ドーナツホールの続きから食べる⑤5
窓の外から雨の音がする。
パタン、パタンと屋根を叩く音が断続的に聞こえていて、この分では明日の漁もなくなりそうだ。
図書館から借りていた本が、もう少しで読み終わる。
社会人の時にずっとできなかったことのひとつだ。
図書館に通って、背表紙が気になった本を片っ端から読み漁る。当たり外れはもちろんあるが、それを含めて、だ。
そのために買った読書灯が座卓の真ん中を照らして鎮座している。最近買ったばかりだが気に入っていて、部屋備え付けの小さな座卓に座布団、そして読書灯。このスペースは、自分が作り上げたものだ。自分の居場所に対して、真摯に向き合って作るのは、会社を辞めてから初めてのことだった。
ぺらりと紙をめくる音が響く。
この本も面白かった。ノートにタイトルをメモして、短い感想を書く。
コンコン、とドアを叩く音。ドアが開かないまま、声がかかる。
「明日も漁ないって」
「わかった。ありがとう」
やはりだ。
今日はこれからの料理屋のバイトだけだ。
あれから1週間の約束が、1ヶ月になり、先輩にあたる、子どもが生まれたやつは、俺がいるなら休みをとらせてほしいと休暇に入り、いつしか復活しても、辞めることなく働いている。
掛け持ちになったので忙しくなったが、心許なかった給料が増えたし食費は浮くし料理スキルは上がるので、割といいことずくめだと思っている。ウィンウィンというやつだ。
最近は店も少し忙しくなってきた。今日は雨だから客は少ないだろうが。
どうやら口コミを見て来るようになった人が増えたと聞いた。グルメサイトの評価はそこそこらしいが、マップの口コミがいいらしい。鯉登さんもマップの方が信頼できると言っていたっけ。どうやってそれを探しているのかは知らないが、インスタとかだろうか。鯉登さんに、届いたりするのだろうか。まだ鯉登さんはインスタにパフェをあげているだろうか。誰と出かけているんだろうか。
ぐるぐる考え始めてしまったので、読書灯を消す。
明日の日中は店は定休日なので、一日オフだ。何をしようか。最近していなかったことをしようか。
自分はなにが好きだっただろうか、と考える。
学生の頃は特にこれといった趣味もなく、特技もなく、なんとなく運動神経が良くて、部活も特にこだわりなく適当に入って、適当に卒業した。
鯉登さんに振り回されていたことが、嫌ではなかった。
他の人から見て、彼が振り回す側で、俺が振り回される側だったけれど、その実鯉登さんは俺のことを見て色々誘ってくれて、全部、面白くて、楽しかった。
会社の飲みの後にバーに寄って、併設のダーツに興味を示した鯉登さんにやり方を教えてやると、飲み込みが良すぎてすぐに遊べるようになってしまったのは面白かった。俺が教えてあげられることがあったのだという驚きもあった。
知らないことを知って、知りたいと思ったことが増えて、全部あなたのお陰だったのに。
あなたがいなくなって、世界が拡張をやめてしまったことを、つまらないと感じる自分がいることに、驚く。昔はそんなことを考えもしなかった。でも、意外ではない。元来『こういうもの』だったのだ。俺は。俺とあの人は。ずっと昔から。あの頃から。
そうやって、自分が、どの自分も自分だと思えるようになったのも、本当に最近のことだ。過去の自分を内包した自分が、今の自分だと受け入れられたから、昔のことも、今のことも、違和感なく自分の後ろについて、自分の影のように離れなくなったのだ。
鯉登さんのことだけでなくて、過去の自分の恋のことや、親のことや、鶴見さんとのことも。自分のことで、少しだけ距離のある、過去のことだ。
切り離せないこと、自分が切り離せないことと、恋心が切り離せないこと。埋めるのは自分ではなくて、相手なのだ。
鯉登さんに、会いたいな。今ならそう思う。
でも、凪のような何もない日常の中で、鯉登さんの声や空気はもう正直うろ覚えで、残っているのは明治の時のあなたばかりだ。きっとそれも自分の記憶の中で補完されたものだろうから、正しい鯉登さんではないだろう。忘れられないのに、都合よく残ってしまった形骸が、恐ろしい。
その輪郭と、どうやってもう一度やり直したらいいか分からない。自分の理想の綺麗な外側の中にある本物が、実際どう考えているかは分からない。俺を憎んでいるだろうか。もう忘れてしまっただろうか。