私を思って「『お兄様』のくせに、あの子を置いてくるのね」
昼間の喧騒が嘘だったかのように静まり返ったフォンテーヌの街並み。特殊なエネルギーが灯す明かりは、行灯のようにちらつくこともなく、確実に足元を照らして二人の影を伸ばした。人とは異なり休息のいらない機械仕掛けがいつまでもがらがら音を立てるそばを通り抜けると、眩い光を背負った千織が振り返った。
「私、そんなにか弱く見える? 過保護なんてごめんだわ」
「いえ、そんなつもりでは」
「じゃあなんなのよ」
綾華はひとり入浴でも始める頃だろうか。気だるげに細められた視線が綾人の後ろ、遠くなりつつあるホテルを見遣る。故郷の夕焼けを閉じ込めたような美しい瞳に吸い込まれそうになりながら、綾人はそこに映り込もうと体を滑り込ませた。
「貴方と話がしたいのです」
「……そ。勝手にしなさい」
ようやく綾人の顔を見つめた千織は、呆れた表情を隠すことなく結い上げた髪を再び揺らす。抜かれた衿から覗く肌を端に捉えながら、許されたことに安堵しその隣に並び立った。
綾人よりもずっと土地に慣れた人を家まで送り届けようだなんて滑稽なことはわかっている。ただ、そうでもしなければ機会は二度と訪れないだろう。綾華を巻き込まなければ食事にも誘えない臆病な綾人にはこれでも精一杯だった。
「お元気でしたか」
「見ての通りよ。君も相変わらずね」
相変わらず。それは何を指すのだろうか。
変わりなく健康なことか、それとも、未だに憧れを引きずっていることか。記憶と違わぬいっそ冷たいとも取れる態度に、内に眠っていた「綾人くん」が顔を上げる。
奉行だとか神里だとか、大層な肩書を相手にした物言いはいらなかった。綾人をただの人として見るそれは、心が安らぐ温かさとなり、肩の荷を降ろせる場所となり。日々にいっぱいいっぱいだった「綾人くん」は裏も表もないその人に心を奪われてしまった。凪いだ水面を滑るような声、全てを飲み込む日暮れを丸ごと跳ね返したような瞳、その何もかもに溺れて。
いつの日か千織の手が紡いだ白詰草の冠は、茶色くぼろぼろになっても手放せなかった。不器用な綾人が返せたのは子どもの指を通すのがやっとのごく小さい輪だったが、たった一輪の花を捧げただけでも、それでもその手に自らの贈り物が輝くのは嬉しかった。白い花は黄金にも白金にも勝るとも劣らぬ美しさだったと、綾人は今でもそう思っている。
幾日も幾年も積み重なった厄介な憧れは恋なんて可愛らしいものでもない、愛なんて純粋なものでもない。依存、執着、そんな言葉が似合うほどにひどく歪んだまま綾人の心にのさばり続けている。
「貴方の活躍は稲妻にも届いていますよ。さすがは一流のデザイナーでいらっしゃる」
「それもこれも君のおかげね。感謝してるわ」
ふと優しく緩められたその表情は、綾人が長らく焦がれていたそのもので。立場を知らないくだけた口調も、無駄に媚びない態度も変わらない。
胸の奥がじくじくと色めき立つ。指先が痺れて、しかし同時に育ちきった恋心が違和感に軋んだ。
「で。何が言いたくてわざわざ着いてきたわけ?」
風が運んでくる知らない香水の匂い。
大人になりすぎた、お互いに。どんな関係だろうと構わないとは本人たちの問題であるはずが、それを良しとしない外野が、肩書が邪魔をする。
社奉行の当主様に馴れ馴れしくはできないでしょう、と。千織が引いてしまった線に絡め取られて、苦しくて。
「……もう、以前のようには呼んでいただけないのですか」
きみ。街中でそう叫んだら一体何人が振り返るだろう。そんなものはいらなかった。
千織だけが使う、綾人だけの。どうかあの時のように。重圧から逃避したいと膝を抱えて縮こまるただの少年を慰めた、たった一言の呼びかけが欲しい。
頑張ったねと真っ白な冠を貰った「綾人くん」の時間は止まったままだ。
「さあ。何のことかしら」
真正面を見据えた千織の、ずっと高くなった踵。天から吊られたように伸びた背筋は揺らがない。ふらついたつま先で小石を蹴飛ばした綾人だけが、あの時に囚われたまま雁字搦めだった。