くじらのひと 久しぶりの逢瀬の挨拶もそこそこに、互いの職場から程よく離れた駅前の居酒屋に入ると、店内は仕事帰りの勤め人や大学生らしいグループで賑わっていた。
「外、寒かったですね」
微笑して、平尾はゆったりとした仕草でコートを脱いだ。メニューにさっと目を通し、やがて運ばれてきた一杯目。文字どおり霜の降りたジョッキを前に、平尾は静かに瞳をかがやかせた。
当店自慢の氷点下ビール。メニューには、そう書いてある。
「寒いんじゃなかったんですか」
「こっちは別です」
琥珀色のジョッキを掲げ、平尾は眉を上げた。
「…胃袋は別、の間違いでしょう」
鍋島は呆れてみせる。
しかし実際のところ、平尾がビールを飲む姿を見るのは、結構気に入っていた。
彼女はほんとうに美味しそうにビールを飲む。
それは、飲むという言葉が無粋に思えるほどのなめらかさで、大抵、一息で半分から三分の二ほど干してしまう。細身の身体に、琥珀色の弾ける液体が瞬く間に吸い込まれ、ゆっくり、広がっていく。その様が目に見えるようだった。
「よくまあ、そんな一気に飲めますね」
いつだったか、平尾に言ったことがある。それは皮肉でも何でもなく、単純な驚きからこぼれ出た感想だった。
「ビールは新鮮さが命ですから」
空のジョッキを手に、そのとき平尾は先輩らしく、そう嘯いた。このようにして飲むのが作法というものです、と。
テーブルの脇を、ダウン姿の来店客が通りがかり、だし巻き玉子や、焼き鳥のにおいで温まっていた席に、さっと、冬の外気のにおいが流れ込んだ。
師走。
今日も平尾は変わらない飲みっぷり。
白い喉をすっくと伸ばし、顎をやや持ち上げると、さらさらと、ジョッキの中身を身体に落としていく。
ふっ。
かすかな吐息とともに、唇が離れる。
その、小さいけれど、うっとりするような響き。
「泡、ついてますよ」
平尾の口もとを指差し、鍋島は言った。
おや。という顔をした平尾は、悪びれもせず桜色の舌をのぞかせると、ちろり、と、白い泡を掬いとった。まるで雪を溶かすように、そっと。
濡れた唇。あたたかな舌ざわり。吐息の温度。
それらすべてを感じさせるような平尾の仕草に、鍋島は口の中に生唾が湧くのを自覚した。
まったく、このひとは分かってやっているのだろうか。
「どうかしました?」
きっと今、自分は不機嫌な表情しているに違いない。顔を覗き込んだ平尾の様子に、鍋島はそう思った。
「まだ、ついてます?」
このひとはどの程度、俺のことを見透かしているのか。
――あまり、俺以外の相手の前でそんな風にビールを飲まないで下さいよ。
喉元まで込み上げた言葉を、鍋島はなんとかやり過した。忘年会の時期。こんな幼稚な独占欲を、先輩相手に見せるわけにはいかない。
だが、せめて。
「…別に」唇を湿らせると、鍋島はゆっくりと口を開いた。思い描いたものより遥かにぶっきらぼうになった声に、首の後ろが熱くなる。
だがせめて、これだけは言っておきたい。
「ただ、見惚れていただけです」
そう、続けた。
相変わらず不貞腐れた声ではあったが、その瞬間、平尾の瞳が大きく見開かれた。
「…あんたが、あんまり美味しそうに飲むので……」
「ふっ…、そうですか」
だんだん言い訳めいてきた言葉に、平尾がとうとう吹き出した。
「可愛いことをいいますね」
しんから愛しそうに、鍋島を見つめる。
「からかわないでくださいよ」
居たたまれなさに耐えかねて、隠れるように口をつけたハイボールは、氷が溶けてずいぶんと薄くなっていた。
「褒めてるのに」
そう言うと、平尾はほとんど聞き取れない声で、ぼそりと呟いた。――それなら私も、甲斐があるというものです。
「今、なにか?」
「いいえ。何も」
すずしげな微笑み。雑然とした店内で、そのひとの美しい瞳だけが、冬の夜空にまたたく星ように、さえざえと輝いていた。
「今度こうして飲むときは、はじめから君の部屋で飲みましょう」
ここは、人目がありすぎますから。
そう、囁いた。