嗚呼、夏なんて消えてしまえばいい!
夏の始まりを告げるように、バチバチと鈍い音を立てて、雨が屋根に打ち付ける。湿度は余裕で八割を超え、気温は十の位が二より下がることがない。そんな季節が始まった。
それはつまり、クラブ棟で暮らす六道りんねが熱中症の危険と腐れ縁にならざるを得ない期間の始まりであり、その様子を見た関係者に夏の間だけでもどこか涼しいところに…と心配される時期の始まりでもある。
昨年の夏は、どうにかこうにか乗り切れたが、今年の夏は異常気象なのか、苦痛さえ覚えるほどに気温が高い。雨の日であるというのに、当たり前のやうに真夏日だ。
土砂降りの中で百葉箱を確認しに行く気になれず、ただただ自室で大の字になって空を見つめ続けてどれ程経ったのか。
もはや畳すら暑苦しいと、コンクリの壁に背中を付けて座り込んだ。目を閉じると、瞼には壊れたテレビのような色とりどりの色彩が砂嵐のように乱舞していて、流石のりんねも少しだけ命の危機を覚える。瞳を開いていると、視界がカラーフィルターを通したような気持ちの悪い色彩に染まるから、それよりはまだマシだけれど。
耳鳴りはここ数日ずっとだから慣れたものの、そこに混ざる頭痛を連れた雑音には、いまだに慣れない。
水を飲んだほうがいいのは分かるが、あと少し先にあるヤカンに、指が動かず辿り着けなかった。
前にものを飲み食いしたのはいつだったか。思い出せない。残高が無くなっている預金通帳に落ち込んでいたら、真宮桜が冷やし中華を馳走してくれたのが最後だった気がする。否、水はそれ以降も飲んでいたか。
六文は先日の任務で無理をさせたこともあって魂子の屋敷に避難させているし、隣人の元堕魔死神の少女は夏休みの間はバイトを増やす代わりに命数管理局の寮に入れてもらえることになったと喜んでいたので、2人はこの酷暑に襲われず無事でいることだろう。裏を返せばそれは、今のりんねに何かがあった時に、発見できる者がいないことを示していた。
冷静に考えれば命の危機を覚えるべき状況なのだが、りんねの脳は、冷静に思考することが可能な域を通り過ぎてしまっている。そも、気づけたところで文明の利器を持たぬ彼は誰かに助けを乞うこともできないのだから、自覚していない方がまだマシなのかもしれない。
せめて黄泉の羽織を着ていれば霊道を開いて何かできたのかもしれないが、あいにくとジャージすら投げ出す程の酷暑の中で肌に触れる布地を増やせるわけが無い。涼しさを追及した結果、今のりんねは水着一枚である。
ガン、と反射で顔を顰めたくなるような音が響いた。発生源を辿って、自分の頭部であることに気づく。どうやら座ることすら耐えられずに、倒れてしまったらしい。遅れて、頭が強く脈打っていることを感じ取る。痺れて愚鈍になった感覚では何も分からないが、流血していないといいな、と思う。掃除が大変だから。
朦朧とした状態では何か言伝を残す、なんてことも出来るはずがなく、りんねは意識を手放した。
そんなクラブ棟に疾風とともに現れたのは一応形だけやらかした報告に来た鯖人である。常ならば厄災の種でしか無い彼は、今この時に限っては、救いの神であった。一因でもあるので無自覚なマッチポンプの側面もあるが。
「ごめん〜!また預金全部使っちゃった、ってりんね…? え、死んで、おまえまで、え、いや、生き、てるか?」
息子がうんともすんとも言わず酷い顔色で倒れ伏している様子には、流石の鯖人も顔を引き攣らせた。一応こんなでも死神ではあるので、生きていることは分かったが、対処法が分からない。彼は熱中症の重症患者なんて遭遇したことがないのだ。
しかし鯖人はロクデナシであっても無能ではないので、分からないならば聞きにいけばいいと速攻で結論づけ、負担のかからぬように抱き上げて苺の元に向かった。
鯖人が訪れてから去るまでにかかった時間、約10秒である。
「ママ、熱中症の対処法って分かるかい?」
「あらパパ、急にどうし…りんね!」
幸いなことに、探し人は在宅していた。ぐったりとしたりんねと、鯖人の開口一番の言葉で状況を把握したらしい。前世で培った年の功か、人間として生きているが故の基礎知識か、テキパキと指示が出される。
「私のベッドだとサイズが合わないわね……両親の部屋に寝かせて。そうしたら下の冷凍庫に氷枕と保冷剤が入ってるからそれを! 私は救急車を呼ぶから…あぁ…でも医療費、払えないわよね…」
が、金銭的な壁を前にしてしまっては、現世小学生の少女に出来ることなんてない。
「あ~! もう! どうしようもないじゃないの! パパ、魂子お義母さま呼んできて頂戴! 今すぐに!」
医療費が払えないほど息子が困窮した諸悪の根源は、目の前にいるこの男なのだが、そこを追及していても仕方がない。鬼気迫る(と言っても小学一年生の姿なのでそこまで怖くはないのだが)形相の苺を前に、鯖人は大人しく霊道を開き、魂子の屋敷はと向かった。
幸いなことに魂子も在宅していたので、病人の移動は恙無く完了した。
いくら以前の座敷童騒動で苺の父母の信頼を得ているとはいえ、小学生の少女の元に熱中症で意識不明の高校生がいるなど、オカルトを信じない人間に説明するにはあまりにも骨が折れる異常事態であったので、すんなりと場所を移せたのは僥倖である。
そして、仮令伝説の死神の生まれ変わりといえども、人間である苺があの世に行くわけにはいかなかったため、りんねの目が覚めるまで絶対に側を離れないこと、目が覚めたら苺に報告すること、の二点を鯖人に誓約させて、母であった少女は現世に留まった。
場所を移し、コネで医者を呼んで(医療費は鯖人持ち…と言いたいところだが、そもそも今の鯖人の所持金はりんねの口座から来たものであったので魂子持ちである)点滴などの処置を受けた数時間後、命の危機は脱したとは言え、未だ意識が戻らぬままであったりんねが、ようやくその瞼を震わせた。
「ぁ…ィ」
酷く掠れた声ともつかぬ声だった。脱水症状と熱中症の併発、且つ意識不明なために今に至るまで飲水が叶わなかった影響だろう。
「りんね! 意識が戻ったんだね?」
「…?」
目覚めた直後で瞳の焦点があっていないのか、少し揺らいでこそいるが、それでも、久しぶりに見るその赤い瞳に、酷く安堵する。
あの時も、季節は夏だったから、そんなところは乙女に似ないでくれと、自分でも分からないままに怯えていたらしい。本当に、よかった。
「ほら、まだ寝てなさい」
乱れて目にかかりそうな額の髪を払ってやりながら、そっと語りかける。
その声は、幸せな家庭の父親はかくあるのだろう、と思えるほどに、ひどく優しい響きを宿していた。
(24/07/01)