ドーナツホールの続きから食べる⑥先輩から引き継いだ客への挨拶周りを終えて、一緒に会社へ向かう。
今日は特に蒸し暑い。昨日雨だったからだろう。
直帰するほどの時間ではなかったので、資料と荷物を置きに戻る。
会社のビルに到着する、というところで、バタバタと後ろから走ってくる音がして、反射で振り向く。
「……」
呆然と、私の名前を呼ぶわけでもなく、立ち尽くす姿に、その名前を呼ぶ。
「……つきしま」
「鯉登くん知り合い?」
「あ、あの、第一支店のときの先輩です。もう退職されてたんですが……」
顔色を失っている月島は、薄く口を開けたまま、こちらを見つめている。
隣に立つ先輩も訝しげに月島の様子を伺っている。どんな言葉をかけたらいいか分からず、とりあえずこの場を凌ぐことだけ考える。
「ええと……17時半定時なので、上がったら、またここに来ます」
「……はい」
なんとか絞りだしたような返事を聞いて、とりあえず先輩を促して社屋に入る。
後ろは、振り返らない。どんな顔をして振り返ればいいか分からない。
定時まではあと1時間ある。どこでどう過ごすかは分からないが、そこにいるだろうか。
実は見間違いで、人違いで、退勤したら誰もいなかったりするだろうか。
「なんかあの先輩とあった?」
「いや、ええと、結構急に辞めてしまったので、よく事情を知らなくて」
「そっかー」
なんだろうね、顔色やばかったね、と言われて客観的に見ても月島がヤバそうらしいということは分かった。でも、多分、自分もそんなに変わらないだろう。表情が死んでるのは、普段の無表情が功を奏して、指摘されることはなかった。
とにかく今日は定時で上がらなければならなくなった。元々仕事はないが、他から投げられないように、努めて冷たく振る舞う。
月島の今日の服は……覚えていないが、印象と大きく変わったところはない。みすぼらしい訳でもない。荷物はあのボディバッグだけだろうか。どこから、来たんだろうか。
なぜここにいることを知っている?
鶴見さんに教えてもらったんだろうか?全然連絡がなかったのに、こんなにタイミングよく鶴見さんに再度連絡することなんてあるだろうか。
定時になって素早く片付けをして、先輩に挨拶をしてエレベーターに飛び乗る。
オフィスビルの出入口は開放的な広場のようでいて、木だけ整備されているような、だだっぴろいところだ。そこに携帯も見ずに立ちすくむ月島は、顔色が悪いことを除けば、人を待っているだけのようで、浮いてはいなかった。
どこかに座っていればいいと思っていたが、今の月島の連絡先を知らないことを思い出す。月島も携帯を捨てたりしていたら、こうやって、会いに来るしかなかったのだ。
でもいる場所を知ってるならオフィスの番号も知っていただろうに。
携帯はなくても公衆電話くらいあるだろう。
いきなり会いにくるなんて、どんな気持ちなんだろうか。
とにかく、私は色んな感情がごっちゃになったのを、思考することで押し留めている。考えれば、考えるだけ、分からなくなるけれど。
「……鯉登さん」
こちらに気づいて、無表情が更に死んだ表情になった。
すごいな、無表情から表情が死ぬんだな。最近ではあまり見なかった表情だが、明治のときは何度か見たような気がする。
でも、
こうやって泣くのを見るのは、初めてだった。
横を通り過ぎた人がぎょっとした目で月島を見た。
「ばかすったれ」
いつか会ったら一度くらいぶん殴ってやろうと思っていたが、月島が泣くのでその気も失せてしまった。
「なんでお前が泣くんだ」
すみません、と月島が呟いて俯いてしまった。少し待ったが、それ以上顔を上げる気配がない。ハンカチを差し出すと、少し迷った手が空を切って、自分のポケットからタオルを引っ張り出していた。行き場がなくなったハンカチをポケットに戻す。
「カフェに行くぞ」
これ以上このまま待っていても、退勤してきた会社の人たちに見られるだけだと判断して、そう声をかける。返事はなかったが、カフェに足を向けると後ろをついてくる気配があったので、そのまま夜営業で混みあう前のカフェに滑り込む。
「アイスコーヒーでいいですか」
「はい」
「アイスコーヒー2つ」
店員にそれだけ言って、椅子に座りなおす。
背もたれに体重を預けて、一呼吸する。
まず自分のことだ。自分がものすごく混乱していて、どんな話をしたらいいか分からないこと。
最近の自分は、引っ越しの際に写真を見つけてダメージを負ったこと。歓迎会でダーツに行って、ダメージ食らったこと。知り合いがほとんどいないから、アタックを多くくらって疲れていること。前だったら、私が月島のことが好きなのをみんなが知っていたのに、こちらではみんな月島のことも知らないから、入れ替わり立ち替わり誘いが来ていること。
端的に言って、最近ものすごく疲れていたのだ。
そもそも月島が目の前にいること自体若干信じがたい。
月島も所在なさげにアイスコーヒーを啜っている。ストローの似合わない男だ。
落ち着かないのはお互い様か。
何しに来たのか、どんなつもりで来たのか、聞きたいことは色々あるが、色々ありすぎて、なにも言葉にならなかった。
私の視線を感じたのか、ゆるゆると月島は顔を上げた。小樽のコタンで今更のように麻酔が効いてきて辛そうな時のような、顔をしている。
「ご無沙汰しております」
「ほんとにな」
不機嫌を隠さず答える。私は、怒っているので。
「私が、ずっと前の私のことを思い出したので」
……やはり思い出していたのだ。
「そうですか」
「あなたには、あなたが私に敬語を使わずに話していたころの記憶がありますか」
「ある」
「そうでしたか。いいですよ、楽な方で」
そういう月島は顔が青い。やっぱり一発殴った方がいいのだろうか。青い顔を見ていたらそんな気は起きなくなってしまったが。
「別に……どっちでも。敬語で話していたのは私の意思だ」
「そうですね……あなたが敬語を使っていたから、思い出した時混乱しました」
「お前こそ敬語戻ってるぞ」
「もう戻すのは無理でしょうね」
ぎ、っとぎこちない動きで月島が少し後退した。一人がけのソファは座面が広くてふかふかだ。力が入っていたのが少し緩んだのか、少し楽そうな姿勢になった。
思い出した時の話をしてくれないだろうか、と少し期待したが、会話は途切れてしまった。
少しずつコーヒーが減っていく間にも、会話はない。空っぽになったグラスがカラリと鳴る。お腹がすいてきた。
「明日……」
「なんだ」
「明日も会えますか」
「いいぞ」
今にも死にそうだった月島の面持ちが、少しだけ和らいだ。
「晩飯でも」
「いいぞ」
「では、また明日、ビルの一階で」
翌日の晩飯の約束だけして、月島は宿に帰って行った。
いや、晩飯一緒に食べないのか。私だって今日はこのまま外食の予定なんだが。
それでも自分から誘うのは躊躇われたので、その日はそのまま分かれて家でご飯を食べた。
私は、怒っている。
怒りでお腹が空いて、こっちにきて初めて焼肉弁当を食べた。最近まで食欲はなかったのが、怒って気力が湧いてしっかり食べられるなんて皮肉なものだ。デザートにアイスまで食べて、その日はしっかり眠った。