飾られているのを察するに、隠れた名店なのだろうと、期待値が上がる。
機動侍ゴウバインの大粒あんこを筆頭に、少年誌やSF作家のものが多いのは、そちらの界隈で口コミで広がったからだろう。
「わ、すごいいっぱい色紙があるな」
すこし遅れて入ってきた一騎も、色紙へ注意を向けたあと、総士の選んだ席、海辺を一望できる窓際へと迫り、腰を下ろした。
「失礼しまーす」
ピンクの髪の少女が、おしぼりとレモン水の入ったグラスをサーブし、それから、メニューを2冊用意してくれた。
「ありがとう」
「いいえー。お決まりになったら、お声掛けください」
16歳くらいに見えるが、爽やかで無邪気な笑い方をする。芸能界の闇から守ってくれる後ろ盾と、強い意志があれば、こういう子こそ、アイドルに向いているのだろうと、総士はぼんやりと思った。
「ああいう子が、好きなのか」
「そういうのじゃない。大衆ウケしそうな娘だと思っただけだ。僕よりもアイドルに向いていそうだと」
「総士は、アイドルだよ。素質だって、ちゃんとある。じゃなかったら、俺、夢中になったりしなかったし、それにこうして出会えたのは、お前がアイドルだったおかげだよ」
「一騎…...そうだ。僕がリーダーとしてちゃんとしないとな」
曇っていた表情が晴れたことに安堵し、一騎はあたたかな眼で、総士を見つめた。
その後、ふたりはシーフードマリネとミックスピザ、塩味のシーフードパスタをシェアしながら食べ、食後のコーヒーまで堪能すると、まっさらな色紙をもらって、ふたりで1枚のそれにサインと日付けを記した。
「ごちそうさまでした。どれも、素材の味がよく出ていて、美味しかったです」
「わあ、ありがとうございますって、アイドルだったんですね、どおりでカッコいいわけだ......おかーさーん」
一騎が声をかけると、少女が厨房へ向かって呼びかける。
「なんだい、騒々しい」
「あのね、お兄さんたちが、美味しかったって」
「そうかいそりゃあ、良かった」
豪快に笑う店主に色紙を渡し、一騎と総士は店を出た。
「なぜ自分から色紙を書いたんだ」
「だってさ、なにか残したい気分だったんだ。オフでも俺とお前が一緒にいたって事をさ、色褪せても飾られてる色紙を見てたら、なんか…...誰かに知っていてもらいたくなった」
「すっかりアイドルらしくなったかと思えば、理由がそれか」
くっくと喉を鳴らして、総士が笑うと、一騎がむくれる。
「いいだろ、べつに」
「悪いだなんて言ってない」
なぜなら、総士も同じことを思いながら、サインを記したのだから。
宵闇に染まりきった道を抜ければ、喧騒と人工的な明かりが待っている。そして、さらに数時間先には、白々しくて忙しい都会の朝が待っている。けれども、傍らの存在があるかぎり、彼らは互いに寄り添って、不安定な未来でさえも進んでいけるのだ。
第4話 共謀――ヒメゴト――
夢を見ている。
漠然と、そう思いながら、一騎は目の前の巨躯を見上げた。まるで巨人のような威圧感のあるサイズ、どこか爬虫類を思わせるシルエットの、黒く刺々しいフォルムのそいつを、一騎は見上げた。
懐かしい。
これも、漠然とした感覚で、彼は思う。言葉では説明できない、科学でも証明できない分野の、直感のようなものがあった。
これは、自分だ。自分は、これだった。
綺麗なものをたくさん壊した。大切なものを、いっぱい失った。けれど、尊いものを少しだけ守ることができた。
視界の端で、亜麻色の髪が、さらりとたわむ。
「総士」
けれど、それはすぐに消え、かわりに貴石のような半透明の青緑色の結晶が群生し、爆ぜた。
「はっ」
とてつもなく不吉な夢を見た気がする。
目を覚ましたとたん、一騎は夢の内容が頭からほとんど消えていることに呆然としながら、それでも最愛のパートナーの喪失というショッキングな場面のせいで、冷や汗をかいて湿ったシャツを脱ぎ捨てた。
「......」
頭でも冷やそう。
壁の薄いアパートで、変な時間に物音をたてるのはあまり良くないけれど、気持ちを落ち着けるには、なにかで紛らわせなければならない。
「4時か」
スマートフォンのデジタル時計で時刻を確認してからタオルと下着を拾い上げ、猫の額という比喩がよく似合う狭い浴室へ向かうついでに、シャツと下木を洗濯機へ投げ込んだ。
「ふぅ」
深く息を吸って、吐いて、憂鬱な気持ちを吹き飛ばすようなことを考えようとすれば、必然的に恋人のことを思い描いている自分に気づき、一騎は苦笑する。
水浴びついでに頭と体を洗い、蛇口をひねると、彼は浴室をあとにして、タオルで体を雑に拭ってから服を着て布団へ横になった。
いちど水浴びしたおかげか、冷えた体に布団が心地良い。それに、総士のことを考えたからか、今日も仕事を頑張ろうという前向きな気持ちになれた。そう、あと2時間あまりしたら、総士に会えるのだ。これは、一騎にとって、なによりの原動力だった。
「っていうことが、あって」
「そ、そういう事をわざわざ報告するな」
「えなんでだ」
「……いたたまれない気分になる」
真っ赤になって俯いた恋人に、一騎は首を傾げた。
「一回、話し合う必要があるな」
内緒話をするように、耳もとへ唇が寄せられ、聴き惚れてしまいそうな低音が、耳孔へ注がれる。
「ひっ」
身をすくめた一騎に、総士の目が円くなるも、彼は面白いものをみたとばかりに、くすりと笑った。そのかすかな空気の揺らぎでさえ、一騎にとってはたまらないらしく、彼は背中をまるめて、前かがみになった。
「では、教えようか。夢というのはな、説明するまでもなく、深層心理と深く繋がっている。それこそ、無意識の領域までだ。さらに、昔は『自分に会いたがっている人が、夢に現れる』と言われ、近年では『自分が、会いたいと想う人が現れる』とも言われている。さらに、人が亡くなる夢は、古い自分との決別や転機を示す」
「ん」
「パートナーなどが、亡くなる夢というのは、相手の身辺に変化が起きることや、それに対する恐怖心などを暗喩しているらしい。つまり、お前が、僕を亡くすことへの恐怖心や、ありえない事だが、僕の心変わりを恐れているということになる」
「っは」
「つくづく、僕はお前に愛されているらしい」
長々とした説明を彼が語る間、一騎の耳に流れ込む文言はすべて、甘い刺激でしかなかった。最後の言葉尻だけは辛うじて聞こえたものの、内容はほとんど頭に入っては来なかったのだ。
しかし、総士は自分のそばでぐったりと腰を砕けさせた一騎を上機嫌に支えようと、その腰を抱く。
「つまり、それも記事になってしまう可能性があるから、外では漏らすなよ」
「る、さい」
「ふふっ、いい気分だ。まさに型なしだな」
いつもは自分だけ翻弄されている、と思いこんでいた総士にとって、一騎を一方的にぐずぐずにしているという状況は、普段抑えていた男としての優越感を煽る。
「……帰ったら、覚えてろよ」
総士の弱点を一騎はまだ知らず、それも控え室では手を出すこともできないため、彼は総士のがっしりとした肩へ額を強めに当てると、そのまま擦りついた。とはいえ、いつマネージャーなどが来るかわからない状況のため、数分ほどで離れてしまう。
いかにスキンシップが多めな2人とはいえ、オフや待ち時間にあまりにひっついているのは、飢えたハイエナのまえにご馳走を用意するような行為だという分別はあった。
「どこまでが許されるか、いっそ試してみたくなるな」
「お前が、周りに気をつけろって言ったくせに」
「僕はただ、耳を借りただけだ。卑猥な言葉などを囁いたわけではない」
「ひわっ」
のけぞって、さらに一歩引いた一騎は、実年齢よりも幼く見え、総士は開けてはいけない扉に手をかけている気分になった。
「このままお前を見ていたら、歯止めが効くか自分でも怪しいから、飲み物でも買ってくるとしよう」
一騎の着用しているジーンズの合わせへ視線を落としてほくそ笑む総士に、一騎は背を向けた。
「むっつり」
「...…聞こえないな」
シラをきりながら、控え室から出ていく総士。ひとり残された一騎は、気を紛らわせようと、控え室の中をチェックすることにした。
これは総士には秘密なのだが、以前から総士の周りに不審物が届いたりすることがあると、マネージャーの立上から相談があり、一騎や甲洋、操が一緒に仕事をするときには彼に内密で周辺を調べていた。
もちろん、そう頻繁に見つかるわけでもないのだが、念には念を入れて、だ。
ただのアイドルという肩書だけでなく、総士には亡き父である皆城公蔵のことでの逆恨みなどが未だに付き纏っている。つまり、どんな相手が敵なのか、いまいち不明瞭なので、下手に気を抜けないのだ。もちろん、こちらの理由は母である朱音の一件を探っているうちに一騎が自分で掴んだ情報であり、立上に説明された訳ではない。
そう、皆城総士と真壁一騎のあいだには、親をとおしての、被害者側という繋がりもあった。そのことを知っているのは、一騎、史彦、溝口の3人のみだ。しかも、溝口が一騎にだけ打ち明けた話によれば、まだ黒幕は逃げおおせている可能性が高いというのだ。表向きは、解決したということになっているものの、溝口の直感はかなり信憑性が高いため、一騎は総士の周辺に関しては神経質なまでに警戒をしていた。
「総士」
「呼んだか」
「うわっ」
思いを馳せているうちに、下肢に燻っていた熱は冷めたものの、意識を思考に向けていたままだった一騎の背後をたやすく奪った総士が、スポーツドリンクの缶を首筋に押し当てたのだ。
「どうした」
くすくすと笑いながら尋ねた総士に、一騎がゆっくりと振り向き、微笑んだ。ゴミ箱の影に見つけた盗聴器を踏み潰してから。
「なんでもない、ちょっと疲れてたみたいだ」
「そうか、ならば、収録が終わったら、すぐに帰らなければな」
「ああ、どうせだから一緒に帰らないか立上さんも、今日は乙姫ちゃんの検査入院に付き添ってるだろうし、病院だったらここの近くだろ」
「そうだな。良いアイディアだ。なら、病院へ向かってから合流し、帰宅しようか」
「よし、じゃあ残りも頑張ろう」
このあとの予定は歌番組の収録だ。気合いを入れてにこやかになった一騎とは逆に、総士は頬を引き攣らせながら頷いた。
「コレ、よろしくな」
「ああ、わかった。責任を持って預かろう」
病院の通路に設置された公衆電話のブースに、呼び出していた相手へ、控え室で採取した盗聴器の残骸をハンカチごと手渡し一騎は頭を下げた。すると相手は、艷やかなストロベリーブロンドを揺らし、首をふる。
「いや、コレがどういうものであれ、ネタになるならば社にとっての利益になり、ゆくゆくは翔子姉さんの入院費のたしになるからな」
そう言った表情に含みなどはなく、一騎の頼み事を快く受け入れてくれたことが伺える。
羽佐間モータースの次女、羽佐間カノン。週間アルヴィスにも通じている記者のひとりでもあり整備士でもあるのだが、義母の容子と一緒にバードなどの技術開発や、こういった盗聴器などの解析も頼める才女だ。一騎の幼馴染のひとりでもある。
じつは、翔子もカノンも羽佐間家の養子なのだが、家族仲がとても良く、おっとりとした義姉をしっかり者のカノンが支える姿からは確かな絆を感じられるので、一騎は仲のいい姉妹を微笑ましいと思っていた。
「そうか、だったら嬉しいな」
なんの縁か、乙姫と翔子が入院している病院も同じなため、待ち合わせにもちょうど良かったので、例の証拠を渡すのに、ここを指定したという事情もあった。
「おっと、そろそろ戻らないと」
「了解した。結果が分かり次第連絡する」
「助かる。いつも、ありがとう」
お礼を言って、差し入れ用の紙袋に入れていた可愛らしいラッピングのキャンディを一袋渡すと、カノンは目をきらきらとさせ、宝物を抱きしめるようにして、一騎にお礼を告げる。
「じゃあ、翔子にもよろしく」
そう言って去っていく一騎の背を、眩しそうに見つめるカノンの表情を、彼は知らない。
「ずいぶん長い電話だったな」
「ああ、父さんがいろいろと立て込んでるらしくて、職場から電話してたらしいんだけど、聞き取りづらくてさ」
「そうか」
訝しげに一騎を見た総士に、苦笑しながら、一騎はベッドの上の乙姫に視線を向ける。
「久しぶりだね、乙姫ちゃん」
「うん。久しぶり」
純粋な微笑みで返事をする乙姫から、その傍らに居る女性へと向きをかえ、一騎は会釈する。
「お疲れさまです、立上さん」
「お疲れさま」
「これ、あの御門屋のカスタードプリンだ」
総士から乙姫の好物を聞いていたので、乙姫と芹の分を入れた紙袋を渡すと、乙姫は嬉しそうにはしゃいで、それを立上が慈愛に満ちた表情で見つめる。
「ありがとう」
「いつも、頑張ってるって総士から聞いたから」
「頑張ってる」
不思議そうに首を傾げた乙姫に、一騎は少し困った表情をする。
「難しい病気と戦ってるって」
「そういうことだ」
なぜか胸を張って、自慢するような態度をとった総士に、一騎がツッコミを入れる。
「なんでお前が得意げなんだよ」
「難病と向き合っている妹を、誇りに思っているからだ。乙姫は、自分の身が未知の病魔に巣食われていると知っても、一時も絶望はしなかった。そればかりか、いつも僕や義姉のことを心配して......」
「そっか」
一騎が総士の手をそっと握ると、一瞬だけびくりと指さきが跳ね、同じくらいのやさしさで握り返してくる。
「一騎くん」
「え、なに」
「総士のこと、よろしくね」
「うん」
「頭は悪くないのに、ひとの感情とかそういうのに疎いから、あちこちで敵を作っちゃったりするし、気に入った人の世話を焼いてはアレコレ一人で背負っちゃうから……注意深く、末永く、よろしくお願いします」
ズケズケとした物言いだが、的確にまとを射ている言葉に、総士はぐうの音も出ないらしい。一騎は驚きつつも、はっきりとした声で返事をした。
「ああ、ずっとそばで見守るよ。そして、ちゃんと守る」
「総士が選んだのが、あなたで良かった」
「つ、乙姫」
あわてる総士だったが、彼が反論をするまえに、立上がドアの方へ移動する。
「さて、消灯時間も迫っているし、私はこの二人を送り届けてくるね。また戻ってくるから、そしたら一緒にプリンを食べよう」
「うん。行ってらっしゃい」
立上と乙姫のことばに、ふたりはハッとした。思いの外収録が押していたので、時間の感覚がズレていたのだ。
「すみません変な時間に」
乙姫と立上へ向けて交互に頭を下げる一騎に、彼女たちは同じタイミングで笑った。
「来てくれて嬉しかったよ」
「たまには、私と身内以外のお客さんにも会いたかっただろうし」
「だそうだ。とにかく、僕たちはお暇しよう」
「う、うん。わかった」
「じゃあね、総士、一騎くん」
「また」
乙姫の病室をあとにし、立上の車の後部座席に乗り込むと、一騎は口を開いた。
「ずっと笑顔だったな」
「…...だが、愛想笑いではないからな」
「うん。乙姫ちゃんは、真壁くんのことを本当に歓迎してたよ」
「だといいけど」
これは、馴染むまでに少し時間が掛かりそうだと、総士と立上は肩をすくめた。
その晩は、いつもどおり一騎のアパートで食事をとり、総士をマンションへ送る際に、急な喉の乾きを感じた一騎が途中のコンビニで飲み物を買ってから移動した。
ただ、飲み物を買っただけ。なのだが、後に彼はその英断を自讃するようになる。
「うわ」
「うわこっちのセリフだよ。それ」
カノンと一騎が通話用のブースにいるところを遠くから撮られていたらしいのだが、ちょうど差し入れを渡すタイミングで腕を伸ばしたところを、角度をつけた位置から撮ることで、スキンシップを取ろうとしているように見えた画像に、立上は頭を抱える。
「一般人が撮った画像のようだけど、こじょ、ゆうべの病院だよね」
「はい、幼馴染のひとりで、この子の義姉が入院しています。差し入れを手渡すところを、悪意のある撮り方でやられたみたいです」
「そうだね……関係はともかく、きみが総士くん以外に興味をもつとは考えられないし」
立上の言葉に、気恥しさを感じつつ、一騎は首肯する。そして、思いついて、あるものを机に置いた。
「これは、昨夜のレシート」
「記事にあるような、お泊まりとかの部分は消せるはずです。これを買ったときは、総士も一緒だったのですが、この距離をすぐに移動するのは無理がありますから」
「なるほど、アリバイね。ところで、隠してることがあるんじゃない」
「さすがですね」
演技をしていないときの一騎は、よく表情に出てしまうため、立上からすると別に難しいことではないのだが、彼女はあえてそれを指摘せずに、彼が打ち明けるのを待った。
「盗聴器が仕込まれていました」
「また」
「総士にはもちろん伏せているけれど、時間の問題かもしれません。とにかく、あいつが一人にならないようにしないと」
「もちろん。ほかのメンバーにも話しておくから、あなたも総士くんを守ってあげて。こっちも、一応怪しいスタッフがいないかチェックしておくから」
「はい」
「とはいえ、やっぱり心配だね。一騎くんを狙ってたパパラッチも居たみたいだし」
「まさか、俺が不意をつかれるなんて」
「あ、追い打ちをかけるつもりはなかったのただ、そうとうやり手の記者がいるんだって驚いただけ」
「……はい」
ふたりが話し合いを終えた直後、ドアを開ける音がして、彼らは同時にそちらを向いた。
「総士」
「なんだ、ふたりして妙な顔をして」
仲間はずれにされた子供のように、唇をとがらせる彼に、ふたりは緊張を解いた。
「ちょっとした打ち合わせ中だったの。部外者が来たかと思って」
「なるほど」
とっさに立上が事実をすこしだけぼかした口実を用意すると、総士はあっさりと納得した。
「そういえば、さっき見慣れないスタッフとすれ違ったが、一騎のこともあるし、つい警戒してしまってな、すると相手も雰囲気を尖らせてきて、嫌な予感がしたんだが」
「清掃スタッフ」
総士がもたらした情報に、ふたりは目を見合わせた。芸能関係者ではないが、控え室や病院にいたとしても怪しまれない姿だろう。
「立上さん」
「わかった。ちょっと調べてみる」
「お願いします」
慌ただしく退室した立上に、総士が怪訝そうな顔をする。
「もしかして、やはり」
「調べてみるまでわからないけど、気をつけた方がいい」
「ああ」
その日の午後、立上からの連絡で、例の清掃スタッフを事務所内の監視カメラで探ったところ、数日おきに入り込んでいたことが明らかになった。なぜ今朝になって遭遇したのかというと、総士のスケジュールがズレて、彼のマネージャーと番組スタッフたち以外は、総士の動向を知らなかったというのが濃厚な説だった。
「とにかく、怪しいやつを見つけたら、すぐに連絡をくれ」
「通報が先じゃないのか」
「それでもいいけど、俺のほうがすぐに駆けつけられると思う」
「それも一理あるか」
時間帯などによっては通報から駆けつけるまでにタイムロスが生じる場合や、職業的な問題もあり、総士は一騎の提案に微笑んだ。パートナーを危険な目にあわせるのは良くないけれど、自分を頼ってくれと申し出てくれた心意気がうれしくて、仕方がなかったのだ。
4時間後、雑誌の撮影なども終えて、総士はひとり、控え室で待機していた。
「女性か」
ゴシップ記事に載っていた画像の、すらりとした女性の顔は目線を引かれていたが、鼻筋や唇のかたち、輪郭やすらりとしたスタイルからは、スポーティで爽やかな印象があり、一騎のそばに居ても違和感がなかった。むしろ、お似合いだったように思えて、総士は目頭を抑える。
自分が女だったら、こんなふうに厄介なことにならず、さっさと籍を入れてしまえたのにと栓のないことを悔やみ、その馬鹿馬鹿しさに頭を振る。
「なにを」
いま考えてしまったことは、性別のことも含めて、皆城総士という存在を受け入れてくれた一騎に対する侮辱に等しい。
「僕は、僕だ」
総士は鏡の前に立ち、向こう側の自分を見つめる。
そして、一騎のスマートフォンへメッセージを送った。
『今夜、話せるだろうか』
しかし、1時間後に帰ってきた返事は総士の願いとは違うものだった。
『ほとぼりが冷めるまで、急ぎの用以外はダメだって、社長命令らしい』
総士は内容を確認すると眉をひそめたが、次の瞬間にはある妙案を思いつき、にたりと嗤った。
「なんだ、方法ならあるじゃないか」
素材は揃っている。
彼は一騎へもう一通メッセージをおくり、スマートフォンを伏せた。
19時、ついに本日のぶんの仕事を終えた一騎は着替えだけ済ませ、メッセージで指定された場所へと急いだ。
「そう、し」
雑誌の撮影で使われた白のロングチュニックと、つばの広い帽子、スキニーデニムを合わせ、後ろ髪はまとめて帽子の中へ。サイドの髪はゆるく巻いて軽やかに仕上げている。喉元は、紫陽花のように紫から藍色のグラデーションの縮緬加工のスカーフで隠せば、性別が曖昧な印象になる。
それでも、肩幅や高身長は隠しようがないのだが、総士は部屋の隅に置かれた車椅子を手で示すと、その座面に深く腰掛けた。
「どうだなかなかに上等な囮だろう」
車椅子に掛けたことで座高が若干低くなり、長い脚の膝頭を寄せ気味に、つま先は足掛けに引っ込めることで、体格の男性的な印象が薄れ、深窓の麗人という風情が漂っている。
スカートを穿いているわけでもないのに、姿勢と小物だけでここまで変装できるのだから、さすがとしか言いようがない。
「おとり」
「ああ、そうだ。待ってばかりは、癪だからな」
「おまえ」
「なあ、一騎。これは、こちらから仕掛ける罠だ。僕が餌になるから、お前が相手を狩れ」
「総士」
決して確率の低い賭けではない。なにせ、強引にスキャンダル記事を書いたことによる悪評を向こうは弁解したがっているはずで、結局はデマだったとはいえ不安を覚えた『本命』が姿をあらわす可能性を狙っているということも想定できる。
自分から囮になると言い出した総士を、はじめ一騎は不安そうに見ていたが、彼の力強い眼差しと、一緒に敵を釣り上げようという提案には、一騎への信頼が秘められていて、最終的に彼が折れるかたちで眉を下げた。
「お前がそれを望むなら」
こうして、ふたりは共同戦線を張ることになったのだが、仕事以外のはじめての共同作業が物騒かつ色気のないものになってしまったということを、後に総士が後悔することを彼らはまだ知らない。
第5話 明暗――キラキラ――
結局、記事自体がデマであることを事務所から公式に表明したものの、今まで女性との噂が一切なかった一騎だけに、しばらく話題は彼の理想のタイプや恋愛観などをしつこく尋ねるマスコミが急増し、それに伴って本人の機嫌は下がっていった。
カメラを向けられたときはまだマシな表情をするのだが、レンズがはずれると虚無の表情になってしまい、傍らに総士がいないときは落ち着きがない。かつて総士が発作に例え、ファンや関係者が『総士病』などと名付けた状態に陥ってもいた。
「総士ぃ」
あまりに様子がひどいので、見かねた来主操が用意した公式グッズ――総士の特徴をとらえつつも可愛らしいマスコットを大事そうに抱え、喋りかける姿は非常に近寄りがたい雰囲気を出していて、彼に声をかけられるのは同じグループのメンバーたちとマネージャーのみという状態だった。
「ちょっと〜、いつまで梅雨ごっこしてるのさ」
見かねた来主が、一騎の正面にまわりこんで指摘すると、一騎の瞳が潤った。
「だって、あの記事から総士と会える時間が減って」
「帰りは一緒なんでしょ」
「だけど」
「ああもうっ気晴らしにカフェ行こうっ」
「カフェ」
「最近できたとこなんだけど、昼はカフェで夜はバーになる店があって」
説明しながらスマホの画像を見せた来主に、一騎は押され気味になり、同じ画面を覗き込んだ。
「これ」
白を基調とした店の窓辺には観葉植物とレースのカーテンがあり、さり気なく路面沿いの視覚を緩和し、あらゆる国の風景や空を移した写真が壁面を彩っている。
「シャングリ・ラっていう店なんだけど、けっこういい感じでさ、ずっと仕事場にいるより、どっか出掛けたほうが楽になれるでしょ」
「わかったよ」
言われてみれば、デート以降は買い出し以外で外出していなかったと苦笑し、数分後に二人は来主の先導で、閑静な住宅街にひっそりと建つその店へと向かうことになった。
「お、お前はっ」
「え、総士」
「……ちがう。蒼生だよ」
「知り合いなの」
「うん」
ドアを開けるや、恋人によく似た、けれど溌剌とした印象のポニーテールの少年と視線が合い、一騎は困ったとばかりに苦笑する。
「こらーお客さんに、お前なんて言っちゃだめでしょ」
「み、美羽」
よく見れば、私服の腰周りにカフェエプロンを掛けた彼とおなじエプロンを付けた少女が、蒼生の言動を咎める。美羽という名前らしい。
「えっと、だいじょうぶだから」
店員二人のやり取りにおろおろとしながら一騎が宥めようとすると、今度は蒼生が言質をとったと胸を張り、美羽が躍起になって声を荒らげる。
「さて、なににしよっか」
「お、おい来主」
マイペースに席を選び、腰掛けた来主に一騎が視線で訴えるも、来主はのんきにページをめくりながら、ほわほわとした口調で返事をする。
「いつものことだから気にしなくていいよ」
「いつも」
「うん」
「そっか、そういうことなら」
二人のやり取りが口喧嘩以上のことになる気配もなく、一騎は肩の力を抜く。
「これとかどう」
「皆城シチュー」
「看板メニューらしいよ」
興味をそそられ、恋人と同じ名字を関したメニューとホットコーヒーを選んだ彼に微笑み、来主はカレーとカフェオレを注文する。
「あ、うまい。生クリームが入ってるのか、コクがあってすごくまろやかだ。それに、野菜が舌で崩せるくらい柔らかくて、鶏肉もほろほろで」
「……グルメ番組の仕事してるみたい」
「だってこれ、すごくうまくて」
手放しに褒めちぎる一騎に、いつの間にか近づいていた蒼生が鼻を鳴らしつつ、胸を張る。
「兄さんに聞いたレシピだから当然だ」
「兄さんって、総士にか」
「もちろん」
再び得意げになった蒼生だったが、彼はカウンターの中の厨房にいつの間にかいた青年に買い出しを命じられ、エプロンを外してから財布とエコバックを手渡されて、裏口から出ていった。
「似てるとはおもってたけど、兄弟だったんだ〜」
「兄弟っていうか、いとこみたいな感じらしい」
まだ事実を伏せられたままで、曖昧な言い回しをした一騎だったが、来主はそれ以上のことを深追いしなかった。
「そうか、料理できたんだな、あいつ」
皆城総士という男は、どうも生活感の薄い印象があったからと、アレコレと世話を焼いて、手料理を押しつけてしまっていたが、いらない世話だったのかもしれないと一騎は反省する。
今の、いままで、恋人がこんなに美味しいシチューを作れることすら知らなかったという事実がショックだった。
「か、一騎どうしたの」
「なんでもない」
複雑な想いを抱きながらも、きちんと味覚は作用していて、彼はそれを自嘲しながらスプーンを口へ運ぶ。
「ごちそうさま」
「……そんな顔をさせたかったわけじゃないんだけど」
「いや、いい気分転換になったよ」
「そう」
「うん」
会計を済ませ、店を出ると、時間は14時半をまわっていた。
いちど来主と離れ、以前から予定されていたスポーツブランドの雑誌撮影を終えた彼は、このあとの練習(グループで集まって新曲のボーカルレッスン・振り付けの見直しなど)のために、集合場所である控え室へ向かった。
「どうした元気がないな」
「甲洋」
顔を合わせるや心配そうに一騎へ声をかけた甲洋は、背中に刺さる視線を浴びながら、一騎の向かいへ腰を下ろした。
「やましい事はしてないけど、みんなにも迷惑をかけてるのが」
「大丈夫だよ。俺たちは、お前の言葉を信じるし、本命を差し置いて、そういうことできるほど器用じゃないのは知ってるから」
ぱちりと、お手本どおりのウインクをした甲洋に、一騎は真っ赤になって慌てる。
「本命って」
「大丈夫だって。俺たちは味方だから」
春のひだまりのように穏やかで優しい笑みを向けられ、その澄んだ瞳に見つめられると、一騎は甲洋に嘘をつけなくなってしまう。どんな言い訳も見透かしてしまうような聡明さと、誠実さがあらわれている眼力に負けてしまうのだ。
「……まあ、甲洋も来主も信用できるしいいか。俺さ、総士のことが好きだ」
「うん」
予想どおりの返事に、一騎の緊張が解けた。
「どんな魅力的な人も、総士と比べられないくらい、それぐらい特別なんだ」
飾り気を抜いた表現ですらこのありさまか、と甲洋は眉をさげた。
これはかなり本気のようだ。総士のほうが心配する要素がないくらいに、一騎の方も彼を思っている。
出会い頭はかなりショッキングで、胡散臭いと思ってしまったが、普段の一騎の態度なども含め、総士への好意は明らかで、甲洋はふたりの友人として彼らへ向けて、心のなかで「お似合いだよ」とぼやく。
「そっか」
ところで、と彼は入口のあたりへ目を光らせる。
「甲洋」
「一騎、良いって言うまで、動くなよ」
そう言うや、一騎が返事をするまえに、甲洋が一騎のうなじへ両腕をからめ、真正面から抱き込む。
「うわっ」
「来主」
「おっけ」
先ほどまで、彼らのやり取りを見守っていた来主は、甲洋の合図で入口の付近で瞬いた光めがけて走った。
「ええ」
呆気にとられる一騎のつむじを、手のひらでぽんぽんとしながら来主の帰りを待つ甲洋だったが、十数分ほどして戻ってきた来主の様子に、彼は目を見開く。
「逃げられた」
「は」
一騎についで俊足を誇る来主であっても追いつけないほどの逃げ足を相手が持っていたとは、という驚きと、厄介な相手を敵に回したという事実に、甲洋のまとう雰囲気が尖り、一騎はとっさに身の危険を感じて後ずさった。
「ごめん。非常階段のドアがあいてて、下に廃品回収業者のトラックが止まってたんだ。大道具の処分用にか数台あって。それに協力者が紛れてたのかも、でっかいソファを積んでるやつに着地して、そのまま逃げられた」
「飛び降りた」
「3階くらいから」
あまりに現実離れした話に、甲洋は額をおさえる。
「何者だよ」
「後ろ姿は、すらっとした女の人っぽかったけど、変装かもしれないし」
たしかに外見の情報は当てにならないと、一騎はひっそりとうなずいた。そもそも、潜入をしている時点で、なにかしら見た目を偽っている可能性高いのだ。そうでなければ、よほど逃げ足に自身があったのか
「警備員でもつけてもらうか」
「今度はその警備会社に潜らなければいいけど」
「……」
制服というものは、身分証のかわりに所属を明確に区を明確にするものでもあるが、先入観を与えやすい。そのユニフォームを着ているから信用できると、気を抜いてはいけないのだ。
鋭い切り口で感想を言った来主に、甲洋が渋面をつくる。
「一理あるな」
そもそも先日、清掃業者に扮して侵入した日から、見知らぬ人物への注意を呼びかけたにも関わらず、さきほどのようにまた侵入されている。これは由々しき事態だ、と三人の間に緊張がはしる。
「今のところターゲットは俺みたいだけど、もしかすると他のメンバーもとばっちりで狙われるかも」
「いまさらだろ」
「だね」
肩を落とす一騎に、来主が微笑み、甲洋が背中を叩く。
「ごめん」
「じゃあさ、この一件が片付いたら、一騎に弁当作ってもらってピクニックにでも行かないかそれか、別荘でも借りて二泊三日くらいゆっくりするとか」
思いもよらない交換条件に、とうの本人は目を丸くする。罰どころか、前向きな提案に困惑する彼をよそに
「いいね楽しそう」
と、来主が喜色満面になんども頷く。一騎は、来主のこの様子にも弱かった。無邪気な子どもがはしゃいでいる姿を連想してしまって、こうなった来主に反論できなくなってしまうのだ。そも、反論したとして、頑固なところのある彼がおとなしく言うことを聞くとは限らないのだが。
「釣り、バーベキュー……総士だったら昆虫採集かな妹さんたちが、珍しい虫とかにも興味があるらしいし」
「昆虫」
「あ、知らなかったか立上さんの影響で、蝶とかカブトムシとかにハマったらしくて」
「そっか、妹思いなんだな」
この間のデートのあとに、苺ジャムを渡したときの乙姫の笑顔を思い出し、彼女へ慈愛の眼差しを向けていた総士の横顔を想い、一騎は微笑ましい気分になった。
「よし、決まりだな。じゃあ、気を取り直して」
「ああ」
それから、彼らは総士が合流するのを待って、甲洋が用意したお茶で一服し、彼らは予定どおりにレッスンをして解散、という流れになるはずもなく、立上と同期の西尾里奈が二手に分かれて彼らを送り届ける運びとなった。
「やっぱここは、そうなるよな」
「やっぱって」
「甲洋」
普段クールな総士が動揺するのが面白いのか、一騎と同じ車になったというだけでからかう甲洋に便乗し、来主までもふたりを茶化す。
「総士がツンてしてるから、一騎もこっち来ちゃう」
「え、いや」
大胆にも一騎の右腕を抱えるようにして挑発的にウインクをした来主に、総士が眦を釣りあげ、甲洋が口笛を吹く。
「あ、っと、その」
おろおろとする一騎は、不機嫌になった恋人に胸の奥を疼かせつつ、来主の肩を押した。
「俺が総士と帰りたいから、ごめん」
「そっか、じゃあ仕方ないね」
あっさりと身を引いた来主に鼻を鳴らし、総士は一騎の方を見て、頬を緩めた。
「茶番は済んだ」
里奈の直球な物言いに苦笑して、返事をした彼らをふた手に分けて乗せ、一騎と総士を里奈が送る。
「西尾さんは、織姫のマネージャーでしたよね」
「そうだよ」
自らの従妹にあたる存在であり、同じ事務所に所属するモデル、皆城織姫の名前を出した総士だったが、一騎は自分と同じくらい女っ気のない恋人が女性名を出したことにうろたえている。
「なんだ、その顔は」
「お、織姫さんって」
「皆城織姫、僕の従妹でモデルだ」
「いとこ」
「ああ、そういえば言っていなかったな。ちょっと待て」
スマートフォンに素早く単語を打ち込み、検索結果の画面を見せた総士。その画面を見た一騎は、思わず確認する。
「乙姫ちゃん」
「よく似ているだろう」
後部座席で、密着しながらひとつの画面を覗き込んでいる青年ふたりに、里奈はため息をつく。カリスマ美容師であり、ヘアメイクスタッフでもある恋人と彼女がデートをしたのはかなり前で、バックミラー越しの恋人たちの姿が少しだけ羨ましく思えた。
「瓜二つだな、ほんとに双子じゃないのか」
「ああ。いとこだ。乙姫のひとつ下だから、妹のような存在ではあるが」
「なるほどな」
顔立ちのイメージにあわせた上品な着物、清純なワンピース姿、活発そうなギャル系ファッションとあらゆるタイプの衣装を着回しているが、乙姫よりも凛とした雰囲気があり、また違った魅力を持っていることが伺えた。
「そうだ、織姫もあのジャムを絶賛していたぞ。お礼を伝えるように言われていたのを忘れていた」
「そうか、じゃあ次に出かけるときは織姫ちゃんの分のお土産も忘れないようにしないとな」
「一騎」
総士が突然、目元を抑えながらゆっくりと名前を名前を呼ぶと、彼は戸惑った。
「なんだよ」
「……お前は、ほんとに気が利くな」
「いや、普通だとおもうけど」
「普通は、祝いとかでもないかぎり、親戚にまでなにかを用意しようとまでしないさ」
「べつに。喜んでくれたなら、やり甲斐があるし、それにいつかはご挨拶に行くかもしれないし、印象よくしときたいっていうのもあって。俺らは、ただでさえ」
「いや、今まで、乙姫や織姫の話をすると女性ファンが荒れていたから、ふたりの話を気兼ねなくできて、僕は嬉しい。それに、織姫は乙姫以上に僕の恋愛を心配していたから、きっと祝ってくれると」
後半は、一騎の耳もとへ囁いた総士だったが、里奈は雰囲気から内容を察し、運転に集中する。そして、週末は絶対に恋人と呑みに行くと決意し、意識を切り替えた。
「そ、そうか」
拳ひとつぶんの余白に手をついて、総士から離れようとする一騎だったが、そのとき、カーブに差し掛かった車体が揺れ、ふたりの太腿がぴったりとくっつき、遠心力でガラスに頭をぶつけそうになった一騎を、総士が片腕で抱き寄せる。
「こら、抵抗するな」
「だってさ」
里奈を気にして離れようとする一騎に、総士が含み笑いをこぼした。
「こんなことに、照れを感じるなんて、いまさらだろ」
「うるさい」
カーブが終わり、距離をとる一騎だったが、総士が彼の手を握っていることを拒否したりはしない。
「手、あたたかいな。眠いのか」
「すこし」
「そうか、寝てもいいぞ。ついたら起こす」
「……じゃあ、よろしく」
「ああ」
よほど精神的に疲れていたのか、そのまま寝入ってしまった一騎に苦笑し、総士はスマートフォンのニュース記事に目を通す。
それから、数十分。ふと顔を上げると、馴染みのある景色が見えたので、総士が一騎を起こそうとしたとき、繋がったまま手に力が入った。
「一騎」
「そうし、総士っ」
魘されかけている姿が痛々しく、揺さぶり起こすと、一騎の目もとに滲んだ涙に気付き、総士も繋いだ手に力を入れた。
「あれ俺」
気遣わしげに、ミラー越しに後部座席を気にする西尾と、安心させるように柔らかい表情で微笑む総士に気付き、一騎は身を縮めた。
「あ、夢見てたみたいです」
「何事かとおもったよ」
ほっとした西尾に、一騎が申し訳無さそうな顔をした。
「大丈夫だ。夢は夢、だろう」
「だけど」
なおも不安だとぼやく一騎に、総士は提案する。
「そうだ、今夜は眠るまで電話でもしよう」
「え」
「ああ、もちろん諸々の支度が済んでから寝るまでだ。このところ、スケジュールもズレていて、なかなか会えないからな」
「けど、お前の睡眠時間は」
「たまにだったら大丈夫さ」
「いいのか」
「だから、そう言っているだろう」
「ありがとう」
ふたりは約束をしてからそれぞれの家のそばまで西尾に送り届けられ、西尾はそのあと、事務所へ残りの仕事をしに戻った。その姿を、アルヴィスのバードが確認している。一騎が、自身の潔白を証明するために借りたカラスタイプのバードだ。
そのバードのレンズに映った人物を、自宅に戻ってから確認し、一騎は目を見開いた。来主の証言は、概ね正しかったのだ。
「キースさん」
一騎は彼女に会ったことがあった。ワイルドな印象の、アスリート体型の女性で、軍役経験もあったという他誌の記者だ。たしか、皆城公蔵の愛人スキャンダルを取り上げたのも彼女だった。
「……嫌な予感しかしない」
皆城公蔵、皆城総士、そして一騎。表向きは伏せてはいるが、一騎の母親のことをキースが把握していてもおかしくはない。つまり、彼女がこちらの弱みを突いてきたら、総士や彼の家族たちの平穏が揺さぶられる可能性があった。それだけは、避けなくてはならない。
「待てよ」
一騎が記者だったころ、溝口に言われた言葉を彼は思い出す。
信用がなければ、記事は買ってもらえない。
ということは、その信用を崩してしまえばいいのだ。と、ひらめいて一騎はキースの写真データを来主や甲洋へ送った。
『例の記者に、逆ドッキリを仕掛けるぞ』
すると、ふたりからも良い返事が帰ってきて、ようやく一騎の表情も晴れる。
「よし」
気合いを入れ、あり合わせの常備菜とおむすびで夕食を摂ると、歯磨きと入浴を済ませ、彼はスマートフォン上の総士のアドレスをタップした。