ジリジリと茹だるような夏の暑さも都心を離れてみるカラッと爽やかで、寧ろ爽快とすら思える。抜けるような青空、全身に感じる風が心地いい。派手な赤色のオープンカーはこんな快晴の日こそ本領発揮を発揮する。
車の外は木々が生い茂っていて、林のようになっていた。その間を突き抜ける一本道を、オープンカーは走っている。中古の車には酷な道なのか時折ガタンと車体が大きく揺れたが、特に気にはならなかった。
隣に座る運転手は不機嫌そうに終始顔を顰めながら、ゲストに合わせて選んでいるというラブソングをこれ見よがしに流していた。
「全く…なんで俺がこんなこと」
「頼めるのは芹澤しかいないんだよ。どうせ暇だったんだろ」
「暇じゃねぇよ!教師舐めんな。お前も分かるだろ、同業者」
「冗談だよ。ありがとう、わざわざ付き合ってくれて」
教師が暇な仕事でないことくらい、身に染みてよく分かっている。そんな中でも、こうして夏休みの合間を縫って時間を作ってくれるのだから有難い。素直に礼を言うと、大きくため息を吐かれた。
「草太に言われたからじゃねぇよ。鈴芽ちゃんがどうしても俺が必要だって言うから、引き受けたんだからな」
チラリと見た後部座席には、いつもの活発さがどこかにいってしまったかのように大人しく座る鈴芽さん。
外を眺めながら長く伸ばした髪の毛先に触れている。
ひょっとして緊張しているのだろうか。無理もない、今日は俺たちにとって大切な日だ。俺だって些か緊張している。
「鈴芽さん、大丈夫?」
木漏れ日が眩しくて目を細めながら助手席から振り返ると、鈴芽さんは遠くの方を見つめていた視線をこちらに向けて、それから身を乗り出すようにして「ねぇ」と言ってきた。
「髪、変になってない?」
「なってないよ。早起きして、美容院で綺麗にやってもらったんだろ」
「そうだけど、でもこの風じゃ髪型崩れちゃうよ」
芹澤さんが何年経ってもちゃんと屋根直さないから、と恨み言まで言う。
「え、俺こんなとこまで車出してんのにディスられてる?」
「崩れてないし、それに…その髪型似合ってるよ」
普段はポニーテールにしている髪は下ろされ、ウェーブがかかっている。サイドは編み込んでハーフアップに。髪型が違うだけでいつもより大人びて見えて新鮮だった。
「もう!草太さんってば!」
こういう時、もっと言葉巧みに褒められたらいいのだけれど、女性の髪型の褒め方なんて知らなくてありきたりな褒め言葉しか出てこない。それでも鈴芽さんは喜んでくれて、頬をポッと赤く染めた。
「はいはい。いちゃついてるとこ悪いけど、もうすぐ着くからな」
木々に覆われていた視界が開け、目の前に一面の野原が広がる。開けた場所は小高い丘になっていて、その先には青い海が見えた。そして、丘の上には小さな教会が建っている。
芹澤が車を停めると俺は助手席から降りて、後部座席のドアを開けた。
「どうぞ」
エスコートするように差し出した俺の手を、鈴芽さんは取ってくれた。
車から降りると、ふわりと風にスカートが舞う。
「行こうか」
鈴芽さんの足が、大地を踏みしめる。慣れないヒールでは土の上は歩きにくいようで、時折ふらつく彼女を支えながら一緒に教会を目指して歩いた。
歩く度に、鈴芽さんの純白のワンピースが風に靡いて眩しい。俺も揃えて白のタキシードを着たかったのだけれど、生憎用意ができなかった。せめて並んだ時にそれっぽく見えるように黒のスーツに、黒の蝶ネクタイをしてみたけれど、変じゃないだろうか。鈴芽さんはかっこいいと言ってくれたけれど。
「ねぇ、草太さん」
「な、何?」
見透かされたかと思いドキッとする。やはりこの格好、おかしいかな!?
「教会に行くのは分かってたけど、ここ全然人いないよ?観光地ってかんじでもなさそうだし、まさか廃墟じゃないよね!?あの扉って後ろ戸!?」
教会の重厚感のある扉を指差して、鈴芽さんが不安そうに声を上げる。なんだ、そっちか。俺はほっと胸を撫で下ろすと、思わずクスリと小さく笑った。
「違うよ。この教会は撮影のロケ地として使われることが多いみたいだけど、週末にはミサも開かれてるんだって。今日は無理を言って数時間だけ貸切にしてもらったんだ」
「教会を…貸切……」
すごいと目を丸くする鈴芽さんの隣で、重みのある扉を押し開く。
聖堂の中はシンと静まり返っていて、ステンドグラスから差し込む陽の光がキラキラと煌めいていた。
今日はここで、俺と鈴芽さんは結婚式をする。
*
後からやって来た芹澤と、祭壇の前に立った。
「祭壇に向かって右側が新郎であってるよな?ちゃんと本で確認はしてきたけど…なぁ、指輪ってどうすれば…っ」
メイクや髪型を確認したいという鈴芽さんを待ちつつ、いざこの場に立つと緊張がピークに達しそわそわと落ち着かない。芹澤は呆れたようにため息をついて、俺の背中をバシンと強めに叩いた。
「痛っ!」
「今になって慌てすぎだろ」
「しかし…」
「はいはい落ち着けって。煙草いる?」
小さな箱を差し出される。大学時代に興味本位で芹澤のを貰って咥えたことはあるが、俺には合わなかった。今煙草を吸っても落ち着くとは思えないが、息を吸うという点では理にかなっている気がする。
芹澤の申し出を断わると、大きく深呼吸をした。焦ると自然と呼吸も浅くなってしまう。肺いっぱいに空気を吸い込むと、幾分冷静さを取り戻した。
「なぁ、マジでこれでよかったのか?」
「どういう意味だ?」
「だから、こんな形でよかったのかってことだよ。形だけとはいえ結婚式だろ?なのにいるのが新郎新婦と俺だけっておかしくね?せめて環さんも呼ぶとかさぁ。お前だって」
「それは、最もだと思う」
芹澤の言葉は正しい。俺はともかく、いくら正式なものではないとはいえ鈴芽さんは環さんにこの場にいてほしかったかもしれない。なのに、無理矢理日取りを急いだのは俺だ。
「いずれきちんとした式は挙げるつもりだ。その時には、ちゃんと環さんも呼ぶよ。でも、俺はまだ新米教師だし、鈴芽さんは看護学生だ。金も時間も足りない。鈴芽さんが二十歳になったから籍は入れたけど、いつ式ができるか分からないから」
「それで、形だけでもいいから少しでも早く結婚式がしたかったってことだろ?」
芹澤の言葉に、俺は強く頷いた。
「来週から、また暫く東京を離れるんだ」
「はぁ!?なんだよそれ、聞いてねぇんだけど!」
「言ってないからな」
「仕事は?」
「今は夏休みだから夏季休暇を取れるし、問題ない」
芹澤はもう何もこれ以上は言わないと口を噤んだ。呆れて何も言えないのかもしれない。
「命は仮初で、死はいつも隣にある…だから、こういうことはできる時にした方がいいと思ったんだ」
万が一できなくて、後悔したくないから。
芹澤はまた大きく息を吐くと、よく分かんねぇけどさぁと呟いた。
「草太、あんま生き急ぐなよ。何度説明されてもお前の家業のことはよく分かんねぇし、俺にはなんも見えねぇけどさ、お前がそんなだと心配すんだろ…鈴芽ちゃんが」
「分かってる。鈴芽さんには心配をかけたくないし…あと、芹澤もだろ」
からかい交じりに言ったつもりだったのに、芹澤は苛立たしげに頭をガシガシと掻くと、丸眼鏡の奥で俺を睨んだ。
「あ〜、そうだよ!友達心配して悪いかよ!それもこれも全部、お前が自分の扱い雑なせいだからな!」
「芹澤…」
「お前がふらっとどっかいなくなって、怪我して帰ってくるたびに俺がどんだけ心配したと思ってんだ!俺にも何かできねぇかなってずっと思ってたよ。だって、友達が怪我してんのに黙って講義のノート貸してやるとか、代返するとかしかできねぇんだぞ!」
芹澤が早口で捲し立てるのを、俺は呆気にとられて聞いていた。前々からいい奴だとは思っていたが、まさかそんなことを思っていたなんて。
俺は閉じ師だ。閉じ師の仕事は大事な仕事だからこそ見えない。芹澤からすれば何をしているのか分からない得体の知れない俺のことを、そこまで。
「すまない…お前がまさかそんな風に思っていたなんて知らなかった」
「いいんだよ、仕方ねぇし。それに、悔しいけどちょっと安心してんだ。俺は草太がいくら怪我しても助けてやれねぇから…でも、鈴芽ちゃんならできんだろ?だったら鈴芽ちゃんに余計な心配かけんな!いいか、ここまできたからには最後まで付き合ってやる。友達の大事な結婚式だからな!」
そう言って芹澤はジャケットの襟を正した。派手な柄のシャツを着ている芹澤だが、今日は白のワイシャツに黒いスーツ、白地のネクタイ。そして、いつも着けているピアスが控えめなものに変わっていることと、じゃらじゃらと音がするはずの手首や指に何も着いていないことに、俺はようやく気がついた。
「アクセサリー、外したんだな」
「おう、お陰で手首が軽いわ」
芹澤がぶらぶらと手首を振ったその時、ギギギと重たい音がして扉が押し開かれた。
「お待たせしました!」
はつらつとした声が響く。
開け放たれた扉の向こう、後ろから差す光に照らされた鈴芽さんの姿は、扉を開けて要石になりつつある俺の手を引いてくれた時の彼女のようで、俺は息を呑んだ。
鈴芽さんが祭壇に向かって、教会の真ん中を一歩一歩真っ直ぐに歩いてくる。BGMも何もない静かな堂内に、カツン、カツンとヒールの音だけが響いた。
彼女の足取りは堂々としていて、死すら恐れない彼女の強い意思が感じられた。大人の俺があたふたしていたというのに。
君は、俺を追いかけて常世に来た時もきっとこんな風に真っ直ぐに歩いていたんだろうな。
自分を救ってくれた人の気高い美しさに、泣きそうになる。
祭壇の前で向かい合うと、鈴芽さんはふふっと柔らかく笑った。
「草太さん、早すぎですよ」
「君が、あまりにも綺麗だから」
「草太さんもかっこいいです」
しばらく無言で見つめ合っていると、先に耐えきれなくなった鈴芽さんが小声で「芹澤さん!」と合図を送る。
芹澤はハッと思い出したように小さく咳払いして「新郎、宗像草太」と口を開いた。
「新郎、宗像草太、あなたはここにいる岩戸鈴芽を、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
「はい、誓います」
「新婦、岩戸鈴芽、あなたはここにいる宗像草太を、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、夫として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
「はい、誓います」
鈴芽さんの声はしっかりとしていた。その声には閉じ師である俺と生きていくための覚悟が感じられ、俺はまた泣きそうになる。
いつ死んでもおかしくない不確定な俺だけれど、鈴芽さんは俺を愛して、共に生きていくと約束してくれた。ならば俺も、何があっても鈴芽さんを守ろう、戸締まりして守り抜こう。
鈴芽さんのために、俺は死ぬわけにはいかないんだ。
自然と背筋が伸びる。
芹澤は昨日必死に覚えたセリフを間違えず言えたことに安堵したのか、大きく息を吐いた。
この教会は電車を乗り継いだだけでは辿り着くことができず、どうしても車が必要だから運転を頼みたい、ついでに神父の役も頼みたいとメッセージを送った時、芹澤は酒を飲んでいたらしく二つ返事で「りょーかい」と返ってきた。翌朝、酔いが覚めたであろう芹澤から朝だろうが仕事中だろうが関係なく何度も電話やメッセージが送られてきたので、退勤して直ぐに折り返し電話をかけた。電話口から聞こえてくる声で、彼が苦い顔をしているのだと容易に想像できたが結局は渋々折れてくれるし、神父の誓いの言葉まで暗記してきてくれる。本当に、いい友達だ。
「指輪の交換を」
芹澤に促されるように俺がポケットから指輪の入ったケースを取り出すと、鈴芽さんがそろそろと左手を差し出してくる。その手を取って、薬指にそっとピンクゴールドの指輪を嵌めた。
仰々しくケースに入ってはいるが、この指輪は結婚指輪でもなんでもない。ジュエリーショップで財布と相談して買ったペアリングで、値段も手頃なもの。不甲斐ないが、給料3ヶ月分には程遠い。
鈴芽さんは自分の左薬指を翳して、ぱぁっと顔を輝かせた。
「ふふ、草太さんからの指輪!」
鈴芽さんの声は弾んでいる。
「あ、私も指輪してあげるね。草太さん、手出して!」
「はい」
鈴芽さんも俺と同じように柔らかな手で俺の左手にシルバーの指輪を嵌めてくれた。
2人の薬指に、キラキラと色違いの指輪が輝く。
「すっごく嬉しい!私、この指輪一生大切にするね」
「一生なんて…そのうちちゃんとした指輪を渡すよ」
「じゃあ草太さんはこの指輪大切にしてくれないの?」
「そんなわけない!…あっ」
咄嗟に声を荒げてしまった俺に、鈴芽さんがしてやったりと言わんばかりににんまりと笑う。全く、君ってやつは。当たり前じゃないか、大切な人とのペアリングなんだから。
赤くなった顔を誤魔化すように咳払いする。でもどうしたって君とお揃いの指輪を嵌めていることが嬉しくて、俺も自分の左薬指を見て頬が緩んだ。鈴芽さんと顔を見合わせて、笑い合う。
きっとこの先正式に結婚指輪を買ったとしても、この指輪は大切なものになるだろう。決して大袈裟ではなく、それこそ一生ものだ。
こうして向かい合って鈴芽さんの幸せそうな顔を見ていると、愛おしさが溢れてくる。そんな俺の雰囲気を感じ取ったのか、芹澤の声が割って入った。
「じゃ、いい感じに指輪の交換も済んだことだし誓のキスいっとくか!」
「えぇっ!?」
神父の務めを果たしたと思ったのか、普段の口調に戻った芹澤の言葉に俺と鈴芽さんの声が重なる。
確かにこれが本当の結婚式ならそういう流れだけれど!今、鈴芽さんのふっくらとした唇に口付けたいと思っていたけれど!
「なんだよ、結婚式なんだから当然だろ。それに、キスぐらいもう何度もしてんだから今更恥ずかしがるなよ」
「そういう問題じゃないだろ。大体お前が見てる前でなんて、鈴芽さんだって」
「私はいいよ!」
「なんと…っ!?」
ハッキリと言い放つ鈴芽さんに俺は驚いてしまう。
「鈴芽さん、恥ずかしかったら断っても」
「そりゃ、芹澤さんとは知らない仲じゃないし…だから、ちょっと恥ずかしい気持ちはあるけど」
鈴芽さんがチラリと芹澤に視線を向けた。しかしすぐにこちらに向き直って、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「でも、誓のキスしたい!だって、草太さんと結婚したんだもん!」
「……っ」
そうだ、俺は鈴芽さんと結婚したんだ。どんなに危険があろうともう離れないと、離さないと誓ったんだ。
「……鈴芽さん」
「私ね、草太さんと出会わなかったら知らないことばっかりだった。愛媛の魚が美味しいことも、神戸のスナックの賑やかさも、東京の人の多さも、人がこんなに優しくてあったかいんだってことも、宮崎にいたら何にも知らないまま終わってた。草太さんが私の世界を広げてくれたの。草太さんが広げてくれた世界には、草太さんが必要だよ」
するりと左手が撫でられ、指輪を嵌めた指同士が絡み合う。左手を繋ぐと、鈴芽さんが上向き加減で目を閉じた。
「鈴芽さん、俺はいつか誰にも知られず、1人でひっそりと廃墟で死ぬんだと思ってた。生きることにどこか投げやりだった。でも今は違う。俺は、1日でも、1秒でも、長く生きたい」
マシュマロのように柔らかな頬にそっと右手を添えて、屈むように上から唇を触れ合わせた。
「んっ…」
「んっ、え、ちょ…そうたさ…っ、ぅん…っ!?」
ちゅ、と一度口付けを落としてしまえば愛おしさに止まらなくて、啄むように角度を変えて何度もその柔らかな唇に自分のそれを押し付けてしまう。最初は驚いて押し返すようにしていた鈴芽さんも、次第に従順に受け入れてくれるようになっていった。
もう少し深くしたい、と舌を差し入れようとしたところでカシャッというシャッター音。音のした方を見れば、何とも楽しそうな顔で芹澤がスマートフォンを構えていた。
「俺がいること忘れんなよ。あ、鈴芽ちゃんこの写真後で送っとくね」
「はぁっ!?」
「やった!ほしいです!」
「何言ってる!消せ!」
嫌に決まってんだろと逃げる芹澤を追いかける。バタバタという足音と、鈴芽さんの笑い声が反響して教会中に響いた。
「芹澤!さっきの写真、消さないなら俺にも送れ!」
「そっちが本音だろバカ草太!幸せになれよ!」
教会で走り回って、何をやってるんだ俺たちは。しかし、この瞬間がどうしようもなく幸せで、ずっと続いてほしいと願わずにはいられなかった。
「言われなくてもなってやるよ!」
鳴るはずのない幸せの鐘が、俺には確かに聞こえていた。