来世でもきっと見つけるⅡ 春の王が寝物語に聞かせてくれた話。
昔々、それはもう遥かに遠い時代のこと。国は現在の春、夏、秋、冬の四カ国ではなかったそうだ。今はもう海の底に沈んでしまった。しかしかつては大陸があり、五つに分かれた各々の土地で、さまざまな生活があったのだと王は言う。すべての国にそれぞれ見た目は魔法使いそっくりの、『人間』という生きものも暮らしていたらしい。
人間。
ある一定の年齢(その者の魔力が熟したとき)に成長が止まり、数百年、数千年と生きる魔法使いに対し、人間の寿命は切ないほど短かった。
どんどん老いて小さくなり、大半が百年も生きずに生涯を終える。瞬きする間に過ぎる一生だ。もし親しくなったとしても、あっという間に別れが来てしまう。人間の友達がたくさんいたら、いつだって魔法使いは見送る側。何度味わっても慣れることのない寂しさだろうなとひっそり思った。
中央、北、東、西、南。とっくの昔、波間に砕けて消えていった国々の話は興味深かった。土地ごとに住人の性質や雰囲気、価値観、何もかもがばらばらだったそうだ。魔法使いや精霊に限らず、人間も。
そうだとすれば、同じ国に住んでる同士なら恐らく気が合ったはずだ。魔力を持つ者と持たない者で線引きせず、ごく当たり前に隣人として存在していたのだろう。そう思った。だから深く考えることなく、種族が違っても仲はよかったのかと訊ねたのだった。綺麗な形の眉を微かにひそめ、王は悲しげに微笑んだ。
幼い頃から他人の感情に敏感だったので、それで何もかもわかったしまった。どうやら上手く手を取り合って生きていたわけではないらしい。それも、魔法使いが人間を拒んだのではなく、人間が魔法使いを嫌っていたようだ。
一体、どうして。傷つかないわけではなかったものの、不思議の力を使えない生きものたちの気持ちを想像すると、一方的に責める気にはなれなかった。
「……怖かったんだろうな」
そう呟くと、王は切れ長の美しい目をはっと見開き、慈しむように頭を撫でてくれた。
「あなたはいつでも優しいですね。理不尽に排斥されることに憤るより先に、彼らの恐怖に寄り添うのですから」
「別に、そんなんじゃないけど……」
なめらかな温かい手に撫でられていると、心地よくて瞼が落ちてくる。微睡みながら考えた。意識が完全に途切れるまでのあいだ、滅んでしまった者たちのことを。
ここからは地上が見えない。そもそも既に海に消えた。降りていったところで何も残ってはいないし、〈厄災〉の影響で下はこの世の理が崩れている。善いものも悪しきものも混ざり合って混沌とした危険な地帯だ。
好奇心に駆られた未熟な魔法使いが時折こっそり抜け出すが、一人として帰ってこなかった。みんな好き勝手に噂するので、「海の底には都市が残っていて、そこに住み着いたのかもしれない」と子供たちのあいだでは広まっている。大人は誰もそんな話はしなかったし、どの書物にも「大陸は沈み、国と共に人間は滅んだ」と書いてあるというのに。
成長が止まるまでは絶対に外へ出てはいけない。普段は気儘な微笑を湛えている王は、この言いつけをするときだけは至極真剣な面持ちになる。
これは海を見に行くのを禁じているのではなく、春の国から出ること自体を禁忌としているのだ。国の外へ一歩でも踏み出せば、何か起きても春の王は手出しができない。万が一罪を犯したなら、その土地の法によって裁かれる。
だから各国の特性を学び、自分で自分の身をある程度守れるようになるまでは、この国の王の庇護下で過ごす。言いつけを破ってまで外の世界を知りたいという欲求はなかったし、言いつけられるままおとなしく暮らした幼少期だった。
「月は、昔……なんで〈厄災〉って呼ばれてたのかな」
意識が途切れる寸前、ふと思ったことを零した。
「年に一度、地上に接近して、人々を脅かしましたから。選ばれた魔法使いたちが集まって押し返す以外には、何の手立てもありませんでした。みな恐れてそう呼んだのです」
「でも、じゃあ、今の月はどうして動くのをやめたんだろ……もう下には何もなくなったから?」
「さあ、どうでしょうね。月のことは、私よりムルの方がずっと詳しいですから……」
そっか、と微睡んだ声で返事をして、目を瞑った。
海の底に儚く消えた大陸のことを考えた。滅んでしまった人間のことを。自分たちが住む春の国のこと、そして夏、秋、冬の国のことを。これらの国すべてが、かつては〈大いなる厄災〉と畏怖されたという、月に存在することを。
◯
懐かしい夢だった。
天井をぼんやりと見上げていると、薄く開けたままにしていた窓から爽やかな朝の風が吹いてくる。ネロの頬を、髪を撫でるようにして通り抜けていく。それがシャイロックのあの優しい手の感触に似ていて、なんとなく面映い気持ちになった。
生まれながら繊細な性質だったネロは、寝つきの悪い子供だった。物心ついた頃から不思議な夢をよくみるのだ。
今朝のように古い記憶が掘り起こされたものや、単純な悪夢とは異なる。起床した途端綺麗さっぱり内容を忘れてしまう類でもない。ただ、そういったごく普通の夢とは質が違うものが頻繁に紛れ込む。ネロは夢のなかでいくつもの人生を見た。成長したネロ・ターナーの生活は、どれもこれも奇妙なものだった。
あるときは魔法使いであることを隠して人気の料理店を開き、その後は「賢者の魔法使い」というものに選ばれて魔法舎と呼ばれる場所で暮らしていた。あるときは心を持つ人型の機械で、街の平和のために尽力していた。あるときは背中に大きな漆黒の翼を持っていて、青空を自由自在に飛び回っていた。あるときはどこかの屋上で勉強を教わっていて、「購買」というところで特製のパンを売っていた。あるときは大きな船に乗り、マーブル状に輝く海を渡って財宝を探し求めていた。
たとえば寝る前に読んだ物語の影響を受け、似た内容の夢をみるならわかる。しかしネロには全く心当たりがなく戸惑った。これまで読破した本のなかに、こうも風変わりな設定の話はなかったはずだ。
夢には知らない単語がたくさん出てきた。この世界に存在しないものも数多く登場した。自分の想像力が生み出しただけの架空の人生にしては、妙に現実味があって気味が悪い。
だけど何故か胸が締めつけられるような懐かしさがこみ上げる。顔はいつも霞がかったようにぼやけて見えなかったが、いつも隣に同じやつがいた。そいつに名前を呼ばれると、真夜中だろうが明け方だろうが目が醒める。
悩んではいたものの、誰にも言えなかった。自分のために何かしてもらうのは気が引けたし、手の掛かる子だと思われるのが怖かった。
眠れない夜を一人でなんとかやり過ごそうとしては失敗していたが、生来おとなしく、やるべきことは淡々とこなしていたので大人たちには気づかれなかった。たった一人、春の王を除いて。
木陰のベンチでうとうとしていたところ、目の下を労るようになぞられ飛び起きた。驚愕して固まっているネロに、シャイロックは微笑んだ。そして内緒話をするように耳元で囁いたのだった。今夜は二人で、夜更かしいたしましょうか。
眠れていないのかと案じるのではなく、寝れない夜を一人で過ごさなくていいと言ってくれる人なのだ。「隈ができていますが大丈夫ですか?」と訊ねられていたなら、ネロは「大丈夫です」と答えただろう。そして、「今日は夢をみませんように」と祈りながらベッドに入る日々が続いたに違いない。
春の国の王としての務めをこなしながら、シャイロックはネロが深く眠るまで傍にいてくれた。ある日思い切って打ち明けたおかしな夢についても笑わず、優しく耳を傾けてくれたのだった。そしてあの話を聞いた。かつて魔法使いは『人間』と共に大陸で暮らしていたのだと。
――王宮内の図書室には過去の時代を記録したものもあります。本によって書いてあることがばらばらですし、子供が読むには難解な言い回しも多いでしょう。あなたがもう少し大きくなったら、是非いろんな書物を読み比べてみてください。
素直に頷くと、シャイロックは褒めるように頭を撫でてくれた。すると体から力が抜けて、ふっと自然に眠りに落ちているのだった。
ネロに安心を与えてくれる手。安らぎを、平穏な心を与えてくれる手。それは間違いなくシャイロックのものだった。
でも、いつも微かに引っかかる。俺を撫でる手はこんなに優しいものだったか? もっと雑で、豪快で、それでいて込められた愛情はシャイロックに劣らない。顔も何も思い出せないのに、シャイロックではない誰かに触れられた感触だけは僅かに残っていた。
未だに輪郭すら描くこともできなくて、もどかしさのあまり寝返りを打つ。子供の頃から変わらず、今も夢はみる。隣にいた誰かのことを思うたび、肋の奥が軋む。忘れてはいけないものを忘れている焦燥感だけが募っていく。
あ、まずいな、と頭の片隅で冷静に考える。このままだと陽が沈むまで冴えない気分で過ごす羽目になるだろう。せっかくの長期休暇の一日目を、こんなふうに台無しにするのも勿体ない。ネロは「よし」と気合いを入れて起き上がり、決めた。海を見に行こう。
元より好奇心旺盛な方でもないので、ネロは大人になっても春の国の外に出たことがなかった。行き先はどこでもよかったが、ちょうど懐かしい夢をみたところだ。うってつけのように思えた。
遥か昔には透き通ってきらめいていたという海面は、今では濁ってどんよりとしている。子供たちのなかでまことしやかに語られていた「海底都市」なんてものは存在しない。ネロにはひと目でそれがわかった。
空中にも酷く混乱した気配が充満しているのだ。この暗い水の底は恐らくこの比ではなく滅茶苦茶だろう。魔法使いでも一握りの者しか滞在できないような場所で、魔力を持たない人間が暮らしていけるはずがなかった。
意識を集中して海のなかの様子を探ったが、やはり生命の反応は見当たらず、ただ滅んだ者たちの残留思念のようなものがあちこちで揺蕩っていた。未練を残して留まっている魂の欠片の囁きが聞こえる。それは決して恨みつらみではなく、まだ自分が死んだのだと理解できていないような穏やかな会話だった。シャイロックから教わった通り、ここにはさまざまな生活があったのだ。きっと。
昔から「海の底に都市がある」なんておとぎ話のような噂はろくに信じていなかった。だから初めて見た海が、記録にあるように美しくないことに対してさほど落胆はしない。ネロは寧ろ嬉しかった。子供時代、あいつが得意げに話してくれたことはぜんぶ本当のことだったの知ることができたから。
湖の前でぐったりと倒れ込んでいた、見かけない子供。年齢はネロと同じか、少し上。真っ先に春の王の元へ行って相談すべきだったのに、あのときネロは駆け寄って、未熟な力で必死に看病した。
小さな体に宿るほとんどの魔力を使い果たすと、そいつの睫が微かに震えた。ゆっくりと起き上がってネロを見つめた。ルビーのように眩い瞳がまっすぐにネロだけを見て、何故か急に抱きついてきたのを覚えている。直後には本人も我に返って、なんでこんなことしたんだろう、と不思議そうな顔をしていた。
どうしてこんなところで倒れていたのか。その理由は、ネロにとってちっとも理解できないものだった。
怖いもの知らずなのか考えなしなのか、まだ子供なのに下に降りてみただけでなく、ほんの短時間とはいえ海にも浸かったと言う。くらりと目眩がした。あり得ない。だからこんなにも弱りきって、故郷ではなく春の国に不時着したのだ。
――なんでそんな危ないことするんだよ……。
思わず呆れたネロに対し、
――俺は本当の海がどんなものか知りたかったんだよ。
看病の甲斐あってみるみるうちに元気を取り戻した子供、ブラッドリーはあっけらかんとそう答えた。
――てめえは気にならなかったか? 本でしか読んだことがないんだぜ。沈んだ国は本当にもう欠片も残ってないのか。それとも実はあんな歴史書は全部でたらめで、人間は今でも生きてるのか。月に帰ってこなかった魔法使いは死んだんじゃなく、海の底での暮らしが気に入ったから移住したのか。わかんねえことだらけじゃねえかよ。
――それは……そうだけど。
確かに本を開いては想像した。実際はどうなんだろう、と。ブラッドリーほど頭から疑ってかかっているわけではなかったが、実際に自分の目で確かめてみたいという気持ちはわかる。
――だろ。なあ、てめえも連れてってやろうか?
――馬鹿。おまえ、やっと回復したところなのに、また行くつもりなのか? 少しはおとなしくしてろよ。
――海に入らなきゃ大丈夫さ。見てみたいんだろ? つっても、てめえ一人じゃ危ねえし、俺が付き合ってやるよ。
散々に逡巡した挙句、差し出された手を取った。が、春の国を出る手前でネロは立ち止まっていた。
――やっぱり駄目だ。うちの王様が、成長が止まるまでは国の外に出るなって言ってるから……。
――はあ? そんなもん、無視すりゃいいだろ。
焦れったそうにブラッドリーは眉を寄せた。つまらないやつだと思われたに違いない。それでも、ネロは首を横に振った。
――あの人は、俺のこと信頼してくれてるから。裏切りたくない。……ごめんな、せっかく誘ってくれたのに。あんたと違って、俺はたぶん、かなり臆病なんだと思う。
ネロはぽつぽつと呟いて、繋いでいた手を離そうとした。しかし指先の力を抜いた途端、これまで以上の力でぎゅっと掴まれていた。揶揄うように笑って、ブラッドリーは言った。
――本当に臆病なやつが、見ず知らずの魔法使いを助けるかよ。俺が冬の国のやつだって、気配ですぐわかっただろ。怖くなかったのか?
思いがけないことを指摘されてネロは目を丸くした。確かにブラッドリーが冬の国の魔法使いだというのは最初からわかっていた。
他の国はともかく、冬は異質だ。徹底した実力主義の国で、生半可な覚悟では生き延びるのも難しい。そういう土地で暮らす魔法使いたちは、決まって纏う空気が違った。春、夏、秋はそれぞれ親しくしていたが、冬だけはぽつんと浮いていた。
それでもどういうわけか、ネロはちっともブラッドリーが恐ろしくなかった。いや、ブラッドリーが死んでしまうかもしれない、ということが恐ろしくて、咄嗟に駆け寄っていたのだ。あんなに祈るように魔法を使ったのは初めてのことだった。
――ま、信頼を裏切りたくねえって言うなら仕方ねえな。そういう義理を通すのは悪くないぜ。
あっさりと踵を返し、ブラッドリーは来た道を戻りながら言った。しばらく滞在するから、この国を案内してくれよ。こいつが気に入るようなものを見せてやれるかなと不安だったが、ネロは小さく頷いた。
とこしえの春の、本当の春の季節にだけ開花する花が咲いた時期。淡紅色の花弁が散るまで二人で過ごした。何もかもが楽しくて堪らない、人生最良の日々だった。
弱った体も完全に調子を取り戻した頃、「いい加減戻らねえとじじい共が煩えな」と思い出したようにブラッドリーが呟いた。それはもう嫌そうに顔を顰めて、腕を組んでひとしきり唸っていた。
そうか。もう終わりなんだな。これはあくまでも非日常で、いつまでも続かないと頭ではわかっていた。わかっていたのだ。冬の国の魔法使いにとって、ここは平穏すぎて物足りない。すぐに飽きてしまうだろう。それでもネロは心が千切れそうなほど寂しかったし、上手くお別れを言えるだろうかと俯いて考えた。どうだろう。あまり自信がない。
――湖の前で待ってる。来年もその先も。この季節になったら会いにくるから、うっかりして忘れるなよ。
だけどブラッドリーは、またこの国を訪ねると言う。永遠に。理由は一つ、ネロに会うためだけに。
――待ってるからな。
――……うん。
忘れんなよ、と手を振りながら去っていった背中に、どうしても待ってるとは言えなかった。本当はネロだって会いたかった。何度も待ち合わせ場所に向かおうとした。だけど毎年、湖のほとりにたどり着く前に足が動かなくなる。
(さすがにもう、踏ん切りつけるべきだよな……)
あれから数えきれないほど春の花は咲いては散った。ようやく海も見てきたことだし、今年はちゃんと行こう。
まだ半分近くは蕾だが、もう半分は綺麗に開花している。少し早いかもしれないけど、今じゃなければまたずるずると先延ばしにしてしまうかもしれない。今日だ。今日で最後にする。それですべて綺麗な思い出として、胸に仕舞って生きていくのだ。
ネロは春の国の暮らしに満足している。時折、誰もが優しすぎて息苦しくなる瞬間もあるけれど、ここが好きだ。あの日々はたまに宝箱から取り出すように思い返して、楽しかったな、と振り返るくらいでちょうどいい。
湖は今日もきらきらと静かに光っていた。ここに足を運んだのはもう百年以上も前のことだが、朧げな記憶の通りのままだ。好きな場所だったのに、あいつのことを思い出すからすっかり遠ざけるようになってしまっていた。
そっと湖に落ちた花弁を手に取り、その淡い色合いを見つめる。もっと早くにけりをつけておけばよかった。春の国のなかで、ここはネロが一番気に入っている場所だった。微かに香る花の甘い匂い。陽に照らされて、砕いた宝石をばら撒いたみたいに輝く湖。一人になりたいときは密かにやってきて、ほっと息を吐いていた。
髪のあいだをすり抜けていくそよ風に目を細め、ゆっくりと周囲の景色を眺める。懐かしい。何もかもが懐かしかった。この季節にだけ花をつける木々が囲む湖は、いつだって優しい静寂に満ちている。
張り詰めた心がほどけていくのを感じていたそのとき、視界の端に妙なものが映った。思わず凝視する。脚だ。草木に隠れて上半身の様子は判別できないが、上等なブーツを履いた長い脚が地面に投げ出されている。まさか気を失っているのだろうか。
怪我でもしてんのか、それとも急病か、とネロはひやひやしながら湖の上を飛んだ。最悪、血塗れで倒れているかもしれない。せめて生きててくれと祈りながら、そっと傍に降り立つ。慎重に様子を確かめ、一気に脱力した。想像していたような深刻そうな事態ではなさそうだ。ひと言で言えば眠っているだけ。
それにしても、とネロは首を傾げた。気配からしてこいつは冬の国の魔法使いに違いない。しかし、冬の連中が余所の国を訪ねるのはめずらしいことだった。商売なら街に行くだろうし、何を目的にしてこんなところにやってきたのだろう。
ネロは静かな寝息を立てている男の顔を見つめた。瞼を縁取る長い睫に、すっきりとした輪郭。鼻にはうっすらとした傷痕。黒と灰色が入り混じる髪は艶やか。目を閉じていても相当な美形だとわかる。
このまま寝かせておくべきだろうか。それとも、「冬の魔法使いだ」と後で騒がれる前に起こしてやるべきか。
フローレス兄弟の兄の方、ルチルにでも見つかったら大変だ。「まあ、遠いところからようこそ来てくださいました! 冬の国の方とはなかなかお話しする機会がないので、私、とっても嬉しいです。あの、お酒はお好きですか? もしよかったら、私のおすすめを一緒に飲みながら、いろいろお話を聞かせていただけませんか?」……といった具合に、目を輝かせて喋り続けるだろう。
「うーん……どうすっかな……」
冬の連中は気位が高く、気難しいやつが多いのだ。根は存外単純だが、ルチルのように人懐っこい魔法使いを好むか否かは個人差がある。男の傍にしゃがみ込み、ネロは目を瞑って唸った。こいつはどっちだろう。「馴れ馴れしい」と腹を立てるか、それとも「度胸がある」と気に入るか。
「……ネロ?」
「え」
不意に名前を呼ばれて目を開く。視線がまっすぐに交わる。透き通るようにきらめくロゼ色の瞳が、ネロを呆然と見上げている。
なんで俺の名前知ってんだよ、と喉元まで出かかった声は消えた。夢でもみているのかと思った。あの頃、こんな傷はなかったはずだ。髪の色も確か黒一色で、声変わりする前だったから声質も違う。だけど、この目。ネロは混乱しながら思う。この目を俺は知ってる。
「……ブラッド……?」
ようやく絞り出すように名前を口にすると、ブラッドリーは拗ねたように顔を顰めて言った。てめえは俺が倒れてないと来ねえのかよ、と。