いつかまた 一きっと私の望む結果にはならなかったのだと。
清霞に告げられたその言葉は、重たいものとなり、薫子の胸に落ちた。
結婚に恋愛は必要ない。
結婚とは、家と家が結びつくもの。
婚礼のその日まで、相手の顔を知らないなんてこともよく聞く話だ。
でも。
わかっていた。
私は美世さんにはなれないと。
ーーだって私は、弱いから。
胸に落ちた重たいものは、薫子の想いを黒く染めていく。
死罪も覚悟での裏切りだった。
仕方が無いと同情の声もあがったが、これは自業自得。
全て、自分の弱さが招いた事。
美世さんは強い。
そして綺麗で、儚く美しい。
自分からして見れば理想の女性だと思う。
清霞の横には、これ以上にない程お似合いだ。
私の恋は終わった。
元から見込みはなかったけど。
それでも…。
最後に、話す事が出来て良かった。
全てを忘れたくて、薫子は無心で木刀を振る。
恋も、仕事も。
何もかもが上手くいかない。
でも、こうして木刀に集中する瞬間は、余計な事を考えずに済む。
仕事が終わると、毎日のように薫子は道場へ足を運んだ。自主的に鍛錬して、来るべき日の為に日々を励み、気が付けば日は暮れて、周りに人はいなくなっていた。そんな日も多い。
今日も最後、薫子は道場にひとり。
木刀を片付けて帰り支度を始めた頃。
珍しく道場の扉が開く。
ーー誰だろう。
こんな時間に人が来るのはかなり珍しい。
緊張して振り向けば、見慣れた軍服の男性がいた。
久しぶりに見たその顔に安堵を覚える。
「お疲れさま〜」
薫子からやや離れた位置で、のんびりとした優しい笑顔の彼が軽く手を振る。
「お疲れ様です。五道さん」
手にしていたものを全て床に置き立ち上がる。姿勢を正して五道に向き直った。
薫子も笑顔を作りいつも通りに声を掛ける。
「こんな時間に屯所にいらっしゃるなんて。珍しいですね」
何か屯所にでも用事があるのだろうか。第一線で活躍する彼は、市内を巡回する仕事をしている薫子と違い多忙だった。
薫子も軍人の端くれだ。
詳しくは知らされていないが、今がどう言う時期かくらいは知っている。
「いや?用事はないんだけど。ここに来れば、陣之内に会えるかと思って」
その言葉に薫子は目を見開く。
「最近通い詰めてるって聞いたから。明日は貴重な非番だし、無理してないか監視に来ただけ」
五道は警戒する事なく、変わらない笑顔でこちらに歩を進めた。
勿論薫子に敵意はないが。それにしても、裏切り者の前科がある薫子に対して五道はやや不用心にも見えた。
「無理は、してないですよ?」
五道は薫子の手前で立ち止まる。
それにも薫子は勤めて笑顔で答えた。
「そう、ですね。…信頼を回復出来るよう、頑張っています」
笑う薫子を、五道は少し怪訝そうな顔で見る。
「そう言う嘘は、下手なのな」
いつもの人好きのする笑顔がない彼は、何だかそれだけで少し怖くも感じて身を含める。
真っ直ぐな五道の瞳には、動揺する薫子だけが映っていた。
「…隊長と何かあったんだろ?宮城ですれ違った時から気になってた。隊長は、ああ言う人だからわかんないけど…。何か言われた?」
宮城、と言われて思い出す。
普段は近付く事ももうあまりない宮城で、清霞と話したあの日。
美世さんには、絶対に叶わないと。
…気付いてはいたけれど。
直接言われると、やはりそれは辛いものがあった。
薫子はぎゅっと両の拳を握り、五道から目を逸らす。
「五道さんには、関係ない…です」
こんなのは八つ当たりだ。
心配してくれているのに、失礼な物言いだと理解はしている。けど、彼に気を使う余裕はなくて。
「これは、隊長と自分の問題ですから」
小さく呟くと。
五道は何も言わなかった。
道場内はしんとして、張り詰めた空気がある。
耐えきれず薫子は顔を上げて、恐る恐る五道を見れば。珍しく眉間に皺を寄せて、不機嫌さを隠す事なく五道はこちらを見ていた。
「関係なくなんかねぇよ」
苛立ったような低い声。
「そんな泣きそうな顔で笑ってりゃ…心配にもなるだろう」
「泣きそう?私が?」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
言われた薫子は少し戸惑う。
「そうだろ。隊長に何言われたかなんて興味はないけど。大方の予想は付く」
吹っ切れたとは思っていない。でも、納得はしていた。
清霞なりに考えた婚約破棄の理由。
自分に落ち度はなかったと、言われた。
気遣とかではく、清霞の本心。
それが嬉しかった。
隊長らしいと、思った。
それで十分だった。
…十分だったのに。
私は…。
目頭が熱い。鼻の奥がつんとする。
泣きそう?
私が?
違う。今はただ、辛いだけ。
視界が揺れる。
奥歯をぎゅっと噛んで、こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えて俯いた。
「そんな、意地になる事はない。悲しかったら、泣けばいい」
五道は迷いなく、手を伸ばして。
俯く薫子の頭に触れて、乗せる。
自分の掌とは全く違う。
温かくてごつごつした、大きな男の人の掌だ。
「ここには、誰もいないから」
揺れる視界からぼやけた床が見える。
瞼を閉じれば、涙が溢れて床に落ちた。
悲しくなんてない。
泣きたくなんてない。
仕事も、恋も。
悪いのは自分。
全て私が至らないからだ。
こんな弱い自分は、嫌い。
こんな姿、誰にも見せたくなかった。
「五道さんが…、いる…じゃないですか…」
涙が頬を伝う。
「俺はいいの。特別だから」
頭に乗せた手をそのままに。
五道はそれ以上何も言わなかった。
一度涙が溢れれば、もう止める事は出来ない。
薫子は両手で顔を覆う。次から次へと、ぬぐっても、ぬぐっても涙は止まらない。
薫子の嗚咽だけが、静かに響く。
「…隊長が…、好きでした…」
胸にしまっていた想いが溢れる。
「そんな事…。一生口にしないって…決めていたのに…!美世さんが、羨ましくて…悔しくて…」
本当は、美世さんになりたかった。
強い自分になりたかった。
「でも、美世さん…すごくいい人で…っ。どうしていいか、わからなくて…。私、美世さんも、大好きだから…っ」
五道は薫子の背中に手を回す。
小さなその背中を、そっと撫でて。
静かに彼女の言葉に耳を傾ける。
その顔はーー。
しばらく泣くと、何だかすっきりした気がした。
ずっと側にいてくれたその人は、薫子に手ぬぐいを手渡しながら、力無く座り込む薫子に合わせて膝を付く。
五道はそっと、薫子の濡れた頬に触れて、親指で涙を拭った。
「俺じゃダメ?」
目を大きく見開き、顔を上げる。
聞き間違い?
否、そんな事はない。
真っ直ぐにこちらを見る五道の顔に、表情はない。
考えてもみなかった。言葉が出なくて。
ただただ、五道の顔を見ることしか出来ない。
静かな夜の静寂に。
先に視線を逸らしたのは、五道だった。
一瞬俯いて、はぁとため息を漏らしたかと思うと、すぐに笑顔で向き直る。
「さて、と」
ぽんっ、と薫子の頭に一回触れて、立ち上がる。
「もう夜も遅いし、今日は送ってくよ」
顔洗えよーと言いながら薫子に背を向ける。
薫子は手を伸ばした。
何かを、言わなくては。
「五道さん…っ」
「んー?」
振り返る五道は、さして気にしている様子もなく、いつも通りだ。
呼び止めたものの、何から話して良いのかわからない。言いたい事、聞きたい事はたくさんあるはずなのに。
薫子の言葉を少し待って、何も言わないのを察すると、
「入り口で待ってるから、着替えて早く来いよ」
いつもの調子で言って再び歩き出す。
結局薫子は、その後ろ姿を呆然と見ているしか出来なかった。
一歩、二歩踏み出した五道の足が不意に止まり。今度は振り向かずに、やや低い声が、小さく響く。
「俺は、本気だよ」
そのまま入り口へと消えて行った。
ばたん、と大きな扉が閉まる。
残された薫子は、ぺたんとその場に座り込む。
何から、考えればいいんだろう。
手にした手ぬぐいを見て、急に顔に熱が登る。
考えた事もなかった。
同僚だと思っていたから。
そんな事…。
道場の入り口を見るが、閉じられた扉からその姿は勿論見えない。
そこにいるのに。
どんな顔をして、行けばいいんだろう。
持っていた手ぬぐいをぎゅっと握りしめる。
どきどきと、鼓動が早い。
急に意識してしまう。
もうしばらく恋なんてしないと、決めた。
でも。
今日、この想いを吹っ切れたのは、確かに五道のお陰だ。
好き、とは違うけれど。
それは、
いつかまた。
***