君の声、君の匂いミスタは肩を組むのが好きだ。
元々仲間内では距離も近く、意味もなく叩いたり触れたり、身体的な接触は多い方だ。最初こそ戸惑ったものの、チームとして共に時間を過ごすうちにすっかり慣れてしまっていた。そこには特別な感情はない。フーゴにしても、ブチャラティのもとに来てから数年が経ち、チームの人数が増えるにつれ周りとの距離感には以前よりもずっと寛容になっていた。
ヴェネツィアでの離別を経て、新生パッショーネでのふたりの立場は今までと大きく変わったが、ミスタの接し方は根本的にはさほど変わってないようだった。
「よぉフーゴ、このあとメシ食いに行かねぇ?奢るからよ」
「今夜ですか?特に予定はないけど…」
デスクまでやってきたミスタがフーゴの肩に手を置いた途端に、ふわりと爽やかな香りがフーゴの鼻腔をくすぐった。驚いてミスタの顔を見上げた。
「え、きみ、香水つけてる?」
「おお、わかるか。どうよ?」
ミスタは目をきらりと輝かせてフーゴの両肩に手を置き、身体を寄せて来た。
「別になんでもいいけど、そんなキャラでしたっけ?」
「キャラってなんだよ。これはトリッシュがよォ…」
「トリッシュが?」
「あ〜〜…うーん、どう説明したらいいかなあ」
ミスタは頭をがしがしとかきながら考える素振りを見せるも、口調からは説明するのを面倒くさがっているのがはっきりとわかった。隠すわけでもなく、後ろめたさもないようだ。ミスタとトリッシュが並ぶ姿を思い浮かべる。思ったことをすぐ口に出すミスタと神経質そうなトリッシュは意外な組み合わせだが、ミスタはどちらかと言えば気の強い女が好みだった気がするし、言われてみると相性は悪くないのかもしれない。
「へぇ、きみにもかわいいところあるじゃないか」
「あっ、おまえ今絶対勘違いしてるな」
ミスタの顔に焦りが浮かんだ。困ったように眉を寄せて言葉を選んでいる。子どものように口を尖らせる。
「ちげーんだよ、あいつがオレのことワキガとか言うから気になってよ…」
「ワキガ?そんなこと言われたんですか?」
「ひでーよな〜。まああのときは3日くらい同じ服だったしなぁ」
護衛の任務のときだろうか。どういう状況でそんなにもはっきり言われたのかはわからないが、それは結構ショックだな、とフーゴは内心同情する。ミスタはフーゴの肩に腕を回して耳元に顔を近づける。香りが強くなる。
「言っとくけど、何もあいつの好みで選んだわけでもないぜ。オメーはどう思う?」
「どうって、ぼくは別に香水に詳しいわけじゃあないけど…」
「香りの好みってあるだろ。好きか嫌いかでいいんだって」
覗き込むようなミスタの目がやけに真剣で心臓が跳ねる。間近で香りを吸い込むと、シトラスの爽やかな香りの中に残るほのかな苦みが、ぼくらの故郷の鮮やかな海と昼間の太陽のもとによく似合う。ギャングの男がつけるには爽やかすぎる気がしたが、18歳の彼のまとう明るい空気とも似ているように思えた。
「きみっぽい…のかなぁ…悪くないと思うけど」
「悪くないってなぁ〜…好きでもないってことか?」
「女の子はこういう爽やかな香りの男が好きなんじゃないか?ぼくの好みなんて別にいいだろ、きみの好きにしたら」
ミスタは不満気にじろりとフーゴを睨むと、ため息をつきながらフーゴの肩から腕を離した。フーゴは解放されて軽くなった肩をぐるりと回す。
「人間ってのは、声から忘れていくらしいぜ」
「…なんの話だ?」
ミスタの話の飛躍はいつものことだが、困惑しつつも無意識にかつての仲間の顔が浮かんだ。3人が、名前を呼ぶ声が耳に蘇る。
出会ってから幾度となく聞いていた声。もう二度と聞くことが出来ない声。いずれ、思い出せなくなるときが来るのだろうか。
ミスタの顔を振り返ると、黒い瞳はどこか遠くを見つめるように、わずかに暗い影が差しているように見えた。
「最後まで残るのが嗅覚の記憶なんだってよ。香りってのは何年経ってもしっかり記憶を呼び起こすらしい」
「…なんか、意外だな。きみがそんなこと言うの」
ミスタはデスクの横のスツールに腰掛け、頬杖をつきながらフーゴを眺めている。
それらしい経験はフーゴにもあった。街中ですれ違った50代くらいの男がつけていたバラが強く香るパウダリーな香水を嗅いだ瞬間、自分の忌まわしい記憶が鮮明に蘇った。思わず振り返っても後ろ姿すらもあの教授とは似ても似つかない赤の他人だったが、激しい動悸は相手が遠ざかってもなかなか治らなかった。
「…どこかの誰かがつけてる香水できみを思い出すのは、イヤだな」
「はぁ?なんだそりゃ」
「その香り、結構有名どころのやつなんじゃないか?ミラノの街でも歩けば同じものをつけてる人間と何人もすれ違いそうだ」
「げ、マジかよ〜」
ミスタはげんなりとした顔を見せた。そもそも、暗殺を得意とする男が特徴的な香水をつけていていいのだろうか?服装も目立ちすぎるからそれ以前の問題かもしれないが…。
まあいいや、とミスタは笑った。
「オレはおまえやジョルノのもとから離れるつもりなんて毛頭ないからな」
「…それは、ぼくも同じだ」
「おまえに、オレを忘れさせるつもりもない」
なあフーゴ、とミスタがいくらか優しい低い声で囁く。いつの間にかミスタの口元からは笑みが消え、フーゴの肩に体を寄せた。
「…きみみたいな騒がしいやつ、忘れられるわけがないだろ」
「あのな〜、もっと優しい言い方ねーのかよ」
苦笑を浮かべながらミスタの腕が背中に回り、強く引き寄せられる。頬がミスタの肩に軽くぶつかる。
両腕でミスタの硬い背中に触れる。懐かしい体温だと思った。香水に混じって、どこの誰とも違う、ミスタの匂いがする。
間近で見える、伏せられた瞼を縁取る睫毛の長さも、頬に触れるその手の熱さが心地良いことも、よく知っていた。
突然家に転がり込んでくるミスタと、2人でいくつもの夜を明かして来たから。
出会ってから過ごした時間に比べて、離れていた時間はそう長くないはずだった。懐かしいと感じるには早すぎるくらいだ。
ミスタに出会う前の自分が見たらどれほど驚くだろう。自分のなかにいつの間にかこれほどまでに根付いていた彼の存在の深さが、特別じゃないわけがない。
「おまえが戻って来て嬉しいぜ、フーゴ」
「…ぼくもだ」
ミスタが目を細める。
切なげな表情は一緒にいた頃には見たことがないものだった。以前と変わらず能天気であっけらかんとした男が、ふとした瞬間に表情の翳りを見せるたびに、迫力と威圧感を増した仕事中の姿を見るたびに、2人が失ったものを思い知る。
「新しい香りをつけてもいいだろうけど…ぼくが目や耳をやられても、鼻が利かなくなっても、きみがそばにいたらわかる気がするんだよ」
「そりゃいいな。けどよォ、ジョルノがいたらその心配はいらなそうだな」
「はは、確かに」
「オレはおまえが突然シワシワのジジイになっても見つけられるぜ」
「きみのジジイ姿、ちょっと見たかったな」
「バカ言え、おまえらが寝てる間に死にかけてたんだぜ」
沈黙が流れると、こつり、と額同士をぶつけられる。間近で光る彼の瞳が欲しがっているものが、今ならよくわかる。
引き返すなら今だと、試すようにわずかに開けられた隙間が示している。
その距離を、超えてみたいと思った。0センチまで埋まった距離で感じ取れるものを知りたかった。
応えるように目を閉じると、すぐに唇に柔らかな感触が押し付けられた。
確かめるように、角度を変えて何度も触れる。触れた箇所から唇の熱が伝わってくる。合間に漏れる吐息の熱さも、初めて知る温度だ。胸がつかえるように苦しい。
ミスタが指でフーゴの後頭部の毛先をくるくると弄ぶように撫でる。その仕草は、なぜだか馴染みのあるものだった。彼が帽子を取ったときの癖だ、と思い出す。触れれば触れるほど、記憶の底から彼ら自身の欠片が次々と溢れてくるようだった。込み上げるように目の奥が熱くなる。
どちらからともなく唇が離れ、目を開けたフーゴの目元をミスタの親指が優しくなぞる。頬にぽたり、とぬるい雫が流れた。
ミスタを見上げると、微笑むように目尻を下げ、真っ黒な瞳は潤むように揺れていた。ミスタはフーゴの前髪をくしゃっと撫でつけながら持ち上げ、瞼に軽く口付けた。
2人とも、同じ場所に穴が空いているのだと思った。騒がしくあたたかな喜びも、おぞましい恐怖も、ひりつく緊張も、身を裂くような後悔も、凍てつくような悲しみも、確かに2人の中に、同じ場所にあったものだ。
ぽっかり空いたままの穴を残して、時が流れて、生きている人間だけが変わっていく。
離別の日からミスタやジョルノと再会するまで、フーゴの時間は止まったままだった。慌ただしく過ごす周りの人に追い抜かれ、見える景色も変わらないまま、毎日同じことを考えていた。時間だけが流れ、肉体ばかりが歳を取っていくようで恐ろしかった。
2人が目の前に現れて、ようやく前に足を踏み出すことができた。その瞬間から景色が大きく目まぐるしく、鮮やかに動き始めた。
ミスタの背中に回した腕に、随分と力が入っていることに気づく。2人の間のわずかな距離も惜しいと思った。ミスタの胸元に額をつけると、とくとくと少し早い心臓の音がする。そのまま厚みのある胸板に耳を押し付ける。頭の上でミスタがふっと笑みを漏らす。
「ドキドキしてるだろ?」
「…生きてるって感じがする」
「おまえってロマンに欠けるよなぁ」
ミスタはフーゴの髪に頬を寄せていたが、不意にフーゴのつむじに鼻を押し付けた。真上で聞こえる呼吸音に、フーゴは「おい!嗅いでるだろ!」と抗議の声を上げる。
「なんか前より男っぽい匂いになってねぇ?成長期?」
「恥ずかしいからやめろって!」
半ば叩くように身体を押すと、ミスタは案外あっさりと身体を離して、ケラケラ笑いながらくしゃくしゃとフーゴの髪を撫でた。
生きていくことへの恐怖も孤独も見知ったものだった。1人でいれば、孤独と引き換えに、喪失への恐怖とは無縁でいられると思った時期もあった。
ただ、空いてしまった穴を確かめるのが怖かった。誰かと関わり合って、奥深くまで触れられるのも、自分の心が変容していくのも恐ろしかった。
けれど、恐ろしいことがこんなにも離れがたく、愛おしいとは知らなかった。
「なぁ、腹減ったよ。早く行こう」
「わかったわかった。いつものリストランテでいいだろ?行こうぜ」
ミスタがフーゴの肩を抱きながら歩き出す。ドアノブに手をかけようとすると、ミスタの手が横から伸びてフーゴの手を抑えた。
「ミ、」
名前を呼ぼうとした唇を塞がれ、今度は小さなリップ音を立てて離れた。見上げるとミスタは満足気に微笑んでいる。フーゴの顔に一気に熱が集まった。
「なっ、開けるところだったろ!誰かに見られたらどうするんだ!」
「いやあ、外に出たらしばらくできねぇだろ?」
「おまえなぁ!この…スケコマシが…!」
「おっ、赤くなっちゃって〜」
調子よく笑うミスタの肩に拳をぶつける。鈍い音が鳴るが、いてぇ、とぼやく声には笑みが残っている。
「怒んなよな〜。つーか今時スケコマシとか言わねーだろ」
「次、事務所でやったら殺すからな」
「んん?どこでならいいわけ?」
「あーもう、うるさいうるさい」
2人で事務所を出ると太陽が沈みかけていた。フーゴは正面から射すとろけるようなオレンジ色の陽光に目を細めながら、肩に回されたままのミスタの腕に手をかけた。
「ぼくら既に酔っ払いみたいじゃないか」
「別にいいだろ、酔っ払うんだから」
ミスタが笑いながらいつものリストランテの扉を開ける。店内の喧騒と料理の香りに意識が移る。馴染みの店員が近づき、2人の姿を見て微笑む。
「なぁ、このあとフーゴの部屋で飲もうぜ」
「またぼくの部屋?」
「久しぶりだろ。オレの家はすぐシャワー止まるし」
「そうだったな。隣の学生はもう引っ越したのか?」
「それが聞いてくれよ。昨日久しぶりに帰ったら奴が友達呼んでギターかき鳴らしててよ…」
堰を切ったように話し出すミスタの声を聞いていると、昔に戻ったかのような錯覚を覚える。けれど会話の間のわずかな瞬間、ほんのりと混ざる甘い眼差しや笑みは今まではなかったものだ。関係が変わったことへの戸惑いと高揚が入り混じる。
お互いに自分の手足のように知っていることも、まだ見たことのない部分も、かつて持っていて失ったものも、これから2人でたくさん味わっていくのだろう。履き慣れて馴染んでいく靴のように、やがてその底が次第に擦り減るように。変わっていくことが生きるということなのだろう。
いつか、ぼくらの本懐を遂げるまで、その心臓が止まるまで、共にいられたらいい。
変化し続けることも、時折立ち止まることも、ミスタが隣にいるならば怖くはない。これからどこまで遠くに行ったとしても、二度と戻ることができなくても、振り向けば道の向こうにあの日のぼくらがいるのだと確かめられるから。
こんな話をしたらミスタは笑うかもしれないけど、いつかきっと言葉にして話せたらいいと思った