圭藤♀窓ガラス一枚分の距離だった。
歩き方?話す声?それとも俺のラブセンサー?
ふと振り向いたら廊下の先に君がいるなんて、俺たちってば運命で結ばれたふたりなのかもしれない。
向こうは俺に気づくかなって、教室の中から一瞬うずうずするけれど、
「葵ちゃあん!」
気持ちが勝手に飛び出しちゃった、ガラガラとあっけなく窓を開ける。ぶんぶんと、身を乗り出して手を振ってる。
一コマぶり、本日何度目かの呼び止めに、葵ちゃんはパッと顔を上げた。飼い主に呼ばれたワンちゃんみたいにまっすぐ俺だけ見つめると、「おー、」、ヘラ、としっぽのかわりに小さく手を振る。そんな些細な仕草が宝物みたいで、ぎゅうっと、左胸が跳ねた。
葵ちゃんと彼氏彼女になれたのは、つい先日のことだった。
「俺、葵ちゃんが好きみたいだからさ、誰かと付き合っちゃったりしたらいやだなあー」
おっかなびっくりつぶやいてみたセリフは、自分がいちばん驚くほど弱々しくて上ずっている。君の顔すらまともに見られないという臆病っぷりに、「なら、付き合っちまうか」、まさか返答がかえってきたときは耳を疑った。
いいの?、なんて確認する余裕はない。
「、うんっ、」
よーいドンされたみたいに飛びついて、君の彼氏の座を奪った。告白はなんか情けなかったのにさ、俺ときたら、ちゃっかりしてるよね。
それからしばらく、ふたりの関係は葉流ちゃんにだって話してない。あらたまってご報告するようなことでもない気がするし、特に野球とも関係ないしね。
そうしたら、今度はだんだん楽しくなってきた。
すれ違うたびに、こっそり目くばせすることが。
「バイバイ」って言うときに、最後まで君に手を振ることが。
あんまりはしゃいだら“好き“の気持ちに気づかれちゃうからさ、息をひそめて伝えなきゃ。
どこか別の教室へ移動中だったのだろう、教科書を抱えなおしながら、葵ちゃんはまだ俺を見つめてる。ニコニコ、ニコニコってさ、飴玉を噛まずにこらえてずーっと味わってるみたいに、もごもごって口を結んでる。
あーあー、そんな顔しちゃダメだって、ふたりのひみつがみんなにバレちゃう。葵ちゃんが俺のこと大好きだって、クラスのみんなにバレちゃうよ。
しあわせ、しあわせ、しあわせだなあ。
窓枠に体を引っかけたまま、むふふって君とおんなじ顔をしてみせた。
藤堂くん、ガン飛ばしてんですか?
要くん、何してるの?
お互いの後方から、的確なツッコミを食らうまで。
フォーク一本の距離だった。
ハンバーグ作りすぎたからめいっぱい入れてきたわ、食う?
えー!いいの!?
いきおいよく口を開こうとして、おっとあぶない、体をすぼめる。
本当は『あーん』とかしてほしいけど、ひみつひみつ。お友達の男の子と女の子はあんまりそんなことしないからさ、ひみつひみつ。
大好物をフォークで拝借して、ありがとーって葵ちゃんに笑いかける。
フォーク一本分、毎日のお弁当の時間のひみつ。
ペットボトル一本分の距離だった。
要おつかれ、ほら。
あっ葵ちゃん、おつかれー。
握手みたいに差し出されたただのお水を受け取ろうとして、ハッと固まる。
そういえば、まだあんまり手とかつないだことないかも。ここでぎゅってやったらダメかな、ダメか、ダメだよね。葵ちゃんはどう思ってるんだろう。俺と手、つないでもいいって思ってくれてるかな。
結局指先に触れることすらできずに、ありがとーって葵ちゃんに笑いかける。
ペットボトル一本分、毎日の部活の時間のひみつ。
***
気の早いセミが、ジーーーと長く鳴くようなころだった。
いつも通りガヤガヤ練習を終えた俺たちは、いつも通り誰が言い出したか思い出せないくらい些細なことでバッティングセンターへ寄り道して、そろそろお開きにしますかあ、なんてバッグを背負って歩き出した。
俺はこの流れ、けっこう好きなんだよね。俺たち御用達のバッティングセンターは学校から少し離れたところにあるから、そのまま帰るよりちょっとだけ葵ちゃんと長く歩ける。
ドン、と、体の内側から揺さぶられるような大きな音が響いたのはそのときだった。
聞こえたのは俺だけじゃなかったみたい、みんな、思い思いに足を止めてる。
「花火かな?」
「えー、どこだろ、」
「こんな時期にやるんですね、今日平日ですよ」
キョロキョロ音の居場所を探り合うけれど、見晴らしの悪さも手伝ってなかなか出どころを特定できない。
第一発見者はこの中でいちばん背の高い葉流ちゃんで、「あそこ」、短い言葉に操られるように、残らず全員空を仰いだ。
パッと、マンションの向こう側が遊園地みたいに色とりどりに染まる。風に舞い上がる花びらみたいに、花火の片鱗がちらっとのぞく。きっと、あのマンションに住んでいる人たちは特等席から歓声を上げていることだろう。花びら一枚分くらいしか見えなくても、その迫力に俺たちがこんなに息を飲んでるんだから。
「あっちの通りまで行けば、もうちょい綺麗に見えるかもな」
うずうずとした声音に、みんなの足も自然と早くなる。ドン、バン、パララララ、と響く音が変わるたび、今の見えた?、なんてはしゃいで報告し合いながら。
ふと、長く伸びた影と目が合った。まだまだあたりは明るいけれど、スーパー脚長球児になったもうひとりの俺は、隣を歩く葵ちゃんに甘えるように引っついている。
ちらと、君の横顔をうかがう。
花火に照らされるわけでも、星空にまたたくわけでもない、いつもの君の、いつもの横顔。
飴玉を噛まずにこらえてずーっと味わってるみたいに、もごもごって口を結んでるその顔に、俺は目を奪われてしまった。
葵ちゃん、あの顔じゃん。ニコニコ、ニコニコってさ。うわー、かわいい、かわいいな。いつもはバレちゃうからダメだけどさ、今はみんなあさってのほう向いてるから大丈夫かも。葵ちゃんを見てるの、俺しかいないから大丈夫かも。
よし、と手相が剥がれそうなくらい、制服へ手のひらを擦りつけた。
ちょこん、と小指で君に触れる。長くて、細くて、俺のものとは全然違う、君の指。
葵ちゃんがハッと声を飲みこむ様子が、わずかに触れた彼女の体から伝わってくる。
心臓を落っことさないように必死だった。今のかなりおっきかったよ!なんてはしゃぐみんなにも混ざれずに、俺と葵ちゃんはじーっと黙ってる。
手をつなぐように、君の小指がこちらの指に絡まって、
それが、せーの、の合図だった。
ズドン!と、背中を叩くように、大輪の花が咲き誇る。
花束みたいに空に浮かぶそれを、俺は葵ちゃんの瞳の中にとらえることしかできなかった。
それすらも、すぐに“要圭“の緊張しきった表情に覆われて、やべ、俺めっちゃくちゃ変な顔してるじゃん、ふふっと鼻を鳴らしながら口づけた。
きらきら、花火が消えるまで。
ぴかぴか、すごかったねってみんながこちらを振り向く前に。
全然、永遠なんかじゃなかった。
セミの鳴き声が戻ってきたあたりで、俺はそそくさと体を引っこめる。
突然でびっくりさせちゃったかな、葵ちゃん、こういうのイヤだったかも。
「え、」
口に出していないはずの質問へのアンサーは、すぐに君から押し付けられる。
小指一本分の、距離だった。