そして一番星を追う 六月一八日。
今日は、御手洗暉の誕生日だった。
さらに今年は日曜日。
昼までのんびり寝て怠惰を謳歌するのも、朝から出掛けて自由を満喫するのも……全ては自由、の筈だった。
そう。
今の自分の所属が特四……その中でも、『伊藤班』でなければ。だが。
「御手洗」
「……はい」
呼びかけられ、顔を上げる。
今日は日曜日。休日だ。なのに何故、当たり前のように自分を含め、班員は銀行に揃ってるんだ。
いや、わかっている。土日しか試合を組めないだとか連絡がつきにくいギャンブラーも居るからだ。それに答え、場合によっては試合を組むためだ。
わかっている。
こんな、労働基準法違反が服を着て歩いているような職場では、日曜日だとか……誕生日だとか、関係ある筈がない。
わかっている。
わかっていた。
「飲み物、買ってこいよ」
ピン、と。跳ねるように昼間唯から渡された硬貨を、危なかっしく受け止める。
外歩きたいだろ? と。続けられた言葉には感謝をするべきなのかどうか。
はい、とだけ答え、席を立つ。
自販機に向けて歩きながら……ここに来てから何度めかわからない『何故』を繰り返す。
何故。
僕は。
今、ここに?
「あれ?」
「え?」
不意に聴こえた、聴こえる筈のない声を、幻聴だと思った。
顔を上げる。自販機のある、休憩スペース。そこに立つ人を、目を見開いて見詰める。
「……真経津、さん……?」
「御手洗君。なんか久しぶりー」
ひらひらと、手が振られるのに無意識に振り返す。
あれ? 今、ここは……何処だったっけ?
それとも、夢でも見ているのか?
あまりに。ずっと……この人のことばかり考えていたから。
傍に立ちたい、と。そればかり考えていたから。
「真経津、さん……?」
「そうだよ。どうしたの? 御手洗くん」
変なのー、と。笑われるのに、何と返していいのか分からず一緒に笑う。
ああ。
幻、ではない。真経津さんだ。
真経津さんが、いる。
「僕、もうすぐ試合なんだ」
「え? あ……そうなんです、か?」
思わぬ言葉に、声がひっくり返る。
「うん。相手の人が、土曜と日曜しか試合が組めないんだって」
「へ、へぇ……」
確かに、そういう人間も、稀に居る。だからこそ、自分も今日はこうして仕事に明け暮れているわけで。
「でも、なんか遅刻しているみたいで。待ってて、て言われても退屈だから抜けて来ちゃった」
「え」
そんな、迷子になる子供みたいな理由で。
「戻りましょう、真経津さん」
「えー」
「えー、じゃないですよ」
遅れている対戦相手が一番問題だが、もしソイツが来た後も、真経津さんが戻らなかったら?
試合をイタズラに遅らせた、と、“あの連中”の機嫌を損ねることになるではないか。
人の生命も簡単に賭けてオモチャにできる、あの連中に。
「ほら、真経津さん……!」
「えー……もう。御手洗くん」
「? あ、はい」
呼ばれ。反射のように、動きを止める。そうすれば、じっと、目を覗き込まれた。
明るい色の瞳が、すぐ目の前にある。長いまつ毛に縁取られた瞼が、至近距離で、瞬く。
「落ち着いて?」
この人の言葉は。まるで、魔法のようだ。と、思った。
ただの『言葉』なのに。何処までも真っ直ぐ、魂の隅々まで届く。
「ね? 御手洗君」
「……は、い」
「僕の知ってる御手洗君は……もう少し」
「え?」
「おい」
何やら言いかけた真経津の言葉と。それに疑問を発した自分の声と。
それと、もう一人。不機嫌そうな男の声が、重なった。
「なんで、こんな所ほっつき歩いてるんだ」
低い声で唸りながら、大股で近づいて来た男を見る。
長い黒髪が、まるで不機嫌そうにうねっているように見える。
「……榊さん?」
「あ、榊」
「だからなんで俺は呼び捨てなんだ……ほら。始まるから、行くぞ」
「はーい」
素直に頷く真経津を眺める。何処にでもいる、ギャンブラーと担当行員の会話。
それが……何故か。どこか……
「じゃーね、御手洗君」
「あ、はい」
ヒラヒラと手を振って、去って行くのを見送って。
その真経津と歩み去る直前……まるで、こちらなど居ないように振る舞っていた榊の目が、一瞬だけ、確かにこちらを捉えていた。
複雑そうな……哀れみや、或いは、痛みにも似た感情の、目だと思った。
***
夜。
帰宅した御手洗は、自宅のベランダに居た。
思い出すのは、昼間のこと。
何も変わらずに接してきた真経津さん。それと、こちらを見ていた、榊の目。
あの後結局、何も買わずに席に戻ってしまって。昼間には何か言われた気もするが、何も覚えていなかった。
ポケットからスマホを取り出す。
担当しているギャンブラーの名前がずらっと並んだメッセージアプリ。
その、ずっとずっと下の方。もう何日もやり取りしていない、彼の名前。
タップしようとした指が、途中で止まる。
「………」
僕は。
今、なんで、ここに……
ふと。
何回めになるか分からない思考ループに陥りそうになったタイミングで、スマホが鳴った。
メッセージではない。通話の、音。
発信者は……
「はい!」
名前を認識した瞬間。何も考えず、指は通話ボタンをタップしていた。
「やっほー御手洗君。お昼ぶり」
「あ、はい。お昼ぶり、です」
カクカクと頷く。
電波の向こうから聴こえる真経津の声は、昼間と何も変わらない調子に聴こえた。
「お昼、榊のせいであんまり話せなかったからさ。かけてみた。今大丈夫ー?」
「あ、はい。もちろんです。ありがとうございます」
思わず姿勢を正して答えれば「変なのー」と、笑う声が響く。
「真経津さん、今日のゲームは……?」
「勝ったよ。楽しかった」
「そう、ですか。よかった……」
心から楽しそうな声に、安心する。
他班の人間だろうと、真経津さんが楽しんでいるなら、それが全てだ。
「でも、榊は、僕と全然遊んでくれないんだよね」
「え? あ……そうなんです、か?」
「そうそう。御手洗くんは、一緒に遊んでくれたのにね」
トルコアイス。DJゴッコ。陶芸。
あのタワーマンションの34階を訪れる度、真経津に誘われるまま、色々とこなしていたことを思い出す。
「獅子神さんや村雨さんや叶さんとも遊ぶけど。やっぱり、御手洗くんともまた遊びたいな」
「え?」
「ね……? 御手洗くん」
すぐ、目の前に。
こちらの顔を覗き込む、明るい色の瞳がある気がした。
あの、まるで鏡の前に立たされたような……全てを見透かされたような気になる、あの表情が。
「僕は……今、班が、違いまして……」
「知ってるー」
ケラケラと、笑う軽い声。
「でも……君なら。ね?」
君なら。
……僕、なら。
それは、どういう意味なのか。
「………真経津、さん」
「なにー?」
ふと。
言ってみようかと、思った。
僕、今日が誕生日なんですよ、て。
そうすれば、もしかしたら……「おめでとう」くらいは、言ってもらえるかもしれない。
それは……どれほど、嬉しいだろうか。
「……いえ」
けれど、それを言葉にするのは辞めておいた。
今じゃない。
少なくとも、祝ってもらうべきは、今ではない。
僕が……また。せめてこの人の担当行員として、胸を張って立てる、その日までは……
「御手洗君、変なのー」
「え? そうです……か?」
「うん。でも……」
声が、そこで途切れる。
「……真経津さん」
「ん、なに?」
「今度、遊びに行った時は……また、トルコアイス、食べさせてください」
「トルコアイス? あれ、機械どこに行ったかなー?」
考え込む声に、くすくすと笑う。
獅子神さんに探して貰おうーと続くのには……件のギャンブラーに対し、少し、罪悪感も湧いたけれど。
今は、自分が立てる場所はここで。日々の仕事に……少しずつ、心を殺されるような、そんな感覚が、あるけれど。
それでも。いつか。
また自分は、きっと、この人の隣に戻る。すぐ近くに、立つ日が来る筈だ。
「真経津さん。あんまり夜更かしは、良くないですよ」
「それは御手洗くんもでしょー」
不満そうな声に、それもそうですね、と頷いて。
じやぁお互い寝ようか、と。通話を切るその直前。
「またね、御手洗くん」
「あ、はい。また」
「あと、オメデト」
「!?」
通話の切れた、静かになった端末を凝視する。少し熱を持ったそれを、握り締める。
ああ。
いつか。いつか……きっと。僕は、あの場所に還る。
そして。さっきの真経津さんの……「君なら」の、続きを教えてもらおう。
そう思い見上げた空の上。名前も知らない、明るい星が一つ、瞬いていた。