月夜の少年「自分の好きな物を描いてみましょうねー!」
教室の担任から声がかかる。目の前には白い大きな画用紙が一人一枚手渡されていた。お道具箱や個人ロッカーから持ってきた自分達のクレヨンを手に色が溢れていく。
僕はあれを描くんだ!
私はこれを描くの!
賑やかな声の最中、じっと玄弥は白い画用紙を見つめていた。
好きな物。何を描こうかと。
同じテーブルグループの炭治郎、善逸、伊之助は迷いなく課題に取り組んでいる。カナヲも思いついたのか髪飾りを外して描き始めていた。
「……。」
何を、描こう。
手に取ったのは黒色のクレヨンだ。窓から差し込む光とは真逆のその色を見つめ、玄弥はようやく画用紙へクレヨンを走らせた。
暗闇の中、走っていた。
黒だけではなく青みも空にあった。
青いクレヨンも混ぜて塗る。少し明るいので紫色も塗る。塗る。
白を埋めるように、空を繋げるように。
「げんや、それつきか?」
玄弥の画用紙を見て炭治郎が声をかけた。真ん中だけぽっかりと空いた白い穴の絵が出来上がっている。
「へんなの。つきならきいろつかってぬりゃいいじゃん」
゛かそうか?゛と言う善逸へ玄弥は首を横に振った。
「なんだぁ?おつきみか?つきみだんごでもしたにかくのかよ?」
「それはおまえがくいたいだけだろ。なんだよそのまる」
「てんぷらにきまってんだろ!!」
相変わらず食べ物の話と絵を描くのは伊之助だった。黄色の丸や細長い棒が画用紙の中で踊っている。
「げんや、つきすきだったの?」
「ん、まぁ…なんていうか…」
髪飾りを詳しく見て細かく色合いを変えながらカナヲは蝶の絵を描き続けていた。他の女子よりも話せれるとは言え、まだ少し気恥ずかしさが残る玄弥は頬をぽりぽりと掻いて言葉を濁しす。
暗い道の中をまた駆ける。手も足も呑まれそうな暗闇を振り切るように空を見上げれば、白く丸い光がいつもそこにあった。
時折見る夢。ふとした時に過ぎる記憶。
好きな物というよりは忘れたくない記憶を描き写すような感覚の筈だ。
幼稚園の各クラスごとある掲示板に飾られた己の絵を玄弥は見ている。
好きな物、と言われてやはり思い浮かぶのは白く丸い月だった。
元から絵を描く事は嫌いではなかった。1人でも複数でも遊べて、お金をかけずに出来る取り組みを玄弥は好んでいた。幸い、手先も器用であり、絵心も練習を積んで身につけられてきている。誕生日にはスケッチブックと色鉛筆やクレヨンなどの画材を頼むのが玄弥定番のプレゼントだ。その分、他の妹弟へプレゼント代を回して欲しいと母に常々頼んでいる。
「玄弥はほんに月の絵が好きねぇ」
微笑ましく見守りながら母が告げた。勿論、月以外の絵も友達の顔や炭治郎達が描いた絵もこのスケッチブックにはある。だが大半は母の言う通り、白い月の絵で埋まっていた。
「まぁ…なんか、描いちまうんだ」
「星はどうなん?やっぱり月のがええの?」
「そうさねぇ…月、かな」
窓から見える夜空には小さくとも月が見える。窓辺に椅子を持ってきて空を見ながら飽きもせず玄弥は月を描き続けていた。どうして、と言う他の人からの問いにはっきりと答えた試しがない。母はそれを知ってか知らずが好き嫌いだけ聞いて、座っている食卓テーブルから見守ってくれている。
空は朝でも夜でも繋がっている。
暗闇は恐怖の象徴でしかなかった。
それでも駆け抜けれたのは道標があったから。
『大丈夫だ。兄ちゃんが付いててやるからな』
1人で厠に行けないからついてきて欲しいと頼んだ。誰に?厠ってなんだっけ?
痛むこめかみを玄弥は押さえる。暗くとも大丈夫だ。彼の髪は暗闇の中でも月の光と同じように照らしてくれたから。
俺の、大好きな。
「あ、そうや。玄弥、天体観測は興味あらへん?」
母の言葉に痛みが消えていった。
*
「すごいねぇげんやにいちゃん!おほしさまきれいにみえるかなぁ?あ、まこちゃんだ!」
「いっぱい見えたらいいな。行って来い寿美」
地元の小学生や子供達が集まって行われる天体観測に玄弥は妹の寿美と参加していた。迎えには母が来てくれる事になっている。寿美の付き添いと星がメインとは言え、同じく天体に当たる月という事で玄弥も前向きにこの場へ赴いた。
主催はお寺の住職だ。今日は中秋の名月といい、月がより綺麗に見えるのだと言う。毎年変わる日取りだと注釈が入ると寿美は友人を見つけ駆け出した。まだまだ小さな妹だ。楽しげな彼女を見て仕方ないなと言いたげに小さく鼻を鳴らす。
「(さて、俺はどうしようか?)」
地元の知り合いはちらほら参加しているが、寿美のように他の友達と約束している者が殆どだ。各々仲の良い友達と肩を並べて星達を眺めている。ぐるりと玄弥が見渡せば玄弥や寿美と同い年の者から小学校6年生くらいの者まで年齢層はバラバラだった。
1人でも特に問題はない。手元が少し暗いがスケッチブックも持参しているので、普段と変わらず月の絵も描けるだろう。
使いやすいように肩掛け仕様にしたスケッチブックを捲る。白い画用紙を出して、さぁどこで描こうかと目線を上げた時だ。
「(あれ…?あんな人いたっけか…?)」
月の光の元、目立つ白髪が玄弥の視界を過った。目元近くまである前髪では顔が確認出来ない。
人の輪を外れるように動く白髪を目で追い、足が動く。人を掻き分け、後を追った。
踏みしめた草がガサガサと音を鳴らす。整備されていない草道だが、月の光と彼の髪が道しるべとなって玄弥は転ぶ事なく歩く事が出来た。最後に現れたのは大きな草だ。向かい合わせになっていてまるで扉のようだった。両手で左右に開ける。白い光が視界に届いた。
「ーー付いて来れたんだな、アンタ」
開けた小さな場所には子供が登れる程の大きさの大石がある。その上に立って月の光を浴びながら彼は玄弥へ振り返った。
白い髪は月の色と同じ明るさで、額と右頬から鼻頭にかけて走る痣はまるでクレーターのようだ。
アメジストの瞳が光を反射し煌めく。
「月みたいだ…」
「あ?」
「あ!?いや!?その…!!」
幻想的な風景と相まって思わず言葉を溢してしまった。玄弥の声に彼は訝しげに眉を寄せて一睨みを効かせたが、すぐに吹き出すように笑い出した。
「生娘じゃねぇんだから焦りすぎだろ」
「きむすめ、」
「参加者なら月か星か描きに来たんだろ。こっち来いよ。
こうなっちまったらもう俺だけの場所じゃねぇからさ」
玄弥の慌てよう生娘゛と言われ恥ずかしさで真っ赤になった顔に気分をよくしたのか彼は月明かりの下、穏やかに笑っていた。手招きで呼ばれるが、両手でスケッチブックを握り、唇を力強く噛み締めてから玄弥は首を横に振る。
「その、貴方を、描いていい、かな…?」
勇気を持って振り絞った声は段々弱々しくなっていた。ぎゅっと両目は瞑ってしまう。
「なんで?」
彼の疑問の声が聞こえ、玄弥は恐る恐る目を
開ける。言うか言わまいか。゛あー゛うー゛と続けた言葉。彼は月をバックに立ち続け、玄弥の言葉を待っていた。
「月みたいだなって…」
逸らし続けていた目を合わせれば、大きく目を見開く彼がいた。驚いた猫のような顔にも玄弥には思えた。
程なくして声を上げて彼は笑い出す。何故だろうか。笑われているのに目が離せれなかった。彼は立っていた石から軽く飛び降りて玄弥の元へと近づいて来る。
「アンタ、物好きだなァ。
俺なんざ描きてェのかい?」
目尻から頬に掛けて彼の手が滑り落ちてきた。急な事でびくりと玄弥の肩が揺れてしまう。顎まで降りてくるとそのまま持ち上げられ、まるで品定めでもするようにゆっくりと顔を上から下まで見つめられた。玄弥は恥ずかしさから視線を外したかったが、顎で固定されてしまっては身動きが取れない。
また彼が笑いあげる。
「ーー次の満月の晩に。ここに来れたら描かせてやるよ」
゛じゃあと顎から手が離れた。玄弥を通り過ぎた彼は草の扉を掻き分け、この場を後にする。急いで振り返った玄弥だったが、その視界に地上の月は忽然と姿を消していた。