ある日のランチタイム 六月の太陽光は眼球に悪い。肌がいくら焼けようが構わないが、瞼の裏にじくじくと疲労が蓄積される、あの感覚が苦手だ。ただでさえ、家に帰れば太陽よりも目に悪い男が月島の視界を覆い尽くすというのに。
廃墟と化した木造建築の解体作業も終盤に差し掛かっていた。頃合いだと踏んで、各々休憩をとり始める同僚達とともに、月島も日陰へと腰をおろす。
一昨日までの大雨が嘘のように、乾いた行楽日和だ。
水を飲み、ふぅ、と息を吐いて、今朝の鯉登を思い返す。
月島の為、毎日作る弁当を珍しく作り忘れたと一人で大騒ぎしていた。何処かで買うから気にするなと宥めても、鯉登は申し訳なさげにしょぼくれたままで、その様子がいじらしく、月島の口元を自然と緩ませる。
今、何をしているだろうか。
早く帰って存在を確認したい。
同じ屋根の下に住み、一緒に食事をとり、ひとつの布団の中でくっついて眠る日々を繰り返していても、そんなことばかりを飽くこともなく考えている。
「月島さーん」
先週入ったばかりの若者が、ヘルメットを揺らしながら小走りで月島の傍へと寄ってくる。ぴたりと止まり、一般人が侵入できぬようにと置かれたバリケードを指差して、首を傾げた。
「ご家族……?いや、お友達……ですか?月島を呼んでくれって言ってる方が来てますけど」
咄嗟に立ち上がり、示された方へと視線を投げる。安全第一と書かれた黄と黒のバリケードの向こう側、最愛の人がにたりと悪どい笑みを浮かべて立っていた。
「鯉登さん!」と、思わず喉から漏れる前に、月島は走り出した。
「ありがとう。休憩が終わる前には戻る」
伝えてくれた従業員に軽く礼を告げ、バリケードをすり抜けると、勢い込んだまま鯉登の手を取り、小道へと進む。
「精が出るな、月島」
「何やってんですかアンタ。なんで現場なんかに……」
「ふふ、月島の働きぶりを観察しにきた」
月島に手を引かれながらも、鯉登は堂々たるしたり顔で言い放つ。この暑さにこの男の眩さは、害毒だ。
古民家が建ち並ぶ小道をぐんぐんと歩き進むと、やがて海岸が見えてくる。綺麗に舗装された遊歩道は、よく二人で散歩する定番のコースだった。まばらに微睡む野良猫達の良い休息所でもある。
「どうぞ、こっちへ」
海と対面するように設置されたベンチへと鯉登を誘導して、ようやく月島は肩の力を抜いた。
「月島、お前も座れ。休憩中だろう?」
潮風に少し傷んだベンチをとんとんと叩いて、鯉登が布袋から弁当箱を取り出す。促されるままに、月島も腰を下ろした。
なるほど。今朝の一件はわざとかと気付き、大袈裟な溜息が零れ落ちる。
「勘弁して下さいよ。勝手に来られると困ります。貴方のこと説明するの面倒臭いんですから」
「親戚ですと軽く流せばいいだろう。私は恋人でも家族でも伴侶でも、何でも構わんが」
「……駄目ですよ。変な噂が立てば生活し辛くなります」
「じゃあ知らない人ですとシカトすればいい話だ」
ふん!と、憤った声で鯉登は弁当箱の蓋をぱかりと開いてみせた。焦げついたウインナーと卵焼き、プチトマトのみが詰め込まれた素朴なラインナップは、裕福な家庭で育った鯉登には、あまりに似つかわしくなく、随分染まってしまったなと、月島はひとり思い浸る。
「……貴方を前にしてシカトなんてできるはずもありません。意地悪言わんで下さいよ」
いただきます、と語尾に付け加えて卵焼きを口へと放り込めば、不足していた栄養分が一気に心身に広がる気がした。己の心臓を動かしているのは、いつだって鯉登なのだ。
「ヘルメットくらいはずさんか」
不意に鯉登が手を伸ばし、月島の顎をひょいと持ち上げる。カチリとベルトを外し、ヘルメットを剥がして傍に置き、真っ白なタオルを取り出した。おかずを頬張る月島に目を細め、愛おしそうに眺めながら、その素顔につく汗や泥を律儀に拭い取る。
「ふふ、汚い顔だ」
「機嫌が戻ったようで安心しました」
顔面をがしがしと力強く拭かれることも、また愛のひとつだ。
海岸沿いは建物がない分、風が心地よく月島の火照った身体を鎮めてくれる。平日の白昼に、こんな贅沢は罰があたってしまいそうだ。
「そうだ。商店街でコロッケを買ったんだった」
タオルを離して、鯉登が荷物を漁り始める。取り出した紙袋からは香ばしい油の匂いとずっしりとした重みが見てとれた。
「たくさん買ったぞ」
「え、六つも?買い過ぎでは?」
「五つ買うとひとつ無料でつけてやると言っていたからな。肉屋の親父はいつもサービスが良い」
ほらな、と月島は口元を引き締めた。
鯉登のような、凛々しく美しい容貌をもつ者に声をかけられ、気分を害する者などそうそういない。この際性格は抜きにして、己の魅力的価値を適切に自覚してもらえないだろうか。折角世界を狭めて、限りなく閉塞的な生活を手に入れたというのに。
「……肉屋のクソ親父め」
意図せず零れた言葉には、悪意がしっかりと乗っかっていた。
「何だ、怖い顔をして」
紙に包んだコロッケを月島へと差し出し、鯉登が首を捻る。
「合法的に肉屋の親父を消す手段を考えていました」
「え、な……何故そうなった?」
「鯉登さんを特別視したからです」
「肉屋のサービスは特別視ではないだろう。ただの商売だ。皆にやっていることだぞ?この町に来てからお前の独占欲は加速する一方だな」
「だから今日みたいに勝手に職場には来ないで欲しいんです……あ、コロッケは美味い」
肉屋の親父は忌々しいが、コロッケに罪はなかった。隣に座る鯉登も頬を持ち上げて、幸せそうに衣に齧り付いている。
「うん、美味い」
「はい。美味いです」
「茶もあるぞ。しっかり食べて身体を労ってやれ」
永遠に続くようで、ともすれば明日にでも終わってしまいそうな不安定な生活は、線香花火のようだと月島は思う。鯉登がいなければ、人生などどうでも良かった。
作業着の胸ポケットに入れたままのスマートフォンが時間を知らせる。
「あ、もうそろそろ戻らないと」
「もうそんな時間か」
「鯉登さんも真っ直ぐ家に帰って下さいね。弁当、ご馳走様でした」
鯉登に向かい両手を合わせ、頭を下げる。月島の職場を覗き見る確信的犯行だったとしても、健気に昼食を届けてくれた気遣いは、純粋に嬉しかった。
さてと、と立ち上がる月島に倣い、鯉登もベンチから腰を持ち上げる。ヘルメットを月島の頭に乗せ、なだらかな鼻先に、ちょんと当てられる唇。
「……駄目ですよ。汚れてるから」
隙あらばくっつこうとする大きな身体を、ぐっと押し返す。汚い顔だと言ったのは、鯉登の方なのに。
月島の鼻や頬にキスを落として、「またすぐ会えるのに離れ難いのは何故だろうな」なんて引き攣った声で囁くのだから、酷い人だ。
押し返したはずの身体を今度はぎゅうっと引き寄せた。
「帰ったら即抱かせて下さいね。風呂は後回しで、この作業着のままで」
「……あ、え……うん?」
「俺の匂い、大好きでしょう?」
月島の発言に、鯉登は困惑したような表情を浮かべていた。間を置いて、意味を理解したのかあっという間に赤らむ頬は、何度見ても愛らしい。
「わ、わわ、わかった。ふ、布団の準備をしておく」
口元を両手で覆い、俯く鯉登をもう一度だけ抱き締めて、月島は振り返ることもせず、来た道を早足で駆けた。
これだから、独占することをやめられない。家に帰れば、真昼の太陽よりも目に悪い男が、月島を待っている。