あの日々を薪にして暖をとるなよ たとえ、相手がいなくなっても、ひとりで生きていけるように。自分以外の他人に心を預けてはならない。北の国で生きるなら当然、守るべき信条。幼い頃から煩いくらい言い聞かせてきた馴染みの魔女もいた。それにも拘らずすっかり忘れてしまったのはいつだろう。
大勢の手下のうちからブラッドリーはたった一人を選んでしまった。
無欲なあいつは、相棒という座を半ば強引に与えられなければきっと、一介の子分として何の不満もなく在り続けていた。仲間のために飯を作って、「ボス」と気怠い声で呼び、呆れや情景の入り混じる目でブラッドリーを追いかけて。『死の盗賊団』は今も失われず、どいつもこいつも無惨に路傍の石に成り果てることもなく。
間違いだったのか?
ブラッドリーはミアの城から銀世界を眺めて思う。ずっと一人で頂点に立っていればよかったのか。誰にも心を許さず、群れを率いていくべきだったのか。北の魔法使いならそうする方が自然だ。組織を作る場合は、決まって長が一人。そもそも、大所帯でやっていけるやつなんてこの土地には滅多といなかったが。
あの居心地のよさに癒されて、気づけば満たされていた。無敵だった。未だ色褪せない栄光の時代だ。何気なく思い出に浸るたび、心臓が静かに熱を持つ。ただの懐古か傷心かあるいは未練か、灯る火の正体はわからない。
バルコニーから白く輝く雪原に視線を落とし、もう一度自分に問う。間違いだったのか? 俺はネロを特等席に座らせず、一人で先頭を駆けていくべきだったのだろうか。
おまえはもう相棒みたいなものだと告げたときの、あの顔。混乱や恐れが滲み、心なし青くなっていた。
俺なんか、と縮こまるネロに、笑って言い聞かせた。そうだ。あいつのお陰で助かった場面が幾度もあった。あいつがいなければ双子たちに目をつけられるより早く、団は散り散りになっていただろう。
あんたの相棒を名乗って恥ずかしくねえ男でいるよ、と照れくさそうに呟いた声。あれは嘘じゃない。あのとき、あの瞬間、嘘ではなかった。言葉通りあいつはこれまで以上に努力を重ね、何もかもが面白いようにうまく噛み合って毎日が楽しかった。そんな日々が長く続いた。確かに永遠ではなかったけど、それでもすべてが間違いなのか?
「……ブラッドリー。なんだか、悩んでます……?」
ベネデッタの実を持ってきた賢者が、気遣わしげに問うてくる。笑って軽くいなすつもりだったが、何か確信しているような真剣な眼差しに口を噤んだ。何もかも話してやることはない。でも、この誠実さに対して雑な誤魔化しで有耶無耶にするのは違うな、と思い直す。
「賢者、オリヴィアのことは覚えてるか?」
「オリヴィアさん? それはもちろん」
一瞬きょとんとしてから、賢者はすぐに頷いた。シュガーを貰いに行ったときのことを思い返しているのか、表情がどこか懐かしそうになる。
今からする話でこの呑気で穏やかな顔は恐らく悲痛に歪むだろう。この若者には理解の及ばない価値観だ。それでも話した。北の魔法使いが恋をするなら、忘れてはいけないことがある。それを守らなければ死ぬだけなのだと。
「自分以外の他人に心を預けて……ああなっちまった北の魔法使いは、見れたもんじゃねえ」
かつては強く凛々しかった北の魔女の醜態は、苦々しいまでに自分の過去と重なった。傍に置いておきたくて閉じ込めた。何度も何度も。脅して、宥めすかして、それでも駄目なら情に脆いあいつに一番響く「寂しい」という言葉を使った。言い訳しようがないほど、卑怯でみっともない姿を晒したものだ。
「傍から見たら、嫌でもわからせられちまった」
ネロがこの城での出来事をどんなふうに見ていたのか、気にはなるが訊ね損なった。ぎこちなく当たり障りのない会話を交わしたのち、あいつは目を伏せて笑った。どこか諦めたような、仕方ないと割り切ろうとして割り切れずにいる、そんな横顔を黙って見つめた。
そういう笑い方ばかりするようになっちまったな。俺のせいか? ブラッドリーが訊けばネロは目を丸くして、揶揄い混じりの言葉を二、三返して、肝心の答えは口にしないのだろう。
散々苦しげに視線を彷徨わせ、賢者は俯いていた。何かを言いたいけど何を言えばいいのか、もどかしそうに幾度も躊躇い、やがて思い切ったように顔を上げた。北の魔法使いという難解な存在に、賢者は自分なりに向き合ったようだ。ぽつぽつと慎重に言葉を紡いでいく。
「あなたが抱える気持ち、全部」微かに不安げに瞳を揺らしながら、賢者は言った。「俺は否定したりしませんから……」
まったく、とことん真っ直ぐで人のいいやつだった。わからないものを自分の物差しで測るのではなく、わかったふりをするのでもなく、わからないものはわからないまま受け入れて「あなたの話を聞かせてください」と言える誠実さは好ましい。自分の住んでいたところとはまるきり異なる世界に飛ばされて、いいことも悪いことも山ほど経験してきた分、こいつも成長しているのだろう。
少しだけ気分が上向いて、いつもの調子で笑っていたときだった。返り血を浴びたミアがバルコニーに現れ、顔を覆っていた傷痕をゆっくりと消したのだ。
「消しちまったのか。イカしてたのに」
「この傷は、もう必要ない」ミアの声はあらゆる未練を断ち切ったのか、さっぱりとしていた。「今日からは、これが私の新たな誇りだ」
見せられた手の甲に浮かぶ、真新しい傷。この魔女は「やり残したこと」をついに片付けてきたのだ。ミアは勝った。かつて、この女の顔に傷をつけたやつに。
「……はは……っ」
自然と笑みが零れていた。自分でも驚くほど心が震えていた。くらりと眩暈がする。こみ上げる感激と賞賛で。
「最高だぜ、あんたは」ブラッドリーは微笑んだ。「それでこそ、北の魔女ミアだ」
北の魔法使いの恋は命懸けだ。この国で生きていきたいのなら、誰のことも特別にしてはならない。そんなことはここで生まれたやつならみんな知っている。
でも、それが何だ? 清々しい思いできらめく雪原を眺める。ミアは恋を失ってなお破滅していない。駄目になったかと惜しんだ魂は見事に元の形を取り戻し、堂々と輝いている。かの大魔女の弟子であるミスラは、「あの人はむかつくほど幸せそうでした」と拗ねたように振り返っていた。不幸には見えなかった、と。誰がこの女たちにおまえは間違えたのだと言える?
「そして、俺は北の魔法使い。ブラッドリー・ベインだ」
間違いだったのか? どうして、うまくいかなくなったのか? この先も時折はその問いに心を絡め取られるだろう。だが、偉大なる北の魔女たちはこうも力強く証明した。特別な他人を持つことは危険であることに違いはない。それでも、愛すること自体は過ちにはなり得ないのだ。
そういえば魔法舎で過ごすようになって、ブラッドリー自身一つ得たものがあった。うっかり忘れているとは、我ながら呆れる。「進化」だ。俺があの時代と比べて変化しているとすれば、それは魂が歪んだわけではなく、新たな力を身につけ柔軟に形を変容させただけのことなのだ。
いつかオーエンに忠告されたように、致命的に間違えるときが来るのかもしれない。が、少なくともブラッドリーはまだ間違えてなどいないのだった。
万が一、ブラッドリー・ベインにとってネロ・ターナーという存在が間違いに当たるのなら、笑って間違えてやるのだ。おまえが原因ならそれでいい。俺を不自由にする北の信条など恐れるものか。どうしたってあいつを手放せないのだから、その間違いはブラッドリーの人生にとって必要不可欠なのだった。
晴れ晴れとした気分で燃えるような夕陽を見つめる。ブラッドリーは思う。そうだ。俺は欲しいものは諦めない。決して。
二月十四日の夜。
菓子の類はどうせ若い連中から散々渡されただろうと、とっておきのワインを持参した。見せびらかすように掲げると、ネロは迷うように視線を逸らした。が、最終的には部屋に招き入れられた。
言葉少なにグラスとチョコレートがテーブルに並べられる。いまいち会話が続かない。何かを話してもすぐに言葉が途切れた。先日のミアの城での一件で、なんとなく互いにぎくしゃくしているのだった。
「……これ、美味いな」
気まずそうに口を開いたネロに、ブラッドリーは頷く。
「てめえ、好きだったろ」
「そうだけど、よく覚えてんなあ。数えるほどしか飲んだことねえのに」
ネロは目を見開いた。よっぽど意外だったらしい。ふんと鼻を鳴らしてチョコレートの一つに手を伸ばす。
思った通り、大人が一人で食い切るには多すぎる量の菓子がテーブルを埋め尽くしていた。こいつはなんだかんだよく構うから、年若いやつらにやたらと懐かれているのだ。盗賊団にいた頃は妙に着火が早いところがあって、新人たちに怯えられることも多々あったというのに。「東の飯屋」はすっかり保護者役に馴染んでいた。
「ネロ」
「なんだよ」
「ミアとのごたごた、てめえどんなこと思いながら見てた?」
「……はあ?」
察しのいいこいつにはめずらしく、質問の意図が伝わらなかったのだろうか。ネロは微かに眉をひそめてブラッドリーを見た。正直なところ直接的な問いを投げかけたくはなかったが、仕方ない、と腹を括った。
「……俺はてめえに同じようなことしただろ。今回の件を通して、いろいろ思うところあったんじゃねえか」
適当につまんだチョコレートがあまりにも甘ったるくて顔を顰めた。まずくはないが子供向けだ。よく選ぶべきだった。
じっくりとテーブル上に広げられた菓子を眺めると、ブラッドリーの近くに集められているのは凝ったデザインのものが多い。気が利くやつなので、ブラッドリーの好みに合うチョコレートを最初から手元に配置してくれていたのだろう。
「別に……」グラスの中身に視線を落とし、ネロは呟いた。「あの人、よっぽどあんたに惚れてたんだな、きつかっただろうなって。それだけ」
「きつかった、ねえ。双子やフィガロは散々に言ってたが、てめえはミアに同情的だな。……まあ、北の魔法使いにとって、憐れまれるのも蔑まれるのも大差ねえけどな」
「同情とか、そんな偉そうなもんじゃねえよ。ただ……うーん、なんていうか……」
虚空を見つめてネロは言葉を探していた。首を捻って、困ったように薄い唇を開いては閉じる。
自分の傍に置いておきたくて、ブラッドリーを籠に閉じ込めようとした魔女。そして、もう疲れたと呟く相棒を強引に言い聞かせ、決して自由にしてやらなかったブラッドリー。おまえは何を思う? みっともないやつだと呆れたか? 情けない有り様だと失望しなかったか?
「俺のためなら死ねるつったよな」
「え? ああ、うん、言ったけど……どうした? なんか、話飛んでねえ?」
まさかもう酔ったのか、とグラスを取り上げようとする手を掴んで引き寄せる。抱きしめると石鹸やアルコールの匂いが混ざって、健全なんだか不健全なんだかわからない不思議な香りがした。
「俺を好きだって言う割には、てめえはあっさり東の国に馴染んだろうが」
もしかすると本当に酔ってるのかもしれない。こんな馬鹿げたことを言いたかったわけではないのに、自然と唇から声が滑り落ちていく。
「ミアみたいに閉じ込めようともしなかったし、一人でさっさといなくなっちまった。どこで何してたのかと思ったら、わざわざあんな辛気臭い街で、飯屋なんかになりやがって。俺が与えた居場所より、あそこがよかったのか? 薄情だよな、てめえは」
ひと通り捲し立ててから、自分が何を言ったのか考えた。冷えた頭で口にした言葉を脳内で再生すると、途端に頭痛がしてくる。いよいよ本格的にみっともないことをしでかした。ネロが黙り込んでいるのも無理はない。さすがに呆れ果てているのだろう。
「あんたは自由が好きだろ」思いのほか穏やかなトーンでネロは応えた。「危険な目に遭うとしても、自由でいたいやつじゃねえか。俺はたまに、あんたのこと……どっか安全なところに隠しておきたくなったけどさ。でも、できなかった」
「どうして」
「知ってるだろ、俺は臆病なんだよ。最後の最後で踏ん切りがつかなかった。あんたのことが好きだから危なくない場所で生きてほしかったけど、あんたにとって平穏な日常なんか何の価値もなかったから。俺はブラッドが望むようには生きられなかったし、だったらもうしょうがねえだろ。あんたと離れるしかなかったんだよ」
あんたの魂や生き方を歪めたくなかった、とネロは言った。いかにもこいつらしいと納得する一方、無性に腹が立って仕方なかった。
「しょうがねえ、で簡単に手放しちまえるのが冷てえんだよ」
「はーもう、好き勝手言いやがって……簡単なわけねえだろ」
ネロは意外にも怒り出すことはなく、小さく笑った。
「あんたといたときが一番楽しかった。あんたに俺の作った飯食ってもらって、あんたの隣走って。あれ以上にすごかった時代はなかったし、きっとこの先もねえよ。俺にとってはあんたと北で生きてた頃が人生のすべてで、今はまあ、余生みたいな感じだからな。もっと早くくたばる予定だったのに、思ったより長生きしちまったからさ。正直、持て余してた」
「……余生?」
「余生」
「馬鹿野郎」抱きしめる腕に馬鹿みたいに力をこめた。「俺は今もここにいんだろ。てめえの飯食って、てめえの傍で生きてんだろうが。あれを最高地点にするんじゃねえよ」
「ンなこと言っても、厄災戦までそう時間もねえし。超えないだろ、さすがに」
ネロは「あんたのために死ねるよ」とは言うけれど、「あんたのために生きるよ」とは相変わらず言わないのだった。
襲来する厄災を迎撃したら、もうそこで本当に終わりのつもりでいる。ネロが例の計画の話を進めたがるたびうっすら傷ついたが、この程度で俺がてめえを諦めると思うなよ、と胸のうちで呟く。溢れ出しそうな激情を抑え込み、ネロのこめかみに口づけた。
「まあ期待してろよ。あれだけが最良の時代じゃねえって、俺がちゃんと証明してやるさ」
「はいはい、わかったわかった」
宥めるように背中を撫でてくるので、むきになって声を荒げそうになった。でもここでむきになるのはあまりにも子供染みている。渋々ながら唇を引き結んで、大人しくネロの肩口に顔を埋めた。