傘はいいよ最近はなんか晴れが多いから やられた。
先ほどまでキッチンで夕飯の仕込みをしていたはずが、長閑な景色に突如として放り出されてしまった。苦々しい思いでネロはこめかみを押さえる。精霊の気配からして、南の国のどこかだろう。
長めのミルをさっさと入手しておくべきだった。いまさら悔やんでも遅い。目の前では憎たらしいくらい機嫌よく元凶の男が笑っている。
もはや習慣と化しているつまみ食いに対する制裁として、胡椒を思いっきり振りかけた。そこまではもう定番のやりとりだ。しかしくしゃみをして飛ばされる寸前、ブラッドリーが腕を掴んできたのは完全に予想外だった。いや、油断していた。
ボルダ島の領主から初めて招待を受けたとき、そういえば言っていたような。次に胡椒をぶちまけられたら、絶対に道連れにしてやる、とか何とか。あのときすぐに特製のミルを備えておけばよかった。これまではなんとか難を逃れていたが、ついにブラッドリーの企み通り、ネロは巻き添えを食らう羽目になったのだった。
てめえが胡椒をかけてくるから、と悪びれもせず肩を竦めるブラッドリーに、そもそもつまみ食いするから、とネロは応酬する。どこ吹く風という調子で聞き流しされるのはわかっているが、文句の一つや二つは言わずにいられない。
見知らぬ土地だというのにすっかり寛いだ様子で腹が立つ。このままでは気が済まないのでさらに言い募ろうとしていた矢先、ネロの視界の端で何かがきらっとした。
燦々と降り注ぐ陽射しを浴びて輝いているのはジュエルベリーだ。思いがけずいいものに出会って嬉しくなった。先刻までの怒りを忘れ、「見ろよ、これ」とブラッドリーの腕を引いて果実がなっているところに連れていく。
「甘酸っぱくて美味いんだが……何より、きらきら光って綺麗だろ」一つ摘んで、ネロはブラッドリーの目の前に翳した。「菓子に使ったらお子ちゃまたちが喜びそうだし、いくらか摘んで帰るか」
言うや否やネロは指を鳴らし、籠を呼び寄せた。より形のいいものを選んで収穫していく。子供たちのはしゃぐ顔が浮かんで、ふっと吐息を零すように微笑む。ああやって喜ばれると、なんだってしてやりたくなる。黙々とジュエルベリーに手を伸ばしているあいだ、表情が和らいでいるのは無意識だった。
賢者の世界にあるバレンタインという風習は、魔法舎にも自然と浸透していた。そのため、先月は山ほどチョコレートをもらったのだ。
それぞれの性格が出た贈り物は、一つずつ味わって大事に食べた。友チョコ、なんて言うから受け取っていいものかと悩んだが、自分のために用意された菓子が嬉しくないはずがない。こんなに年齢も離れていて、ろくでもない育ちの自分を「友達」と呼ばせるのはなんだか後ろめたいような気もしたけど、それ以上に子供たちの純粋な気持ちが沁みた。
「お子ちゃまたちに、ねえ……」
ネロの言葉をなぞるように口にしたブラッドリーの声に、反射的に体が強張る。しまった、と思った。うっかり浮かれていた。こいつの目にはさぞ無価値に、くだらないやつに映っただろう。
再会して間もない頃、冷たく吐き捨てられた記憶が甦る。東の魔法使い? 飯屋だあ? なんの冗談だよ、ネロ。
「本当、変わったよな」硬直するネロの隣で、ブラッドリーは意外なほど柔らかなトーンで呟いた。「あの血の料理人が菓子作りか」
ぷつ、と雑に摘んだジュエルベリーをしみじみと眺めてから、「ん」とブラッドリーは差し出してきた。揶揄い混じりの、しかし不思議なほど優しい目をしている。失望も軽蔑も浮かんでいない。微かに寂しげな影が過ぎった。が、おずおずと受け取るともう普段通りの表情になっていて、見間違いかどうか判断し損ねた。
「……仕方ねえだろ。あいつらに、その……友チョコ、もらっちまったんだ」なんとなく気まずいような、気恥ずかしいような心地でネロは口を開いた。「お返しのひとつでも作ってやらねえと」
「……ふうん?」
言い訳がましくぼそぼそと喋るネロを可笑しそうにブラッドリーは見つめ、穏やかに笑う。ネロは摘みたてのジュエルベリーが入った籠を抱きしめる。なんだかいろいろよくわからなくなった。
こんな顔をするやつだったか? 北の国にいた頃とは変化した部分を見せるたび、臆病だの腑抜けただのと嫌がられた気がするけど。少なくとも今のブラッドリーは、「東の魔法使いのネロ」も「料理人のネロ」も「保護者役のネロ」も、どのネロ・ターナーもそれほど嫌いじゃないらしい。
厄災戦後に双子たちを石にするまでの期間限定とはいえ、相棒関係を復活させたのだ。相棒が子供たちへの菓子作りに精を出しているなんて、呆れて計画を練り直し始めてもおかしくなかった。再会直後のブラッドリーなら。「変わった」はこっちの台詞だ、と密かに思う。一体いつからこの男は、ネロ・ターナーが優しい日常に溶け込んでいく姿を受け入れるようになったのだろう。
妙に照れ臭くて強引に話を逸らした。適当な話題としてちょうどいいので、バレンタインにもらったであろう数々の贈り物について訊ねる。すると「俺は待つ側だ」とか言い出したので首を傾げたところ、あの素直で無垢な賢者に香水を贈ったと言うからネロは頭を抱えた。こいつ、ミアの件もあったことだしそろそろ懲りろよ。適度な距離感というものをいい加減、覚えてほしい。
「あんた、昔からそうだよな。された側の気持ちも知らねえで」
脱力しながらネロは諭した。これ以上、被害者が増えたらどうする。嫌でも昔のことを思い出す。何もかも捨て去って北の国から逃げたけど、この男から与えられたものはどれもこれもネロの心を揺らしたし、単純に嬉しかった時代だってあったのだ。
「そうやって周りと違うもんを与えられたら、自分は特別だって自惚れそうになるだろ」
溜息混じりに呟くと、ブラッドリーは鼻で笑った。
「そんなの、多少は自惚れてもらわねえと困るってもんだ」視線を避けようとするネロの顔を強引に覗き込み、ブラッドリーは口の端を上げる。「俺様がわざわざ選んで、贈ってやってるんだからよ」
なんでわざわざこんな近距離で意味深に言うんだか。そういうのをやめろと言っているのに。これは別に俺の話じゃなくて、賢者さんのことだから、とネロは冷静に自分に言い聞かせ決意する。
「……悪い魔法使いに引っかけられねえように、賢者さんのこと、ちゃんと見といてやらねえとな……」
ブラッドリーは一瞬つまらなそうな、やけに子供っぽい表情を浮かべた。何もわかってねえなと言いたげな拗ねた顔。なんだよ、と問う前に気を取り直したブラッドリーが先に口を開いた。
「……で?」ネロが抱えている籠をブラッドリーは指差した。「そのなんとかベリーとやらは採り終わったのかよ」
見ればわかるだろうに、と思いつつ「豊作だよ」と答える。籠はすでに十分な量のジュエルベリーで埋め尽くされていた。
ネロの返答に軽く頷いたブラッドリーは、「じゃあ帰るぞ、胡椒出せ」とあっさり命じてくる。思わず目を丸くした。そっか、そうなるのか。言われた通り胡椒を取り出して思う。オズやミスラのように自在に空間魔法を使える身ではないので、行きも帰りもこれ頼りになるのか。うっすら不安になってブラッドリーを見る。
「……これって、すんなり帰れるもん?」
「まあ、なかなか一発でってわけにはいかねえな」
案の定、そんな答えが返ってくる。そりゃそうだよな、とネロは気が遠くなるのを感じた。早朝に飛ばされたブラッドリーが、日が傾き始めてからやっと魔法舎に戻ってきたのは一度や二度の話ではない。
「だが、今みたいに、道中思いがけないお宝に出会えるかもしれねえ」悪い想像を膨らませて沈鬱な面持ちになるネロに対し、ブラッドリーは楽しげに笑った。「そう考えると、悪くねえだろ?」
眇められたルビーレッドの瞳が眩しい。ネロはつられて笑いながら、「それもそうだな」と応じた。次はどこに飛ばされるのかと戦々恐々としていたのが嘘のように、心が澄んでいる。この男が持つ特有のきらめきが目を通じて少しうつって、遠い日のように心臓を揺さぶった。だけど意外にも胸が軋むように痛むことはなく、ただ楽しかった。ブラッドリーの隣で過ごす時間が。
「でも、夕飯の仕上げを残して来ちまったんだ。寄り道はそこそこで頼むぜ」
「はは、そいつはてめえの運次第だ。胡椒に願掛けでもしておきな」ブラッドリーはネロを片腕で抱き寄せて言った。「それじゃあ、しっかり掴まってろよ。せーの……」
まあ、俺の運だとこれが限界なんじゃねえかな、とネロは思った。寧ろかなり頑張った方だ。北の山奥とか、辺鄙で危険なところに飛ばされなかっただけでもついてる。その上、ここはネロにとって馴染み深い土地だ。
「てめえが飯屋やってた街じゃねえか」
ブラッドリーは街並みを覚えていたらしく、すぐに着いた先が雨の街だと気づいた。
「さすがに一発じゃ帰れなかったな」特段気落ちする風でもなく、なんなら上機嫌にブラッドリーはネロを振り返る。「そうだ。店、寄ってくか? 何か育ててたろ。せっかくだし、それも収穫してこいよ」
「あー、まあ確かに……最近、来てなかったしな」
「よし。じゃあ、行くぞ」
ネロを置いて進む足取りに迷いはなく、こいつ店の位置まで記憶してたのか、と内心驚いた。何回も足を運んだわけでもないのに、よく忘れなかったものだ。
どこかで道を間違えるだろうと思いつつ後ろをついていっていたのだが、なんと一度も立ち止まったり悩むことなくたどり着いてしまった。俺が知らないだけで、よくこの街に飛ばされてたのか? ネロは首を傾げた。
「おい、早く来いって」
すでに庭にしゃがみ込んでいるブラッドリーは、「この辺のはぜんぶ引っこ抜いていいのか?」と確かめてくる。どういう風の吹き回しなのか手伝うつもりらしい。ネロは戸惑いながらも採っていいものとまだ採らないでほしいものを伝え、二人で黙々とハーブを収穫した。
元より大した規模の庭ではないので、大人二人の手に掛かればあっという間だ。ゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをする。土で汚れた手は誰にも見られないよう素早く魔法で綺麗にした。
ふと、空模様が怪しいことに気がついた。ここは通り雨も多い街だし、こんなふうに曇っているのはめずらしいことではない。空を見上げているネロに倣って、ブラッドリーも灰色の雲が広がっているのを眺めている。
「……降りそうだな。用も済んだし、次行くぞ」
顔を顰めてさっとネロを抱きしめると、「早く」と促してくる。ネロは空から視線を外し、ブラッドリーを見つめた。胡椒瓶を取り出し、しかし再挑戦する前にそっと囁いた。
「たぶん降らねえよ。俺もあんまり来れてないから詳しくは知らねえけど、この頃は割と晴れてんだってさ。……なんとなくだけど、大丈夫だと思う」
「はあ? どう見ても降り出す寸前だろうが」
片眉を上げてブラッドリーが垂れ込める重たげな雲を指し示したときだった。空を覆っていた灰色の雲が割れ始め、すっきりとした陽射しが街を照らす。雲は徐々に風に流されていき、青空がところどころ覗けるようになってきた。
「ほらな」
得意げにネロが笑って言うと、
「そうだな」
ブラッドリーも微笑んだ。なんだかやけに眩しそうな目をしているので、どうかしたのか、と訊ねようとした。が、その前に素早く唇を塞がれて、抗議する間もなくブラッドリーは自ら胡椒を被った。抱きしめられたままのネロも当然、混乱状態で次の場所へと飛ばされたのだった。