ドーナツホールの続きから食べる⑨「お前っ マジでなんでこんなところに住んだ!?」
開口一番、鯉登さんはそう言った。口調は怒っているし、なんなら雰囲気もちょっと怒っているが、顔は笑っていた。
「あなたが絶対に辿り着けないように」
「そうだろうな!!」
大きな声を出して、今度こそ鯉登さんは笑った。
元々旅行好きな人だ、遠出が楽しいんだろうと思う。
待ち合わせの時間は、船の仕事を終えて朝飯を食べ、シャワーを浴びてひと段落したくらいの時間で。
鯉登さんは恐らく始発から出てくれて、レンタカーを借りて乗って来て、間に合う約束の時間だ。
今日は鯉登さんはここまで一人で来てくれた。だから余計に長く感じたんだろう。
「乗れ月島!今日はカフェに行くぞ!」
合流して言うなり運転席に入って行った鯉登さんに続いて、助手席に座る。
荷物はトランクで来たかと思ったが、後部座席に大きいリュックが載っている。一泊二日ならこんなものか。いや、前と比べれば、大分減ったか。
「俺運転しましょうか?」
「大丈夫だ、お前は寝てろ」
「はあ……」
それほど強い日差しではないが、鯉登さんは大きいサングラスをかけて、シートベルトをした。俺もシートベルトをして、ぼうっと前を見た。もうナビはセットされていたので、することもない。
目が覚めたときには、30分くらい走っていたようだった。まだ来たことのない場所のようで、見たことのない通りを走っている。
「もう着くぞ」
そう言ってコインパーキングに車が停まり、鯉登さんについて少し歩くと、本当に小洒落たカフェがあった。
「こんなとこ近くにあったんですね」
「ああ、インスタで見た!」
鯉登さんはニコニコして、店に入って行く。
客もまばらな店内は、彼が好きそうな落ち着いた印象で、置いてある椅子がどれも違う。
空いてるお席どうぞ、と店員に声をかけられた鯉登さんは、あそこがいい、と窓際のソファ席に座った。
「なんか……珍しいですね」
窓に向かって備え付けられた机とソファは、横並びに座るカップル用の席で、けれど意を決して鯉登さんの隣に座る。
まるで家のようだ、と思っていると、「家のソファみたいだなあ」と鯉登さんがソファでフカフカ跳ねた。
「おやめなさい」とたしなめると、鯉登さんは笑った。
気を取り直してブランチのメニューを広げる。
「月島は何にする?」
「そうですね、カフェ自体久しぶりなので、なんでも」
そうか、と鯉登さんは頷いて、「じゃあこのメニューで迷ってるから、一緒に食べよう」と言ってくれた。正直、そうやって決めてもらえるのは助かる。
注文をして、近況を話して、あっという間に運ばれてきた料理の写真を撮る。
フレンチトーストとスコーンが並んで、お洒落なブランチだ。最近のカメラは優秀で、俺でもなんかお洒落な写真が撮れた。
ちらりと鯉登さんは俺の携帯を見て、呟く。
「そろそろ通話用の携帯も作れ」
「そうですね……」
最近はアプリでも電話認証が必要なものも多い。鯉登さんとの連絡は、今はもっぱら普通のメールで、そのことを言っているのだろう。
確かに格安スマホの回線の弱さが気になってきたというのもある。海沿いというか、田舎は、大手キャリアの回線の方が強いと聞いた。鶴見さんにもらった携帯を返すときか。
鯉登さんは丁寧にフレンチトーストを切り分けて、口に運んでいる。
俺もスコーンを一つ食べきってから、口を開く。
「そういえばお伝えするタイミングを逃していたんですが」
「なんだ」
「鶴見さんから、携帯を預かっています」
これです、とテーブルに二つ折りの携帯を載せると、鯉登さんはじっとそれを見て、一瞬表情が死んで、でもすぐに普通に戻った。
「何度か話したのか」
「いえ、先日一度だけ。鯉登さんの近況を聞きたくて」
「私のか」
「はい。それで異動されてるのを聞きました」
「なるほど」
一瞬鯉登さんの目が泳ぐ。
「なので、それを聞いてあの日は待ち伏せしてました。初日に会えて運がよかった」
「なるほど……」
鯉登さんがぐんにゃりと仰け反った。少ししてから戻ってきて、コーヒーを飲んで、溜息を吐いて、頭を抱えた。
「あのな月島」
「はい」
「私は一瞬鶴見さんに嫉妬したことが恥ずかしくて頭を抱えている」
「まさか解説されるとは思いませんでしたが、なるほど」
切り分けてあったトーストを口に放り込まれた。かなり甘い。もぐもぐと咀嚼していると、鯉登さんはじとりとこちらを見て、呻いた。
「その携帯、どうするんだ」
「返そうかと思いまして。新しい番号を契約したら、もういらないでしょう」
そうだな、と鯉登さんはまた更に向き直って、フレンチトーストを食べ進めた。
それを見ながら、コーヒーを啜る。
まるで、何もなかったようだった。客観的には、きっとそう見えた。
鯉登さんが努めて普通に振る舞っているのが分かって、俺も、出来るだけ普通にする。
あれから少しだけ時間が経って、俺も大分整理がついて、鯉登さんを傷つけたことも、自分勝手に会いに行ったことも、わがままを言って連れてきたことも、
申し訳ないと思ったことも、後悔していないことも、
今回なら伝えられる気がした。
鯉登さんが首を縦に振ってくれるなら付き合いたいと思っているし、転職して引っ越してもいいし、二人で住んでもいいし、つまり、自分は、彼ともう一度、俺がいなくなるところから、やり直させてもらいたいと思っている。
それを、鯉登さんがどう受け取るかは、別にして。
「今日は他にどこか行きたいところありますか?」
「夕方には店の方に戻るんだろう?近場でのんびりしようと思う」
夕方からは雨らしいし、と鯉登さんは付け加えた。
何もないと思っていたところだが、車を走らせれば案外時間は潰せた。やはり車は買っておくべきだったかと思ったが、自分の世界が広がっていたことが、鯉登さんに会いに行くのを遅らせたかもしれないし、逆だったかもしれない。
途中から運転を代わって、いい時間に町に向かう。
鯉登さんは助手席でスマホを睨んで、こちらを見た。
「仕込み中、お前の部屋で仕事していてもいいか」
「いいですよ。今日どこに泊まるんです?」
「30分くらいのところのホテルを予約してる。また明日朝くる」
「分かりました」
前と同じように車をアパートの横に停め、部屋に戻って白衣を掴む。
鯉登さんはリュックをそのまま持って上がってきた。パソコンとかも入っていたから大きな荷物だったようだ。
「これ、鍵です。出るときにかけてください」
「うん」
鯉登さんは微妙な面持ちで、なにもついていない鍵を受け取った。
「鍵、一本しかもらえないんです。合鍵渡せなくて、すみません」
「い、いや、そういうわけでは、なくて」
珍しく鯉登さんが先に狼狽えた。当たっていると思うんだが、ないものは渡せない。
「行ってきます」
「ああ」
鯉登さんを部屋に残していくのは心苦しかったが、結局開店までの少しの時間はどこかで時間をつぶしてもらわないといけなかったから、これはこれでよかったと思う。
「昼は楽しかった?」
と大将に聞かれ、素直に頷く。
一日出かけてからの仕事は、正直きついかもと思っていたけれど、意外とそんなことはなく、どちらかというとリフレッシュできていたから、すごいと思う。
開店から少しして、鯉登さんが店に顔を出した。
カウンターの、多分今日は来ない常連の席に座ってもらう。
「お酒飲まないですよね?」
「ああ、今日はいい」
「飲みたくなったら、代行頼みますよ」
そう言うと、じとりと鯉登さんがこちらを睨んだ。
「お前が送ってくれてもいいんだぞ」
小声でそう言ったあと、ふいと視線を外して、鯉登さんは首を振った。
「いや。片道30分だしな。今の発言はナシだ」
「忘れませんよ」
「おい」
む、ともう一度睨まれたので、笑って首を振る。
そういうことは、何度だって、言ってもらいたい。
やはり、この人のわがままに振り回される方が、楽しいのだ。
「まあでも、ほんと、送るので。部屋で寝ててもいいですし」
「布団がない」
「俺の布団で。俺が帰ったら送ります」
「うーん」
鯉登さんは少し思案したあと、首を振った。
「やっぱり今日はいい。また今度にする」
「分かりました」
とりあえずどうぞ、と、さっき仕込んだ先付けと、ウーロン茶を出す。
「今日はちゃんと払わせてもらうぞ」
「はいはい」
俺が適当な返事をすると、大将もニコニコして頷いた。
「あと現金のみですよ、ここ」
「大丈夫だ、マップで予習してきた」
「なるほどそんな使い方が……」
鯉登さんはドヤッとしてから、料理に口をつけた。
一通り料理を出していると、段々店が混みあってくる。
鯉登さんの言っていた通り雨が降ってきたようで、傘を持って入ってくる人が増えてきた。
傘を持たずに出たときは雨が降っててもお構いなしに帰るので、手ぶらで来ていた鯉登さんに渡せる傘がない。
「一旦帰る。また空いたころに来る」
「傘ないですよね?」
「いや、お前のを借りて来た」
「え?」
間抜けな顔、と笑った鯉登さんの手には、確かに俺の傘がある。ただのビニール傘で、名前などは書いていないはずだが。
「玄関ですれ違った人に、お前の傘がこれだと教えてもらった」
「ああ……」
鯉登さんが完全に俺の連れだと認知されている。
恥ずかしいやらちゃっかりしてるなと感心するやらで、忙しい。
「で、お会計」
「ええーと」
大将の方に向くと、ちらと店内を見回された。特別扱いすると微妙だろう。
レジに行って、ちゃんと書き留めた品から、ひとつひいて、会計をする。
鯉登さんは「また来る」と言って、店を出て行った。
「で、あれは誰なんですか?」
「月島さんのお友達ですか」
「どこの人ですか?初めて見ました」
「こないだもきてましたよね?」
「噂の黒いイケメンですよね」
鯉登さんがいなくなった店内はほぼ常連の人たちで、一斉に問い詰められる。
コミュニティが狭すぎて、みんなが鯉登さんのことを認識しているようだった。
「ええと、前の、会社の、同僚というか、友人です……」
鯉登さんがタメ口なので、後輩と言うと角が立ちそうだった。嘘はついていない。
追及が続きそうだったので、裏に逃げ込む。
とりあえず数日耐えれば、話題は次の人に移るだろう。とりあえず鯉登さんが、明日もなにか目立つことをしなければ。
店が混んだのは一時的なもので、予定より早く店が空いた。
鯉登さんにメールをすると、すぐに店に顔を出した。
「仕事、大丈夫ですか?」
「ああ」
同じ席に座って、鯉登さんは「デザートが食べたい」と言い出した。
「アイスしかないですけど……」
「うん」
「緑茶しかないですけど……」
「うん、それでいい」
雨の日だったが、アイスでいいらしい。
黙々とアイスを食べる鯉登さんを見ながら、大将に声をかける。
「なんか……増やしましょうかね、デザート」
「月島さんが作ってくれるならいいですよ」
「試作……暇な日に作ってみますか」
意外と好きな人いるかもしれませんね、と大将は言った。
「ごちそうさま」
あっという間に平らげて、鯉登さんはお金を置いて、俺に鍵と傘を差しだした。
「これ、ありがとう。私は車をそこに停めてきたから、もういい」
「あ、ありがとうございます」
場の空気がちょっと変な感じになったので、居心地がとても悪い。
「気をつけてください」
「ああ」
店先まで見送ると、「また明日」と小さく鯉登さんが手を振って、すぐ横に停めてあった車に乗り込んだ。
車が出ていくところまで見送って、店に戻ると、みんながニコニコしていたので、本当に居心地が悪い。
今度は裏に逃げる用事もなく、みんながあれやこれやと鯉登さんの話をしているのを、心を無にして聞くしかなかった。
幸か不幸か、土地柄か、鯉登さんが友人であることを疑われることはなかった。大将だけ、ちょっと違った笑顔を浮かべていたので、なんとなく察されていると思う。
翌朝も、船に乗って、降りて、一旦家に帰って、シャワーを浴びようとしたら。
「おはよう月島」
「えっ?! 鯉登さん!?」
キッチンに鯉登さんがいる。思わず目をこすると、「まだ寝ぼけてるのか?」と笑われた。
「お前の朝飯はいらんとおかみさんに言ってあるぞ」
「えっ?!」
「嫌いか? ホットサンド。まあ米に比べたらあれだが」
「えっ?!」
「シャワー浴びてこい。一緒に食べよう」
何が起きているか分からないまま、促されてシャワーを浴びてキッチンに戻ると、追加でスープができていた。
呆然と立っていると、鯉登さんが首を傾げた。
「腹減ってないか?」
「いえ。食べていいんですか?」
「もちろんだ!」
コーヒーも持ってきたぞ、と手で落としたらしいコーヒーが差し出された。ほとんど使ったことのない、ダイニングテーブルに腰かける。コンロ側の向いの席に、鯉登さんが座る。それだけで、非日常感がすごい。
「お前が和食中心なのは重々承知だが、それは私が作るよりお前が作る方が美味いだろうからな」
器用な鯉登さんのことだから、同じように教わったら、俺よりも早く習得するような気がするが。まだ熱いホットサンドを取って、一口齧る。ハムとチーズだ。
「うまい」
「そうか? よかった」
目の前に座った鯉登さんが、穏やかに笑って、同じようにホットサンドを齧った。
コンロの上には直火にかける用のホットサンドメーカーが載っている。火がついているので、もう一つ焼けるらしい。
ひとつをあっという間に平らげて、コーンスープを飲む。
「……こんな風に鯉登さんに作ってもらえるなんて、思ってなかったです」
「そうだな、私もちょっと前までは想像もしてなかった」
なんだかまだ信じられない気持ちで、鯉登さんが火にかけていたホットサンドメーカーを開ける様子を見る。
これを持ってきたからさらにリュックが膨れたんだろう、という気持ちと、初めからそのつもりだったのだ、という感動が、一緒にやってきた。
「これは半分こだ」
ざくりと包丁で半分に切られたホットサンドから、トマトソースが落ちる。
「もう一つ作る」
そう言って、片面がすでに火の入ったパンをセットして、中身を詰める背中を見つめる。
どれだけ色々準備したんだろう。何時から。何時にこの家に入ってきた?確かに玄関に鍵はかかっていないけど。いや奥さんに声もかけてる。いつから。どうやって。
あまりに混乱したけど、その混乱は、一旦しなくてもいいような気がした。
鯉登さんが、俺のために、色々根回しして、今キッチンに立って、朝飯を作ってくれている。
ぎゅう、と心臓が掴まれるような気がして、思わず胸のあたりを押さえた。
がこん、とホットサンドメーカーをひっくり返す音で、手を放す。
「あとはもう少し焼くだけだから、待っていろ」
鯉登さんはまた椅子に戻って、コーヒーに口をつけた。今更気づいたが、客人用のマグカップだ。この家のことを、把握している。
軽く目眩がした。