あつい夏 太陽がぎらぎらと照りつけて、それに負けじと入道雲が大きな綿のようにそびえている青空。
長屋に聞こえてくるのは、人々の織り成す喧騒をかき消す程の蝉の鳴き声。
梅雨が明け、本格的な夏が到来した。
夏は暑い季節だ。例に漏れず今日も暑いのだが、いつもと程度が違う。
普段であれば長屋の表や庭先に打ち水すれば涼しくなり、団扇であおいで風をそよがせれば難なく過ごせる日々が、今はどうだ。異様な暑さで拭っても拭っても体のあらゆる場所から、だらだらと汗が吹き出てくる始末だ。そのうえ、なんの色気もないこの部屋を見かねた己の知るかぎりの一番の風流人、高杉晋作が朱色の風鈴を飾ってくれたのは良いが、風が吹いていないため全く意味を成していなかった。
屋根のない場所で待機しているこんぴら狗を長屋の中に避難させたが呼吸が荒く、舌を出して必死に体温調節しているのがわかる。
そんな暑さの中、打ち水をし終えた隠し刀が縁側で寝そべっていた。
「暑い…」
そう独り言を呟くと、それに文句をつけるかのように、猫が不機嫌そうな声でうにゃあ、と一言鳴いた。
「そうだな。お前達は全身に毛が生えているものなぁ…」
あたかも猫の言葉を理解しているかのように話しかけて気を紛らわそうとするも、傍から見れば暑さに頭をやられた可哀想な人に見えなくもない。自分と犬猫しか居ないのを良い事に一人芝居は続く。
「え?冷えた物が食べたい?そんなの、私も食べたいよ…」
じっ、とこちらを睨むように見つめてくる猫の心情を想像して会話するが、あながち間違いではない気がする。こんぴら狗もぺたんと床に腹をつけて、切なそうに上目遣いで訴えているように思えてきた。
しかし犬は兎も角、猫はこの長屋から出て行こうと思えばいつでも塀を軽々と越えて出ていけるというのに何故か出て行かない。涼しい場所を見つけるのが得意だと、薄雲太夫が言っていたがこの猫は例外なのだろうか。
涼みに出て行かないとなると、この茹だるような暑さの中でじっとしていては体調を崩してしまうのも時間の問題だと懸念した隠し刀は、水菓子でも買ってこようと重い腰を上げた。
「行ってくる」
そう言って、股を開き仰向けで寝そべる猫の頭を撫でると、愛らしい格好とは裏腹に前足で、ぱしん!と手を引っぱたかれた。「さっさと行ってこい!」そんな声が聞こえてきそうだった。
◇◇◇
「かんざらし しらたま〜」
白玉売がすぐ傍を通る。それを見た隠し刀は、白玉を口に入れた時のつるりとした舌触り、噛めばほんのり甘く、歯にくっつく食感を思い出して涎を飲み込む。
だが、お目当ては白玉ではない。犬猫に白玉を食べさせようならば、きっと喉に詰まらせてしまうだろう。その可能性は捨てきれないと、隠し刀は後ろ髪を引かれつつ今日のところは諦めて水菓子売りを捜す。
そこから少し行った所に西瓜の断売がいた。手拭いで顔の汗を拭きながら客の要望で、硬い皮に刃を入れて切り分けている。
皆同じ事を考えるのか、この暑さに耐えられず行列が出来ていて大繁盛している。他の水菓子売も見てみたかったが、長屋で待つ動物達の事を思うと早急に事を進めた方が良いと判断し、そこに自分も並んだ。
水菓子といっても種類は様々だ。桃や梨、真桑瓜、葡萄など。西瓜もその中の一つだ。水分を多く摂取出来る上に体を冷やすのか食べると熱さが引いていく気がする為、今日のように一段と暑い日にはうってつけの水菓子だ。以前、猫に食べさせる機会があったが意外と好評で、あっという間に食べ尽くされた事もあった。
さて、どのくらい買おうか。猫と犬の分は勿論、自分も食べたい。それと長屋に遊びに来た者たちにも振る舞ったら喜ばれるだろうか。
ふと、その時真っ先に浮かんだのは近頃よく長屋に訪ねてくる福沢の顔だった。彼が酒や煙草を好むのは知っているが、果たして西瓜は好きだろうか。
そんな事を考えつつ財布の中身を確認していると、いつの間にか自分の番が来ていた。
「いらっしゃい!どのくらい入用で?」
「……半玉…いや、ひと玉もらえるか。」
「あいよ!」
お代を支払い西瓜を手に取ると、陽の光で表面がぴかぴかと輝いていた。今しがた脳裏に浮かんだせいか、福沢の後ろに流し上げて膨らんだ前髪を思い出していた。
◇◇◇
汗を袖で拭い、長屋の戸を開けた途端、再びぱしん!と何かを弾く音と共に、男の痛々しい声が聞こえてきた。
中を覗くと、そこには猫を撫でようとしてしっぺ返しをくらったであろう先程から思い浮かべている男の姿が縁側にあった。
彼の手に填めている白い手袋に爪が引っかかり、釣れた魚のように前脚がぶら下がっている。
「ああ!勝手にお邪魔してすみません。たった今着いたばかりなのですが…あまり歓迎されてないようですね」
困ったように笑う福沢は外套を羽織っておらず、腕まくりをしている。いつもきっちり着込んでいる彼も流石に今日の暑さには敵わなかったようだ。引っ張られ捲れた手袋の下からは、腕と比べると日に焼けていない手首がちらりと見えた。
白手袋から覗く肌色に、何故か見てはいけないものを見てしまったかのような感覚になり胸がざわつく。
「そう落ち込むことはない。この暑さですこぶる機嫌が悪いんだ。私もやられた」
爪痕が残る手の甲をひらひらと福沢に見せると、気を取り直してそのまま土間に留まり、包丁を手にする。
「それにしても良い頃合いに来たな。西瓜は好きか?今買ってきたんだが、嫌いでなければ食べていってくれ」
福沢にそう告げ、西瓜を切り分けようと黒くて丸い実に一本の縦線を入れた。刃をぐっと押し込むと真っ二つに割れ、鮮やかな赤い果肉が顔を出す。中身がぎっしりと詰まった、良い西瓜だ。
「では、お言葉に甘えて頂きます。…こういった暑い日ですと水菓子がより美味しく感じられて良いですね」
半月型に切り分け、更に犬猫用には食べやすいよう細かく切り、種まで綺麗に取って陶器の皿に移した。
「ほら、待たせたな」
皿を動物達の前に置くと、余程食べたかったのか一目散にがっつく。
その様子を微笑ましく見つめる福沢の隣に西瓜を乗せた皿を置くと、急いで手袋を外しにかかった。汗を吸って外しにくそうにしていたが、顕になっていく手は日に焼けていないだけではなく、筆だこや、鍛練の賜物が潰れた痕が残る、武骨な形だった。
「……僕の手に何か付いていますか?」
視線に気付いた福沢が手の平と甲を交互にひっくり返すと、手の甲に蚯蚓脹れが現れた。今さっき猫に叩かれた際に出来た傷だろう。幸い、血は出ていないがとても痛々しく映る。
「傷が…」
「え?ああ…大丈夫ですよ。痛みもありませんし。それに…こんな手ですから。今更傷の一つや二つ増えたところで、どうって事ないです」
「いや、この猫のしでかした事は世話している私の責任だ。軟膏くらい塗らせてくれ」
平気だと言う福沢の言葉をよそに、腰にぶら下げている巾着から軟膏を取り出し指で掬うと、相手の手をそっと取った。
触れた手のひらの皮は厚く、マメだらけのぼこぼことした凹凸が鍛練を怠らず真面目に努力している福沢の人となりを現している。
「……今、お前は自分の手を『こんな手』と言ったが、このマメが潰れた痕…鍛練で出来たものだろう?福沢の努力の証じゃないか。私は美しいと思う」
赤く腫れた線を軟膏でなぞって塗り込むと、福沢の指がひくりと微かに動く。
「すまない。痛かったか?」
「い、いえ……痛みはさほどでもないです。ただ……」
「ただ?」
「手が美しいと言われた事がありませんでしたので…照れてしまいました」
触れた時から若干、汗で湿っていた福沢の手のひらが更に熱を帯びて、しっとりと私の手のひらをも濡らした。それが不思議と嫌ではなくて、ずっと触れていたい気さえしていた。
福沢も同じ気持ちなのだろうか。処置が終わっても手を置いたまま引っ込めようとしない。
何を考えているのか気になってちらりと福沢を見やれば、仄かに頬を染めながら、重ねた手を静かに見つめている。
「福沢……」
名前を呼ぶと、目が合った。
二人の心に何か繋がりが出来たように思えて、誰も入って来れない雰囲気が確かにそこにあった。ふわふわとした心地で、まるで幸せな夢を見ている時のような感覚。
もう片方の手で無骨な手を包み込もうとした瞬間。突然、重ねた手の上に白い毛むくじゃらの足が視界に入ってきた。
自然とその足の主に目線を移すと、口の周りを西瓜の汁で赤くしたこんぴら狗が、二人の間に座ってお手をしているではないか。
犬は二人の視線に気付くと、先程の切ない表情とは打って変わり、満足そうに一言、わん!と元気に鳴いた。
可愛らしいそのひと吠えで、夢心地から一気に現実に引き戻され、代わりに笑いが込み上げてくる。隣を見ると福沢も夢から覚めたようにキョトンとした表情をして、それがまたおかしい。互いに顔を見合わせると、堰を切ったように笑みがこぼれた。
「お手をすればおかわりが出てくると思ったのかもしれませんね」
一頻り笑った後、福沢が犬の両頬を挟んで撫で回しながら言った。
「ああ…なるほど。お前は食いしん坊だなぁ。仕方ない。ここにある一切れ食べていいぞ。…そうだ。お前もどう――…」
後ろを向いて猫に話しかけると、そこには洗ったのかと思う程綺麗に西瓜を平らげた後の皿がぽつんと置いてあるだけで、肝心の猫は既にここから去った後だった。
「……何故この暑い長屋に留まっているのかと不思議に思っていたが…最初から水菓子目当てだったのか」
少し呆れ気味に笑うと、また福沢もつられて微笑む。
「いいように使われましたね」
「…みたいだな。皆、賢い子ばかりでいつも振り回されている。……さて、私達もそろそろ食べよう。水気がとんでしまっては美味さも半減してしまう」
「ええ、そうですね」
頭上から風鈴の細くて高い音が鳴っている。いつの間にか離れた手のひらを爽やかな風が通っていった。
この南薫で長屋は涼しくなってくるだろう。しかし、この身体の熱は風や水菓子、風鈴の音色でもってしても、きっと治まらない。
隠し刀はあれだけ待ち望んだ風を、今は少し恨めしく感じた。手のひらを乾かしていくせめてもの抵抗に、そっと指を折り込んだ。