冷凍室+(愛+ス)= 職場から帰宅し、ウイスキーの入ったグラスを片手にぼうっと独りテレビを見ている福沢の顔は、若干目が据わっており、彼にしてはだいぶ酔っていた。
目線の先に流れている映像は、今人気の女優が、「頑張った自分へのご褒美に」と、少しお高めのカップアイスを口に運んで顔を綻ばせているところで、ふと、福沢は何か思い出したのか、おもむろに携帯を手に取り操作し始める。
操作が終わり、ソファに携帯を投げ出すと、天井を見上げ口角がゆるりと上がった。
◇◇◇
窓から建ち並ぶビルのあちらこちらで電気がついているのを横目に見ながら、自販機の前でコーヒーを飲んでいた時、ヒップポケットに入っている携帯が震えた。
手に取り、画面を見ると恋人の名が表示されており、直ぐに通話ボタンを押す。
「お疲れ様。どうした?」
『お疲れ様です。もう仕事終わりました?』
通話口から聴こえてくるのは福沢諭吉の声だ。
いつも丁寧な喋り方で、付き合っている今もその姿勢を崩さない。
「いや、もう少し…区切りの良い所までやってしまいたい案件があって残っている。…そっちは?」
『僕は定時で上がりましたので。……あの…残業が終わったら…家に来れませんか…?』
淋しいのか心細そうな声色に変わる。いつもと違う、珍しい恋人の雰囲気に少しドキリと心臓が高鳴る自分がいた。
「別に構わないが…もともと明日、会う予定だっただろう?……そんなに早く私に逢いたいのか?」
恋人の気分が少しでも晴れるようにと、若干おどけた調子で訊いてみる。すると、意外にも素直な反応が返ってきた。
『ええ。…出来る事なら、今すぐにでも…』
その言葉を聞いた瞬間、古典的な漫画でよく表現される、恋に落ちた瞬間に矢が心臓を射抜く絵が脳裏に浮かんだ。
今の諭吉の言葉で、残りの仕事を本気でほっぽり出そうかと思ったくらいには破壊力があった。普段、素直に甘えてこない彼が「今すぐ逢いたい」などと、甘い言葉を吐くなんて、付き合い始めて数年経つが初めてかもしれない。
「…わかった。なるべく早く終わらせてそちらへ向おう」
そう言うと、電話越しの雰囲気が明るくなったのがわかった。
待っています、と晴れやかな声が発せられると、電話が切れる。
残りのコーヒーを飲みほすと、腕まくりして気合を入れる。帰りを待っている恋人の為に急いで作業に取り掛かった。
――1時間後
「やっと来てくれましたね…!」
玄関を開けると、半べそをかきそうな笑顔で諭吉が出迎えてくれた。淋しくて震えながら自分を待っていたであろうその表情に胸を打たれ、思わず恋人の名を呼び、両手を広げる。
しかし、喜んでくれているものの、胸に飛び込んでくる気配は毛頭ない。何やら焦っている様子だ。
「……………すまない、これでも急いだんだが」
行き場のない両手を下ろせずにいると、諭吉は片手を取ってリビングへ誘導する。
何か食べてきましたか、と問われ、首を横に振りまだ何も食べていない事を伝えると、良かった、と安心した表情になった。
何故そんな事を訊いてくるのか分からなかったが、すぐにその疑問は解けた。
「……でかいな……業務用アイス…?」
リビングのテーブルの上に、何やら存在感のある大きな白い容器が置いてあり、近付いて見るとアイスクリームだった。容器の外側に、小さく2Lと表記されている。
既に手がつけられているそれは、冷凍室から出して時間が経っているようで汗をかいており、中のアイスは溶けはじめていた。
……この光景を見て察するに、あの電話は淋しくて逢いたかった訳ではなく、目の前の1人で食べ切るには時間のかかるアイスをどうにかしてほしくてかけてきたとみた。
甘え下手な恋人の事だ、あんな素直に「逢いたい」なんてまず言うはずがないのに、嬉しくて期待してしまった。
「……アイスパーティでも開催するのか?」
少し淋しい気持ちになりながら軽口をたたく。
「説明は食べながらするので、まずは座ってください」
言われるがまま椅子に座ると、予め用意されていた皿にアイスがどんどん盛られていく。
「たくさん食べてくださいね」
私の分のアイスを掬ったスプーンが口元に差し出され、有無を言わさぬ圧力に負けて口を開くと、バニラの味が舌の上であっという間に溶けて液体になった。
アイスを勧めた張本人はというと、コーヒー片手に小袋に入った米菓を、ポリポリ小気味良い音を立てて食べている。おそらく酒のつまみ用に買ったものだろう。
「うん、美味い。が、……諭吉は食べないのか?少ししか減ってないようだが」
その言葉を聞いた途端、諭吉は立ち上がり、手招きしながらキッチンへ向かう。後をついて行き、冷蔵庫の前に到着すると、恋人は3段あるうちの真ん中の引き出しを開けた。
中にはテーブルに置いてあったのと同じサイズのアイスがみちみちに詰め込まれており、その全てが少しずつ減っている。
すぐそこの床を見れば、『業務用アイスクリーム2L×4』と書いてある口の開いた段ボールが、2箱あった。
あまりの量に驚いて隣りの恋人を見ると、光の失った目で一点を見つめている。
「何とか7つは入ったのですが、残りの1つが入らなくて…食べきってしまおうと思ったのですが、時間がかかるとその間に溶けてしまうので、溶けてきたら次のアイスと入れ替えて食べて、また溶けたら新しいアイスと入れ替えて、を繰り返していました……」
「なるほど…食べて空けた所に1容器分詰めていけばいいって事か。しかし…そんなに無理して食べなくても良かったんじゃないか?腹を壊すぞ」
「…だって勿体無いじゃないですか」
今でこそ稼ぎのある諭吉だが、早くに父親を亡くし金銭的にも苦労した幼少期を過ごした事もあって、食べ物を無駄にする行為は許せないらしい。だからこそ私が呼ばれたのだろう。
「……そうか。頑張ったな…」
無言で頷いた恋人の肩を励ますように優しく叩き、再び椅子に座るとスプーンを手に取った。
同じ味を食べ続ければ当たり前だが飽きてくる。いくら甘党である私でも流石にバニラ味だけをずっと食べ続けるのには限度があった。
「諭吉、粒胡椒はあるか?」
「ありますけど…アイスに混ぜるんですか?」
「ああ。味変しようと思ってな。これが意外とバニラアイスに合うんだ」
以前、店で食べた時に舌鼓を打ったのを思い出して再現してみようと試みる。こんなに大量にアイスがあるのだ。この際、チャレンジしてみてもいいだろう。
持ってきてもらったペッパーミルで胡椒を挽くと、食欲を増進させる良い匂いが鼻腔をくすぐった。
ぱくりと1口食べると粒胡椒のピリッとした辛味が、アイスの甘さを際立たせるだけでなく、さっぱりとした味わいになる。
「うん、やはり美味しい。さっぱりした甘さになった。諭吉も試しにどうだ」
本当に合うんですか?と、言わんばかりの怪訝な目つきだったが、食べてみると美味しかったのか、まじまじとアイスを見つめる。
「…驚きました。こんなに合うものなんですね。ただ…まだバニラの味が強いですね」
私が到着するまで1人でずっと食べていたのだから仕方ないが、このアレンジでは諭吉の食指を動かすことは出来なかったようで、スプーンが一向にアイスに伸びない。
ならばアフォガートにでも…と思ったが、先程からコーヒーを飲んでいる諭吉にはあまり変わり映えしない味だろう。
「それなら…醤油をかけて食べるとみたらしの味になると聞いた事がある。みたらしなら胡椒よりバニラ感も薄まりそうだし、やってみないか」
やってみましょう、そう言って調味料ラックから醤油を取ってきて数滴垂らしてみる。
かかった部分を掬って食べると、確かにみたらしだった。諭吉もそう感じたらしく、追加で醤油をかける。
「甘塩っぱくて美味しいですね…これならもう少し頑張れるかもしれません」
多少元気を取り戻した恋人は、こちらに笑顔を向ける。それに応えるように微笑み返すと、部屋の空気がふわりと緩んだ。
「……そろそろ訊いても良いだろうか」
2人で味を変えながら食べ進めて暫く経った。
溶けかかったアイスを冷凍室の固まったアイスに交換しようと中を覗いてる最中、追加のコーヒーを用意する諭吉に尋ねるとどうぞ、と返ってきた。
「何故、こんな大量に業務用アイスを買ったんだ?お前、別に甘党じゃないだろう」
「それは……」
先程まで様々な調味料を試して、合う、合わないと笑いながら仲睦まじくしていた空気が一旦落ち着く。言いづらそうにしてる恋人に柔い眼差しを向け、続きを待っていると渋々口を開いた。
「……1つ頼んだつもりが、2つ頼んでいたみたいで…しかも、それが4つ入りだと気付かず…やってしまいました……」
「…そうか…で、なんでアイスなんだ?いま暑い季節でもないだろう。本当にアイスパーティでもしようとしてたのか?」
その問いを聞いた途端、諭吉はあからさまに動揺した。
私は構わず、ぱんぱんに詰まった冷凍室からアイスを数個取り出し、キッチンへ並べる。すると、笑わないでくださいねと、前置きして話し始めた。
「……先日、酒を飲みながらぼーっとテレビを眺めていたら、たまたまアイスのCMが流れまして。その時にふと、思い出したんです」
「……何を?」
「…………前に、あなた言ったじゃないですか。子供の頃、業務用アイスを丸々1つ食べるのが夢だった…って」
「…………」
確かに子供の頃やってみたい事のひとつだったが、正直諭吉に言ったかまでは覚えていなかった。
私が記憶を思い起こそうとしているのを察したのか、フォローを入れ、話を続ける。
「随分前の事でしたので…あなたは覚えてないかもしれませんが、僕は覚えていて。多分それでなのか…無意識にネットで注文していたらしく……あなたに電話した直前に届いたんで――………笑いましたね…?」
顔のパーツが目の前にあるアイスみたいにじわじわ緩んでいく。酒に酔った無意識下で、私の事を想ってくれていた事が嬉しかった。
歓喜で俯き、肩を震わせる私を見て、彼は笑われたと思ったのだろう。恥ずかしさからか、焦って声のボリュームが少し大きくなった。
「だから言いたくなかったんです…!僕だって驚きましたよ!こんな事、今まで経験無くて…」
慌てる諭吉の反応に益々愛おしさに拍車がかかり、無性に抱き締めたい衝動に駆られる。
恋人の方に顔を向けるとやはり想像していた通り、恥ずかしさと戸惑いに頬を染め上げていた。
「……なぁ、諭吉」
「………………なんですか」
不貞腐れ気味の諭吉は、拗ねた視線を沸騰しそうなケトルに落としている。
「一緒に住まないか」
「…………………は…?」
一瞬の沈黙の後、恋人が顔を上げこちらを見ると、ムスッと真一文字の形になっていた唇が、ポカンと開いていた。
私は容器の空いた部分にアイスを詰めながら、間の抜けた顔を見て更に顔が緩んだ。
「今…このタイミングでするような話ですか…?」
「今だから言ったんだ。一緒に暮らせば、お前が酔ってやらかしそうになっても私が止めれるかもしれない。…というのは建前で、純粋にお前と一緒いたいと思ったからだ。……酒に酔って無意識だったにもかかわらず、私自身言ったかどうか忘れていた話を思い出してくれるなんて…諭吉の心の根っこに私が居るって事だろう?…それとも、自惚れだろうか」
諭吉は首を横に振る。
「……自惚れではないです。酔っていない今考えても、あなたの喜ぶ顔を想像しながら頼んだと思います」
スプーンで残りのアイスを掬うと、隣りの恋人の口元に持っていく。
「それに、また今日みたいな日があったとしても、諭吉となら大抵の事は楽しめるさ。1人で出来ない事も2人なら…ほら、1つ分食べ終えた」
ごくりと最後の一口を飲み込んだのを見届けると、空になった容器を諭吉に見せる。少し目を見開いた恋人の瞳にキッチンのライトが反射して、きらきら輝いてみえた。
「今日の事が決定打にはなったが、前から考えてはいたんだ。ただ話を切り出すタイミングが無くてな。返事は急がないから、ゆっくり考えてくれ。……さて、残り7つ…諭吉はどうするつもりだ?明日、ドライアイスとクーラーボックスを買えば家に持って帰れるけど」
そう恋人に訊くと、その必要はありません、と返ってくる。
「……まさか1人で食べ切るつもりなのか…?」
「そんなわけないでしょう。2人で、です。……あなたが一緒に居てくれるのでしょう?」
今度はこちらが呆気に取られた。
「……と、言う事は……」
「同棲…よろしくお願いします」
その言葉を聞いて、胸がいっぱいになるのを感じながら両手を広げる。恋人も口角を上げ微笑むと、今度こそ胸の中に身を寄せた。
◇◇◇
――後日
「太ってしまいました……」
諭吉のマンションに引っ越してから1ヶ月経つ頃、悲痛な声を聞いてスマホから顔を上げると、風呂上がりでバスタオルを頭から被せた恋人が隣に座ってきた。
昼間きちんとセットされている髪が下ろされ、前髪が瞼にかかってるせいか、より落胆しているように見える。
「そりゃあ…ほぼ毎日アイスを食べてるからな。その分のカロリーを消費してないんじゃないか」
横腹を軽く突いてみると指が柔らかい肉に沈む。が、そこまで気にする程では無い気がする。
「……無理して痩せる必要ないんじゃないか?私はどんな諭吉でも好きだよ」
私を想って買ったアイス分の脂肪、と考えると、諭吉には悪いがそれすら愛おしく、痩せてしまうのが惜しい気すらしてしまう。
「……そう言うあなたはどうなんです」
私の薄ら緩んだ表情を見た諭吉は、照れを隠すように眉間に皺を寄せて私の脇腹に手を伸ばしてきた。
特に気にも留めず好きにさせていると、必死に腹の贅肉を摘もうと指を動かすが、掴んだのは寝間着にしているスウェットだけだった。
「…同じ量…いえ、寧ろあなたの方が食べているのに、何で脂肪がついてないんですか」
「そう言われても…諭吉は酒も飲むだろう。そのせいじゃないか?どうしても痩せたいなら、禁酒――……は無理そうだな。なら、その分カロリーを消費するしかない」
『禁酒』の言葉を聞いて無言で首を横に振る恋人に苦笑いし、運動を提案してみる。
「健康のことを考えて、ジョギングしようと考えていた時期もありましたね…決めました。やります。早速、明日の朝からしましょう」
「唐突だなぁ…それなら早く髪を乾かさないと。風邪を引いたらジョギングどころではないからな」
ドライヤーを取りに立ち上がると、後ろから、あなたも付き合ってくれますよね、と問答無用と言いたげな声色が飛んできた。
相変わらず、人を振り回すのが得意だなぁと思いつつ、そんなところが好きなのだ。勿論、誰でもいい訳では無い。彼とだからこそ、楽しい。
持ってきたドライヤーのプラグをコンセントに挿す。
「ああ、いいよ。なら、もうそろそろ寝ないとな」
返答を聞いた諭吉の眉間から皺が解けると、そのままソファの背もたれに体を預けた。
これから共に、この愛おしい時間を何度も繰り返していくのだろう。同棲の旨味を噛み締めながらスイッチを入れると、穏やかに目を瞑る恋人の髪を梳くように撫でた。