イトヲヨル※少し不思議な転生パラレルです。
5話目までのまとめになります。
『あなた だって ずっと』
髪が伸びたのではなく、髪を伸ばした。
自分の意志だ。なんだか、昔そういうおまじないを聞いたことがあったから。
ガンカケって言うらしい。あと、長い髪は呪縛のようなものだと、むかし、昔の文豪が記していたとか。
ここに、帰ってきますように。また、会えますように。どれだけ時間がかかってもいいから。あいつが、あいつとして。俺が俺として、また出会えますように。
呪いも、まじないも、同じだろ気持ちを向ける先があって、そこへ届けって心を込める。俺から、あいつへ。叶うか、叶わないかはわからないけど。
「ゆめ」
朝だ。外から聞こえるカラスの鳴き声と海鳥の囀り。年季の入った鎧戸の間から差し込む、かすかな朝日。
寝起きの体にかかる重力に負けないように、腹筋に力を入れて起きる。アナログ式の時計を見れば、もうじきに父が起きる頃だった。
船出の日。
中学を卒業した俺は、島の外を見たくなって、上京を決意した。名目上は進学のためだけれど、本音は外の世界を知りたいからだった。不純だろうかとも思ったけれど、わりとありふれた理由だと学友たちは笑い、同じく島を出るやつらは、自分たちもそうなのだと口を揃えた。
島を出る同級生は、俺を含めた3人。あとの2人は春日井甲洋と来主操だ。俺たち3人は、子供時代から交流があり、ほかの幼馴染たちとはちょっと変わった共通点があることで、その秘密を共有しながら過ごしてきた。
この三者間限定で声を介さずに対話できること。犬以外の生き物の考えが読心できること。普段は知力、体力をセーブして、目立たない程度に抑えていること。これが、俺たちのもう一つの繋がりだった。
しかも、甲洋も操もすこぶる容姿に恵まれているせいで、島の中では否が応でも人の目につく。この共通の秘密は、絶対に知られてはいけないものだけに、成長するにしたがって、島での暮らしを窮屈に感じはじめていったという。容姿の件以外は、俺もおもうところがあり、納得するしかなかった。
「…...」
どういうわけか、睫毛を湿らせていた涙を雑に拭い、今日の予定を頭の中で整理する。
そうだ、まずは父と自分の朝食と、お弁当を用意しなくては。それから、甲洋たちと合流して顔見知りの漁師さんの船に乗せてもらって、本土へ向かう。そこから公共機関を乗り継いで……。ひとりで向かうとしたら移動が不安だったかもしれないが、甲洋が一緒ならばなんとかなるだろう。たぶん。来主の気まぐれを制御できれば。
俺は、おもわず漏れたため息のあとに、頬を叩いて気合を入れ、部屋を出た。
予定どおりに家のことを済ませ、父と短いやり取りをし、見送りに漁港まで来てくれた幼馴染たちからの励ましの言葉に、それぞれ返事をして、俺たちは島を離れた。
「ぅわー、空が綺麗」
「曇ってても、綺麗って言うくせに」
天真爛漫を絵にかいたような無邪気さで、天を見上げながら両手を広げ、上機嫌にくるくると動き回る来主に、甲洋が毒づく。
その甲洋はというと、海面の波をぼんやりと眺めていた。透明度の高い故郷の海から離れていくほど昏くなっていく蒼を見下ろしている。
のんびりとしたふたりを見ていると、これから新しい生活が始まるのだということを忘れそうになって、どこかおかしい。
「おかしいって、どういうこと」
『来主に緊張感がないってことだろ』
来主の疑問に、甲洋がテレパシーで返事をする。甲洋には、言葉での会話を省略したがるところがあった。いわく、せっかく便利な能力があるのだから、わざわざ口で話す手間をかける気にならないのだとか。
「べつにいいもーん。一騎だって一緒だから、困ったってなんとかなるし」
ねー。と、来主がこちらへ首を傾ける。幼い子どもを思わせる仕草が、15歳のくせによく似合う。たぶん、来主の雰囲気に合っているからだろう。
「いつも解決できるわけじゃないぞ。俺だって万能じゃないんだ」
「わかってるよぅ」
甲洋とは反対に、来主は言葉での対話や、大げさなくらいのボディランゲージを好んだ。俺や甲洋に、言葉での対話を要求することもあるが、根が寂しがり屋だからだろう。
そんな風に、からかいとも会話ともつかないやり取りをしている俺たちを、漁師のおじさんが生あたたかく見守っているのを思念として感じ取る。
これで、来主も俺もテレパシーで対話していたとしたら、普通の人にはホラーチックに見えるかもしれないから、結果オーライだろう。3人だけのときはまだしも、他の人が見ているときには俺も一応声を使って対話することにしていた。
波と風に揺られながら、穏やかな海原を陸に向かって進めば、数時間で埠頭が見えてきた。乗せてくれたおじさんにお礼をして、新幹線の停まる駅のそばまで移動してから、適当な公園でお弁当をつつき、はじめての新幹線を待った。
「ひとが、いっぱい」
『あんま、キョロキョロしないで。はずかしい』
「……よそ見してるとぶつかるから、ベンチで待とうか」
「うん」
『…...さすが』
「え」
『なんでもないよ』
子守りに慣れているな
という心を読んでしまい、今度は俺が首を傾げた。子守り俺はずっと一人っ子だし、島の小さい子と接することは少なかったから、子守りの経験なんかないのに。
不思議に思いつつ、人の心を意図せずに読んでしまったので、追求するのは躊躇われた。
ふっと、甲洋が皮肉そうに微笑む。そんな表情も絵になるんだから、イケメンっていうのはズルい生き物だ。
ともかく、そんなこんなで移動で半日あまりを費やし、ようやく俺たちは大都会へ足を踏み入れた。
森の木のようにそびえ立つビル群や、数えるのも億劫なほどの雑踏に目を瞠り、その景色に安堵する。
木の葉を隠すなら森の中だというが、人が隠れ住むとしたらこんなふうに賑やかな街のほうが良いのかもしれない。
来主や甲洋をちらちらと見る女性や、たまに男性も、赤の他人だからか親しげに距離を詰めたり、声をかけてくる様子はなくて、辰宮島の学校にいた頃より、甲洋の表情が穏やかな気がする。
故郷の島から見る空よりも、こちらの空色はくすんで見えたが、目新しい街並みのなかだからか、来主にとっては興味深いようだ。
「とりあえず、ホテルにチェックインしよう」
「賛成」
「ああ」
甲洋の提案にうなずき、デイパックを背負い直す。
今夜は疲れを取るために、部屋を予約してあったのだ。引っ越し先の寮へは、明日向かう手筈になっている。
風呂上がりに、ふにゃふにゃになった来主にどうにか服を着せて背負い、部屋へ運ぶと、自分も倒れ込むようにしてベッドへダイブし、甲洋に笑われた。
「おつかれさん」
「ん」
いつの間に買ったのか、スポーツドリンクの缶を頬のそばへ転がされ、のっそりと受け取る。ちなみに来主には大浴場の脱衣所わきで水を飲ませていたので、大丈夫なはずだ。
「けど、ちょっと疲れたな」
「だな。お前が予定を組んでくれて助かったよ」
正直に感謝すると、複雑そうな表情を返された。
「ああ」
「なんだよ」
「べつに。ところでさ、お前はほんとに進学理由アレなんだな」
「そうだけど、なに」
「いや、べつに」
ごろりと体を反転させて、甲洋の顔を見上げる。
「言いたいことを我慢してる顔だな」
「ちょっとな、気になっただけだよ。思い過ごしだったかもしれないし、確証があるわけじゃないから」
「ふーん」
猫のように、自分の脇腹にすり寄ってきた来主の猫っ毛をいじると、さらさらとふわふわの間の絶妙な手触りが心地いいと思う反面、これじゃないと思う自分がいることに苦笑する。
おもえば、昔からそうだった。
甲洋と一緒にいるとき、来主と喋っているとき。確かに安らぎを感じているのに、満たされないと思ってしまったり、この3人が揃うことで、逆に足りないような気がしたり。
自分でもわからないのだが、俺の心はなにかを求め続けているらしかった。
「ほらよ」
「え、なにこれ」
「新入生向けのパンフ。ちょっと前に郵送されてきただろ学校近辺の地図や校内図も載ってるし、いちおう持ってきたんだ」
「あんなに記憶力いいのに」
「俺用じゃなくて、お前と来主用だよ。俺のは、お察しの通りココにあるから」
コンコンと、長い指先で自分の頭をつつき、甲洋が薄く笑う。
「あー……ありがと」
パンフを受け取ってパラパラとめくると、職員や生徒会のメンバーを写真つきで紹介しているページをみつけ、そのうちの1人に目が釘づけになった。
男にしては長い髪の、顔立ちがはっきりとした美少年だ。ただし、人形のように整った顔に一条の疵痕が目立つ。左の瞼から、頬にかけて引っかき傷のような引き攣れがなまなましかった。
どういう経緯でそんなところを傷めたのかはわからないが、見ていると胸が締めつけられ、息苦しさを感じるほどに痛々しい。
【皆城総士】担当は歴史、公民、地理。つまり社会科だ。意思の強そうな表情からして融通が利かなそうな印象が、やたらと担当科目にしっくりときた。お硬そう、ということだ。
「……」
ふと、呆れを含んだため息が聞こえ、そっちを見ると、甲洋が肩をすくめていた。
「あ、とりあえずしまっておくな」
「ああ、そうしておいてくれ」
たった一人の男に数分間も見とれていたとは言えず、無難なことを言って、パンフをデイパックの背面にしまう。ここが皺になりにくい場所だろうと思って。
「そろそろ来主を起こそうか。夕食時だ」
「そうだな」
来主の頬をつつきながら、起きろ、起きろと声をかければ、むにゃむにゃと唸りながらも存外、素直に起き上がってくれたようすに安心する。
安いホテルで予約したわりに、クオリティはわりと高く、来主がその天然さで文句を言わなかったことにほっとした。
家族向けの部屋が空いていたのでそこへ3人で泊まることにしたのだが、ダブルベッドが2つだったので甲洋と来主がケンカしないよう、どっちが俺と一緒に眠るかのジャンケンをして、甲洋と同じベッドを使うことになったのだが、みんなで就寝したあと、俺は突然の痛みに布団を蹴り上げて起きてしまった。
「っ」
十本の指の付け根が、突然発火したかのように熱を持ち、ヒリヒリと痛みだす。それから患部に謎の圧迫感。まるで見えない指輪がそこにあって、熱されているかのようだった。
ふたりを起こさないよう、甲洋に布団をゆずり、バスルームの手前にある洗面所へ向かい、自分の手を確認する。
「これは」
自分の感覚を肯定するかのように、左右あわせて十本の指の付け根はリング状に変色していた。
「なんだ、これ」
得体のしれないものへの不安と、それよりも自分が持つべきものが帰ってきたかのような、奇妙な既視感が溢れる。
「そうし」
先ほど職員の紹介ページで見た画像は眼鏡をかけていたのに、脳裏に浮かんだ姿は少年時代にまで遡ったように若返った姿の彼で、俺は混乱する。
なぜ、まだ会ったこともない相手の過去を無意識に想像しているのかと考えているあいだに、あらゆるイメージが瞬く。
SF作品のセットのような背景と、見慣れた故郷の町並み。空を駆け、海を渡り、戦って、戦って、闘った。あいつらとーー。
『一騎』
懐かしいと感じる声だった。よく、耳に馴染んでいる。泣いてしまうほど、恋しい声だった。
気がつけば、鏡越しに泣いている自分がいた。
なぜこんな気分になるのかわからない。ただ、自分が大事なことを忘れていたのではないか、知らず知らずのうちにとはいえ、約束を違えていたのではないかという考えがふつふつと湧き上がってくる。
これは、なんというのだろう虚無喪失感
よくわからないものが、自分の中で生まれて、それと同じくらいの大きさの何かが欠けている。今まで生きてきた時間は何だったのだろうかと疑問に思うほど、生きている心地がしている。
「皆城総士」
口ずさむようにその名を呼べば、最後にエメラルドグリーンの結晶が弾ける残像とともに、ようやくイメージが途切れ、開けっぱなしのドアの向こうからは健やかな寝息が漏れ聞こえた。
静かな夜だ。俺の心以外は。
「なんなんだよ。おまえ」
訳がわからない。自分のことも、わからない。まだ会ったこともない相手に、なぜこんな想いを抱いているのか。
いっそ、出会ったらわかるのだろうか。
どのみち、これから新入する学校で出会うのだ。もう少し気楽に構えてもいいだろうと思い直し、顔を洗ってベッドへ戻ると、他のふたりが起きるまで申し訳ていどの仮眠をとり、そこからはまた甲洋のスケジュールどおりに行動して、身支度、朝食、チェックアウトを済ませると、俺たちが住むことになるワンルームアパートへ向かった。
そこそこ年季の入ったコンクリ建てのアパートは、隣が来主で、真下の部屋が甲洋の借りる部屋で、挨拶や細々とした事を気にしなくていいのが楽だった。
ルームシェアや寮なども検討したのだが、プライベートを大事にしたいことや、同郷以外の人と相部屋となると、気が休まらないということで、こういうことになった。
先に郵送しておいた荷物をほどき、真新しい布団を南面の窓側に畳んだ状態で配置し、部屋の中央に折りたたみ式のちゃぶ台と座布団を。調理器具を台所へ。
「あ」
そうだ。食材を揃えなければ。
『甲洋、来主……ちょっと出かけてくるから、何かあったら連絡をくれ』
テレパシーを送り、返事が来る前に部屋を出る。物欲が薄いかわり、食材にはこだわってしまうところがあるので、ふたりを誘っても退屈させてしまうだろう。あるいは、ついてきた結果ボヤかれるのもなんだか癪なので。
地図アプリを開き、最寄りの店を探す。しかし、八百屋も魚屋も肉屋もこの近くにはないらしく、肩をすくめる。島ぐらしに慣れていたのもあり、ついそういう絞り方をしてしまったが、都会ではスーパーなどのほうがメジャーだと聞く。
「行ってみるか」
アプリのナビを頼りに進み、店内に入る。食品だけでこんなに棚がいっぱいあるのかと驚きつつ、珍しい野菜に目移りしそうになりながら、無料配布されているレシピを数種類もらい、長ネギと麺類をカゴに入れてから日持ちする根菜を入れていく。
冷蔵庫はすぐにコンセントを入れると良くないらしいから、まだ使わない。なので、傷みやすい肉類や魚類などの生物は買えない。
「さて、こんなもんかな」
ずっしりとしたカゴの端がしなっていることに気付き、次はちゃんとカートを使おうと思った。店のカゴが壊れないように。
レジへ向かおうとして案内の釣り看板にしたがって、角を曲がろうとしたとき、向こう側から人が向かってくる気配がして立ち止まるが、向こう側から来た相手は意識がそれていたのか俺にぶつかり、その人の掴んでいたスマホが床に落ちそうになる。
「よっと」
靴の甲でスマホを受け、ぶつかった勢いで尻もちをつきそうになった【彼】の腰を引き寄せる。細いけれど、しっかりとした骨格に、最低限度の体脂肪の肉がついている。そんな印象の掴み心地だった。
「す、まない」
長いまつげに縁取られた目。そのうちの一方、左目がわの上下の瞼をはしる裂傷。整った顔に1つだけある疵痕。
俺は、その顔を知っていた。
「皆城総士」
「なぜ、名前を」
「あ」
そうだ、今は自分が一方的に知っているだけじゃないか。はやく、説明しないと。
「学校の、パンフ」
きょどってまともに喋れない俺の視界が潤む。傷があって尚うつくしい男の顔に、雫がたれた。そして、不安定なカゴから根菜類と一緒に入れた林檎が転がり落ちた。
「あ、ああ……新入生か」
はやく、離さなければ。そう思うのに、俺の体は逆に皆城総士を抱きしめていた。
二度と離すものか、と。つよく、つよく。
どれだけのあいだ、そうしていたかはわからない。相手としては、突然見知らぬ少年に抱きしめられて迷惑だろうに、そのままで居てくれたのは哀れみからくる優しさだったのかもしれない。
「あの、そろそろ離してくれないだろうか」
気難しそうな印象だった彼が、うろたえている。ああ、俺がそうさせたんだ。
わるいことをしている。
なのに、にじみ出るような、この優越感はなんだ
「あ、ああ、すみません」
口先だけで謝って、名残惜しさを覚えながら身を離す。
「いや、ぶつかったのも、転びかけたのも僕だ」
俺がこぼした涙が、奇しくも古傷のうえにかかって、蛍光灯の明かりにてらてらと光っていた。それをハンカチでそっと拭いて、皆城総士はふと表情を和らげる。
「……むしろ、お詫びをしないとな」
そう言って、俺の靴の上に載ったスマホを回収し、足もとに転がった林檎とじゃがいもを拾ってくれた。
「お詫びなんて」
逆に、抱きしめてしまったことを詫びなければとおもうのに、緊張で声がうまく出ない。それとも、皆城総士が、もう気にしていないようすだから、気にしなくてもいいのだろうか
「とりあえず、これを買ってからになるが……悩みがあれば聞こう」
「そ、そうですね」
相手の事に夢中で、買い物の途中だということを忘れかけていた。周りにも視線を感じる。同性間のスキンシップであれ、まだ風あたりがきつい時代だ。しかも、かたや成人で、もう一方は未成年。さらに未成年のほうは泣いていたのだから、変な誤解を招いてしまったかもしれない。
ふたりしてレジへ向かい、お会計を済ませると持参した買い物用のトートバッグに中身を移し、彼の案内でスーパー裏の住宅地にひっそりとあったカフェに誘われ、奥まった席へ腰掛ける。
「コーヒーでいいか」
「はい」
尋ねられるままに返事をすると、皆城先生(と、呼ぶことにした)がかるく手をあげて、注文をする。
「ブレンドふたつ」
品の良さそうな渋めのマスターが、カウンターの奥で頷く。おお、辰宮島の楽園で溝口さんに声をかけるのとは雰囲気がまったく違うな。
「その軽装といい、買い物の量にしては徒歩だったことといい、この近所なのか」
「それ、お互い様ですよね」
「ほう」
「こんなに奥まったところにある喫茶店に迷いなく来れたことも、メニューを見ずに注文したこと。生活圏で、よく訪れるんだと」
くっくと喉を鳴らして笑った彼は、俺の方をしげしげと見つめた。
「ステータスが安定しているのか、興味深いな。前はもっと、特化型だったというのに」
「まえあなたと俺はどこかであったことが」
「なるほど、やはりそこを思い出せないのか。……自分で考えろ」
思い出せないということは、どこかで会ったということに違いないのだが、こんなに印象に残る美丈夫を忘れるなんてありえない。それも、上京するまで島で生活していたのだから。
「お待たせしました」
おしぼりで手を拭いてから、カップを上品に傾けて一口すすると、表情を綻ばせる。そんな所作まで綺麗で、見惚れそうになる。
同性なのに。
憧れとか、そういうのじゃない。惹かれるというのか。目で追ってしまうような魅力を感じる。
「飲まないのか安心するといい。ここのはうまいぞ」
「あ、いただきます」
不躾な視線を指摘するでもなく、カップをすすめられたので、一口飲むと、甲洋の淹れるコーヒーと同じくらい美味しくて驚く。
「おいしい」
「だろう」
得意げに鼻を鳴らすのが可愛らしくて、ついこちらも頬が緩んでしまう。
綺麗で、可愛らしいってズルいな。
ん美形な甲洋にも、可愛らしい来主にもこんな気持ちになったことなんかないのに。なんだか、このひとを見てると、何でもしてあげたいと思ってしまうのだから不思議だ。
「落ち着いたか」
「え、あ、はい」
「さっきは、なぜ泣いた」
「忘れてくださいよ」
「悪いな。さすがにアレは早々に忘れられるものではない」
「言っておきますが、誰にでもああなる訳じゃありません」
「ほうなら、なぜさっきは」
「……わかりません。ただ、パンフレットであなたの写真と名前を見たときから、不思議なものを感じているんです」
言うつもりがなかったことまで口を滑らせてしまったけれど、先生は笑ったり、茶化すでもなく、静かに続きを促す。
「ひどい飢えと、潤い。幸と不幸。対極にあるはずの感情がひっきりなしに」
「それで」
「どこかで会ったことがあるというのなら、俺はそれを知りたい」
「知ってどうする。もう、過ぎたことだ」
皮肉げに眉をよせた顔は憂いを含んでいて、眉目秀麗という言葉が浮かんだ。
「それでも、それでも知りたい」
無意識に身を乗り出していたのか、対面するように座った先生の顔が近くにある。手を伸ばせば、触れられる距離だ。
「そうか。ああ」
先生が自分の顔を覆った。俺の手より、節くれ立った、長い指をもつ、大人の手だ。薬指に指輪はない。
「真壁一騎」
「え」
名乗った覚えがないのに、なぜ俺の名前を知っているんだろう
「お前が産まれる前から、僕はお前を知っている」
「どういう」
「宿題だ」
「え」
「どこで出会ったか、思い出せ」
「そんな無茶苦茶な」
産まれる前から知っているだっていったいどうやって
「でも、いつか思い出すはずだ。お前が僕を忘れるはずがないのだから」
どこからくる自信なのか、彼は言い張る。
「少なくとも、体は覚えていたんだから、心だけが覚えていない筈がないだろう」
「か、カラダって」
「ずいぶん、熱烈なハグをしてくれたじゃないか」
「うっ」
意地の悪い物言いだが、スーパーでのことは自分に非があるので、言葉に詰まってしまう。
「ああ、そうだ。ひとつ、気になることがあった。その髪は、なんのために伸ばしている」
「髪、は……願懸け、です」
「願掛けなんの」
「わからない。わからないけれど、失くしたなにかが、還ってきますようにって」
髪、糸、意図。細く、長く、つながるもの。むすぶもの。つないで、むすんで、たぐりよせる。はなれても、もどってくるように。みうしなわないように。
「なくした、か。そうか、ではずっと埋め合わせや、代用はなかったんだな」
「え」
「代えがきかないものか、わるくない」
そう言って、先生は俺の耳に触れた。
「ひっ」
人差し指と、中指で前後を挟んで弄ぶようにされると、くすぐったさで身がこわばる。
「この再会こそ、祝福だ」
「再会ゎっ」
「一騎、僕はお前とまた出会えるのを待っていたんだ。ずっと、ずっと」
先生のあいていた方の手、左手が俺の小指に小指を絡める。
「会いたかった」
囁かれる言葉が温かくて、嬉しくて、愛しくて、また涙が溢れる。
「ああ、また泣くのか」
「そ、っちが、泣かすようなことするからだろ」
「そうか」
「なんだ、これ。止まんない。あんたのせいだ。なんで、こんな。会ったばかりで、胸が苦しくなるくらい心がいっぱいになって」
「そうか、それはよかった」
「どこがだよ」
「傷つけた甲斐があった」
傷そんなもの、つけられた覚えがない。戸惑うこちらをよそに、耳から手が離れる。
「まだ話したいことがあったが、もうそろそろ混雑する時間だろう。お前も騒がしい場所は苦手だったな」
「どうして、それを」
「お前のことなら、なんでもわかるんだ」
先生が席を立ち、数歩あるいた。俺が涙を袖で拭っているあいだにお会計をまとめて払ってしまったらしく、彼は俺の荷物を拾いあげると、手渡してきた。
「続きは今度にしよう。まだ、話す機会もあるだろうし【この世界】は【平和】なのだから」
ありふれた言葉の羅列なのに、どこか含みがあるように思えてしまうのはなぜだろう
「先生」
「総士。ふたりのときは、総士でいい」
「総士、さん」
「……及第点」
「さよなら。また、今度」
さよなら、と今度のあいだに彼の表情が硬くなった気がした。
「ああ、また」
それから俺たちはそこで別れ、俺は後ろ髪を引かれる思いで帰路をたどった。
「また、か」
短い、再会の約束を口で転がして。
『あいたかったでしょ』
アパートについてからもずっとさっきの事を考えていたせいで、自分の腹が鳴るまでなにも手につかず、ほぼ2時間ほどを無駄にしてしまった。
「なにやってんだか」
自分の行動に呆れてひとりごち、冷蔵庫のコンセントを入れてから備えつけのIHコンロで鍋にお湯を沸かし、そのあいだにネギを刻み、別の鍋でつゆの用意をする。
さて、明日はどうしよう。
簡単な献立で済ませてしまったせいで、悩みごとから現実逃避することができなかった。料理をしているあいだは、あまり難しいことを考えなくて済むのに。
「……」
冷静になってみれば、あの人はどういうつもりだったのか。
俺が思い出すことを期待しているようだった。
考え事は苦手だ。そういうのは、ーーに従っていれば良かったから。
「え」
いつだってーーが答えをくれたから。
「だれだ、なんの事を」
耳鳴りがした。
こんなところで聞こえるはずのない、海の音だ。さざ波が、やわらかく砂浜を削り、引いては返す音。
「これは」
夜の砂浜だ。話し声が聞こえる。俺とーーの。うそだ、こんなの記憶にない。だって、夜に砂浜へ行っても独りだった。地下へ通じる道は存在しなかった。ひとり山には、遠見しかいなかった。
あれ俺は誰に会いたかったんだろう誰を待ってたんだろうとても大事なことなのに、なんで忘れてしまったんだろう
そうだ、なにを探していて、願いをかけたんだっけ。
澄んだ琥珀色の出汁の中に映った自分の姿を見る。亡き母に似た童顔に、男にしては長めの髪。肩口くらいまであるのを切り揃えている。おもえば、6、7歳の頃から伸ばしていたにしては、実にゆっくりと伸びている。成長は順調なのに。
今日は、よく考え事に悩む日だな。そんな風におもっていると、無邪気な声がドアを押し開けながら入ってきた。
「おいしそーな匂いやっぱりここだった」
「来主」
「おかえり、一騎」
「ああ、ただいま」
相変わらず、いい嗅覚をしている。
「あれ」
「なんだよ」
ずいっと顔を寄せられ、反射的に後ずさると、来主はによによとニヤけた。
「いいこと、あったんだ」
「いいことどうして、そう思う」
「ちょっと明るい顔してたから。いつも、みぼーじんみたいに沈んでるのに」
「未亡人……俺はそもそも未婚だし、男の場合は寡夫だろしかも未亡人は差別用語だ。正しくは寡婦」
小説やマンガとかだと未だに未亡人の方が使われているらしいけれど、役所の表記は寡婦か寡夫だ。
「くわしいじゃん」
「役所の手続きとか、学校で家族のこととか書くときに父さんのことを書かないといけなかったから、いちおう勉強したんだ」
「ふーん。あ、沸騰しちゃう」
「え、あっ」
慌てて火をとめ、出汁の粗熱を冷まし、麺のお湯切りをして、かるくすすぐ。
「ありがとう」
「だいじょうぶ」
いや、話しかけられなければこうならなかった気もするぞ。
「まーまー」
「ったく、しょうがないな」
出汁を別の鍋へ半分わけ、残したほうに調味料をくわえて弱火で煮詰めていき……数分後、俺たちは、シンプルだがそれなりに手の込んだつゆに麺を絡めてすすっていた。
「あー……一騎ってほんとじょうずだよね。お店の味だよこれ」
「どーも」
「ねえ、なにかあった」
しれっとつゆまで飲み干し、こちらを伺う来主は、にこにことした笑みで、そうたずねた。
「べつに、大したことじゃないけど、偶然、学校の先生に会ったよ。スーパーで」
「ふーんいい人だった」
「うん。冷たそうな美形だったけど、意外と親切だった」
「へえ」
「来主」
「一騎、すごく嬉しそうな顔してる」
「え、そうか」
「うん」
感情がすぐ顔に出てしまって、隠しごとができないことを甲洋や来主にさんざん言われてきたけれど、感情を自覚するまえに顔に出てしまうことなんて初めてだった。
「嬉しかったのか、俺は」
「あはは、変なの〜」
天真爛漫にわらった来主が2人分の器を持ち上げ、流しに運んでいく。
「洗っちゃうね」
「あ、ああ、頼む」
来主が皿を洗い、すすぎ、水切りかごに伏せるあいだ、俺は自分の気持ちを整理することにした。
自覚するのが遅れたけれど、どうやら俺はあのひとのことがかなり好きなようだ。出会えたこと、話をできたこと、お茶をしたときの穏やかな時間。あの短い出来事をひとつずつさらい、ゆっくりと向き合ってみると、好きという言葉がよく当てはまった。
「……」
好き。それは、間違いない。心をつよく惹かれたのも。
「一騎、おわったよ」
「そ、そうか」
「ごちそうさま」
「うん」
「また、食べに来てもいい」
「構わないけど」
「あ、ちゃんと食費ワリカンにするから」
心の中に浮かんだことまで読み取り、こちらから言い出しにくいことなのを察して先手を打った来主に、俺は笑う。
「そうだな」
「じゃ、明日の準備とか途中だから、また明日」
「うん、また明日」
部屋を出ていく来主に手を振り、俺はシャワーを浴び、寝る前の歯磨きなどをしてから早々に眠ってしまおうと、部屋の隅に畳んでいた布団を敷き、横になる。
けれど、現実はそう思い通りにいかなかった。目を閉じると、あの整った美貌と傷痕、亜麻色の艷やかな髪が瞼の裏に映る。
いい1日だったと思うけれど、なんだかとても疲れた気がする。なれない土地に来たからというよりは、皆城総士と遭遇してからの情緒の乱れなどが大きな原因だろう。
「好きってなんだよ」
敬意を抱くほど相手のことを知らない。絆があるわけでもない。恋というには、ひどく複雑で、どこか歪なこの感情に、どういう名前をつけるのが正しいのだろう。
「教えてくれよ」
どうしてこんなに、鼓動が荒れるのか、脈拍が跳ねるのか、触れたいと願ってしまうのか。
島にいたころ、こんなに悩んだことなどなく、ましてや誰かをこんなふうに求めたことすらなかったのに。
「だめだ」
ひとりで考えていても、答えが出てこない。
先生は、俺の存在を知っていて、あの口ぶりからすると、俺の方はそれを忘れていると仄めかしていた。
いったい、どこでどのように出会い、俺たちのあいだに何があって忘れてしまったのか。
「っ」
昨夜のように、両手の指の付け根が熱くなる感覚とともに、指輪痕が浮かび上がった。
「何なんだよ」
苛立ち混じりに手を握ると、より圧迫される感触がある。まるで、見えない指輪が装着されているみたいだ。
耐えられないほどの痛みではないけれど、戒めと輪というと、西遊記を連想してしまい、複雑な気持ちになった。仏の教えに背こうとする孫悟空を反省させるために、額の輪が縮んで痛みを与えるという設定のところだ。
父が寝物語に聞かせてくれた話を思い出しながら、指をじっと見つめる。
そういえば、昨夜も今も、先生のことを考えているときに指に異常が起きていた。と、考えたところ、圧迫感が緩み、熱が引く。
どういう仕組みがあるのかは分からないけれど、皆城総士のことと俺の指の異常は繋がっているらしい。記憶がないというのに、彼のこととなると、体に表れる反応を他に説明しようがなかった。
ふと、昔のことを思い出す。テレパシーが発現し、周りの心の声を聞いてしまったときの混乱を思い出した。あのころ、他の人達とちがった力を持って産まれたという孤独感に苛まれ、甲洋や来主に出会うまで、自分を怪物のように感じていた。
そう、この体は普通ではなかったのだ。何を勘違いしていたのだろう。
熱と疼痛にこわばった体から力を抜き、頭の中で念じる――自分の体だ。この痛みも、熱も――すると次第に痛みが緩和され、熱も平熱くらいまで下がったように思う。けれど、頬へ両手を当てると、確かに熱い。どうやら体が痛みに順応した状況らしい。
そうだ、怯えることもためらう必要もなかった。普通じゃない体に、2つ目の異常が表れたとして、それが何だっていうんだろう
「お前は俺だ。俺はお前だ」
なんの意図もなく声になった言葉が、すとんと胸に落ち着く。そうだ、この痛みさえ、自分が自分である証なのだ。皆城総士へ執着する心も含めて。
すっと、指輪のあとが薄れた。今度こそ手指の感覚が通常の状態にもどる。
まるで、自分の身に起きたことを享受することを待っていたかのようなタイミングだ。
布団の中で両手を頬からはなし、それぞれ拳を握って身を丸める。胎児のような姿勢だが、不安になったときはこの姿が落ち着いた。体全体を、見えない装甲が覆ってくれている気がするのだ。もちろん錯覚だということは解っているけれど、守られているような、そんな気がする。
受胎という単語が頭をよぎった。ものごころつく頃には、母はいなかったのに。などと、とりとめもないことを考えていると、やがて意識が混濁し、ゆるやかに溺れるように眠りに落ちた。
「ん、朝か」
縮こまっていた背と四肢をぐっと伸ばし、あくびをするとスマートフォンで時間を確認する。アラームより早く起きたけれど、早すぎたわけではないので、そのまま布団から起きて顔を洗う。
冷たさにさらされたことで目が冴え、頭を切り替えられた。着替えをしようとしたところで、今日からは私服ではなく、平日は制服なのだと、あらためて慣れないYシャツに袖を通す。普段の私服が動きやすさ重視のTシャツにカーゴパンツなどだったから動きづらくてしょうがない。といって、一度留めたボタンを外すのはおっくうなので、今度からは朝食を食べてから着替えよう。
ちぐはぐなまま、うっかり登校するわけにもいかないので、グレーのブレザーと合わせた同色のスラックスを穿く。靴下は無難に紺色だ。淡い黄色のネクタイは、あとでつけることにして、ひとまず昨日と同様に麺を茹でて、汁をあわせ、蕎麦をすすった。
どうせ1日目なんて学校案内や先生の話、配布物を受け取ったりで終わるだろうに、来主はいったいなにを昨日から用意していたのやら。
筆記用具と貴重品をデイパックへ詰め、食器を洗ってから手を拭い、ネクタイを締める。やっぱり、襟の詰まった服は好きじゃない。
『おはよう。準備はできてるか』
テレパシーで声掛けをすると、ふたりの返事が帰ってきたので、来主を起こしに行く手間が省けたことにほっとする。
そのまま、2人とアパートの階段下で待ち合わせ、一緒に登校するが、やっぱりというか、甲洋や来主がそばにいるので、女子やたまに男子の視線を感じ目立つからな。この2人。それに、制服にしにては珍しい色使いのデザインなのも人目を引く原因なのかもしれない。
色合いだけでなく、ストレッチ素材の生地にもこだわっているのか、体の線を程よく出す型は、モデル顔負けの2人の体格を際立たせていた。制服というより、スーツという形容詞が似合うようなつくりだ。
対して、女子のほうも立体裁断の技術が応用され、肩や背中、ウェストのダボつきはなく、かといってバストや腰回りには若干のゆとりがあるのか引き締まった印象になっている。よほどデザイナーとテイラーの腕がいいのだろう。桜色のジャケットなんてものを清楚と爽やかさのあいだに仕上げているのが、その証拠だ。
そんなことを考えながら歩いていると、甲洋に呆れた顔をされる。
『制服だけじゃないし、一騎だってそこそこ人目を引いているんだけど』
テレパシーで伝えられるが、その言葉はいまいち信憑性に欠けるとおもう。
だって俺は、中学卒業までの間に女子からラブレターや告白をされたことなんて一度もなかったのだ。
「……」
「なんだよ」
喉に魚の小骨が引っかかったような顔をした甲洋をじとりと見ると、首を振られた。
「ねー、見つめ合ってないでさ、そろそろ校門だから前見たほうが良くない人が増えてきたし」
来主に指摘されて、前を向いた瞬間、肩が人とぶつかった。
「すみません」
「いや、こちらこそ」
「ああっ」
ふわりと、清潔感のある香りがしたと思いきや、見覚えのある人物に目を見開いた俺と相手、そのわきで来主が大声をあげるものだから、ただでさえチラチラと向けられていた周りの視線がこちらへ集中した。
『来主、うるさい』
甲洋がテレパシーで叱るのがこちらにも伝わり、そのままドラネコを扱うように、来主の首根っこを掴み、甲洋が俺たちから距離を取った。
「あ、えっと、おはようございます」
ふた言めになんと話そうか迷って無難な挨拶を伝えると、皆城先生の表情がやわらかく綻んだ。
「おはよう」
花が綻ぶような、という表現が浮かぶくらい、優しく華やかな笑顔に、俺の胸が苦しくなる。昨日のような不安定な感じではなく、好きなものがそばにあるときのような、ふわふわとしたものがありったけ詰まっていて、息苦しいというのが近い。
「先生は、クラスをもつんですか」
「ああ、どのクラスになるかは言えないが」
自分のクラスが、このひとだったらいいのにと望んでいるのが筒抜けなのか、大人らしい喉もとが笑い声に合わせて動く。きっちりと糊の効いたシャツからのぞく肌の色は色白だったが、ところどころ男らしい部分があって、それが俺を困らせる。
そう、彼は同性なのだ。
「……一緒にいたのは友人か」
あまり喋るのが得意じゃない俺は、どういう話を振るべきかわからず、口が重くなるが、先生がふと尋ねたことで会話がかろうじて繋がる。
「はい。幼馴染です。物心つく頃には一緒に遊んだりしてました」
「そうか」
先生の顔に、影が落ちる。
「先生」
「すこし、羨ましいとおもってな」
「はあ」
大人になると、忙しくなって友人と疎遠になると聞いたことがある。もしかすると、先生もそうなのかもしれない。
「掲示板にクラスが載っているから、確認して教室へ行け。それから出欠をとり、配布物を配られたら、体育館で入学式だ」
「あ、はい」
あたりにいた人影がいつの間にか減っている。みんな移動していったのだろう。
「あとで、また」
「はい」
教師らしく誘導し、それから個人的に取りつけられた約束に心を踊らせながら、俺は掲示板へ向かった。
「ふたりと別のクラスか」
甲洋とも来主とも違うクラスで、皆城先生は歴史兼3年のクラス担任だった。知っている繋がりがなくなったことで、一気に不安が押し寄せる。
中学までは、生徒数も少なかったから二分の一の確率でどちらかと同じクラスになっていたが、この高校はなかなかに生徒数が多い。ひと学年に4クラスもあり、だいたいひとクラスに28人前後いるようだ。
さっき先生に誘導してもらったとおり、教室へ向かうと自分の席へ荷物を置き、教室内を観察する。母校よりも人口密度が高いので、その分ざわめきが響く。
遅れて入ってきたからか、数人がこっちを向いているけれど、話しかけられるわけでもなかったので、窓の外の空と葉桜に視線を向けて、ぼんやりと暇をつぶす。
出席確認、配布物、それから体育館への移動。その途中で、ニヤニヤと俺を見る男子とすれ違い、腕のあたりに鳥肌が立つのを、ブレザーごしに擦る。
母親似の顔だと父に指摘されたのは、つい一昨日だった。成長をしみじみと祝ってくれるときに、ぽろりと零されたそれを、あのときは母子だから似ていてもおかしくはないと受け流したが、変な目で見られて気にならないわけがない。
とはいえ、実害はないのでこっちから指摘したり、手を出すわけにもいかず、荒れそうになった心を胸の中に沈める。
式次第が滞りなく終わり、またクラスへ戻り、簡略化されたHRも済み、放課後。俺は、来主たちにテレパシーで『あたりを探索しながら帰る』と伝え、昇降口で靴を履き替えた。
正面にある校門は、写真撮影をしているグループで塞がれかけていたが、学校案内パンフレットに載っていた裏門だったら人ごみも少ないはずだと閃き、そちらへ向かう。
すると、女子生徒に囲まれている皆城先生の姿があり、俺はそこで足を止めてしまう。どうやら、裏門側に職員駐車場があり、車を出そうとしていた先生を出待ちしていたらしい。ここまで動きを把握しているうえ、俺よりも背が高い女子や制服を派手に着崩している女子もいるということは上級生たちなのだろう。
皆城先生は顔に出さないものの、彼の視線は車の方から動かないということが真意を示していた。
「すまない、またあとで」
自分に言ったセリフを、女子の先輩たちに言う先生にもやっとしながら、深呼吸を1つして、前を向く。きっと他意はなかったんだ。俺は、あの大人にからかわれただけ。何を期待していたんだろう。
彼らのそばを歩き、通り過ぎようとしたときだった。
「真壁」
「え」
名前を呼ばれて立ち止まると、皆城先生がこちらを見ていた。
「ああよかった。この方角から帰るのかついでに送ろうか。このあたりは道がややこしいから、乗せていこう」
「はい」
うまい話に思えるが、ここから離れるための口実なのはあきらかで、俺は肩を落としながら頷く。
「じゃあ、よろしくお願いします」
すると、ずるいだとかそんな声が聞こえてくるが、先生が口八丁で退けてくれる。
「越してきたばかりの土地で迷ったら大変だろう」
「だからって、男子なんだから」
その言葉に頷きそうになった俺の顎を、皆城先生が指でくいっと上に向ける。すると、正面にいた、背の高い女子が息を呑んだ。
「最近は、なにかと物騒だから」
「そ、うですね。この子、わりと可愛らしい顔立ちですし」
「そういうことだ」
あまり嬉しくないけれど、母に似てしまったのだから仕方ない。
「さあ、乗ってくれ」
助手席側を手で示され、そちらに俺が乗ってドアを閉めると、先生は運転席に乗ってエンジンをかけた。まだ納得していない顔の女子もいたけれど、さすがにそれ以上は寄ってこない。
「では、また明日」
シートベルトをかけた彼にならい、俺もカバンを膝へ載せてシートベルトをかけた。
「いいのかな、こんなの」
「僕が良いと言ったんだ。もし何か言われても問題ない」
「それは、ありがたいですけど」
「ところで、こちらから出ようと思ったことに理由はあるのか」
「正門は、人がいっぱいいたので」
「そうか」
あたりにひとが通っていないか注意深く確認しながら、先生が車を発進させた。
「昨日のスーパーには、よく行くんですか」
「いや、週に1回ほどだ。一人暮らしだから買い溜めしておけば大抵は事足りてしまう」
「そうなんですか実家で父と暮らしてた頃、俺が3食作ってて、3日に一回は買い出しに行ってましたけど」
「ほう相当マメなんだな」
「そんなことないですよ。趣味も兼ねてなので」
運転している横顔はとても凪いでいて、俺の返事は想像の範囲内だったのだと言っているようだった。
「あの喫茶店にはどれくらいの頻度で」
それを尋ねると、先生は笑い出した。
「そんなに僕と会いたいのか」
「っ」
ちがうとも、そうだとも言えず、返事に困る俺に、先生が呟いた。
「可愛いやつだな」
そこからの話に集中できなくなってしまうほど、その言葉は衝撃的だった。
『君はいずれ』
結局、来主たちに伝えた予定とはズレてしまったが、先生のことを少しだけ知れたことや、学校への近道を知れたことなどは大きな収穫だ。
「意外と近いところに住んでいたんだな」
アパートの駐車場へ車を停めながら言う彼に頷き、ふと今が昼時だったことに気づく。
「先生さえよければ、お昼うちで食べていきますか」
「良いのか」
たしか、乾き物などはあったはずだ。
「簡単なものになりますが」
「では、ご馳走になろうか」
もっと相手のことを知りたくて、引き止めるための口実にしては、なかなか上手くいったのだろうかこういう時だけは、お互いが同性であることを嬉しく思う。もしどちらかが異性だとしたら、周りが黙っていないだろう。
ふと、女性として皆城先生が産まれていたらという架空の姿を想像しそうになって、首を振った俺を彼が怪訝そうに見た。
「あ、案内します」
慌ててシートベルトを解除し、車を出て、先導すると、先生が俺の数歩後ろをついてくる。改めておもえば、これもなかなか珍しいシチュエーションだ。家庭訪問でもなく、個人的に先生を自宅へ案内しているのだから。
「真壁は、友人以外に付き合いはないのか」
「今のところはないですね」
突然の質問に、さらりと返事をすると先生は、そうかと短い言葉で返した。
「先生や甲洋みたいにかっこよくて、賢そうだったら違ったのかもしれませんが」
すると、背後で笑う気配がした。
「真壁からみて、僕はかっこいいのか」
「十人いれば、十人がそう答えると思いますけど」
客観的にみても、先生はかっこいいとおもう。美形だとか美男という形容詞に近いほうで。
「この傷があっても、か」
「はい。むしろ、その傷があることで、人間らしいような……あ、うまく言えなくて」
すみませんと、続けようとして、背後から抱きすくめられた感触に言葉がとまる。
「ありがとう」
「せん、せ」
男同士で、何をしているんだろう。ここでは、周りの目もある。せめて、自室の中へ行かなくては。理性がそう訴えるのに、俺のもっと深くにある感情は、この繋がりを解きたくないと抗っていた。
スーパーで抱きとめたときと同じように、離れがたいという言葉が理性を潰しにかかる。
なんだろう、これ。長く離れていた、大切な相手へ触れるような感じ。もちろん、今生において、そんな相手は存在しなかったのだが、その例えがしっくりくる。
「この傷はな、とても大切なものなんだ。だから、お前がこれを受け入れてくれて、嬉しいよ」
だからといって、これはかなりオーバーな反応じゃないだろうか
「……先生は、その傷を受け入れた相手だったら、誰にでもこうするんですか」
おもったことを、つい言ってしまった俺から、先生が離れた。温もりが遠ざかる感覚に、鳥肌が立つ。たった数秒、たかだか数センチなのに、とても大切な存在と引き離されるかのような絶望を感じた。
「まさか」
肩口を痛いくらいの力で掴まれ、乱暴に向きを反転させられると、険しい表情でこちらを見据える彼と視線が合う。
「こんなこと、お前にしかしない」
「それって」
「ああ、いや、今まで……僕から誰かに触れたいと思ったことがなくて、それに感情が昂っていたようだ」
それって、かなり特別なことだよな
「信じてくれ」
浮気心を疑われでもしたかのように、切実に弁明する彼が、健気で可愛らしくて、その感情が一気に煮詰まって、愛おしいという想いにまで昇りあがる。
「はい」
そう応える以外の選択肢はなかった。
そこでようやく先生は安心したらしく、俺の肩から手を離すと、あたりのようすを思い出したのか、気まずそうに咳払いをした。
「すまない、大人げないことをした」
「いえ」
「今ので、不安になったならお邪魔するのはよそう」
しゅんとした雰囲気で、わずかに目を潤ませて言われ、今度は俺から彼を抱きしめたくなる衝動をこらえるために、わなないた自分の十指を拳の形にして握り込む。指の関節が鳴った気がするけれど、どうでもいい。
「あがっていってください。これも、なにかの縁だとおもうので」
「縁」
長い睫毛がいちど交差し、切れ長の目が瞬く。
「そうそう生徒の家に先生を呼ぶなんてできませんし、いまの先生をそのままかえしたら、あとで後悔しそうだ」
「なにを後悔するというんだ」
憂い顔の美形なんて、極上のご馳走だ。さっき裏門のあたりで起きたようなことよりひどい事が起きるかもしれない。
変わったな。俺も。このひとと出会うまで、同性へそういう心配なんてしたことなかったのに。
「なんでしょうね。そんな気がするので、としか」
あいまいに誤魔化すと、先生は懐かしそうに目を眇めた。
ああ、彼はこんなにも表情豊かだったのか。
第一印象だけでは、ひとって分からないものだな。でも、こんなに綺麗な顔をするところを俺以外の誰かが知っているのは嫌だな。
「なんだそれは」
「さて、あ、このドアの向こうが俺の部屋です。いま鍵を開けますから」
家のドアの前で、何をやってるんだろうという呆れを呑み込みながら、鍵を取り出して玄関を開ける。
「物が少ないな」
靴を脱ぎながら、そうこぼした先生に相槌をうちながら、俺も自分の靴を脱ぐ。
「そうですか」
実家から持ち出したのは、調理器具と、父の作った器をいくつかと、春先の服とパーカーに、調味料や乾き物など。教科書などは学校で配布される予定だったので、本棚などはなく、家具は折りたたみ式のちゃぶ台くらいだった。あとは煎餅布団になりかけの真綿の布団が一式。
「あ」
畳んではいたものの、布団を出しっぱなしだったことに気づき、押入れへ仕舞う。そんあ俺を、先生は微笑ましそうに見ていた。
「べつに、気にすることはないだろう。じゅうぶん片付いているんだから」
「そうですか」
「ああ」
それから、お茶を用意したり、洗った鍋にお湯を沸かすために背を向けた俺は、あることに気付く。
「先生は、アレルギーとか大丈夫ですかペペロンチーノと和風パスタどっちがいいですか」
「アレルギーはないが、和風パスタのほうにしておこう」
返事を聞きながら、換気扇を回す。
「はい」
父の作った歪な湯呑みにお茶を注いで運ぶと、先生は茶道家のようにしげしげと器を観察した。
「あ、父の作った器です」
「お父上は、相変わらずか」
まるで、父のことを知っているかのような物言いに、引っかかるが、初めにあったときから皆城総士というひとは、こういう物言いをした。
「はい。元気みたいです、陶芸の腕も」
「そうか」
しみじみとした口調は、やはり父のことを知っているような印象を受ける。
両手を添えて、美しい所作でお茶をすする彼を見ていたいけれど、料理の途中なのでそうもいかない。干しエビの入った袋とサラダ油それからパスタを取り出し、昨日作った出汁、塩、薄口醤油を調理台へ並べてから玉ねぎの皮をむしり、薄く切っていく。
沸いたお湯へパスタを投下し、煮えてきたところでサラダ油を少々。そのあいだに、フライパンで玉ねぎと干しエビを炒め始める。塩、薄口醤油、出汁の順で加えていくと、干しエビとダシのまろやかな香りが広がった。
「いい匂いだ」
「和食も好きですか」
「ああ、自分ではなかなか本格的なのは作らないから、懐かしいような気分になる」
「ご実家へは」
「……盆と正月に戻る程度だ。両親は他界してしまっているし、妹も寮ぐらしの学生なのでな。家庭の味というのも、稀に行く定食屋くらいでしか味わっていない」
「すみません」
「なぜ謝る知っていて尋ねたのならばともかく、知らなかったのだから仕方ない。それに、僕の中ではとうに消化されたことだ。あと、妹が健康に育ってくれたのだから、それが救いだな」
今あるささやかな幸せを大事にしているのが伝わってくる喋り方に、寂しさは感じられない。本人の言うように、とっくに消化された感情なのだとわかる。だから、憐れむことも、同情もしない。
「……」
パスタをお湯からとり、フライパンへうつし、具と絡める。それから、平皿へ小高く盛って箸とともにひとり分ずつお盆へ載せた。両手でそれぞれのお盆をもって運ぶと、ウエイトレスのようだと言われる。
「喫茶店のバイトしていたので」
上京前、甲洋の養父の溝口さんのところでバイトしていたおかげで、数ヶ月分の生活費はあったけれど、都会は物価が高いと聞くから、またどこかでバイトを探さなければ。
「そうか」
視線を皿の上へ流し、美味しそうだと表情をほころばせる彼に、俺もつられて微笑む。
「お口に合えばいいのですが」
「殊勝だな。出された料理にケチを付けるほど無作法ではない」
ほぼ同時にいただきますと言って、向い合せで箸を動かしていると、なにやら不思議な気分になってくる。
「ああ、やっぱり美味しい」
「やっぱりって」
「匂いで、だいたい分かるだろうそれに、一騎の作ったものが、まずいわけがない」
「なまえ、また」
昨日に続いて名前を呼ばれる。
「あ、すまない。嫌だったか」
あまりにも自然に名前を呼ばれたので、流しそうになったが、そこに気付いたとき、俺は箸をお盆に落としてしまうほど動揺した。カツンと、箸置きと、箸がぶつかり、お盆の平面を転がる。
「嫌じゃない、です。むしろ、そう呼ばれるのが、あたりまえみたいな、ああ、うまく言えないけれど、落ち着きます。すごく、しっくりくる」
感覚的なことに、説明をつけるのは難しい。
へたな日本語で喋る俺を、先生は馬鹿にせず、穏やかな表情で見守ってくれた。
「だったらいい。……そうだ、僕のことも、名前で呼んでみてくれ。それでおあいことしよう」
「そ、そうし」
「ふふっ、ぎこちないな」
やわらかな笑みで、くすぐったそうに言う彼は、心底嬉しそうだった。こんな、未成年に名前を呼び捨てにされているのに。
「総士」
「ああ」
静かに箸を置き、うっとりとした仕草で、彼が目を瞑る。まるで、好みの音楽に酔いしれるふうに。だから、つい調子に乗って、俺は彼の名前を繰り返した。
「総士、総士、総士」
1回呼ぶごとに、俺の中にあるなにかが揺さぶられる。さっき抱き締めそこねたときにわなないた指先が、また震えた。
引き寄せて、さわって、確かめたいだなんて、さすがに不躾で引かれてしまうだろう。
「一騎」
2回目に名前を呼ばれて、あの薄い唇を塞ぎたくなった。
だめだ。堪えなければ。彼は、このひとは、俺は……同性で、生徒と教師で、未成年と成人で、しかも親密な間柄ではないのだから。
「せんせい」
甘い誘惑を断ち切るために、ふたりの間にある関係を持ち出し、現実を突きつけると、先生は夢から覚めるかのように、はっとして目を見開いた。
「かず、き」
傷つけた。たったひとことで。この美しくて、賢くて、理知的なひとを。俺に、理由もなく優しく接してくれるひとを。
なぜだろう。
酷いことをしたという自覚があるのに、とても気分が高揚している。興奮と言ってもいいかもしれない。彼を、皆城総士の感情を揺さぶっているのが、昨日今日出会ったばかりの自分だという優越感が込み上げてくる。
俺って、こんなに性格悪かったんだな。
好きな子に意地悪をしたくなる男子がわりといるというのはよく聞いたけど、自分もその手のタイプだったとは知らなかった。ほんとに彼との出会いは、俺にいくつもの発見を与えてくれる。
「先生、つづきを食べちゃいませんか冷めてしまいます。ひえたパスタは縺れて食べづらいですから」
「あ、ああ、そうだな」
それからふたりで黙々とパスタを食べ終わる頃には、あのやけに甘いムードは消えていて、俺は安心したと同時に残念な気持ちになった。
あのままだったら、目の前にいるこの人を蹂躙してしまっていた可能性だってある。けれど、そのまま繋がりをもてた可能性だって存在したかもしれない。根拠なんてないけれど、そんな気がした。彼は俺を拒まないだろうという、身勝手な自惚れがあった。
「ごちそうさま」
ああ、引き止める理由がなくなってしまう。でも、自分が酷いことをする前に帰ってくれるのなら、それもいいと思う。まるで縺れあった糸のように、まとまらない思考に頭痛がする。
腰を上げて、皿を流しへ運ぶ先生のジャケットの裾を引いてしまったのは、衝動的なことだった。
「う、わっ」
きれいに片付いた皿が、フローリングの上に落ちて割れる。
「真壁」
いつもの呼び名にもどり、俺を睨む先生を見上げ、謝るよりさきに、俺は次の約束を哀願した。
「また、会えますよね」
先生の眉間に皺が寄る。
「うちじゃなくても大丈夫ですから」
「何を言っているんだどうせ学校で会うのに」
そうだ。なにを悲観していたんだろう。幼い子のように引き止めてまで言うことではなかった。
「手を離してくれ。皿を片付けないと」
「すみません」
さっきは自分から抱きついてきたのに、と反論しかけ、洋画じゃあるまいし、割れた食器をそのままというのは危ないとも納得して手を離す。
「袋はあるか」
「からのダンボールなら」
「じゃあ、それで」
ふたりで床をくまなく調べ、破片をダンボールへ集め、その日は先生を駐車場まで送って別れた。
「なんだってこんなに」
一人になった部屋でぼやく。
今まで経験がなかったから言い切れなかったが、もしかするとこれが恋なのかもしれない。でなければ、たったひとりに執着して、彼だけが特別で、歯止めが効きそうにないほどの想いをどう表現したらいいのか分からなかった。
割れた皿を見下ろす。それは、ここに彼がいたのだという証明だった。なんとなく捨てる気になれず、比較的大きめの破片を拾い上げた。
それを流しで洗い、水切りかごの上に載せる。昨日は忘れてしまっていたけれど、冷蔵庫の電源を入れてから制服を私服へ着替えて、買い出しに行くことにした。
このまま部屋にいると、さっきのことで頭が一杯になってしまいそうで、逃げるように貴重品とエコバッグだけを掴んで部屋を出る。
「あ」
場所を知っていたので、昨日と同じスーパーへ来てしまったが、よくよく考えると、ここは先生の家のそばだった。あとで別の店も調べよう。
豆腐や牛乳、鮭をカゴに入れたところで、米を買いそびれていたことに気付く。
「ひとまず5kgでいいか」
米袋を片腕に抱えてレジに並び、カゴの中身をエコバッグへ詰め替える。それを持って出入り口を抜けたものの、薬局に寄るのを忘れたことを思い出した。自分が風邪をひくことはあまりないけれど、一人暮らしなのだから念のために備えておこう。
スマホで場所を調べると、10分くらい歩いたところにあることがわかり、ほっとする。生ものをもって移動するなら、近いに越したことはない。
帰宅するころには、あの落ち着かない気分が収まっていた。部屋に戻り、生ものや冷蔵品を冷蔵庫へうつしたところで、米を研いで炊飯器へセットする。
それが済んだら、風呂を洗ってお湯をためている間に、教科書やノートなどに名前を記入したり、学校への通学ルートや健診の許可証を書いたりして判を押す。
親元を離れたぶん、自分でやる作業が増えたかと思いきや、そうでもない。父に頼るより、じぶんでやったほうが早いものは、自分でやったりしていたから、身の回りのことは自分でやる習慣があったので、今更だ。
まだ夕方前だけれど、風呂に入り、服を着てからふと思ったのは、制服のことだった。今までは私服登校だったから意識していなかったが、アイロンなどを用意するなり、やすいクリーニング屋を探す必要があるだろう。
「たしかに、ものが少なかったな」
物欲がうすいのもあるが、普段使うもののイメージができていなかったことに肩を落とす。
実家に電話をかけると、台もアイロンもしばらく使っていないから新しいのを送るというので、ありがたく受け取ることにした。買わなくて済むなら、そっちの方がいい。
「そうだ、バイトも探さなきゃ」
と、スマホで条件を調べるも、たいていは18歳からの募集で、低くても16歳からだった。溝口さんが雇ってくれていたのは、雇用契約というより、お小遣いをあげるかわりに手伝いをしてもらうという名目で許してくれていたのだろうと、いまさらながらに分かった。個人経営者ならではの抜け道だ。そういえば、調理中、あの人は俺や甲洋が切り傷や火傷をしないか見守ってくれていた。
いい加減な人だったが、ちゃんとした大人だったのだ。どおりで、書類などもなく通してくれたわけだと、納得したけれど、働き口が見つからないということに変わりはない。
まだ父からの仕送りだけでもかろうじて生活と学費をなんとかできそうなのが救いだろう。とりあえず、誕生日が来るまではバイトの件は保留だ。
「そろそろか」
風呂のお湯をとめ、入ると、浴室の鏡にうつった姿に、俺は驚く。
「うわ」
先生が俺の肩を掴んだときに、勢い余ったのか、ほんのりと赤い手形と、爪がかすったらしいミミズ腫れができていた。
「これは、滲みるかな」
傷をつけた相手が相手だけに怒りはなく、俺はその痕をなぞりながら溜息をついた。
風呂上がりに髪と体をぬぐい、薬局で買った大型の絆創膏を肩口貼り、服を着ていると、来主からテレパシーで、あちらの部屋に集合するようにという連絡が入る。
言われるがまま、来主の部屋に向かうと、テーブルまでのルートに猫の足跡モチーフのシールがあり、それが鈍く光っているほかは明かりがなかった。カーテンが閉めきられているらしい。
「来主」
声をかけると、破裂音が聞こえて驚くが、すぐに明かりがついて、それはクラッカーの音だったのだとわかる。
「ふっふっふ、入学祝いしよ」
「来主、それに甲洋も」
テーブルのうえにはカップケーキやナポリタン、小ポテトサラダに、スナック菓子にいろんなジュースなどが載っている。ふたりで用意したのだろう。
「来主が言い出したんだけど、名案だと思ってさ」
トランプ、オセロ、ウノなどが机の脇に用意されていた、これで遊ぶのだろう。昨日、来主が言っていた用意とはこのことだったのかと理解した。
「そうだな」
騒がしい場所は苦手だけど、仲間うちの雰囲気は嫌いではない。それに、ふたりが用意してくれたのだから楽しみたかった。
「ほらほら、座って」
「ああ」
「飲み物は」
「サイダーで」
お互いのグラスに飲み物をつぎあい、来主のおんどで、乾杯とグラスを合わせ、新しいクラスのことや、部活はやるのか、などと他愛無い話をする。
「でも良かった」
「なにがだ」
「あの先生のことばかり、一騎が気にしてるからって来主が心配してたんだよ」
「甲洋もでしょ」
「そうだったのか。……だいじょうぶだよ。ありがとう」
いい友達をもったと感動しながらサイダーをあおり、喫茶店らしいナポリタンスパゲティを味わう。トマトジュースを入れた、コクと酸味が絶妙で懐かしい味だ。母を亡くしてから甲洋の実家の喫茶店で父と食べていたあの味がする。
「ポテサラも食べてよ俺も作るの手伝ったんだよ」
「はいはい」
拗ねた来主に返事をしながら、そっちも食べる。コンソメを隠し味に入れたのは、来主のお母さんのレシピだろうか。うまみと塩気がちょうどいい。
「これだけご馳走になったら、つぎは俺がなにか作るかな」
「ほんとじゃあ、明日のお弁当をお願い」
「じゃあ、俺は明後日ね」
そんなふうに約束を決めようとして、あることに気付く。
「ごめん。あり物で作れるかわからないから明後日でもいいかいま、うちに根菜類と豆腐と鮭しかないから」
「根菜、もしかしてジャガイモと玉ねぎ」
「さすがだな。正解だ」
「だったら、一騎カレーがいいな」
「そうだな。そしたらあまり買い足さなくていいだろうし。そういえば、義父さんから、楽園で使ってたスパイスを預かってるんだった。あんなに手の込んだことできないし、スパイスの調合も真似できないって。待ってろ、ちょっと取ってくる」
「わるいな、ありがとう」
甲洋が部屋を出て、自室へ向かった。その間、来主がニヤニヤとこっちを伺う。
「なんだよ」
「一騎だったら、あの先生の胃袋も掴めちゃうかもね」
「」
帰宅してからのことを知られているはずがないのにと慌てつつ、俺は否定する。
「胃袋を掴むって、おまえ」
同性を好きになっただなんて、隠しておいた方がいい。
「でも、好きなんでしょ顔に書いてあるよ」
「は」
「だから朝、甲洋が俺を引きずってったんだし」
友人たちが、そういうことに理解のあるタイプで良かったという思いと、すべてが顔に出ていたという恥ずかしさで、どう反応していいかわからず、言葉に詰まった俺だが、そのとき甲洋がもどってきたので、来主の意識が玄関へ向く。
それからは、スパイスを受け取り、片付けを手伝い、用意されてた物でひとしきり遊んでからお開きという流れで、俺は部屋へ戻った。
2人のおかげで気分転換できたことと、彼らが俺を差別しなかったことがわかって、胸をなでおろす。昔よりそういう偏見が減ったからといって、まだ世間の目は厳しいのだ。他人には、この想いは知られたくない。
「はあ」
誰かを特別に想うということは、ハッピーエンドが約束されたフィクションのように簡単なことではないらしい。
『痛みでさえ』
肩にときおり走る鈍痛は、彼がそこにいた証だった。
2日目。各教科ごとに自己紹介をして、主要科目の先生たちとはほとんど顔合わせを終えることになったが、社会科の際に皆城先生と目があったときに、アイコンタクトをとったのは俺と先生の秘密だ。いたずらっぽく微笑む顔に、女子や一部の男子がざわめいたけれど、先生はさっと真顔に戻るとざっくりと教科についての説明をして、その日はそれ以降会うこともなく、下校時間になった。
その日は、甲洋と来主のリクエストどおり、夕食はカレーをつくり、来主の部屋でみんなで食べたが、ふと皆城先生のことが気になった。あの人は、ちゃんと栄養を摂っているだろうか
3日目。係や委員会決め、身体測定があったが、男子更衣室ではクラスの可愛い女子の話題とともに、皆城先生が美人だという発言も聞こえ、下世話なことを言うやつも居て、俺は握った拳を突き入れないように堪えるのに苦しんだ。
先生が美形なのは頷けるけれど、彼の存在を貶めるようなことには嫌悪感があった。 自分がまだ触れたことのない服の下などを、誰かが触れると想像するだけでどす黒い感情が煮え立つ。
「それ、どうしたんだよ」
声にハッとして顔を上げると、顔を赤くした同級生が俺の肩口を指さして言った声に、下世話な話題が止まる。
「べつに」
先生が家に来たことは、当然ながら秘密なので、間違っても口を滑らせてはならない。
「ケンカか女か」
当たり前のように性嗜好を決めてかかるのは都会でも同じなのかとゲンナリするけれど、あからさまに不機嫌そうな顔をして「関係ないだろ」と言うと、そいつは後ずさった。それからブツブツと悪態を小声でぼやき、俺のそばから離れた位置で服を着替えて、早々に更衣室を出ていった。
あとに残った奴らは俺の肩に注目したり、はやく更衣室を出るために着替えを急いだりとしていたが、もう俺に話しかけることはなった。
正直言うと、俺にとってその痣は勲章のようなものだったが、周りの視線がうっとおしいのもあり、さっさと服を着て俺も更衣室を抜ける。
4日目。おととい顔合わせをした五教科の先生たちの授業があったが、ダントツで皆城先生の授業が人気だった。容姿だけでなく、説明がわかりやすいうえ、声が聞き惚れそうなほどいいので、雑談をする声もなく、集中しやすいので知識がするりと頭に入ってくるのだ。
昼休みも後半にさしかかると、皆城先生に質問するために職員室へ向かうと団結する女子たちが数人いて、俺はあの人数のおしゃべりに付き合う嵌めになる先生は大変そうだと思った。きっと真面目な質問なんて数える程度で、あとは先生のプライベートなことを聞くのだろう。
うらやましいと思ったけれど、実際には自分のほうがまだ距離感でリーチがあると考え直して、醜い嫉妬を納めた。
簡単におむすびとお茶で昼をすませると、退屈がてら机に伏せてうたたねをすることにする。
それにしても教室が騒がしいので、明日からは別の場所で時間を潰すことにしよう。などと考えてまぶたを閉じてしまうと、予想外にもあっさりと眠気に負けてしまい、俺は5時間目の数学の先生の声で起こされてしまった。叱られはしたが、あっさりとした注意だけで、ほっとして席に座りなおす。夢の内容は覚えていないが、なんとなく良い夢だった気がした。
6時間目の体力測定で俺がちょっとやらかしてしまったのだが、居眠りで叱られたことより、そっちで注目されてしまったほうが恥ずかしいと思いつつ、さっと着替えを済ませて更衣室を抜ける。そのとき、不穏な気配を感じたけれど、急いでいた俺はそのことを忘れかけていた。
5日目。情報や美術の授業は苦手だったけれど、その後で社会の授業があったので、単純な俺はそれでやや機嫌をもどしていた。地理・歴史・公民と分野が別れていて、歴史や公民はともかく、地理がからきしダメな俺は先生がそばで教えてくれるのが嬉しいと思ってしまうのだが、やはり先生からしたら手のかかる生徒なのだろう。
清潔感のある香りや声にうっとりしそうになって慌てて教科書を見ると、先生の指先が視界にうつり、俺はそこへ注目してしまう。肌目が細かく、長い指は綺麗に整えられている。きっと、几帳面な質なのだろう。
「ちゃんと、集中しろ」
叱られたというには、甘い声で囁かれて頬が熱くなった。言われたとおりにしようと思うのに、なかなかできない俺にため息をつき、先生が離れた。
「先生」
「……週末に補習をしよう。それまでに少しは覚えておけ」
「はい」
周りに聞こえるか、聞こえないか程度の声で言われ、心音が頭まで響くくらいドキドキした。
授業が終わり、先生が終わりの挨拶をするために教室の前に戻る。やがて放課後になり、スーパーに寄ってから帰るか、帰ってから寄るかと考えながら校門を潜ろうとしたところで甲洋と来主を見かけたので声をかける。すると、ふたりも一緒に買い出しに行って、買ったものを分け合って割り勘にしようという提案を甲洋が出してくれたおかげで、節約や消費の悩みが解決して、俺は思わず興奮ぎみに言った。
「天才か」
「それほどでもないよ」
照れながらそっぽを向く甲洋を来主がからかう。しかし、うるさい虫を払うようにぞんざいに扱われ、ぶうぶうと文句を言いながら、俺のそばへ来てすがりついた。
そんな感じで、仲間内のゆるい雰囲気を楽しんでいると、背後から視線を感じたので2人の背中を押しやりながら、俺たちは学校を抜けた。
「一騎のつくる肉じゃがも食べたいな~」
「こら、さり気なくリクエストするな」
「あ、悪い。魚を食べたい気分だったんだけど」
「いや、こいつのことは気にしなくていいから」
「あ、でも煮物系だったら保存も効くし、お弁当にも使えるな」
「甘やかすなって」
「いや、うちで煮魚作って、来主の部屋で肉じゃがを作ることにしようかと思って。うちには鍋ひとつしかないし、そしたら洗い物も便利だろ玉ねぎ剝いたり、ジャガイモの下準備とかくらいはやっといてくれ。な甘やかしたことにはならないだろ」
「お、おぅ。料理のことになるとホント饒舌だな」
説明した俺に、甲洋がたじろぎながら返事をする。
「はぁい。わかった。おてつだいするよ」
来主の返事に気を良くしながら3人でスーパーへ行き、浮いた分でアイスを買ってアパートへ向かう。
「なんか、いいね。こういうの。共同生活って感じがする」
一旦来主の部屋の冷蔵庫へ生ものをしまい、アイスを食べながらさっきの話を詰めようという事になったのだが、こうしていると一人暮らしというよりも実家の私室へ遊びに来た感じがする。このメンバーだからかもしれない。
「ちょっと違くないか」
甲洋が眉間にシワを寄せた。相変わらず、細かいことが気になるらしい。
「さあでも、面白いかもな。いっそ、家事を当番制にでもするか炊事・洗濯・買い出しって」
「いいかもねそしたら予定とかもちょっと自由になるし。全部やりながら学校に通って、宿題もやってって、わりとハードだし」
「それだと、俺か一騎が炊事・買い出しってなりそうだな」
「確かにっえーどうしよ。2人はそれでいいの」
「じゃあ、俺が買い出しのがいいかも。一度にけっこう運べるし」
「いいのか料理はお前の趣味も兼ねてたろ」
「俺、甲洋の作る洋食も好きだし、さすがに弁当は自分で作るから」
「それなら、いいけど」
腑に落ちないという顔をした甲洋に、俺は本音を伝えられず、すこしモヤッとした思いを抱えながら微笑む。
まさか、皆城先生に会えるかもしれないから、なんて言えない。買い出しを甲洋に頼んでしまったら、チャンスを潰してしまうことになるのだ。それは、とても惜しい。
「じゃあ、決定」
「ああ」
「うん」
話がまとまったところでアイスのゴミもまとめ、さっき買ったものをそれぞれのところへ持ち帰るのに、俺と甲洋はタッパーや袋を取りに自室へ行き、また来主の部屋へ集まった。
「今さらだけど、生ものは夏場は各自で買いに行ったほうがいいかもな」
「そうだな。冷蔵庫や冷凍庫で保管できるならいいけど、保冷するにも量が多いと心配だ」
「もうとにかく分けようよ」
「おっと」
「来主に叱られた」
地味にショックを受けた顔の甲洋が面白い。
買い物を分けて、それぞれの分を計算しながら、一度立て替えてくれた甲洋へ俺と来主が買い物ぶんを払う。
「今度から夕食分は割り勘として、各自の分の買い出しはレシートで計算するから絶対持ち帰ってくれよ」
「わかったよ」
「よし。じゃあ、またな」
「うん。また明日、甲洋。じゃ、煮魚作ったらまた戻るからな来主」
「わかった」
その晩は宣言通りに料理をして、洗濯をし、風呂に入ってから寝て、翌日。
土曜は学校がないのを忘れていて、つい制服を着そうになったタイミングでそのことに気づく。
そう、学校がない。ということは、先生に会えないのだ。ちょっとテンションを落としながら二度寝を決め込み、ふとんへ戻る。何もない朝は、ただ空虚だった。
7日目。宿題をするために歴史の教科書をめくると、あの声が耳に蘇って大変だった。どうやら俺は、相当あの人に夢中らしい。
8日目の月曜。体育で怪我をしたクラスメイトをおんぶしながら廊下を歩いていると、皆城先生と出くわした。
「真壁、と」
「あ、内山っす」
先生が、俺の背中にいる人物の名前を出すより先に、そいつが名乗った。
「歩けないほど酷いのか」
「短距離走やってて、転んださきにガラス片が刺さったみたいで。それがちょうど膝だったもんで、動かすと痛みが」
「なるほど」
内山と先生の会話を聞きながら俺は先生の顔をじっと見る。不機嫌そうな表情は、胃もたれでも起こしたかのようで、こっちが心配になってしまう。
「気をつけて行ってこい」
「はい」
本当は、もっとちゃんと話をしたかったけれど、背中に怪我人を背負ったまま突っ立っているわけにいかず、急かされるまま保健室へ向かう。
診察用の長椅子に内山を下ろし、校医の先生にあとを任せると、俺は体操着のまま廊下を走った。着替えに更衣室まで戻ると、次の授業に絶対に遅刻してしまうからだ。
そういうわけで急いでいた俺は、自分の視界の端で開くドアにあわてて止まろうとしたが、ドアから人が出てきたため、ぶつかってしまう。
「うわっ」
「っ」
硬い廊下に、その人の頭が打ちつけられるのを阻止しようと、宙に浮いた数秒に両手を添えると、俺からその人へ飛びついて抱きしめたような構図になったなった。けれど、次の瞬間には、それよりも驚くことが起こる。
「んっ」
勢いあまって、口と口が重なって、先生の怜悧な目もとが円くなった。
『やわらかい、なんだこれ、おちつく。もっと、していたい』
頭の中で考えたことが漏れそうになって堪えたつもりだったのに、先生は目を閉じると、俺の肩へ両腕をまわした。唇はそのままくっついている。
衝撃
両手にビリビリとした痛みと重さが加わり、俺は夢から覚めるように、ハッとした。そのときに唇が離れたのだが、先生も、背中が痛むのか、呻く。
「す、すみません」
「いや、僕も、不注意だった。……とりあえず、どいてくれるか」
先生に言われて気づいたけど、俺は彼の意外としっかりとした胸板に頬をのせ、見上げるようにして相手の顔を見ていた。しかも、腰と下腹が密着している。
「え、うわっ」
先生の体を避けて立ち上がると、いつもは清潔感のある長髪が乱れているのが目に映り、顔が熱くなる。というか、痛みに呻いているはずなのに、それがどこか色っぽい。
チャイムの音が鳴ると、ゆっくり顔を上げた先生が、へたな作り笑いをする。
「ほら、はやく教室へ行け」
「は、はい」
ぼうっとしながら教室を目指し、滑り込みで中に入るも、さっきの先生の姿やあの唇の感触が頭から離れず、俺は授業に全然集中できなかった。
先生は、どう思ったのだろう
生徒で、同性の俺とあんな事になって。
平然としていた。
そうだ、大人の先生からしたら、大したことないのかもしれない。あれだけ見目が良いんだ。恋人や奥さんが今はいないとしても、ちょっと前にはそういう経験だってあったかもしれない。
むしろ、ない方が不自然だろ
ズキズキと胸が痛むけれど、俺はその考えごとをやめられなかった。
ああ、どうして。ようやく出会えたのに。
指がまた発熱して、あの指輪痕が浮かび上がる。
総士、俺はお前を、ずっと
「え」
自分ではない自分の悲痛な唸りが聞こえた。ちょうど、来主にテレパシーの使い方を教わったときのように、自分の頭に直に響いて、心臓の表面を撫でられるような、内側のやわらかい部分に触れられるような感覚があった。
待っていた。気の遠くなるような時間。地平線の彼方。海の果て、空との境い目。波打ち際に、あの蒼穹に――お前の面影を探し続けていたよ。
「……」
泣きたくなんかないのに、涙が溢れて止まらない。後ろの席でよかった。親しい友人がそばに居なくてよかった。
こんなに、息苦しくくらいの感覚で、悲しみで涙を流している惨めな姿を見られないで済んだから。
『お前は俺なのか』
自分の中にあるダイヤルをまわし、ラジオの周波数を合わせるイメージで【繋げる】と、あの声が応じた。大人の声だ。だけど、自分の声でもある。
『そうだ』
『いつから俺の中に存在した』
『お前がお前として産まれる前からだ』
『……皆城先生を知っているのか』
『ああ、誰より知っている』
『どういう関係だ』
『幼馴染で、親友で、背中合わせに戦う仲間であり、唯一無二の……パートナーだった。そして、俺が疵つけた相手でもあり、誰より護りたい存在だったよ』
『すべて過去形だな』
『そう、俺と総士のすべては、もう過去のことだ。新しい俺、お前が産まれる前の話だよ。そして、あの総士も産まれる前の』
『待ってくれ。そしたら、お前の言う【総士】は先生のことじゃないのか』
『たぶんな。あの、お前が先生と呼ぶ総士は、俺のことを覚えているけれど、俺の知っているあいつじゃない。違う存在として生を受けた存在だ。でも、俺が、記憶のそこに眠っていた欠片が反応したということは、総士の名残りをもっているのは違いない』
『……そうか』
『ほっとしたか』
頭を直接読まれているせいで、隠し事ができないことに苛立つ。ホッとしたかなんて、同じ体を共有しているのだから、わざわざ聞かなくてもわかるだろうに。
『ふふっ、そうだな……俺だってそうだ。自分以外の誰かが、あいつの側に居たとしたら、嫌だ』
『じゃあ、お前は俺の【前世】なのか』
『ようやく気付いたか。そうだ。俺はお前の前世で、先生はたぶん前世と【同化】した【今生】だ』
『同化』
『ひとつになるということだ。俺とお前も同化できる。けれど、俺がお前を同化したら、俺としての存在・思想が出てしまい、お前が考えたり、体を動かしたり出来なくなるかもしれない。だから、お前が俺を吸収するんだ』
『待ってくれ。やり方がわからない』
『後で教える。とにかく今は普通の生徒を演じるんだ』
そこで意識を現実の方に向けると、現代文の先生がこちらを睨んでいた。
俺はダイヤルを戻し、あいつの声を遮断する。それから、椅子に座り直して、シャーペンを握った。
放課後。
一度に記憶を渡すには情報量が多く、そのあいだ体が無防備な状態になってしまうからと帰宅し、自室へ戻ってから同化を試すことになった。
『俺とひとつになる感じで、吸収するんだ』
『わかった』
床に胡座をかき、リラックスした状態を心がけ、深呼吸をする。
『そう、力を抜いたら、目の前に自分がいると思え。個体をイメージしたほうが、1つになるのがわかりやすい』
『ああ』
もとから声質が似ていたこともあって、自分をイメージするのは問題なくできた。
『手と手を重ねるぞ』
『わかった』
言われたとおりにする。
『感触をイメージして』
体温・肌質などを思いながら、自分とは別の存在を強く意識する。
『そしたら、指先から手首までを繋げよう』
「は」
『1つにするんだ。重なった部分が、お前の一部分になっていく。大丈夫だ。ちょっとグロいかもしれないけど、重なったと自覚できた瞬間に【繋がり】を遮断すればいい』
「わ、わかった」
たしかに、自分の体が目の前で欠損していく姿なんて見たくはない。
「い、いくぞ」
『ああ』
手と手が重なっている部分が、溶け合って1つになる。そのとき、俺のなかにはもう一つの存在が入り込む。けれどそいつは、俺に吸収・昇華されて、1つになるのだ。
『お前は俺。俺はお前だ』
「俺はお前。お前は俺だ」
手の輪郭がぼやけた瞬間、俺は目をつぶった。
自分ではないものが、自分に呑まれていく。感覚は共有されるけれど、俺が主導権を握る。
「でき、た」
息をつくまもなく、膨大な量のデータが俺の頭に移された。
幼少期。なかよく一緒に遊んでいた無邪気な頃。それだけでも、かなりの量のフィルムがあったらしく、頭痛がする。しかし、小学生くらいになるとショッキングな出来事があり、そこからふたりのことは【前世】の俺が一方的に総士を避け続けるものになった。
このふたりが、どういう経緯で、さっき告白されたような関係になるのかを見届けるまではいかず、俺の体が倒れる。
『だから、言っただろ情報量が多いって』
「……まるで、あの人のために生きてたみたいだ」
ずっと、ただ一人のことを思って、気にかけて、彼の人生とは何だったのだろう償いのためと言うには、総士という存在を語るときの彼の声は甘い。
『そうだよ。俺の命は、島のためにあった。総士がそうあれって、願ったから。俺が総士を支えたいとおもったから。俺は、あいつのために生きたんだ』
「お前」
まだ見ていないけれど、とても大きなものを背負っていたのだろうと察せられる言い回しに言葉を失った俺へ、あいつが笑った気配がした。
『また総士に会えて嬉しいよ。この世界に、俺の代わりに産まれたのがお前で良かった。俺と総士が惹かれあったのを差し引いても、お前と先生が出会ったことに意味だってあるんだ。俺は、あいつに見惚れたことなんてあまりなかったからな』
「そうなのか」
『むしろ、精神的に安定するのが心地よくて、誰よりも深く繋がりたかったんだ。綺麗だと思ったことはあるけど、お前ほど流暢に賛美したりはしなかった』
「俺が、面食いだって」
ムッとした俺に、あいつはまた笑う。
『見た目だって、相手を好きになる要素だろでも、そのあとでちゃんと、先生本人について考えたりしてるんだから、後ろ向きになるなって。ただ、俺とお前が違う存在なのが不思議だったっていうだけだ』
「あっそ」
『ああ、もう限界みたいだ』
「限界ってなんだよ俺が同化したからか」
『気の遠くなる時間、俺はこの幽霊みたいな状態でさまよっていたから、一日に自我を保てる時間が少ないんだ。もうすぐ接続が切れる』
「そうか、よかった。まだお前には聞きたいことがあったんだ」
『またあった時に聞いてくれ。週末くらいには回復する。今日は、もう、むり』
そんな言葉を最後に、接続が一方的に途絶える。俺は、あいつの言葉を噛み締めながら腰を上げ、とりあえず水筒を洗うことにした。
もしかして、これが先生の出した宿題の答えだったのだろうか。週末の補講のときにでも答え合わせをしてみよう。
『選択肢はふたつだけ?』
週末。というか、金曜日。
俺は、先生に指定されたとおり、昼休みの空き教室へ来ていた。社会科の資料室も兼ねているというそこは、地球儀や年表の記された横長のポスターやらが乱雑に置かれ、古道具屋のような風情があった。以外に埃っぽさや湿気がないのは、誰かが手入れをしているのかもしれない。
「ん」
ある机に、なにか数字が書かれている事に気づき、俺はそれを見ようと近づく。
「なんだ、これ日付が2つ」
なにか意味があるのだろうかと考えて、それに触れたタイミングで、ドアが開いた。
「待たせたか」
半袖のワイシャツにダークグレーのスラックス姿の皆城先生が俺に気付き、声をかけた。
「いいえ」
「それはっ」
なんてことのない机なのに、先生はそれと俺を交互に見比べて顔を赤らめた。
「あ」
するりと、温もりを帯びた風が俺の背後から肩口を抜けた。それは、先生のいるほうへ進み、一瞬だけ大人になった俺の姿が、先生を抱きしめている幻覚が見えた。
例の指輪の痕が発熱する。それとともに、あの声が頭に響いた。
『覚えていてくれたんだな。嬉しいよ』
俺の前世ということならば、この机がこの教室にあるということ自体がおかしな話なのだが、時空が歪む現象を扱ったSFもののように、ここではないどこかから運ばれてしまった机ということなのだろうか。
『総士。総士の気配がする。半分くらい。懐かしくて、安心する。触りたいのに』
実体を持たない存在だから触れられないのだろう。背後霊のように先生にしなだれかかったそいつが、こちらを向く。
「……真壁」
「い、いえ」
自分と似ているのに、自分ではないそいつが先生に触れているのが癪に障る。
「では、さっそくだが、はじめようか」
黒板上に世界地図を開いて、地理のおさらいをはじめた先生だが、俺が集中できていないとわかると、彼はため息をついてこちらへ近づいた。
「どうし」
『あなたは、そこにいますか』
先生の背後に貼りついていたあいつが、声を発した。すると、先生の動きが止まる。
「クロッシング」
聞き慣れない言葉を尋ねるまもなく、先生が俺の顔に触れた。
「ああ、どうりで似ていると思ったんだ。ようやく会えた。ずっと会いたくて、会えなくて、気が狂うかと思った。僕は、何回もお前を探したけれど見つけられなくて、あとどれくらい掛かるかと」
そこで声をつまらせ、先生は潤んだ瞳に俺を映す。
あいつが見えないんだ。あんなに先生へ熱の篭もった眼差しを向け、再会を喜んでいるあいつが。
『繋がりが、薄れすぎた。もう、総士には俺が見えないんだ』
俺へ向けて説明する声に、どう言ったらいいのかわからない。つい数分前には嫉妬した相手なのに、事情や現状を知ってしまって同情的になってしまっていた。
『ひとつになろう。もう、それしかない』
『半分は俺なんだぞこの手が、お前の最愛に触れてもいいのか』
あいつへ向けたはずのテレパシー、先生はクロッシングと言っていたものだ。それで俺があいつへ尋ねると、先生が首を傾げた。
『誰へ向けている』
先生の声が俺の中へ響いた。
俺は、あいつへ視線で尋ねる。「お前の存在を話していいのか」と。あいつはゆるやかに頷いた。
「じつは」
あいつの存在や、前世のことを聞いたということ。クロッシングは甲洋と来主ともできたことまでを説明すると、先生は頭を抑えて教卓へ腰を預けた。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫だ」
どうせならと打ち明けてしまったが、伝える情報量が多かったかもしれない。
「僕は」
先生が静かに話しはじめる。
「お前を見た瞬間、運命を感じた。あの約束どおりに、一騎と再会できたのだと。そして、僕を見て泣いたお前も、そうなのだと思っていた。とんだ見当違いだったな」
自嘲気味に言ってうつむいた彼に、俺はかける言葉を失う。そうだ、俺はこの人の望む相手じゃなかったんだ。
心に穴が空いてしまったように、浮ついていた気持ちがそこから抜けていく。
「真壁」
「はい」
「僕の勝手な事情に付き合わせてすまない」
「……いえ」
謝るのは俺の方だ。先生が俺へ好意を向けてくれていると思い上がって、下心をもって接した。まだ健全な範囲のことしかしていないが、もしそれ以上のことをしていたら、もっと傷つけていたかもしれない。
「僕はばかだ。たったひとりの、大切なパートナーを見間違えるなんて」
するとそこで、あいつの幻影が俺の手に手を重ねた。それから、こちらへ視線を合わせて頷く。
俺は、相手の思惑を察して、アパートで同化したときと同じイメージを重ねた。
『お前は俺、俺はお前だ』
相手の手がまた俺の一部として溶け込み、今度はそれが全身へと重なっていく。
不思議な感触だった。自分の体の感触はあるのに、先生への想いや自分が経験したことのない記憶が、一瞬のうちに頭を埋めていく。
「総士」
自分の喉を通ってでた名前に、先生が『俺』を見つめた。
「一騎」
俯いていた顔があがると、さらりと長髪が揺れる。
「俺は、ここにいるよ」
嘘じゃない。本当だ。
あの前世の俺と、俺は今ひとつになっている。
「一時的な同化だけど、今はこれが限界だから」
はらりと、先生の目から涙がこぼれた。それから、彼が両腕を広げて俺たちを包む。
「かずき、一騎」
「うん。ただいま、総士」
先生が、甘えるように俺の肩へ頬ずりをした。
「ああ、おかえり」
「……お前のことも『こいつ』のことも、俺は責めないよ。ちょっとは妬いたりもしたけど、こいつが産まれてきてくれたから、甲洋と来主とクロッシングして感覚が刺激されたから、今俺がこうやって干渉できる。俺は、器をもって来れなかったから」
すべての出会いが人を形成するという。あの2人との出会い、はじめてのクロッシングを経験したこと、それから先生との出会いが、俺と前世を引き逢わせた。
だから、それらは必要な過程であり、過ちではないのだと、俺の口を介してあいつが語る。
「総士、お前は器をはじめから持っていたか」
「……いや。10歳くらいの頃、自殺未遂をしたこの体へと入り込んだ」
衝撃的な告白に、俺とあいつが驚いていると、先生はふっと微笑んだ。
「ああ、僕も同じか。きっかけを忘れかけていたよ」
彼が自分の目もとの傷をなぞる。
「お前が残してくれた証だけ、この体にあったんだ。この体の主は、僕の記憶を持たず、その分の虚無感だけを抱えていた」
あんなに強くお互いを想っていた心がなく、その分の余白があったということは、とてつもない孤独感にとらわれていたに違いない。その心中を察して、俺は震えた。
甲洋たちと出会う前の独りぼっちだった時期を思い出す。人並みはずれた怪力と運動神経、相手の考えを無意識的に察してしまう異能力をもて余していた頃。俺はいつも『誰か』の存在を強く求めていた。
先生に会ったとき、甲洋たちでも埋まらないこの心の奥の空虚な部分が塞がった感じがしていたのは、俺の気の所為じゃなかったんだ。
たぶん、先生の器だったひとも、俺と同じ想いをしていたのだろう。だとしたら、俺が器だった彼へ惹かれたのもきっと意味がある。
だから、外見だったんだ。器だった彼のなごり、残った部分。俺が惹かれたところ。
「あるはずのものがない。ずっと欠けているような感覚に、気を病んでいた。だから、僕が同化して過去の記憶を与えたところ、とても喜んでいたよ。自分を熱烈に求めてくれる存在がどこかにいるのだと」
先生のほうが同化したということは、器の主はどうなったのかという疑問を口にするまえに、先生が微笑む。
「彼は、僕の中にいる。もう同化して溶けてしまったけれど、その存在を忘れたことなどない」
「総士」
先生と呼ぼうとして、名前で呼んでしまうのは、体の主導権が同化した側、つまりあいつの方にあるからだろう。それが、少しだけもどかしいのに、自然なことのように思える。
はじめから1つだった体と記憶が分離してしまって、再び重なった。皆城総士と再会するために。だとしたら、俺の存在意義とはあいつと1つに戻って、先生と結ばれることなのだろう。
「お前が、その器を同化したというなら、俺も自分の器を同化するのが一番いいのかもしれないけど……」
歯切れの悪いようすで言葉を詰まらせたあいつへ、先生は安心させるかのようなほほ笑みを向けた。
「わかっている。お前は、いつもそうだった。どうせ、その器たる存在の意思を尊重したいと言うのだろう」
「ああ」
「だがな、僕らの繫がりは解けかけている。この機を逃せば、次の再会では出会えないかもしれない。この顔をよく見ろ。昔より、疵痕が薄れているだろう」
俺の手をあいつが動かし、先生の左目を縦断する引き攣れた切り傷を撫でた。
「僕は、幼少期からひとの思考を読めていた。自殺未遂をしてからその力は強まり、クロッシングもできるようになったが、通じたとしてそれは一回限りだった。返事と呼べるものは返ってこなかったよ。みんな半狂乱になってしまって対話どころではなかった。僕がこの世界でお前を探すために、なにをしたと思う」
次第に、先生の声が上擦っていった。感情の高ぶりを察する。
『あなたは、そこにいますか』
また先生がクロッシングで問いかけてきた。
「お前をこうやって探し続けたんだ。なのに返事はかえってこなかった。今なら、お前の感性が未熟で能力が不安定だったからだと判明したが、返ってこない返事を待ち続ける僕の気持ちがお前にわかるか一騎っ」
先生の綺麗な髪が振り乱れる。痛切な叫びが俺の耳へ響く。
「よく考えるんだな。僕は、もう待ちくたびれた。お前の存在しない世界に絶望するくらいだったら」
「総士」
ふいに、あいつの幻影が俺の体から分離した。
「……先生、同化が解除されました。クロッシングも。あいつは眠ったみたいです」
「そうか」
我に返ったように冷静さを取り戻した先生が、俺の顎に手を添える。
「お前には酷なことを言ってしまったが、さっきのが僕の本心だ。お前には、僕を恨む権利がある。しかし、お前に恨まれてでも、僕は一騎と結ばれたいんだ」
真摯な眼だった。一点の曇りもない、澄みわたった、まっすぐにこちらを射抜くような
「恨まないですよ。その代わり、許しません」
俺は、この人を好きになった。好きになれて幸せだった。その想いに見合うだけの好意が返ってこなくても。俺が、幸せだったんだ。
「ああ、それでいい」
会話を切り上げるタイミングを見計らったようにチャイムが鳴り、俺は先生へ背を向ける。彼はもう、俺を呼び止めはしなかった。
翌日から俺は、自分がやるべきことを整理することにした。
この体をあいつに明け渡すとして、心残りがないように、自分としてやれることをやっておこうと考えたのだ。余命宣告を受けたひとたちは、こういう気分なのかもしれない。
先生のことだけじゃなくて、友達とのこと。父さんへは、これ以上心労を掛けさせたくないからいいや。
「半年だけ、猶予をください」
あいつがいないときに、先生を廊下で捕まえ、俺はそう言った。
「半年」
怪訝そうな顔をする彼へ、俺は続ける。
「俺が生きてきた15年あまりは、あいつの為だけじゃなかったんです。ここにも、心があった」
自分の頭と胸を交互に示すと、先生は目を見開く。
「わかっているだから、すまないと」
「わかってないですよ。俺に、あなたをちゃんと諦める時間と、友達と会えなくなる覚悟を決める時間をください」
先生がひとつため息をこぼして、数秒後に頷いた。
「……そういうことなら」
「ありがとうございます」
この場合は身辺整理というのか終活というのかわからないけれど、俺という存在が、あいつと入れ替わる前に区切りというものがほしい。そんな意図を汲んでくれたらしく、先生は俺へまた微笑んでくれた。
「そうだ。渡そうとおもっていたのを忘れていたな」
「え」
廊下の暗がりへ手を引かれ、従順についていけば、先生の手が離れ、背を向けるように指示をされる。
「いったい何を」
「動くな」
ふいに後ろ髪を掴まれ、衣擦れに似た音が背後から聞こえて、俺は何をされるのかと不安と期待の入り混じった気持ちで彼の行動に注意を向けた。
「っ」
きゅっと、髪がきつく縛られる感覚に肩を揺らした俺に、先生が謝り、結び目がすこしだけ調整される。
「だいじょうぶです」
「そうか……よし、こんなものか」
もういいぞ、と許しをもらったので振り返れば、先生の髪がほどけていて、彼の使っていたヘアゴムで俺の髪が結ばれたのだろうとわかった。
「これ」
結び目を縛るヘアゴムを指さした俺に、先生が首を振った。
「職員室へ戻れば替えがある。お前にやろう」
「ありがとうございます」
ヘアゴム一本で喜んでいる俺に、先生がふっと微笑む。
「お前は、無欲だな」
「」
先生が眼鏡のフレームへ指を添える。
「……なんでもない」
そこで、彼が何を思ったかを遅ればせて理解する。この人は、無意識に俺とあいつを比べたのだろう。
「さあ、もう用は済んだ。さっさと行け」
「はい」
突き放すような物言いに、少しの寂しさをおぼえながら廊下を進む。
やはり、あいつと俺が別の存在だと知ってしまったせいで、先生としては複雑なのだろう。はっきり言ってしまえば、俺は邪魔者でしかない。けれど、それを口にしないのは先生の優しさだ。
土曜は甲洋と来主をうちへ呼んで手料理を振る舞いつつ、さり気なくあの話を振ってみた。
「もしも、俺が変わってしまったらどうする」
「どうするもなにも、どう変わるのかによるかな」
「危ないことをしようとしてるなら止めるし、なにか困ったことがあるなら聞くよ」
「……ありがと」
どう言えば良いのだろうこのやさしい友達に、どう説明するのがわかりやすいだろう。
あまり接触したわけじゃないけれど、あいつは先生のこと以外にあまり興味がなさそうだった。けど、甲洋と来主のことは知っていた。つまり、前世でなにかしらの関わりがあったと見るのが自然だ。
「たぶん、危なくはないとおもう。ただ、俺が消えて、成り代わるんだ」
「それってどういう」
「怪しい宗教にハマったとかじゃないよな」
「ちがう」
どういうことだあいつは2人を知っているけど、勘の鋭い来主も、賢いはずの甲洋もいまいちピンとこないようすで、俺は頭を抱える。
「じゃあ、2人は前世を信じるか」
直球な質問を投げかければ、2人は俺の顔をまじまじと覗き込んでくる。
「どうしたんだらしくないぞ」
「もしかして、体調悪い」
「あ、いや……忘れてくれ」
ロマンチストとは程遠い俺が、前世なんて単語を口にしたせいで心配されてしまい、その日はお開きとなった。
数日後、体育の時間が終わったあと。俺ともう一人の男子が片付けで残されたのだが、そのときに体育倉庫へボール籠を戻していると、他のクラスの男子が2名入ってきた。ひとりは2年なのだろうと上履きに入った緑の線でわかる。
「かわいいけど生意気なヤツっていうのは、お前か」
体育倉庫のドアの前に2人。俺の背後に、同じクラスのがひとり。逃げようと思えば逃げられるけれど、あまり問題を起こすとあとあと良くないのは考えなくてもわかる。
「なるほど、なかなかに」
俺の頬に馴れ馴れしく触れた手がうっとおしくて顔をそらす。
「はっ生意気だな」
振り上げられた拳を避ければ、相手の右手がそのまま鉄製の棚にぶつかって、棚がガシャガシャと鳴り、埃が舞った。
「ってえこの野郎っ」
逆ギレしてきたそいつが、残りの2人をつかって俺を捉えようとするけれど、あまりに隙だらけの動きにあくびが出そうだった。
「っこの」
「くそっオンナみてえなツラで」
母親似の顔だから、そう言われるのは慣れていた。けれど、嘲りの意図をもった響きに、腹が立つ。
2人同時に左右から殴り掛かってきたそいつらをかわし、勢いのままにぶつかり合ったそいつらがふらついている隙にそれぞれの襟首を掴むと、未だに手を抑えている2年のほうへ『放り投げた』。
「うわっ、ぐっ」
「がっ」
「ってぇ」
互いに額をぶつけ合い、あるいは棚に背中を打ちつけて悶絶する3人だったが、埃が目潰しのようにかかり、こちらへまっすぐに来れないようだった。
俺は、そいつらの横を抜けて体育倉庫から抜け、更衣室から着替えを抜くと、廊下を早歩きで移動する。執念深そうな連中だったから、また追ってくるかもしれない。
「真壁」
「え」
意識が逸れていたせいで、横のドアがスライドしたことに気付かなかった俺は、予想外の人物の登場に驚く。そういえばここは、職員室のそばだった。
「どうしたんだ、こんな時間に」
もうじき授業が始まるはずの時間に、埃まみれの体操着姿で着替えを持って移動している俺にただならぬ事情を察したのか、先生が俺の手を引く。
「先生」
「なにか、事情があるのだろうひとまず、着替えて
しまえ。今日は校医が出張だから、保健室まで移動しよう」
「え、はい」
俺のことなんか、なんとも思っていないくせに。こんなことをされると、勘違いしそうになってしまう。だけど、やめてくれと拒絶することもできない。
「出入り口は見張っておく」
「……すみません」
念のため、グラウンド側の窓のカーテンを閉じてから着替える俺に、先生が話しかけてきた。
「嫌がらせを受けたのか、喧嘩かは知らないが、その様子だと怪我もなさそうだな」
「はい」
「お前のことだから、心配はしていないが、相手にはなんらかの処分が必要だろう。顔か名前は覚えているか」
「そこまでしなくていいです。俺も、過剰防衛だったかもしれないし」
「ということは、やはり向こうから手を挙げられた訳だな」
頭の回転が速いというのは厄介だ。話すほどに、俺が不利になっていく。
「……ちゃんと避けましたし、相手のほうが怪我をしています」
とにかくおお事にはしたくない。男が男に襲われたと言って、信じてくれる人がどれだけいるむしろ嘲笑うような輩のほうが多いなんていうことは、明白だ。
「お前だけの問題じゃない。次の被害者を作らないためにも必要な措置だ」
それもそうだろうけれど、そこで懲りるとは思えない。体育倉庫でのことを考えると、逆恨みで闇討ちでもされそうだというイメージができる。
「一騎」
その名前を呼ばれたとたん、俺の腹の奥で燻っていた怒りが溢れ出した。
「俺は、あなたの求める一騎じゃない。どうせあなたは、あいつの器になるこの体が必要なだけなんだ」
「そんなことはっ」
「ないなんて、言い切れないでしょそしたら、それはあいつへの裏切りになるから」
言うなれば、浮気のようなものだ。
「僕は、僕は、お前のことも大切だと思っているしかし、どちらかしか選べないんだ」
優先順位は決して揺らがない。
「……放っておいてくださいよ。俺の体にしか興味がないくせに」
背中を向けたままの先生が振り返るまえに彼を押しやり、俺はネクタイを襟に通し、ジャケットを羽織り、体操着を小脇に抱えて保健室を出る。
やはり、先生は追ってきてくれなかった。