動点 もし偶然にも、子供の頃、世紀の霊能力者と知り合うことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、彼はついてくる。彼は移動祝祭日だからだ。
ある作家の名句を真似るとこうなるだろうか。もとは作家がパリで過ごした青春の日々を讃えたエピグラフだ。世紀の霊能力者――つまり霊幻さんとあまり積極的に交流したとは言えない僕が、彼と過ごした日々についてこのような感慨を抱くことになるとは誰が予想しただろう。しかし、残念ながらこの日記を書いた当時の僕はまだ少年時代を冷静に俯瞰できておらず、その日の記録に書かれたこれは全く別の意味が込められた、字面だけの本歌取りに過ぎない。それは僕が大学生になってから初めて迎えた、年の暮れのことだった。
都内の大学へ進学し、一人暮らしを始めた僕は年末年始実家に帰省していた。その秋、持続可能な社会の実現をテーマに据えて開催された国際的なサミットがあり、国内の代表として参加した僕は諸外国の学生たちと有意義な討論を行った。その時得た彼らとの縁は閉会後も熱を帯びたまま継続された。ある外国の学生が日本の人々と交流したいとオンラインイベントを企画し、僕は当時そのサポートをしていた。企画は順調に進んでいたのだが、ふと他にどのようなイベントが行われているのだろうと、イベントのプラットフォームとして利用していた電子チケットサービスのウェブサイトで、徒に情報をザッピングし始めたのが関の山。環境問題解決を謳うイベントを見つけ、自分が関心を向けた社会問題にも似通っていたので試しにクリックした。真面目な市民セミナーなのだろうかと概要を読み進めていくと、文言がどんどん壮大になり虚妄じみた側面を見せていく。登壇する教授の遍歴には有名大学が書き連ねられているが、どうにも滲み出る怪しさがカルト集団の棟梁、というより傀儡に見える。子供の時分、市内でも似たような集団をよく目にした。このプレイガイドのサービスも危うさを孕んでいるなとブラウザバックしようとした手が、しかし止まる。目にしたのは移動祝祭日。教授の対談相手に霊幻さんが選ばれていたのだ。手違いだろうか。何も年の瀬に手を汚さなくても……。奇しくも対談予定日はその年のクリスマスだった。
それから、僕は霊幻さんへの疑念を捨て去ることができず、記憶を辿りながら、久方ぶりに霊とか相談所へ足を向けた。僕の勘違いかもしれないし、兄に余計な心配はかけたくない。家にいれば、僕の機微に敏いところのある兄に看破されるとも限らないし、もやもやした感情を抱えたまま年を越したくない。電話で尋ねてもいいが、口先だけなら如何様にも言いくるめられてしまうかもしれない、と自分のやや突発的な行動に僕は心の中で理由を付けた。
年末にかけ一大寒波の到来が予測されていたが、クリスマス前の街角はどこか煌びやかで雑然としている。通りゆく人々は皆コートや防寒具を着こんで少しでも体温を逃すまいとしているが、冬期休暇を迎えた子供たちは怖いもの知らずで自転車を乗り回している。道すがら、まだ一年も街を離れていないのに、自然と思い出された数年前の記憶が僕には遠い過去のように感じられた。以前、暗田トメさんが主催となって、相談所でクリスマス・パーティーを開いたことがあった。霊幻さんが車を出してショッピングモールへみんなで買い出しに行った時のことを思い出す。その大型商業施設は屋外に開放感あふれる広場を擁していて、渡り通路から電飾に彩られたプラタナスの群れを見下ろすことができた。買い物が終わり、イルミネーションにはしゃぐ先輩方を先頭にして、駐車場へ向かう。ふと偶然近くにいた霊幻さんに視線をやると、じゃれあう先輩たちを後方で見守りながら彼はなんとも言えない表情を浮かべていた。雑踏の中で一人薄い膜に覆われたような、ぼんやりとして焦点の定まらぬ曖昧な笑み。このように、彼に話しかけるのが躊躇われる一瞬を僕は時々目撃した。僕は取り立てて言及しなかったから、霊幻さんも特に気にしていなかったのかもしれない。広場の木々や渡り通路を飾る黄金の雫が、寒空の下静かに燃えていた。
暗田先輩が相談所のアルバイトを辞めてから、そういった催し事も徐々に下火となったのか、声が掛かることも減っていき、僕の方でも勉学や学校生活の慌ただしさから、相談所へ顔を出す機会も失われていった。兄から伝え聞いたところでは芹沢さんが独立したとかしないとかいう話だったが、これもどういう結果を見たのか僕はよく知らない。
過去のあれこれを思い出しながら、目的の場所へたどり着いた時にはもう日没が近く、霊とか相談所の室内には西日が差していた。相変わらず閑古鳥が鳴いていて、ここだけ時が止まっているようだった。
「よう、久しぶり」と声を掛けられる。年末の大掃除をしたのか、事務所の中へ足を踏み入れると薄く洗剤の匂いが漂っていた。
「お久しぶりです。今日は霊幻さんだけですか?」
「そうだな。芹沢は別件」
彼の口から芹沢さんの名が上ったことに僕は不思議と安堵する。僕は事務所を見回して言う。「ここは変わらないですね」
「む、失礼な。流行りのオンライン要素も取り入れたんだぞ」
と霊幻さんはPCをくるりとこちらへ向けて見せる。見せられたのは事務所内の様子を移した謎の動画だった。仮想現実で来所体験というようなコンセプトらしい。
「誰が観るんだ……」
「お前とか?」
「ふざけないでください。確かにメタバースは流行ってますけど。貴方みたいな人は現実世界だけで十分です」
「それ実は褒めてるか?」
僕がむっとした顔をすると、霊幻さんは肩をすくめて続けた。
「律ももう大学生か。あっという間だな」
「ここももう十年近くにはなるんじゃないですか」
はたと霊幻さんは意外そうな顔をした。僕に言われて初めて気づいたとでもいうような。自分が今なおここにいるはずなどなかったとでもいうような。
「そういや、そうか」
そして、霊幻さんは事務所の壁に飾られた依頼人たちの記念写真の数々を静かに見つめた。僕はもうちょっとだけ霊幻さんが過去を懐かしみ、彼の意識が外界から隔離されていくのを、見逃していてもよかった。だが、僕は自分の胸に生じたこの哀愁とでも呼ぶべき感情のありかを認めたくはなかった。とはいえ、その写真に映る全員とは言わずとも彼らの人生にあなたはずっとついて回るんですよ、祝祭日のように、なんてことを当時の僕がいうはずもなかった。本題を切り出す。
「霊幻さんってクリスマスの予定はおありなんですか?」
「ねーけど。何かあんのか?」
僕は彼が厄介ごとに巻き込まれたんだなと判断してため息をついた。「こちらのサイトなんですが……」
霊幻さんと聖夜にオンラインセミナーへ乗り込んで、意気揚々と偽物を論破したのはまた別の話だ。