朝はあまり得意ではない。正確に言えば学校がある日の朝が。家族や、大食漢の幼馴染みの食事を準備するから早起き事態は苦ではないけれど、数式や単語を詰め込まなければならない授業が後に控えていると考えるだけで、面倒くさいという気持ちが湧いてしまう。そもそもが勉強が得意ではないのだ。小学校の頃からテストはマルよりバツの方が多かったし、真面目に受けなければならない授業も幼馴染みと一緒にサボることの方が多かった。
不公平だと思うのはその一緒になってサボった幼馴染みはいざテストとなればネロよりはるかにいい点数を取ること。多分、頭の作りが違う。ネロは小難しい数式やら過去の歴史やらを一度聞いただけでは覚えられない。けれど幼馴染みであるブラッドリーは一度聞いただけで大抵のことは頭に入るのだと言う。
『七面倒くさい料理の手順やらはすぐ覚えれるくせになぁ』
中学半ばくらいからブラッドリーに誘われる集まりへと顔出ししなくなった理由を聞かれ、勉強を頑張りたいのだと伝えるついでに赤だらけのテストを見せた時の言葉がこれだ。どうにもその時までブラッドリーはネロがもっと出来ると思っていたようで、面食らった顔をしていた。
昔から勉強が苦手だと公言していたのに本気に捕らえていなかったのか、それともネロの吐露など右から左へ流していたのか。カッとなったネロが引ったくるようにテストを取り上げ、『てめえに俺の気持ちはわかんねえよ!』と吐き捨てた末の言い合いで、しばらくの間、絶縁状態が続いた。
だって、惨めだったのだ。
ずっとネロの進む道の先にブラッドリーがいた。疑いもせずにその後に続いていたけれど、年を重ねれば環境も変わる。ブラッドリーの誘いを断っていたのは勉強面も確かに理由の一つだが、他にも理由はあった。
ブラッドリーは男で、ネロは女で。同年代の男に早々喧嘩で負けるつもりはなかったけれど、乱闘となったとき真っ先に穴として狙われるのはネロだった。持ち前の素早さと機転でどうにかこうにか凌いできたし、ブラッドリーが途中で気づいてネロの方へと来てくれていたから大事になることはなかった。
ブラッドリーからすればネロは『いい動き』をしていたらしいが、ネロからすればただ足手まといになったという印象しかなく、相棒だと褒めそやされることが辛かった。
――このままズルズルここに居続けてはブラッドの付属品にしかなれない。
だから、勉強を理由に距離を取ったのに、ブラッドリーはネロを過大評価して、そのくせネロの弱音を聞いてもくれない。喧々囂々の言い合いの末、お互いに『もう知らねえ』と言い放ち、袂を別った。
数年が経った今はお互い譲歩して昔通り、とまでは行かないまでも気の許せる幼馴染みの関係にどうにかこうにか戻れはした。とはいってもあの時のわだかまりが完全に解決したわけではなく、お互いがどこか探り探りの状態で、たまに距離感を間違えてどうにも居心地の悪い思いをすることもある。
――大体アイツは昨日も……。
思い出そうとした記憶に、ただでさえ憂鬱だった気持ちが更に曇りそうになるのを感じ、ネロはゆるりと頭を振った。ここでネロが悶々と悩んでいたって何も解決はしない。どうせ昼時と、夕方には顔を合せるのだ。その時に改めてブラッドリーとは話をすればいい。
今はそれよりもまだ覚めきらない頭と、億劫な授業の方が問題だった。
教室に着いたらホームルームの始まりまで机で寝ていようか。重たい瞼を瞬かせたネロは下駄箱で靴を履き替え、のんびりとした足取りで廊下を進む。
ネロが学校に着くのは始業の十分前。十分お利口な時間である。出来ることならもっとギリギリにつきたいけれど、通学に使っている交通機関の関係でどうしてもこの時間になってしまう。嫌々ながらネロが登校する頃にはクラスの六割ほどが教室に揃っているから遅い方ではあるのだろう。教室から漏れ聞こえる、昨日見たテレビの話や今日の授業への不満などを聞きながら席に着くのが、いつものネロの日常だ。
けれど、その日はいつもと違った。
階段を上り、教室がある階にたどり着くと、聞こえるはずの喧噪が聞こえてこない。教室全部がそうというわけではなく、ある一部の、どうもネロの教室だけがシン、と、怯えを滲ませた静寂に染まっているようだった。
「……」
廊下を進むネロの歩みが遅くなる。面倒くさいことが起こっているのは間違いない。体調不良だと嘘をついて授業の始まりまで保健室にでも避難しようか。迷うようにたたらを踏んだ足は結局、前に進む方へと踏み出された。
ネロたちの通う学校はガラの悪いものが多い。それでも一つの教室を静まり返させる程の実力を持つ者は一握りしかおらず、またその誰もが後回しにすればするほど面倒くさい事態を引き起こす相手だと知っているからだ。
たとえ静まり返させている主の用事がネロでなくとも、後から難癖をつけられるような理由は作っておきたくない。低空飛行の気持ちを更に沈ませながら、、ネロは教室の引き戸へソッと手をかけた。
カラリ、とレールの転がる音と共に張り詰めたような空気がネロの身体へとまとわりつく。サッと目線だけを巡らせるといつもは銘々に散っているクラスメイトが自身の席で息を潜めるようにして座っている中、一人だけ、堂々と人様の机に腰掛け、悠々自適に過ごしている人間がいた。
細い体軀に、肩に少しかかるくらいの灰の髪。口元には薄い微笑を浮かべているものの左右色違いの瞳にはネコ科の動物を思わせる残虐性が見え隠れするその人物に、ネロは苦虫を吞むようにため息を飲み込んだ。
――よりにもよって、オーエンかよ。
鞄を握る手に力がこもる。オーエンに、突っかかる隙を与えてはいけない。努めて平静を装いながらネロは自分の席へ、すなわちオーエンが待ち構えている場所へと足を進める。
「やあ、今日はもう来ないのかと思った」
「俺はいつもこの時間だよ。それよりアンタがこの時間にいるなんて珍しいな」
薄らと笑みを浮かべながら、あくまで和やかに会話しようとするネロに対し、オーエンが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。そうしてするりと足を組み替えてネロに身を寄せると、あどけないとも取れる表情で目を細めた。
この瞬間だけ切り取れば美少女としか思えないけれど、オーエンという人間は機嫌が良さそうに見えるときほど腹の底で何を飼っているかがわからないのだから油断が出来ない。どうするべきか、迷う素振りを見せるネロに小さく首を傾げて、ふ、と息を吐き出すように声を転がした。
「座りなよ。お前の席だろ」
「……そうだな」
クスクスと、肌を撫でるような笑いを滲ませながらカツンとオーエンの指が机を弾く。一瞬のためらいの後に大人しく席に着き、我が物顔でネロの机に座る主を見上げると、色違いの瞳が揺れ、ひたりとこちらを見据えてくる。まるで獲物を捕らえた獣の目だ。
今からお前を甚振ると目で語っているオーエンに見下ろされる形になるのは正直、嫌だ。けれどネロには突っぱねるほどの度胸も気概もない。精々出来るのは、なるべく穏便にかつ速やかに、この何を考えているかわからない相手との会話を終わらせるよう努めるくらいだ。勿論、努めるだけで、それが成功するとは微塵も思ってはいない。
「いい子だね」
ふふ、と吐息のような甘い声がネロの首筋を撫でて、ぞわりと背筋が震える。何があったかは知らないが、多分、オーエンはものすごく機嫌が悪い。戯れのように伸ばされた指がネロの頬に触れて、離れる。たったそれだけの動作なのに、まるで心の柔らかいところを覗かれたような居心地の悪さがあった。
「えっと、それで? 俺に何か用事があったんじゃねえの?」
怯えが滲まないよう、緩く口端を上げる。笑顔になりすぎてはいけない。面倒だという気持ちも出してはいけない。媚びになりすぎても、呑気にしすぎても駄目だ。否応なく長年の付き合いとなってしまったため、ネロはその塩梅がこの学校の誰よりも上手だと自負している。
――いや、もう『一番』じゃないな。
ふと脳裏に浮かんだのは赤髪の快活な青年だ。気さくなあの青年はネロなんかよりもよっぽどオーエンの扱いが上手く、屈託無く対話をしている姿をよく見かける。ここに彼がいればオーエンの不機嫌を解きほぐしてくれるのかも知れないが、生憎とこの場にいるのはオーエンとネロと、その他大勢のクラスメイトだけだ。
「その、ホームルームまであんまし時間も無いし、アレなら場所移動したりとか……」
「ネロは僕とお喋りするのがそんなにイヤ?」
「そういうわけじゃ、ないんだけどさ」
どこかわざとらしい、悲しみを滲ませた声音とともに、ことり、と小首を傾げながら言う様は可愛らしいの一言に尽きる。けれど色違いの視線に含まれた強い感情に、オーエンに怒りを向けられる覚えのないネロは身じろぎするぐらいしか出来ることがなかった。
多分、用事が終わるまではたとえ先生が来たとしても動く気はないのだろう。その癖、自分から話し始める気はないようで、ネロがきっかけを口にするのを待っているように見える。そして困ったことに、話のきっかけとなるものはネロの目の前、正確に言えばオーエンに占領された机の空いたスペースに我が物顔で鎮座しているのだ。
「…………」
「どうしたのネロ? 何か楽しい話を始めなよ。それともやっぱり僕とお喋りするのが嫌だから親切な誰かが間に入ってくれるのを待ってるの?」
言いながらオーエンが辺りを見渡す。可哀想に視線が向いた先の生徒たちは固まったように自身の机を眺めるだけのオブジェへと成り下がり、悪意が過ぎ去るのをひたすらにまっている。そうなるとネロはまるで自分が悪いことをしているような気分になってしまうのだから厄介だ。
「……あのさ、これ、アンタの?」
仕方なく、わかりやすく置かれたものを使ってネロは話題を振る。敵意はないのだと示すように手は行儀よく腿の上で、視線だけをオーエンと机の上の物体をと往復させると、途端にオーエンの口元がにこりと綺麗に弧を描き、クスクスと軽やかな笑い声を漏らした。
「ねえ、これ。なんだと思う?」
机に座ったオーエンが足を組み替え、その身を僅かにネロの方へと寄せる。可憐といっても遜色ない表情に反して、纏う空気は棘のようなそれだ。気圧されたネロが答えずにいるとオーエンは苛立ったように爪先でその物体を叩いた。
丁寧に磨かれた、けれど何の彩りもない爪が示すのは変形したCDと、それを入れていただろうケースだ。何があったのか、バキバキに割れたケースにはマジックペンで何事か――読みづらくはあるが恐らく「オーエンへ」と――書かれている。
何だと思う、と言われれば破壊されたCDとしか言いようがないが、求められている答えはそれではないと、悲しくも長年の付き合いであるネロにはわかってしまった。いや、それでなくとも、目の前で笑顔という名の悪意を振りまいているオーエンを見ればどれだけ鈍い人間でもわかるだろう。
ネロは今、『誰か』のツケを払えとオーエンに強要されている。
思えば、昨日の夕方頃から嫌な予感はしていた。晩飯を集りに来た喧嘩好きの幼馴染みの制服が汚れていて、なのにひとしきり暴れた後の晴れやかさはなかったこととか。そのくせいつもは不満たらたらで食べる付け合わせの野菜を、仏頂面ながらも何も言わず平らげたこととか。
誰のツケが、どこに向かうか。予想していたのなら言ってくれればよかったのに。こんなことであれば昨日、決まりの悪そうな幼馴染みを追求していればよかった。臍を噛みながらネロはそろりとオーエンを見上げる。整った顔に浮かぶ笑顔だけ見れば、まるでどこかの美術品のようだ。けれどその小さな口から飛び出してくるのは人の心を抉るような悪意の込められた言葉だと知っている。
「え、と……とりあえず、場所移動しねえ?」
「お前の男」
これ以上、衆人環視の中チクチク甚振られるのはゴメンだ。再度の場所移動を提案するも返ってきたのは低い温度の、淡々とした声だった。
「ミスラと取っ組み合って僕の鞄を踏んだんだ。酷いよね。置いてたから悪いんだってさ」
フフ、とまるで恋の話でもしているかのような甘い声が耳朶を打つ。組まれた足のつま先がゆらりと揺れて、威嚇するように宙を蹴った。
「さんざん暴れ回って教室中ぐっちゃぐちゃにしたのはあっちなのに。僕が悪いんだって。悲しいなぁ、悲しいよね」
「いや、その、」
オーエンの色違いの瞳が眼前に迫る。不要な言葉を吐き出すことを咎めるように、細くなった瞳孔がネロの心に釘を刺す。
「……ねえネロ。お前も、ボクが悪いと思う?」
ただ従えと、わざとのように甘さを含んだ掠れるような声が、シンとした教室にぽつんと落ちて、溶けていく。怒りを飲み込んだ、肌を刺すような静かな空気に、ネロは心中だけでブラッドリーへと毒づく。どうしてここまで怒らせておいて放置なんてしたんだ、と。
「あー、えっと……甘いものとか、どうですか」
いくらでも、どんなものでも作るけど、と早口で付け足して小柄な影を見上げる。こうなればもう媚び諂うしかない。ネロが出来る最大限オーエンの気分を上げるだろう提案に、色違いの目がきょとんと丸くなり、それからゆっくりと薄い唇が緩やかに弧を描いた。
「……あは」
馬鹿にするような、嘲りを滲んだ一声にネロの視線が泳ぐ。失敗だっただろうか。ドクドクと早鐘を打つ心臓が煩い。膝の上に置いた手に、じわりと汗が滲んで、けれどそれを拭う行動すら見咎められるのではないかと動けずにいると、オーエンのほっそりとした指がツイとネロの顎を掬った。
「お前のそういう無様で惨めなとこ、……可哀想でだぁいすき」
クスクスと心をざわめかせるような声にネロはソッと瞼を伏せる。吐いてる言葉自体は毒気たっぷりではあるが、ピリついていた空気がほんの少しではあるが和らいだようだ。
甘いものを強請られる期間がどのくらいになるかはわからないけれど怒気を振りまかれるよりはマシだろう。とりあえず今日は材料を買って帰って、オーエンの好きそうな甘ったるいお菓子でも作るか、なんて安堵していたのもつかの間。
「じゃあ放課後、待ってるから」
「え、」
組んでいた足がするりと解かれ、トン、という軽い音と共にオーエンのつま先が地面へとたどり着く。その視線が一瞬、ゴミでも見るかのように机上に置かれたままのCDに向けられ、ついでのように伸びた手が思いの外優しい手つきでそれを回収していった。
「駅前に新しいドーナツ屋が出来たんだって。楽しみにしてる」
見惚れるような笑顔の、色違いの目だけが意地悪そうに細められている。逃げるなよ、そう言われている気がして小さく頷くとそれが正解だったようで今度こそオーエンは教室から出て行ってくれた。
「……つっかれた」
とりあえず、このことに関する金銭だけはブラッドリーから絞りとろう。そんなことを考えながらネロは、緊張で疲れ切った頭を休めるためにぺたりと机に突っ伏すのだった。