ドーナツホールの続きから食べる④異動になった。この春から。なるほど季節がほぼ一回転した。
今回は希望を出していなかったから、上の気の向くままに遠くに飛ばされた。
猶予は1ヶ月半。その間に滞りなく引っ越せるよう算段をつける。
家を下見に行って、契約して、引っ越し業者を手配して、荷造りをして。
その合間に杉元たちとご飯に行って、一度実家に顔を出して。
仕事をしながらでは、あまり時間はない。
とりあえず仕事に戻る前に家族のラインに簡単に報告をして実家に帰る日取りを提案して、杉元にも異動になったことを報告する。
兄からの返信がすぐについた通知だけ横目に見ながら、仕事に戻る。
引継ぎを準備をしないといけない。
月島から預かった客を、別の人に引き渡すときがきてしまった。返してやることは、できなかった。
これから打ち合わせをして、丁寧に引継ぎをするのだろう。そして、あの時の引継ぎで苦労した話をして、「やるなよ」と親切に脅してやらねば。
大体の手配が終わったのは引っ越し1週間前。
家を決めるときは兄がついてくると言って聞かないので、まあたまにはと小旅行の気分で二人で家を巡った。
セキュリティよし駅近築浅南向き、まあ大概の希望を叶えた2LDKに決め、美味しいご飯をご馳走になって別れた。
荷造りは業者に頼んでもよかったが、そんなに量もなかったので、杉元たちにバイト代を払って荷造りと片づけを頼むことにした。
自分の細かい荷物は自分で詰めようと思って、杉元たちが来る前日に、荷造りを始める。
本棚にまとめた入社してからの資料や手帳を詰めようと手に取ったとき、古い手帳からはみ出た写真が目に入る。綺麗に入れなおそうとページを開くと、懐かしい写真が目に飛び込んでくる。
会社のBBQで撮ってもらった、貴重な二人の写真。あれは月島がいなくなる前の年の夏のイベントでのことだ。
写真係がニコニコして「もっと寄って」と言ってくれたから、遠慮なく肩を組んでピースをして、月島はちょっと呆れたような、兄のような顔をして控えめにピースを作ってくれた。
どこに仕舞ったかと思っていたが、ここにあったか。
あの時の自分は色々と必死だったことを思い出す。
好きな気持ちは隠せないのはもう諦めて、前に色々あったことだけをなんとか隠して、友達になろうとして、月島が興味のありそうなことを、一緒に楽しめそうなことを探して、誘って、あまり突飛なわがままを言わないようにして、いた、ことが、ぶわっと思い出されて、大粒の水滴がズボンに落ちて、大きい染みになった。
一瞬何が起きたか分からない。
ぼろぼろ涙が出てきて、ぬぐってもぬぐっても止まらない。
「う、うっ」
食いしばった歯から、喉の奥の悲鳴が漏れる。
どうやっても止まらない涙に、手で拭うのを諦めてティッシュで押さえる。
このままでは明日腫れるな、と変に冷静な頭と、それに反してどんどん落ちる涙に、押さえる方が間に合わない。
きつい。きつかった。この一年。
好きだってちゃんと言いたかった。言ってフラれるならそれでよかった。
突然放り出されて、生活から月島が消えて、日常を保とうとして、がんばってきたけれど、
がんばるのにはそろそろ限界で、いよいよ精神が悲鳴をあげていた。
「待つ」ことを、一旦辞めて、なにかアクションを起こしてやらないと、今泣いている自分が可哀想だった。
私だって自分のことが大事だ。月島だってそうだった。
久しぶりに、旅行に行って。月島を探して、がっかりしよう。
とかく日本は広すぎる。
ボルダリングに行って、隣に月島がいないのを再確認しよう。
一人で壁から落ちて、誰も笑ってくれなくても。
一旦、前を向くために、後ろを見ないといけない。自分を守るためにとるアクションが、悪いことだと思わない。きっと月島が見つからなくて、月島の影を追って深く傷つくだろうな。でも、本当はもっと前から傷ついていたのだ。その傷を見ないようにしてきていただけで。
無理矢理押さえて止めていた血が噴き出したとしても、ちゃんと向き合って治してやらないと、ずっとこのままだ。
後生大事に挟んだ付箋の隣に、写真を入れて、閉じる。
付箋はもう劣化が始まっていて、色が少し褪せた。端も段々ぼろぼろになってきている。
その隣に入れた写真は、なにかカバーをかけた方がいいかもしれない。
深呼吸をする。
私には、お前がいきなりいなくなる方が無理だったよ。
異動まであと3日、もう大分やることもなくなって、異動先の資料を読んだりしていると、一角がふとざわついた。目をやると、鶴見さんが人に囲まれて笑っている。
久しぶりにこちらに来たのだろう。オフィスと客先を飛び回っているので、遭遇できるのはレアだ。
「鯉登、異動だってな」
「はい」
人が落ち着いたころに声をかけてくれて、頷く。
「引っ越し準備はできたか?」
「はい。友人に手伝ってもらって」
「そうか」
「月島さんの写真が出てきました」
ぱちり、と鶴見さんが大きく一つ瞬いた。
「一昨年の夏のBBQの」
「ああ、懐かしい」
ふむ、と髭を撫でて、思い出したように鶴見さんが口を開く。
「そういえば最近生きてるって連絡が来たな」
「えっ……」
思ったより落ち着いた声が出た。というか、声が出なくて、こぼれた声が普通の声量だった。
「れ、連絡は取ってるんですか?」
「いや全く。辞めてから初めてきたぞ」
元気そうで安心する気持ちと、鶴見さんにも連絡してなくて安心な気持ちと、不安。いや鶴見さんに連絡がないことに安心するのはあまりに不健康だ。生きていることを喜ばねば。
「元気そうですか?」
できるだけ平静を装って聞くが、鶴見さんはニコニコしている。
「本当に短い連絡だけだったからよくわからないが、生きてはいるよ」
「そうでしたか」
なんと返したらいいか迷って、目を伏せる。
なにで連絡が来たんだろうか。携帯か、電話か、手紙か。
いずれにせよ自分にはなにもなく、自分の異動を伝える手段もない。
「また連絡が来たら……」
来たら何だというのだろう。自分宛ではなく鶴見さんへの連絡に。
「異動したことだけ、伝えてください」
「分かった」
鶴見さんは穏やかに笑って、それにお辞儀で返す。
いつか月島が会う気になったときに、すれ違うことだけは避けたい。
それだけ、伝わればいいと思った。
自分の気持ちは、話せるときに、相手に直接話せばいい。