ドーナツホールの続きから食べる⑧店先だけ案内されていた、月島の働く料亭の料理は、美味しかった。
厨房に立つかと大将が誘うと、月島が普通に断っていたので笑ってしまった。
そんな軽口が許されるのだと安心する気持ちと、厨房に立つ月島がどんな恰好なのか、似合っているのか、似合わないと自分は思うのか、見てみたいと思う。
晩ご飯を食べ終わると、レンタカーまで連れていかれた。荷物を持てということらしい。二人とも軽く飲んだので、月島もハンドルを握る様子はない。
「この村、宿がなくて。俺の部屋本当に狭いので。みんな準備で朝からうるさいし。明日、日が出てから案内します」
月島は珍しく言い訳がましくもごもご言っていたが、とりあえずその理由では部屋に泊めないのも尤もだと思ったので、素直に従う。
「マジで前世のあなたに誓ってなにもしませんが、本当に部屋は無理です」
と真面目に言うので、笑いをこらえて月島を見ると、月島は少し不貞腐れたような顔をして踵を返したので、それに続く。珍しい表情なので、何か言ってやりたい気持ちになったが、拗ねて明日部屋に案内してもらえなくなるのも癪なので、静かにしておく。
行き先は、さっき料亭で言っていた、乗せてもらっている船の船長の家だろう。ほどなくして、この辺では大きな家に着く。
手土産がない。後日送らねば。
無遠慮に月島が引き戸を引き、ごめんくださいと声を張った。
「いらっしゃい、こんばんは」
奥から人のよさそうなご婦人が出てきて、月島が軽く頭を下げた。
「電話した件です。こちらが俺の友人なんですけど」
「お邪魔します」
挨拶もそこそこに月島は頭を下げて帰っていき、私は普通に親戚の家のように風呂を借り客間に案内されて、普通に床に就いた。
さすがに長い移動に加え、街を案内されて気疲れしていたようだった。
ここ数日の寝つきの悪さが嘘のように、なにも考え込まずに寝て、起きたときにはもう街は起きだしていた。遠くから人の声がする。
至って普通の朝だ。
浮かれるわけでもなく、絶望しているわけでもなく、比較的普通の、日常の。
自分で、自分が冷静なことに驚く。
2、3度目を瞬いて、伸びをする。
洗面所で顔を洗って、鏡を見る。
本当に、いつも通りの顔をしていて、これでは確かに月島がどう接したらいいか迷うだろうな、と思った。
月島がいなくなってから、たくさん考えて、それで待つということを決めたとき、腹は決まっていて、覚悟という荷物をずっと持っていたから、それを持っていたことすら忘れていた。だから、ここまでこれたのだろう。こんな、知らないところまで。知らない人の家に泊まってでも。
普段、何もない自分だったら、こんなに無計画に、どこに行くかも、どこに泊まるかも決まらないままに旅行に行くのは無理だったろう。潔癖の気はあるし、それなりの布団で寝たいし、できれば民宿ではなくホテルや旅館がいい。しかも後から知らされたとはいえ、手土産も持たずに人の家なんて、母が聞いたら睨まれること請け合いだ。
それでも、ここに来なければならないと思ったのは、いつでも向き合う覚悟ができていたからだろう。多分。覚悟がとうの昔に決まっていたのに気づいたのは今だけど。
恐らくだが、月島はまだ、自分の中で整理がついていないんだろう。私に会ってどうするか、向き合いきれずに会いに来て、衝動的に呼んだんだろう。
けれど、そうしてまず会いに来てくれなければ、こうやって話すこともできなかった。覚悟を決めるのに少し時間がいるのは、自分のことを振り返れば明かだ。追い詰めないようにしないと、と思う。
身支度を整えて居間の方に行くと、月島が座っていて、なにか資料を読んでいるようだった。これが言っていた手伝いのひとつだろうか。
「今日は休みなんだな」
「はい。普段だったら俺も船に乗ってます」
昨日案内してくれたご婦人が出てきて、挨拶をする。
みんなが帰ってくる前に朝ご飯食べちゃって、と促されて、月島と一緒に朝ご飯をご馳走になる。
「普段は飯はどうしてる」
「家はキッチンも冷蔵庫も共有なので、食えるなら他の人と一緒に食います。朝はほぼここでいただいてますね」
あとは大体カップ麺、と言われてゾゾっとする。こんな体が資本のところで……カップ麺……!?
ぞわぞわしていると、月島は苦笑いして、昼夜は大体昨日の料理屋で賄いを食べてます、と言われて安心した。定休日があったと記憶しているが、それは一旦忘れることにする。
荷物をまとめて、奥さんにお礼を言って家を後にする。
住所を教えてもらったので、ここらの細かい住所を知ることができた。
開かないようにしていたマップを、後から見直そうと思う。
まっすぐに、月島は車を停めた隣のアパートに入っていく。
民宿のような、下宿のような家に入ると、月島は迷うことなく自室に案内してくれた。
軋む階段を上がり、すぐの部屋。
「どうぞ」
「お邪魔します」
一歩踏み入れると、押し入れもなく、狭い部屋だ。本当に物がない。訪れたことのある、前の家の記憶を引っ張り出して見回してみても、そこから来たものはひとつもない。
「前住んでた家の荷物はどうした?」
「全部レンタルスペースに詰め込みました」
「全部」
「捨ててはないです」
数少ない家具は布団と、座卓と座椅子と、座卓の上に載った読書灯。
それを見て、ものすごくほっとした。
ちゃんと、生きている。
ここを居場所として、生きているんだな。
生きていてよかった。自分を守れていて。
黙ってしまった私を月島が見て、驚いて声を上げた。
「なんで泣いてるんですか!?」
頬に手をやると、確かに濡れていて、自分でも驚いた。
「分からん、分からんけど、生きててよかった」
ちゃんと寝て、朝が来ることに前向きになっていることが、嬉しかった。
ティッシュ箱を差し出され、涙を拭う。
「お茶持ってきます、座ってください」
と座椅子に座らされる。
本当に物がない部屋だが、今ティッシュが出てきたカラーボックスには数冊の本が並んでいる。あまり統一性のないジャンルだ。
見たことがあるような名前も、全く見たことのないタイトルも並んでいる。一番端には、薄い背表紙のノート。
聞いたら見せてくれるだろうか。