地獄はまだ遠い 元から、生命の意味だとかそういったものに深い意味を見出すタチではなかったけれど、彼女に対して抱くこの思いは、きっと生きる理由というものになるのだろうと、それくらいは人並みに思っていたのだ。
だって、彼女との出会いは運命で。適当にしていても何不自由なく暮らせる程度には家庭に恵まれていた為に、ただ呑気に暮らしていた自分が、ようやっと世間一般で言うところのまともな仕事、だとかそういった類の方向性に向かおうと思えるくらい、鯖人の人生は彼女の存在で変わったのだ。
けれど、これからという折に、彼女は一切の理由を告げることなく姿を消してしまって、自分の殊勝な心掛けは、瞬く間に三途の川に流された。
なぜだか写真も全てが失われていたから、彼女の存在を証明するものなんて、忘れ形見の息子と、自分と両親の記憶だけ。河原で見つけた履き物や、着用していた衣服は、彼女の遺品と言えるだろうけれど、それは存在証明には繋がらない。せめて、ライセンスでもあれば、顔写真が残っていたのにと思ったけれど、それを質に入れたのはまごうことなき自分自身だ。生まれて初めて、質に入れなければ良かった、だなんて後悔を抱いた。
人は声から忘れると聞いたことがある、そうして、その次には見た目を忘れるとも。彼女のことを忘れることなど有り得ないと思っていられるのも、今だけかも知れない。そう思うと、気が狂いそうだった。
両親には、見つからなかったとだけ言って、それで終わりにした。彼女がもう戻らない事実を、口に出したくはなかった。普段ならばいざ知らず、平素の姿が見る影もないほどに憔悴した鯖人を追求するような人達ではないから、六道乙女は本日を以て行方不明、それで終わり。
面影に縋ることすら許されない中では、家にいることすら苦痛だった。
父親としては、母を亡くした子のそばにいるべきなのかもしれないが、無理だ。違う、愛してはいる、愛してはいるけれど、あの輪を名前に持ち、彼女の面影を宿した顔を持つ子供を、真っ直ぐ見れるほどに鯖人は人間が出来ていない。人間にも死神にもなり得ぬ半端者なので。
かと言って、彼女を連れ去った忌まわしき輪を、四六時中見続けるというのも、心が壊れてしまいそうで、逃げるように現世に降り立った。
自分の顔の良さは自覚している。甘そうな女性に声を掛けて、一晩泊めてもらう。俗に言うヒモ(一日限定)という奴だ。彼女と出会ってから女関係はリセットしたけれど、伊達に膨大な数の女性と付き合っていない。顔の良い男がいればそれでいいという人を探すのは苦ではなかった。
それを数日数人繰り返した頃。日付が変わるか変わらないかくらいの時間に起こされたかと思えば、甘ったるい声で情死を哀願された。
情死も何も、自分と相手との間には愛なんて無いのに、馬鹿らしい。選ぶ相手、間違えたかなぁ、とぼんやり後悔したけれど、別に今死んで困ることもない、と思い直す。りんねは……両親が、面倒を見てくれるだろうから。
彼女の家は、海にほど近い川沿いの、だいぶ年季の入った、お世辞にも綺麗とは言えないアパートメントの一室だった。着の身着のまま連れだって部屋を出て、コンビニで酒を数本買う姿をぼんやり眺める。促されるままに一本煽り、自販機横のゴミ箱に投げ込んだ。
夏場とはいえ、夜の川は中々に冷たい。このまま海まで歩いて行こう、なんて言う彼女は、笑っていたけれど、自分は何と返事をしたのだっけ。無計画なこと極まりないが、別に今更辞める理由もないので着いていく。
だいぶ進んで、水深も深くなった頃、隣で沈んでいた少女が沈黙した気配を感じた。しばらく自分も沈み続けてみたが、どうにも死ねそうになかったので、諦めて浮上し、空中に浮かぶ。
暫し迷ってから、少女の遺体を引き上げて、河原の比較的綺麗なところに安置することにした。この少女に無事に弔ってくれるような人がいるのかは分からないが、まぁ、海に沈むよりはマシだろう。側から見たら殺人で、隠蔽するのが正解なのかもしれないが、鯖人の戸籍は現世に存在しないので問題ない。
全て終えて夜の海を見下ろしながら、カラカラとした玩具みたいな笑いが口から零れ出る。いくらなんでも、あまりにも、おかしいじゃあないか。
自分の善悪の基準が多少人と異なる自覚はあったが、まさか人間を一人見殺しにしてもなんとも思わない程だなんて、知らなかった。年齢確認で出していた身分証明書が偽造だったから、まだ20も生きていない、きっと寿命はまだあっただろう少女を見殺しにしたのだ。堕魔死神、なんて存在は在学時に噂に聞いたけれど、多分、今の自分がやったことはそれと変わらない。そして、自分はその行為に嫌悪感を覚えることができていない。
彼女が生きていたならば、きっと、彼女が悲しむからと断れたのだろうけれど、否、生きていたらそもそもこんな行動に走っていないけれど、もう彼女はいないから。
人一人見殺しにして何か変わるわけでもないが、現世にいることが何となく嫌になって、あの世に戻った。乙女に知られては怒られてしまう、という一抹の倫理観は、まだ残っていたから。
心中に誘ってきた少女が「ODしても死ねなくて〜」なんて言っていたことが頭の隅に残っていたので、帰り際、現世の薬をいくつか入手して、試すことにした。酒とかグレープフルーツジュースとかが危ないらしい、とかいう中途半端な知識はあったので、それらをちゃんぽんして飲み干してみる。
きっととっくに致死量は超えているだろう量を飲んでも、死ねなかった。隔世遺伝なのか今の時点で大分人間寄りの息子と違って、己は大分死神寄りであるらしい。
パックではなく2Lの物を選んでしまったグレープフルーツジュースは、飲み切るには大分大変だったから、両親に横流しした。明日はカマでも降るんじゃあないかと言う目で見られたが、一体何だと思われているのか。さすがに息子はまだ飲める年ではなくても、母か父は飲むだろうという孝心なのに。
帰り際に、ゴミ箱におざなりに打ち捨てた薬の空き箱を見た母が、青ざめていたのを見かけて、少しだけ、かなしい気持ちになった気がした。分からないけど。
数年後、堕魔死神カンパニーなんてものを立ち上げたものだから、母が感情を押し殺した目で見てきているのには気づいていた。父が、悲しみと怖れを含んだ瞳をしていたことにも気づいていた。かたや寿命を延ばした母と延ばされた父、かたや寿命を無視して不当に命を奪う息子、嗚呼、なんて親不孝なんでしょう?
その少し後、実家から物を拝借しようとしたときに、箪笥の引手に掠って、腕が一文字に切れてしまった。その傷をなぞってみたのは、最初こそ純然たる好奇心だったのだけれど、一度やってしまえばその紅に惹かれてしまって、そっと新たに線を引く。その鮮やかな緋を眺めることが楽しかったので、続けていたら、いつのまにやら部屋に入ってきていたらしい息子に泣かれた。死んでしまうとでも思われたのだろうか。確かに客観的に見れば片腕の半分が血塗れなのでスプラッタじみていると思うけれど、人間ではないのだし、これごときでは死ぬはずが無い。というかカマを片手に泣かないで欲しい。怖い。
息子を宥めている間に、騒ぎを聞きつけてやってきた母と黒星に有無を言わさず包帯を巻かれ、布団に放り込まれた。息子と添い寝するなんて、いつ振りだろう。彼女がいなくなってからは、初めてではないだろうか。
――
息子に頼み事をしに行って案の定断られた帰り道、何となく、ふらりと橋の欄干に乗ってみた。現世の伝説にこんな物があったなぁ…なんて思いながら適当にくるくるを舞っていたら、通りがかった息子に引きずり下ろされる。あの頃は何も出来ずに泣いていたのに、随分と大きくなったものだなぁ。
襟首を掴まれながら、「死ぬ気なのか?」なんて真顔で聞かれて、「どうだろうね」と返したら、一発ぽかりと殴られた。
本当のことなんだけどなぁ。
「おまえまでおれを置いていくつもりか」
彼が何か呟いていたように思えたけれど、生憎と、通り過ぎた車の音で聞こえなかったし、表情も腕で隠れて見えなかった。