Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    メープルシロップ味のシベリア

    @RA_panoramaple

    無知蒙昧な甘さ

    ☆quiet follow Yell with Emoji 🍩 🍩 🍩 🍩
    POIPOI 9

    💚誕記念。
    どうしても💚を祝いたかった🩶の話。

    #りかいお

    還らない時間「あ、百ポイント」
     白湯のおかわりでプラス一ポイント。私の"奴隷ポイントカード"はこの一杯で端から端まで全て埋まった。ところで、依央利さんが勝手に発行したこのポイントカードだが、百ポイントが現時点の上限で、貯めるとポイントと引き換えに賞品がもらえる。百ポイントまで貯めたのは私が初めてらしい。
    「一番使わなさそうと思ってたのに、ここまで来たんだ。ふーん……」
     不正とかしてないよね、依央利さんは目を細めて、私の頭から爪先までを舐め回すように見た。失礼な、私がそんなことをするわけがない。ちゃんと計画的にポイントを集めて、"今日この日のこの時間"に百になるよう調整したのだ。
     彼の目は疑り深そうであったが、すぐに人懐っこい笑顔に切り替わった。
    「でも良かった! 理解くんがこんなに僕のことこき使ってくれたってことでしょ! 特典は何でもあげちゃうよ。どこがいい? 肝臓? 腎臓? 何だったら心臓いりませんか」
    「いりません」
     心臓あげたらあなた死んじゃうでしょうが。そういうツッコミは飲み下して、私は以前から用意していた答えを喉から絞り出す。
    「……あなたの時間をください。今から十八時まで、私に」
    「時間?」
    「そう。時間を」
     首を傾げる依央利さんに、私は準備ができ次第家を出ることを告げた。昼食の片付けまで終わっていて今は十二時半過ぎだった。私は飲み干した湯呑みを持って、自分で洗い始めた。
    「はぁ ちょっとちょっと!」
    「何ですか。私に構ってないで出かける準備をしてください」
    「いやいやいや。いくらポイント全部貯めたからって言ってもね、それは許されない行為だと思うなぁ!」
    「ちょ、洗いにくい、落としたら危ないでしょう、離れてください」
     やいのやいのと腕にしがみつく依央利さんに手惑いながらも、湯呑みをピカピカに磨き上げるところまでできた。ガルルと威嚇する依央利さんを押し退けて、私は一旦部屋に戻った。
    「準備ができたら玄関に来てください。あ、夕方には帰りますからお弁当の準備は必要ないですからね」
     また余計に負荷を増やされても困る。今日は私が先導して行く予定なのだし、依央利さんのために計画したのだから。

     時刻は一時を回っていた。依央利さんとハウスを出て駅へ向かうところだ。
    「ねー理解くん。時間あげるのは全然いいんだけどさ、行き先ぐらい教えてくれてもよくない?」
    「着いてからのお楽しみですよ」
    「むぅ……こっちにだって奉仕の心構えとかあるのに」
    「なんですかそれ」
    「それはともかく、理解くんがちゃんとポイント貯めてそれを利用するの意外だなぁって思ったんだよね。何? ちょっとは僕の扱い方理解した感じ?」
    「いえ、そういうのでは……」
     この人はわざとなのか本当に自覚していないのか。いや、きっと後者だろう。彼の部屋のカレンダーの十月九日は、ごく普通の平日として印字されているに過ぎない。そして、他の住人も彼の誕生日を祝うことに躊躇いがあった。一度盛大にパーティーまで開いたのだが、その時の依央利さんの表情といったら! 結局本人が望まなければやっても仕方ないという諦めが共通認識となって、今日は誰一人依央利さんの誕生日に触れようとしなかった。本人も特に何も言わなかった。
     よって、別段依央利さんをこれからは酷使してやろうとか、そういった魂胆はまるっきりない。寧ろ私の態度が正しいのだと依央利さんにわかってもらうためもあった。無論心の底から彼の誕生日を祝うのが一番の目的ではある。あなたにとっては変哲もない平日でも、私にとってはどれほど特別な日なのか、少しはわかってほしい。
     期待外れの答えをもらったせいか、依央利さんはそのまま黙りこくってしまった。駅まではまだ少し歩く。今度は私から口火を切った。
    「あのポイントカード、他の皆さんは使ってるんですか?」
    「ううん。理解くんだけ」
    「えっ、そうなんですか」
     これは意外だった。ふみやさんやテラさんなら有効活用しそうだと思っていたのだが。
    「なんかね、百まで貯めたら僕の健康な臓器と皆さんの不健康な臓器を交換してあげますって言ったら、誰も使わなくなっちゃった。これ話したの、理解くんが寝ちゃった後だったかも」
     そういえばある朝起きた時、机に例のポイントカードが置かれていた。下に小さく「百ポイント貯めたら超豪華賞品と交換!」とだけ書かれていた。この文字列だけを見た瞬間はぴんと来なかったが、私はふと部屋に掛けていたカレンダーをめくった。十月のページに一つだけ丸を付けてあった。今年の依央利さんの誕生日はどう祝うべきか、去年からずっと考えていたところで、この制度は使えるのではないかと手を打った。
     最寄りの駅に着いた。こうして並んで話していると、随分早く感じる。
    「にしても頼むことが白湯沸かすのと散歩の付き添いぐらいだったもん、本当に百いくとは思わなかったなぁ」
    「一度本棚の整理もお願いしましたよね。あれが一番ポイントが付いて三ポイントでしたっけ」
    「あれは僕がサービスしといた。六法全書が法外な重さだったからね。でも悪くない負荷だったよ〜」
     ホームで会話の続きをしていると電車が来た。平日の昼間なのでそこそこ空いていた。
    「理解くん座りなよ」
    「いいですよ。すぐですから」
    「そう言わずに。理解くんの方が歳上なんだから」
    「二歳しか違わないでしょう……あ」
     違う、私が誕生日を迎えるまでは一歳差だ。訂正すべきはずなのに、何故だか言うのを躊躇われた。僅か五分もなかったが、ドアを挟んで両端に立っていた時間は妙に重苦しかった。初っ端からこんな調子では先が思いやられる。
     目的の駅に着いて私たちは電車を降りた。「本当にすぐじゃん」と依央利さんが後ろからぼやいた。私たちが乗っていた車両はそうでもなかったが、案外人は多いようだった。はぐれないようにという正当な目的で、私は依央利さんの手を掴んで引いた。
    「り、理解くん……!」
    「迷子になるといけませんから」
    「僕子供じゃないんだけど……!」
     普段より尖った声色の割に、依央利さんは振り払わずにぎゅっと握り返した。出口までの道のりが案外長いが、何とか迷わずに改札口を出た。
     暑さはすっかり引いて秋めいた陽気だった。私たちはまず第一の目的地である美術館に向かった。
    「ねぇ、理解くん……いつまで手握ってればいいの?」
    「えっ、あ、もう大丈夫そうですね」
     美術館前の広場のような場所まで出ると、人は疎らになっていた。この一帯には有名なロダンの彫刻が点在している。『考える人』の前で大学生らしきグループがポーズを真似て写真を撮っていた。
    「青春だねぇ」
    「依央利さんも撮りますか?」
    「えぇー。いい年した大人がやることじゃないよ。てかさ、理解くんの方がポーズは似合うんじゃない?」
    「いや私の方がやってて恥ずかしいでしょう」
    「んー……思ったけど僕らそんな年変わんないし、大学生ともそんなに離れてないか」
     年の話に入って話題は依央利さんの誕生日を掠めたが、私はそこで口を噤んでしまった。私の真の目的が依央利さんの誕生日を祝うことと知ったら、彼はどんな反応をするのだろうか。あの日と同じように青ざめた表情を浮かべて、倍以上の負荷を求めるのだろうか。それが彼にとって幸せと言えるのだろうか?
     私は気付いていた。私は正しいことをしようとして、間違った方法であなたを幸せにしようとしていることに。嬉々として差し出した(?)ポイントカードを利用して、貴重な時間と引き換えに私のエゴを押し付けようとしている。如何にも正当な手順を踏んであなたに「負荷」を与えながら、その実私はあなたの幸せを明文化しているのだ。
     そんな意図を未だひた隠しにして、私たちは美術館に入り券を買った。特別展目当ての客が多いようで、ここはそれなりに混んでいた。横の説明も含めてもう少し細部まで眺めたいところだったが、絶えぬ川の流れのようにどんどん押されて前に進むしかなかった。後ろから着いてくる依央利さんは、時々私にぶつかったり靴を踏んだりした。
    「あ、ごめん」
    「平気ですよ」
     このやり取りが数回続いて、それで彼を振り返って見るのだが、どうもろくに絵を見ずに、常に正面、つまり私の方ばかり向いているようだった。
     常設展のエリアはかなり空いていた。ここならゆっくり観られそうだ。
    「理解くん。歩き疲れてない? 僕がおんぶしてあげよっか?」
    「は、はい?」
     急に何を言い出すかと思えば、依央利さんはもじもじしながらも私の前に出て姿勢を低くした。
    「ちょ、ちょっと依央利さん。何やってるんですか公衆の面前で」
    「大丈夫、重いとか恥ずかしいとか思わないから。さぁ遠慮なく!」
    「やめてください。疲れてませんから。ほら早く立って」
     通り過ぎる人々がちらちらと見てくる。その中にさっきの大学生グループもいて、私たちから離れるとクスクス喉を鳴らした。
    「行きますよ依央利さん」
     私が依央利さんを横切って暫く歩くと、観念したのか彼も後に続いた。
     ふむふむと頷きながら順に絵を鑑賞していると、横から妙に焼き付けるような視線を感じた。気になって横を向くと、やはり依央利さんは作品ではなく私に足を向けていた。目が合うとふいっと逸らされた。
    「あの……ちゃんと絵観てますか?」
    「うーん。理解くん疲れてない? おんぶしてほしかったらいつでも言って?」
    「いえ……依央利さん、もしかしてこういうのお嫌いですか?」
    「ううん? 理解くんは好きなんだねぇって」
     会話の終着点が互い違いになる。私たちの間ではよくあることだった。私がまっすぐ依央利さんに向き合おうとすると、彼は明後日の方向を見ながら私に向き合おうとする。そんなオクシモロンに私は押され気味になるのだが、今日ばかりは折れるわけにもいかない。
    「あのね依央利さん。ここは芸術に親しみ教養を深める場であって、私を観察して奉仕チャンスを伺うところじゃないんですよ」
    「ふっ、ふふふ」
    「笑い事じゃありません。私は真剣なんですよ」
    「ふふっ、ごめんごめん。ちゃんと絵も見るから」
    「全く……これではあなたのために連れてきた意味がない」
     しまった、と口を閉じた頃には、依央利さんから訝しげに睨まれていた。
    「僕のため? 僕には教養が足りないからこの際身に着けろって?」
    「いえっ、まぁ、それもゼロではないんですが、一番はですね、一日くらい家の事から離れて、リラックスしてほしいと、言いますか……」
     愚かだ草薙理解。オブラートに包んだ言葉を発する程襤褸が出ているのは明白だった。そして依央利さんの雰囲気が剣呑になっていくのも。最後の最後で、大事な場面になるまで取っておこうと思ったが、この際言ってしまおうか。息を呑んだが、彼は「なんてね……ごめん、実はさ」と絵に向き直って続けた。
    「僕こういう芸術とか正直興味ないけど、真剣に観てる理解くんから何だか目が離せなくって。つい理解くんばっかりみちゃってた」
     「あっでも疲れてないかなって思いながらもみてたよ」、続けた依央利さんの顔は間接照明にぼやっと照らされながら赤らんでいるのがわかった。前半の言葉が上手く呑み込めず、応答しようもなかった。途端に温度が上がっただけだった。
    「自分でもわかってるけど変だよね。何か今日は調子が狂うっていうか。ごめん、今の忘れて」
     それは、今日が特別な日だと自覚したということ? 私も気が変になって、ついねじ曲がった風に唆すところだった。代わりに私はただ呆然と、虚ろを体現したような顔が何かで飾られていく、そんな転換を観ていた。
    「まだまだ続くよね。行こうよ、ほら」
     情けないことに、私が手を引かれていた。新しい作品を前にしても、先程のように情報が入ってこない。ただそこに飾られている物を眺めているだけだった。次の作品に進む際、依央利さんが引っ張るとその拍子にジトッと手がべたついた。私の注意は解説から依央利さんの言葉、表情、手汗の心配へと移り変わった。いよいよ芸術品が単なる物体としてしか目に映らなくなった。
    「理解くん、疲れちゃった? それとも飽きたとか?」
    「……へ? いえ、そういうわけでは……あっほら、ここの色使いとってもいいですよね!」
    「う、うん……? 見た所モノクロな絵だけどね……?」
     冷静になろう。そう思えば思うほど、隣の依央利さんが却って脳内を占めた。一旦離れた方がいいのかもしれない。そうだ、それが一番の解決策だろう。
    「い、依央利さん……手を離してもらえませんか?」
    「……」
     依央利さんは黙って立っているだけだった。私が無理やり手を広げようとしても指が絡んで上手くいかない。これは、言うことを聞かないパターンだ。仕方なく私が移動すると、ちゃんと後ろからついてくる。誰かに服従していながら、ふとしたときに我儘になるのは何なのだろう。私は意外に読みづらい依央利さんの心情表現に翻弄されている感じがした。周りを見渡すと、気づけば観覧客は私たちだけだった。
     やっと最後の作品を観終わったときも、地に足が付いていないような浮遊感が残っていた。美術館を出て外気に当たると、茹だった頭も少し冷えていった。するりと依央利さんの手も滑って離れて、代わりに冷たい秋の空気を握った。
    「ちょっと休む? 向こうに座る場所あるし」
    「いえ、結構です……ちょっと歩きましょうか」
     じっとしているより、少しでも体を動かしていた方が落ち着くような気がした。真っ直ぐ行けば動物園だが、私たちは右側の雑木林の中を歩いた。木漏れ日が優しく降り注いだ。彼と無言で隣り合って歩く状況は、普段と違わないけれどもむしろ心地良かった。
    「十八時までまだ時間あるけど、次はどうするの?」
     本来の計画だと、奥に見える博物館に寄って、更に少し離れた所にある図書館にも寄るつもりだったが、ただいつものように散歩をするだけで私は満たされていた。依央利さんの誕生日なのに自分が幸福になってどうするのだと突っ込みたくなるが、横目に映った依央利さんの温和な微笑でそれでも良いかと思えるようになった。指と指が触れ合いそうな、近いようでしかし微妙な距離のまま、私たちは暫く当て所なく公園内を歩き続けた。

     予定から大幅に外れたルートでも、依央利さんは楽しそうに過ごせていたようだった。常に私にくっつくように歩いて、時々人気がなくなる場所に来ると、不意に自ら私と手を繋ごうとさえした。私がしっかりしないといけないのに、彼の甘えるような仕草で鼓動も言葉も乱れっぱなしだった。
     途中で立ち寄ったカフェで、私と同じ飲み物を啜りながら依央利さんはこんなことを言い出した。
    「あのポイントカード、理解くんが作った"理解体操出席カード"を見て本格的に始めたんだよね」
    「そ、そうだったんですか」
     "理解体操出席カード"というのは、あのラジオ体操に習って作成したカードで、毎日参加して全スタンプを集めると、私から花丸をもらい、晴れて完璧人間の第一歩を踏み出せたという証左になるというものだった。全日参加者はゼロだったが。
    「でしたら体操に参加してもよかったのに」
    「いやぁー五時半から体操はきついって」
    「早寝早起きしてからの適度な運動は体にいいんですよ。依央利さんも毎日滞りなく家事を続けるなら、ぜひやってみるべきです」
    「うーん……考えとこっかな」
     こういうあどけない会話も幾らでもできた。時々、いやしょっちゅうと言っていいほど、私たちは水を掛け合うように言葉を交わすのだが、根幹にあるものはきっと同じで、同じ場所に終着することもあった。
     一度会話が途切れて、互いのコーヒーカップが空になった頃、私は窓に目を遣った。既に一帯が紺色になり始めたのに驚いて、時計も見ると門限まであと少ししかなかった。私は慌てて、ずっと鞄に隠していた物を取り出した。
    「依央利さん、遅くなりましたが、誕生日おめでとうございます」
    「何々? 何事? どうしたのそれ?」
    「今日はあなたの誕生日でしょう。これは私からのプレゼントです」
    「うっそ、あ、そういやそうだったかも……よく覚えてたね」
     依央利さんは心底意外だといった表情で、本当に今この瞬間まで自分の誕生日を忘れていたようだった。彼は頬をかきながら、「ありがと」と呟いて小さな箱を受け取った。
    「中身見てもいい?」
    「えぇ、どうぞ」
     彼は丁寧にリボンを解いて蓋を開けた。そして目をぱちくりさせて、箱の中身と私の顔を交互に見た。
    「こ、これ、本当に僕にくれるの……?」
    「はい。お気に召していたらいいんですが」
    「何だか僕にはもったいないや……でもありがとう。早速着けてみる」
     私からのプレゼントを、彼は袖を少し捲って腕輪の上から着けた。当然それではきつくて入るはずがない。
    「貸してください。私が着けます」
     右の腕輪(というか、枷なのかもしれない)を外して、代わりに革のベルトを巻いた。文字盤が依央利さん側に向くように動かして、最大まできつく締めた。
    「僕が時間をあげたのに、逆に貰っちゃったな」
     冗談っぽく笑う依央利さんに釣られて私も笑った。

     急いで会計を済ませて外に出ると、すっかり冷え切っていた。一応最終目的は果たせたことになる。あとはこのまま帰るだけだ。
     けれども、私が駅の方に向かおうとすると依央利さんに裾を掴まれた。
    「……終わりで、いいの?」
    「……それはどういう」
     上目遣いで私を見つめる姿は、一歳しか違わないのにずっと幼く見えた。その割に濡烏の目は潤んでいた。
    「たったのこれだけしか君にあげられないなんて。割に合わないと思うな」
    「あなたの誕生日なんですからいいでしょう」
    「僕の誕生日だからだよ」
     夜が降りる時間が早くなっていた。辺りが一層暗くなり、それに反してビルの電飾が喧しく光っていた。群衆の中には、帰路を急ぐ社会人に紛れて犯罪めいた妖しさがのさばり始めている。できることなら依央利さんを引っ張って帰りたい。駅はすぐそこだ。なのに、脚が縫い付けられたように動かなかった。依央利さんの細い指が私の腕に絡み付いていた。
    「帰りましょう。門限を破ってしまいますから」
    「えぇー。これだけ言ってもまだわかんない? カタブツだなぁ理解くんは」
    「なっ……さっきから何なんですか。ほら、家で皆さんが待ってますよ」
    「そっか。わかったよ理解くん」
     私の腕は解放された。しかし私が駅の方角へ歩き始めたのに反して、依央利さんは逆方向に背を向けた。昔飼っていたジャスティスも、偶に言うことを聞かず散歩を延長していたな。見えないリードを掴もうとして、慌てて後を追いかける。人混みに揉まれながらも、何とか彼を捕まえられた。
    「なんで 帰るって言いましたよね」
    「うん。でも今じゃないよ」
    「な、なんでですか」
    「僕の時間は明日の朝まで君のものだよ。つまり僕を縛れるのは君だけ。帰っちゃったら僕らは別々に縛られちゃうな、って。理解くんはどう思う?」
    「わかりませんよ。私たちには帰らなきゃいけない家があるのに」
    「そんなの知ってるよ、当然でしょ。けど今日が終わるまでは君に独り占めされたい……あぁもう! ここまで言わせるなんてさぁ! 理解くんドンカンすぎ」
     依央利さんは苛立たし気に吐き捨てると、私の肩口こてんと頭を押し付けた。表情を隠すためでもあるのだろうか、しかし空と同じ色をした髪の毛の隙間から、色付いた耳の先が覗いていた。とりあえず彼を引き剥がそうとして肩に手を添えた。骨張った感触は私に不思議な実感をもたらした。
     むすっとした真っ赤な顔で、彼は私を睨んだ。ただ険悪な雰囲気ではなく、どこかしら甘い薫りさえした。ずっとこの場に居ては掻き消えてしまうし、家に帰れば尚更残らなくなる。私が今からやるべきことは、過ちだとしても依央利さんの意思に応えることなのだ。
    「……私たちは、この先どこに向かえばいいんですか」
    「それは理解くんが決めなきゃ」
     鳥籠から逃げ出したらしいカナリアが、囀りながら澱んだ夜空に消えて行った。飼い主がそれを追い掛けるが、虚しく宙を掴んで終わった。すぐ後に電車が轟音を上げて高架鉄道を走った。私はそれを見送ると、依央利さんの手を強く握って歩き始めた。
    「理解くん強く握りすぎ、ちょっと痛いって」
     酒気と煙が蔓延する猥雑さがどうしようもなく息苦しい。それでも繋がれた体温だけは逃してはならなかった。いつか溶け合う時が来るのかもしれないし、離れ離れになるのかもしれない。ただずっと彼の手を握って、駆け出すよりほかないのだ。
     私たちは誰にも知られることなく、無秩序極まる往来を彷徨い続けた。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖💖💖💖👏👏💚💚💗👏👏👏👏💖💖💖😭👏💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    recommended works