名前 部屋を片付けている途中、壁の上をちいさな何かが動くのを見つけた。ナンバは手を止めて近づいた。
それは小さなハエトリグモだった。このごろ家でよく見かける個体だ。餌は豊富らしく、ころころと丸くなっている。そういえばこいつを見かけるようになってから、部屋の小さな羽虫が消えた気がする。
「よろしくな、ちゃんと食ってくれよ」
そう告げると、小さな同居人はぴょこりと手を動かした。案外、人の言葉も伝わるのかもしれない。おとぎ話のようなことを考えながら、ナンバは片付けに戻った。今日は来客の予定があるから、あまりのんびりはしていられない。
手を動かしながら物思いにふける。そうするうちに、前にこの小さなクモを見かけた時のことが頭に浮かんだ。そのときは一番もこの部屋に来ていて、ちょうどさっきと同じようにこいつに話しかけた。その時、一番に尋ねられた。
「こいつ、名前は?」
「名前? 特にねえけど」
「そっか。じゃあ、なんか良いやつ考えるか」
それから一番は真剣に悩みはじめた。結局すぐには浮かばなかったようで、名付けは保留になった。そのときの真面目な様子を思い出す。ナンバは顔がほころぶのを感じた。
動物でも人でも、一番はなんにでも名前を付けたがる。助けた鳥にも名前を付けるし、ザリガニもヤドカリも律儀に名前で呼ぶ。遠い海外で出会った仲間にも、あっという間にあだ名を付けていたようだった。
この間、家に来てほろ酔いになったころには、とうとう玄関のビニール傘にも名前を付けようとしていた。盗まれづらくなるからと力説していたが、絶対にふざけているだけだと思った。
名前か。こいつは何になるだろうな。意外と洋風なやつだったりして。そんなことを考えるうち、ふと同じ日の続きが頭をよぎった。
(——悠、)
「……っ」
心臓が跳ね上がるようだった。真剣な声色に、逃げ出したくなるくらい好きだと自覚させられる。
あの日、明かりを落としたこの部屋で、初めて一番に下の名前を呼ばれた。そう思い出した瞬間、胸が詰まった。呼ばれた時と同じ気持ちになって、それから急に照れくさくなる。顔が熱い。
別に誰にも見られてなんかいないのに、つい誤魔化すように頭を振った。それから改まって部屋の壁を見る。ハエトリグモはまだそこにいて、不思議そうにこちらの様子を伺っていた。
「お前の名前、決めてもらおうな」
取り繕うように壁に向かって呼びかける。今日これから、一番がこの部屋に遊びにくる。きっとこいつの名前候補を携えながら。なんて呼ばれるんだろうな。そう独りごちながら、ナンバはまだ落ち着きそうにない胸の鼓動に気が付かないふりをした。