月島の作業着を洗い終え、極力皺が寄らぬようにしっかりと伸ばしてから庭に干す。鯉登の日課だ。
この町にやって来るまで、洗濯機のひとつもまともに回すことのできなかった鯉登が、今やアイロン掛けまで見事にこなせるようになった。
梅雨明けを告げたワイドショーの言う通り、本日の天候は快晴。ようやくの部屋干し地獄からの解放で、洗い終えた洗濯物を抱え込んだ鯉登は、すぐさま庭に飛び出した。
容赦なく降り注ぐ日光の中、濡れた作業着を面前に掲げ、二、三度空中に叩きつけると、胸ポケットの部分が妙に膨らんでいることに気が付いた。
「ん?忘れ物か?」
首を傾げ取り出してみれば、ぐしゃりと潰れた煙草とマッチ箱。どちらもまだ、十本程残っている。洗濯機の中で洗い揉まれたその二つは、最早使い道のないゴミ屑同然と成り果てていた。
※※※
施錠を解く音と、次いで引き戸が乱暴に開く音が廊下に響く。
「ただいま戻りました」
陽が落ちると、ようやく月島が帰ってきた。豚汁をかき回していたお玉を一旦置いて、鯉登は勢い付けて丸太のような身体に飛び付く。
「おかえり!今日も一日ご苦労だったな」
「鯉登さんもお疲れ様です。夕飯が楽しみで走って帰って来ました」
「うふふ、可愛い奴め」
汗の滲むこめかみに唇をくっつけると、途端に月島は非難の眼差しを向けた。
「……今日は本当に汗だくなんでやめて下さい。ほら、匂うでしょ?先にシャワー浴びてきますんで」
そう言ってゆるく鯉登を引き剥がし、荷物を床に置く。
「……愛想のない奴め」
他の男の匂いは気色悪いがお前の匂いは大好きだと、何度言えばこの男は理解するのだろうか。
月島が風呂場へと向かう姿を見届けて、鯉登は再び鍋を温め直した。
二人きりの「ただいま」と「おかえり」を繰り返して、既に三か月が経っていた。
時節は春から夏に切り替わろうとしているにも関わらず、月島の歪さは変わらない。いつか鯉登がいなくなることが不安で不安で仕方がないと、事あるごとに目顔で訴えてくるのだ。心底馬鹿な男だと、鯉登は思う。
強気のようで弱気な厄介な男を、この上なく愛しているというのに。
早々に二人揃って夕餉を済ませ、鯉登は今朝、濡れた作業着から出てきた煙草とマッチ箱を、丸いちゃぶ台に乗せた。
月島はそれを見てとるや、「あ!取るの忘れて洗濯機に突っ込んでました!すみません!」と、大袈裟に頭を下げた。
「次からは気を付けろよ?洗濯槽も洗濯物も洗い直しで大変だったんだ」
濡れた煙草パックの表面を指先でつつき、鯉登は唇を尖らせる。
「はい、以後気を付けます」
「うん……ところで……」
月島の謝罪を受け取り、使い道のなくなった二つをゴミ箱へ放ると、鯉登はポケットから取り出した真新しい煙草を一箱ちらりと見せつけた。買い出しのついでに、商店街の煙草屋で老女から購入したものだ。
いつか月島と同じものを吸ってみたいと人知れず思っていた。
「私も買ってみたんだが」
「え……」
風呂上がりの肩にタオルを乗せたままの月島が、眼を丸くする。
「どうだ、一緒に一服でも」
鯉登が窓を大きく開き、古い木製の窓枠に腰掛けてライターを取り出すと、月島は慌てた様子でその手を掴んだ。
「あ、あんたは駄目です!肺も喉も悪くなるんですよ!というか、いつの間に買ったんですか?」
「二十歳過ぎたら誰でも買えるが?」
「あ、あぁ……そうか。もう二十歳過ぎてましたね」
「お前は私を何だと思っているんだ」
日中は盛大に臨む青海原も、今は黒く、水面に浮く漁船の灯りだけがぽつりぽつりと細かく揺れている。
梅雨明けの少し生温い風と、草藪や側溝で鳴く昆虫の声が、吊るしたばかりの風鈴の鐘を響かせた。
「いつまでも子供のように扱いおって」
ふんっと鼻を鳴らし、月島の手を取っ払うと、鯉登はこれ見よがしに煙草を一本咥えた。ライターの火を先端に当て、酸素を肺に入れ込む。いつも月島がそうしているように。
「げほっ!おえっ!」
同じ様にただ倣っただけで、喉と肺がひりひりと痛んだ。
「ほら、貴方には合わんでしょう?」
激しく咽せる鯉登を見て、月島も窓枠に腰を掛ける。煙草をすっと奪い取り、鯉登の背をゆるゆると撫でさすった。
「初めては、けほっ……こういうものだろう。慣れさえすれば、私だって……おぇ、吸える」
「良いものではありませんよ。体に毒を送り込んでるようなものです。貴方には似合いません」
「大人ぶりおって」
「大人ですから」
口元を覆い、涙ぐむ鯉登に月島は尤もらしい小言を吐く。
月島が吸うから吸いたいのだ。同じ毒を食らえば、月島にもっと近付けるような気がした。
前世も今世もひっくるめて一蓮托生だと、鯉登はとうに誓っている。月島の為に全て手離してここまで来て、身も心も文字通りくれてやった。あとは何を与えてやれるだろうか。
吸いさしの煙草を口に咥え、月島が宵の空へと煙を吐く。
吐いた煙は瞬く間に夜気へと消えていった。その様は、火葬場の煙突から流れる人の灰が、空に溶け込む光景によく似ている。
無意識のうちに、少しよれたTシャツの裾を掴み、なぁ、月島と呼んでいた。
「墓を……墓を、買わないか?」
意図せずぽろりと零れた言葉は、紛れもなく鯉登自身のものだった。
は?と、声にはせず、月島が放心したような顔を向ける。
「墓を……二人で入る墓を、買っておけばいいのではないか?」
ほんの思いつきで飛び出た言葉だった。曖昧な口調で話す鯉登に対し、月島もまた恐る恐る聞き返す。
「……は、墓、ですか?」
「うん、お前と私の墓だ。どこか景色の美しい場所でも良いし、静かで質素な寺でも良い。二人で決めた場所に買っておいて、お前が先に入った後、私もそこに入れてもらうんだ」
どうだろうか。墓まで一緒ならもう文句はあるまい。
「……先に、死ぬのは俺なんですか?」
「年齢的にな。同時に死にたいのならお前が長生きすれば良い話だ」
「……確かに」
「お前が先に死んだとして、お前の骨を骨壷に入れるのは私ひとりの役目だ。灰になっていくお前をひとりで見届けてひとりで骨を摘み、ひとりで骨壷を受け取ってやる。また逆も然り、だ。どうだ?」
鯉登は一息に捲し立てた。
「……うーん、どうだと問われましても」
己が天に召される行程を、他の誰でもない鯉登がひとりで黙々とこなすのだ。
暫し頭を巡らせ、月島は煙を吐きながら言う。
「最高の、独り占めですね」
「ははっ、そうだろう!」
「鯉登さんが全部やってくれるのか……しかもいずれは鯉登さんも同じ墓に……」
「手続きやらは面倒臭いが私がどうにかしてやる」
「鯉登さんが言うと何でもできてしまいそうですね」
月島の声質が弾むと、つられて鯉登も嬉しくなる。夜であることも忘れ、海に向かい力いっぱい笑い飛ばしたくなった。
「あ、でも俺が死んだ後の鯉登さんが心配ですね」
窓枠の狭いスペースに置いたままの、ガラス製の灰皿に煙草を押し付けて、月島が至極真面目な顔になる。
「うん?」
「貴方は歳をとってもきっと魅力的に違いないから、他所の者に取られてしまわないか心配です」
「またそれかぁ!」
この男の独占欲は、最早病であると断言できる。
鯉登は月島の後頭部を鷲掴み、ぐっと引き寄せ、額と額を合わせると、真っ黒な瞳をしっかりと視界に入れた。変わらず、常に鯉登だけを映した無垢な瞳だ。
「だから、そうならないようにお前が長生きすれば良い。一緒に死にたいのだろう?」
内緒話をするように小声で囁けば、たちまち月島の表情に期待が満ちる。
「ふふ、嬉しそうな顔しおって」
「……墓、良いですね。なんか楽しみになってきました」
「だろう?夏が終われば墓を建てる場所探しの旅にでも出るか。月島もどんな所が良いか考えておけよ?」
「ははっ、貴方と眠れるなら何処でも良いですよ」
鼻先が触れる距離で、月島が珍しく声をあげて笑う。笑いながら、鯉登の頬を親指でやんわりと撫ぜた。
「……うん、私もだ」
だから月島、その日まで一緒に生きような。
心密かに唱えて、鯉登は瞼を閉じる。与えられるキスは、いつもより苦く、有害な毒のようだった。
二人の頭上で、風に揺れる風鈴がちりりんと一際大きく鳴り響く。この上ない程の幸を手に入れておいて、何故だか悲しく、涙が零れ落ちそうになった。