七章前夜 狭い部屋には寝息が響いている。湿気た平たい布団の上で一番は何度目かの寝返りを打った。今日はなかなか眠気がやってこない。それが気合なのか緊張なのか、何かの予感のせいなのか考えあぐねて一番は大きく息を吐いた。
明日は大きな計画が待っている。潜りこんでいるバイト先、横濱貿易公司の倉庫で一仕事をする日だった。監視の目を盗んで偽札を一枚持ち帰る、決して悪くない作戦のはずだ。うまくいけば明日が最後のバイトになるだろう。『やっと肉体労働とおさらばだ』と嬉しげだった誰かを思い出し、一番は軽く笑う。少し肩の力が抜けた気がした。
ぐう、と大きないびきが聞こえて一番は横を向く。部屋の隅では足立が気持ちよさそうに眠っていた。そういえば皆で夜食を食べたとき、紗栄子にずいぶん飲まされていたなと思い出す。飲ませた当人も今はすこやかな寝息を立てている。初めは二人暮らしの仮住まいのつもりだったこの部屋に、今はパズルのように布団を四つ敷き詰めている。窮屈だが居心地は悪くなかった。ずいぶん賑やかになったなと思うと、一番の胸は温もった。
身じろぎをすると薄い布団越しに床の感覚が伝わった。背中がもぞもぞとしていったん思考が止まる。寝付けないせいで考え事が止まらなかったようだ。無理矢理にでも目を閉じようとしたが落ち着かず、薄く目を開く。染みだらけの天井に街の灯りが差すのが見えた。時刻はたぶん真夜中を過ぎたころだろう。夜空の明るさでだいたいの時刻を当てるのは、塀の内側で過ごす十八年のあいだに身についた癖だった。訪れそうもない眠気に待ちくたびれ、一番は何回めか分からない寝返りを打った。
「どうした? 眠れねえのか」
ふいに声をかけられて一番はたじろいだ。てっきり起きているのは自分だけだと思っていた。ごろりと身体の向きを変え、声のした方向を見る。隣の布団のナンバがこちらを見ていた。眉根を寄せて目を眇めている。眼鏡は枕元に置かれていた。起こしてしまったかと思い一番は慌てて小声で言った。
「悪い、うるさかったか?」
「いや全然。俺も寝付けなくてよ。ここ、カーテン無くて困るよな」
眉間の辺りを抑えながらナンバが答えた。眩しげに天井に映る街灯りを睨んでいる。どうやら単に眩しかったか見えづらいかで、別に怒ってはいない様子だった。一番は安心した。
「だな、今度買ってこねえと。何色にすっかな」
「なんだよ、こんなとこに長く住む気かよ」
ナンバがおかしそうに笑って言った。この部屋を実はナンバが気に入っていることを知っているから、一番もつられて笑う。笑うと寝付けずにいた気持ちが少し落ち着くのがわかった。
「で、どうした? なんか心配事か?」
改めてナンバが訊ねてくる。問いつめる様子もなく穏やかな声色だった。一番が寝付けないことを案じているようで、そういえば元看護師なのだと納得がいく。ナンバの気遣いが妙にくすぐったく感じられ、一番はなるべく深刻に聞こえないように言葉を選んだ。
「バイトも明日で終わりと思ったら清々してよ。武者震いかもな」
「——ああ、緊張してんのか。ビビってんだな」
汲んでくれたのか、ナンバは茶化すように返してくる。一番は胸を撫でおろした。
「ビビってねえよ……てか、眠れてねえのはアンタもだろ」
「俺は疲れすぎて寝付けないんだよ。肉体労働向きじゃねえんだ」
二人で小さな声で軽口を叩き合う。並べた布団に身体を横たえながら話す、この些細な時間は心地がよかった。一度も行ったことがないけれど、ひょっとしたら修学旅行はこういう感じなのかもしれない。そう考えたら郷愁に似た感覚が沸き起こった。胸の奥がむず痒くなる気がして、一番は長く息を吐きだした。
「もうちょっと、眠くなるまで話すか?」
ため息が聞こえたからか、あくび交じりの声でナンバが言った。つくづく面倒見の良いやつだと思う。一番は今度は気遣いに甘えることにした。灯りの映る天井を見ながら他愛もない話を続ける。
「明日、うまく行くといいな」
「大丈夫だろ。俺もサッちゃんも上手くやるさ」
「見つからねえといいな。倉庫んなかで大喧嘩になったりしてよ」
「縁起でもないこと言うなよ……」
思わず突っ込むとナンバはゆっくりと笑い声を漏らした。ちらりと横を見ると仰向けで目はほとんど閉じている。先ほどから聞こえる声の調子ももうだいぶ眠りに近そうだった。これはあっちが先に寝落ちるかもな、そう考えていたらナンバがまた話し出した。
「もし喧嘩になったらさ。倉庫のあいつらは何に見えるんだろな」
「は?」
「なんか変な風に見えてんだろ、ほら、勇者様とモンスターだったっけ」
「ああ、覚えてたのか……」
今その話をされるとは思っていなくて一番はうろたえた。ナンバは眠たげにくすくすと笑っている。
「あんまからかうなよ……本当に見えてんだって」
どうせもう寝るだろう。会話はここで終わりだと思い、ほんの少しだけ拗ねた気持ちで一番は呟いた。それは反論でもなく独り言のつもりだった。
「え? それは別に信じてるよ」
だから返事が聞こえてきて一番は心底おどろいた。顔を横に向けると、いつのまに横向きに寝ていたのかナンバと目が合う。急に時間が止まったように感じた。
——信じてるよ。
何気なく溢された言葉に一番はひどく動揺した。何に驚いたのか自分でもわからず一番は戸惑う。鼻の奥のほうからかすかに塩辛い味がした。それで初めて、自分が泣きそうなほど嬉しく思っているらしいことに気がついた。
当のナンバは、ごく当たり前のことを言ったような顔で目を瞬かせている。他意はないのだろうと思った。一番は言葉を探したがうまく出てこない。それどころか思っていたよりも布団の距離が近いことや、まじまじと裸眼を見るのは初めてだということや、睫毛の落とす影が気になった。狭い部屋にむりに布団を並べているせいだ。今はそんなことを考えている場合じゃないのに。言葉に詰まって見つめ合ううち、ナンバまで気まずそうな顔をした。
「なんだよ、変なこた言ってねえだろ……。——別に、お前が俺らを騙したってなんの得もねえだろ。そういうこと」
それだけ言うとナンバは寝返りを打って向こうを向いてしまった。
「……へへ、ありがとうな」
やっと言葉が紡げるようになり、背中に向かって礼を言う。ナンバはあいまいに返事をしてきた。胸のなかの動揺はまだ収まりきっていなかったが、うまく誤魔化せたようだった。丸まった背中を見つめていると、やがて呟くような声が聞こえた。
「ほんとはよ、良いなと思ったんだ」
「うん?」
ぽつぽつと話すナンバに耳を傾ける。声はもうだいぶ眠たげだった。眠気の邪魔にならないよう、なるべく優しく相づちを打つ。
「だからさ、勇者……子供の頃、なりたかったんだろ」
「そうだな」
「モンスターが見えたら、そりゃもう、なれてるようなもんじゃねえか」
思わず笑いそうになるのを抑える。そうか?と思ったが言わずにおいた。次の言葉を待つ。
「俺もさ、そういうふうに見えたらって……」
後半はほとんど寝息のようだった。寝落ちる寸前らしい。むにゃむにゃと喋る様子を聞きながら一番は初めてこの部屋に来た日を思い出していた。もう懐かしい思い出に思えてくる。結局あの夜、ナンバのなりたかったものは聞けなかったんじゃなかったか。いつのまにか微笑んでいることには気付かないまま、一番は小さな声で話しかけた。
「明日、いろいろ無事に済んだらさ。聞かせてくれよ。アンタがなりたかったもんも」
「ああ言うよ、覚えてたらな……」
それきり会話は途切れ、あとは呼吸の音だけが部屋に響いた。静かに眠る背中に向け、一番は胸の中でおやすみと囁いた。
寝息が三つに増えた部屋で一番は天井を見上げた。大きく息を吐く。先ほど聞いた、信じてるよという言葉を反芻した。動揺はもう収まっていて、じわじわと胸に広がる気持ちだけが残っている。その感情がなんなのか、一番はまだ言葉では言えそうになかった。左胸のかさぶたがむず痒いような感覚がした。
瞼が重くなり、ようやく意識がまどろんでいく。明日はきっと忙しい日になる。あいつはさっきの会話を覚えているだろうか。覚えてなくても聞かせてほしいけれど。交わしたささやかな約束を思うと胸がかすかに高鳴った。それを夢うつつの中で感じながら、長い一日に向けて一番は眠りについた。