星に願いを ああ、これは夢だ。と。
御手洗暉は、すぐに気が付いた。なぜなら隣に、死んだはずの『彼』が居たからだ。
共に過ごした長くない数日の中で、散々見慣れた黒いスリーピースと濃い青のナロータイ。フレームレスの眼鏡の奥の、切れ長で、涼しげな薄茶の瞳。
その目が細められ、顔に笑みが刻まれる。何度も見た、『人好きのする』と表現すべき微笑。
そして、口が開かれ……
「-----」
違和感に、すぐに気がついた。
声が、聴こえない。
夢だから音が無いのか? そう考えて。一瞬後には否定する。他の音は……たとえば足音なんかは、確かに聴こえているのだ。
ただ。隣を歩く男の声だけが、聴こえない。
どこか縋るような心境で、周りを見る。そうすれば、そこが“何処”なのかに気が付いた。
やや郊外にある、大きめのショッピングモール。彼のガラケーをスマートフォンに替えさせた携帯ショップが入っている施設だ。せっかくだから、と、帰りに二人でうろついた覚えがあった。
彼は、当然の顔をしてセブンアップを買い込んで。晩ご飯は何がいいか訊いてくるので、「牛丼」と答えては、またですか、と呆れられた。けれど、その夜はやっぱり牛丼で。硬すぎない牛肉も、シャキシャキ感の残った玉ねぎも、甘辛いタレも美味かった。
その『味』は、こんなにも鮮明に覚えているのに。
不意に、男の足が止まる。何かを見詰める視線を辿れば、そこにあるのはピアノだった。
ストリートピアノ、と呼ばれるもの。
確かこの時、彼は……と思い出しかけて。けれど、次の瞬間には記憶と違うことが起きた。
荷物を自分に預け。すたすたと、男の足がピアノへと向かう。椅子に腰掛けちょいちょい、と手招きされるのに、近づいた。
細い指先が鍵盤に乗る。ポーン、と、軽い音。すぐにそれは連なり、曲となる。
「……?」
聴いたことあるな、と思った。何の曲か……と考えて。衝撃と共に、思い出す。
誰も居ないリビング。テーブルの上に置かれた、合鍵と、一箱のラッキー・ストライク。それに、一枚のメモ。丁寧に綴られた筆記体。
「…………星に願いを」
自分に、ピアノの巧拙は分からない。だから今流れるこの音が、どれくらいの腕前のものなのかも分からない。
けれど、そう。実際は、現実では……彼は、ピアノは弾いていなかった。ただその時の横顔を……複雑そうにピアノを見つめていた表情を、覚えている。
「なぁ、一誠」
呼びかける。指は鍵盤を叩くそのままで、薄茶の瞳がこちらを向く。
フレームレス眼鏡のレンズ越し、不思議そうに瞬いて。
「アンタ……」
ひしゃげた己の声が、喉を裂くようにして口から落ちる。
「どんな、声してた?」
***
翌朝の寝覚めは、最悪……とまではいかず、それでも決して良くはなかった。なんとかゼリー飲料を流し込み、出勤する。
復帰した宇佐美班での日々は、決して穏やかとは言えず、暇でもない。伊藤班との闘いに備え、やることはいくらでもある。
それでも……“御手洗暉”としての意志が確かに存在しているだけで、違いは歴然だった。
休憩時間の終わり間近。なんとか回復した食欲で定食を食べ、心持ち早足で廊下を歩く。
急いでいた。考えごともしていた。そして、相手の足音が静かだった。
だから角を曲がった瞬間に出会い頭にぶつかるなんて、全く予想していなかった。
「わ、と」
「……っち」
聞こえたのは、聞き覚えのある舌打ちと、紙の散らばる音。尻餅をついた体勢で顔を上げれば、そこには見覚えのある男がいた。
「………昼間さん」
「御手洗暉か」
不機嫌そうな顔には応えずに、散らばった紙に手を伸ばす。昼間が落とした物であろうそれを、深く考えずに拾い集める。
「ご苦労」
落とした本人である昼間は動く気はないようで。特に期待もしてないけれど、と、諦めたような心境で残りの紙を拾う。
「………っ」
不意に。
指が、止まった。
ほんの数ミリ先。落ちているのは、他と同じA4の紙。
何も考えずに拾い集めていたので、散らばった紙が何か、考えていなかった。
ギャンブラーの資料。クリップでとめられた顔写真と、プロフィール。他にも、細かく文字が記された物。
そう思えば、拾い集めた何枚かも、うっすら見覚えのあるような顔が混ざっていた。
ただ。今、この、目の前にある一枚は。この、名前は。
「あ?」
訝しげな声が聞こえる。ひょい、と、昼間が隣にしゃがむ気配。硬直する御手洗の視線を追い、「はぁ?」と呆れたようで。
無造作に紙を拾い上げ……ん、と、こちらに押し付けてきた。
「……え?」
「やる」
「……あ」
胸元に押し付けられた用紙を、片手で掴む。代わり……とばかりに、拾い集めていた束を回収された。
「どうせ今から箱詰めして溶錬だ。生きてねー奴らばかりだからな」
立ち上がるのに釣られるように、身を起こす。
「それが、欲しいモンだろ」
俺に貰ったって、言うんじゃねーぞ。
忠告を残し、去っていく背を見送って。握り締め過ぎて端が皺になった用紙を、目の前に掲げる。
最初に『ソレ』が認識できたのは、果たして偶然だったのか。
「………アンタ……今日、誕生日なんだな」
***
その夜。日付が変わる数時間前に、御手洗は帰宅した。手に提げていたビニール袋をテーブルの上に置き、椅子を引いて腰掛ける。
はぁ……と、溜息。
疲れたな、と思い。けれど、あの頃に比べたら……と、考えている自分もいる。
あの頃のことは。やはり今も、あまり、記憶は無いんだけれど。靄がかかったような毎日の中、うっすらとでも存在しているのは、訳もわからずただ勝ち続けていたギャンブルと……それと。
「………」
どこか、覚悟を決めるように。仕事用の鞄から、昼間から受け取った用紙を取り出す。
それと、ずっと奥に眠らせたままの、煙草の箱と……緑の缶を二本。
二本とも開け、一本に口付ける。レモンライム味。ああでも確か、缶には『無果汁』と書かれていた気がする。
喉の奥に、炭酸を流し込む。そうして、目の前に翳した用紙の文字を、目で追う。
缶を置き。最初の一行に、人差し指を滑らせた。
星 一誠
そのまま目は、戦績へと移る。真っ先に数字に目がいくのは、やはりそういう性質なのか。
七勝二敗。
「1/2ライフで一回負けてんだな……」
多少、意外に思い呟くも、ゲームの名前を見て納得する。伊藤班に居た頃、見たことがあった。確か、ペナルティにアルコールが絡むゲームだ。
「飲めない、て。言ってたもんな」
飲んでいるところを見たことは無い。大抵、彼が手に持っていたのは、今も目の前にある緑の缶の炭酸飲料だった。
その酸っぱさと爽やかさは、彼が居なくなってから、初めて知った。
それに、あの体格だ。
「確か重い方が酒には強いとか……?」
本当かどうか知らないけれど。そんなことを考えながら、プロフィール欄へと目を滑らせる。
何に使うのか甚だ疑問な(ペナルティ絡みか? とは思わなくもない)、身長と体重。
174cm。57kg。
「軽」
思わず本音が出る。華奢だとは思っていたが……自分よりもだいぶ軽い。
どこか、何かに呆れながら。再度、視線は戦績へ。
1/2リンクで一度負けてからは……さいごの試合を除き、全て勝利。
担当行員所感(二戦ほど、御手洗自身が記入した覚えもあった)によると、圧勝と言えるものはあまり無いが、相手に『読ませない』ことを得意としていたらしい。
穏やかに微笑んだまま採るリスクを恐れない選択が、読みを狂わせたとか。
「……一誠らし」
あの、フレームレス眼鏡のレンズの奥で、細められていた薄茶の目。何を考えているのか分かりにくい、けれど人好きのする、笑い方。
確かにあの顔のまま、己の生命を顧みないような。或いは全く頓着しないような選択をとられたら……うん。確かに、それは戸惑う。
くつくつ、と喉の奥で笑って。正面に、視線をやる。じっと、見る。そう、そこに座っていた。何度か、一緒に夕食を摂った。牛丼が、本当に美味かった。
じっと見る。ただ見詰める。目を逸らさずに、瞬きさえ惜しんで、今は誰も居ない席をじっと見る。
丁寧に箸を操る所作を覚えている。
美味いカップ焼きそばは何かとか、牛丼は何故紅生姜でカツ丼は何故三つ葉なのかとか。取り止めのない会話をしたことを覚えている。
仕事の愚痴でも不満でも、頷きながら耳を傾けていた仕草を覚えている。
セブンアップが如何に素晴らしいかと、朗々と語る表情を覚えている。
そう。覚えているんだ。
だから……今、なら。
目を凝らしてじっと見て。静かな夜に、耳を澄ませる。
今なら。聴こえる、筈なんだ。
『アキラくん』
その声は、唐突で。
けれど、確かに記憶にあった筈の、あの音で。
間違いなく、あの声で。
くん、の発音がちょっとだけ独特で……そう。ほんの少しだけ、スタッカート。
「………」
ふ、と。身体から力を抜いた。
紙をテーブルに置き、ビニール袋から発泡スチロールの丼と割り箸を取り出す。
蓋を開ければ、牛丼はすっかり冷めていた。温めるのも面倒くさく、そのまま箸を手に取る。
割った割り箸で、勢いよく、掻き込んだ。すっかり冷めてしまったそれは、けれど確かに、馴染んだ、よく知る味だった。
「…………」
そう。チェーン店の牛丼だって、街の定食屋の牛丼だって……牛丼は、どれも、美味い。だって好物だし。
アンタの牛丼しか食べられないとか、あれこそが最高だとか、そんなこと言うつもりは無い。多分これからだって、違う牛丼をいくらでも食べるし。もっと美味しい牛丼にだって、出会うだろうし。
でも。
やっぱり、確かに、美味かった。
叶うなら。
あの曲の通り……『星』に願って、叶えてもらえるなら。
また食べたい。
アンタの作った牛丼が食べたい。
「一誠」
呼びかける。
当然、返事は無い。けれど、声を……自分の名を呼ぶ声を、覚えている。
アキラくん、と。
この五つの音だけ、もう忘れなければ充分だ。
ちら、と。紙に視線をやる。こんな小さな、A4の一枚に収まってしまう情報にさえ、自分が知らないことが幾つもあった。
共に過ごした十三日は、アンタを知るにはたぶん短すぎて。
それでも。
やっぱり、忘れたままにするには長過ぎた。
だから。
ずっと、この関係を何と呼べばいいのか、わからなかったけれど。
僕は……………………アンタを 友 と、呼びたい。
「誕生日オメデト。一誠」