夜明けをのぞむ かんすうじのイチにマコトでカズマです!
彼は、そう名乗った。
仕立ての良い上質の子供服に、濃い青の子供用棒ネクタイ。
誰かの手で、丁寧に整えられた黒髪。あどけない表情の中、理知的な光を宿す、印象的な薄茶の目。
年齢は、4歳になったばかりという。
彼は………
***
「御手洗くん。子どもは好きですか?」
「いえ別に」
唐突な主任からの問いに、御手洗は即答した。
5スロットの見張り当番を終え、部屋から一歩出たその瞬間。
急な上司の出現と質問だったにも関わらず、回答に要した時間はコンマ5秒以下。この上ないほどの、完璧な即答。
ただ、即答はしたものの、さすがに上司が相手にしては簡潔に過ぎたか?と3秒ほど考え直す。
「好きでも嫌いでもないです」
付け足したのは、そんな回答。大きな差はないかもしれないが……実際に、そうだから仕方がない。
そもそも今の生活で、子どもと接する機会など……窓口のお兄さん時代は別として……全くないと言っていい。
「そうですか。嫌いではない、と」
「はぁ……まぁ」
嫌いではない。
そう返されては「嫌いです!」と、声高々に宣言する気は湧いてこない。
「では、君に任せます」
「は?」
こちらの反応など構うことなく、宇佐美は背を向け歩き出す。
ついてこい、と言うことだろう。
無駄な質問は挟まずに、スーツの背を追う。頑丈な扉を抜け、ドアの並ぶ狭い廊下を歩く。
……約、一年前。初めてこの通路を歩いた時のことは、今でも覚えいる。
それから重ねた、それまでとは完全に色を変えた日々のことも。
ほんの数秒、想いを馳せる。その間に、銀行から外へと出ていた。そのまま真っ直ぐ、隣の敷地にあるクロウホテルへ。
ギャンブル会場の手前、控え室とも言える小さな部屋の前で、宇佐美の足が止まった。
こちらを、ちら……と見やり。特に何も言うことなく、扉を叩く。
「はい」
聴こえた声は、高い。女性……いや、この声は……?
かちゃり、と控えめな音を立てて扉を開ける主任に続き、部屋の中へ。
目に入るのは、よくある机。飾り気のない、無機質な椅子。それと、その側に立つ……
「お待たせしました」
「だいじょうぶです」
滑らかに答える声は、しかし、明らかに大人のものでは無かった。
宇佐美の腰にも満たない高さに、艶やかな黒髪が見える。仕立ての良い子ども服に、子ども用の青い棒ネクタイ。
大きな、印象的な薄茶の瞳が、利発そうな顔の真ん中で数度瞬く。
「御手洗くん」
「……あ、はい?」
視線は、その子どもに向けたまま。呼びかけられて答えれば、不思議そうに男児は首を傾げていた。
恐らく、3歳か4歳か。
知り合いにこの年頃の子どもはいない為確証は持てないが、大きく外れてもいないはずだ。
「しばらく、この子を頼みます」
「………は?」
「よろしくおねがいします」
ぴょこん、と、下げられる小さな頭。それに合わせて、首元で青い棒ネクタイが跳ねる。
礼儀正しいとは思う。思うが……
「……僕がですか」
「この子のご両親は、“観戦”中です」
言われ、思い出す。
今の時間、まさにこのホテルで1/2ライフの試合が開催されている筈だ。
確かに……子どもを連れて入れる環境では無いだろうが……
「ボク、車にのってきてしまったんです」
説明は、子ども自身の口からあった。
幼い子らしく、状況を説明するには足りていない。けれど、推測するには充分で。
「さるVIPのお子様です。こちらに来られる車の中に乗ってきてしまわれたようですね」
「ボク、どこにいくのか知らなかったんです……」
しょんぼりとする頭を見下ろす。
この、子どもは……今、ここで何が行われているかを。自分の親が「何を」観にきているのか、知っているのだろうか。
「私は今から会議です。御手洗くん、頼みましたよ」
「……は?」
決定事項のように告げられた言葉に、反応が半瞬遅れる。
そんなこちらの反応など気にすることなく、宇佐美は踵を返してドアの取っ手に手を掛ける。
「では、お願いします」
「あ、ちょ、宇佐美主任」
パタン、と無慈悲に閉まる扉を眺めて、ため息を吐く。
せめて何時間とか、この子の親とか……いや、何時に終わるかなどギャンブラー次第な面も大きいので無駄か。
親の詳細なプロフィールなど、VIPの情報はそもそも知らされていない可能性も高い。
視線をやれば、子どもは真っ直ぐにこちらを見上げていた。
大きな薄茶の双眸に、自分の顔が映っている。
困惑か。苛立ちか。或いは………
「………アンタ」
その、自分の姿を見下ろしたまま。声に出せば、「はい」と礼儀正しく応える声が響く。
子ども相手に「アンタ」でよかったか?そんなことを数秒だけ考えて。
とりあえず今はいい、と結論付けて……問いかける。
「名前は?」
せめて、それくらいは分からないと話にならない。何時間かは知らないが、しばらく共に居ることは確かなのだ。
「カズマ」
高い声が、自らの名前告げる。
誰かの口真似だろうか?やや辿々しい説明が、その後に続く。
「かんすーじの「イチ」に「マコト」で一真です!」
***
友人がいた。
………友人と、呼びたかった男がいた。
今から1年くらい前。そう、ちょうど、今頃。
地下に落ち、オークションで伊藤班に買われた。ギャンブラーを取っ替え引っ替えしながら、試合に勝ち続けていた。
あの時、何人も担当したギャンブラーの中で……覚えていたのは、叶さんと天堂さんくらいで。
ただ「はい」と頷いて。誰かが頭の中で囁く「無能」という声と……常に自分を安心させる、伊藤主任の命令だけが聞こえていた頃。
昨日、何をしたかさえ忘れてしまうそんな時間の中で……唯一、ひどく穏やかで緩やかで、嘘みたいに自然と、語り合えた夜の時間。
仕事から帰った自分を常に迎えてくれた、穏やかな笑みと、名前を呼ぶ声を、覚えている。
13日間。
……たった、13日間だけ共に暮らしていた「らしく」ないギャンブラー。
名前を 星一誠 と、言った。
***
「みた……ら、いさん」
高い声に呼ばれ、視線を降ろす。半歩遅れて隣を歩く子どもの頭が視界に入る。
あの主任との会話だけで、こちらの名前を把握したらしい。
歳の割に聡明だと、些か感心する。だが、長いのか文字の羅列の問題か、若干の言い辛さを感じているようで。
黒い頭を見下ろしながら、数秒、黙考。
「暉」
「え?」
「アキラ、でいい」
特段、深い理由があったわけではない。ただこの子どもが呼び辛そうなので、三文字の(そして音自体は割とメジャーな部類に恐らく入る)名前の方が、呼びやすかろうと。ただ、それだけだ。
言われた子ども……確か“一真(カズマ)"と名乗っていた……は、不思議そうな顔で足を止めた。
「あきら?」
「御手洗暉。僕の名前だ。だから、アキラでいい」
「………あきら」
「……」
「あきら、さん?」
「何でもいい」
「じゃ……えっと……」
しばらく、間が空く。それほど真剣に考えることか?と、思いはするけれど口にはしない。
待つともなしに待っていれば、小さく「あきら……?」「あきらさん……」「あきらちゃん……?」と呟く声が聞こえてくる。可能であれば、最後の一つは遠慮したい。
「あきらくん」
「…………」
「あきらくん、で」
そう言って満足気に笑う顔を眺める。
あきらくん。
自分をそう呼ぶのは……呼んだのは。家族以外では、叶さんと……
「あきらくん?」
「……あ?」
「どうか、しましたか?」
「………………いや」
首を振り、歩き出す。
軽い足音を聞きながら、「ついでに……」と口に出す。
「敬語の方がいいか?やっぱり」
「……けーご?」
「アンタみたいなしゃべり方」
大きな薄茶の目が、何度か瞬く。よくわかってなさそうに、「えっと……」と続く。
「今みたいなのが、いい、です」
「わかった」
それで良いのなら、自分は楽だ。
仕事中は敬語でそれが自然だが、子ども相手にどこまで畏まるべきかの判断がつきかねた。
通常の、大人のVIP相手と思えば良いのかもしれないが……それはそれで……
「あきらくん」
「ん?」
「どこ、いきますか?」
「とりあえず、部屋」
いつもの、御手洗が仕事をしている四課の部屋だ。
子どもが過ごすのに快適なのかは分からないが、少なくとも、他班の人間など余計な邪魔は入らない。
或いは誰かに一真を任せることも……いや、頼まれたのは自分の筈なので、それはやめておこう。
ちら、と横目で見れば、一真は歩きながらこちらを見上げていた。
子どもらしい、あどけない表情。いや……?よく見ると、若干、眉が下がっているような気がする。
「どこか、行きたいところあるのか」
面倒を見るのが仕事なのであれば、多少の外出は問題ないだろうと解釈する。
VIPが日頃どのような場所で過ごしているかの知識はないが、何がかかろうと経費で処理すれば問題ない。
「……え?」
「無いならいい」
「……ない、です」
敢えて何も返さずに、歩を進める。
どう見ても「ない」表情ではないことは、わかっていた。
けれどそれを引き出す能力も、聞き出す方法も、持ち合わせがない。
二人黙したまま、ホテルを抜けて銀行に入り、廊下を歩く。
「……ここ」
「はい」
ドアを開け、一真を招き入れる。部屋には、誰もいなかった。
それぞれギャンブラーへの面会か、今行われている試合の立ち合いか、会議か……説明が面倒ではあるので、好都合ではあるかもしれない。
自分の席に子どもを座らせ、奥の冷蔵庫へと歩み寄る。
開ければ、チョコや酒の缶瓶や食べかけのピザや梅干し、おつまみ、冷ややっこ……班員がそれぞれ好きに入れた雑多な庫内が目に入る。
「何か飲むか」
これくらいの子は何を飲むのか。
お茶?水?子どもの定番と思われるようなりんごジュースやオレンジジュースは、生憎と無かった。必要ならば、買いに出るしかないが……
「のみます」
軽い足音を立て、一真が冷蔵庫に近づいてくる。背伸びして覗き込むようにする様子を見守りながら「好きなものを選んだらいい」と促す。もちろん、酒以外。だが。
「すき……」
「……」
「えっと……」
選択肢は、それほど多くはない。
だから迷う必要はあまり感じられないが、急かす理由もあまり無く。
しばし冷蔵庫のドアを支えた姿勢でぼんやりしていれば……小さく「あれ」という声が聞こえた。
小さな手の人差し指が、真っすぐに、冷蔵庫の一点を指す。他の飲料に紛れるように一本だけ立つソレ。
緑の、スチール缶。
白抜きの、7のロゴ。
「……これ?」
「はい」
腕を伸ばし、セブンアップを手に取る。
つるり、とした缶の表面は当然ながら冷たかった。
冷蔵庫を閉めながら「飲んだことは?」と尋ねると「ない」と返答。
「でも、これ、よめます」
「読める?」
「はい。"せぶんあっぷ”」
セブンアップ。
7はそのまま数字なので、UPを読んだということか。いや、そもそも「7」がセブンだと知っているのか。
最近の子どもが、どのくらいの英語を身に着けているのか、生憎と知識も知る機会も無いが……賢いのだろう。おそらく。
そのまま缶で飲ませることも考えたが、この年齢で炭酸を1本飲み切れるのか、なんとなく怪しいと直感で感じる。だから、グラスを適当にいくつか出す。
何色?と訊ねれば、数秒後に指がまっすぐ差したのは、青いグラスだった。
適当な量を注いで手渡せば、恐る恐る……という様子で口づける。
「おいしい」
「……そうか」
「でも、シュワシュワします」
「炭酸だからな」
残った缶を軽く振ってみれば、半分ほど入っていた。
しばし悩み……口付ける。流し込むように飲めば、舌と喉でシュワシュワと泡が弾ける。
レモンライム味(無果汁)。
これを飲むのは、約1年ぶりだ。
「さて……あと、何時間だろうな」
特に意識するでもなく、呟く。
試合開始から、まもなく1時間というところ。ゲーム内容にもよるが、おそらく……
「あきらくん」
「ん?」
「ボク、ここにいて、だいじょうぶですか?」
問われ、考える。
目下、急ぎの仕事はない。真経津さんの試合はいつあるか読みきれないところはあるが……明日、となることは無いだろう。それに今、取り急ぎ、調べる必要のあることもない。
それに、一真は手がかかるタイプでも無さそうだった。もちろん、比較材料などないので主観にはなるが、会話もそつなくキャッチボールとなっており、わがままを言う様子もない。
つまり……
「問題はない」
そう、何もない。
だからそのまま告げてやれば、「そうですか」とホッとする。
「何か、したいことはあるか」
問えば、再度、大きな目が不思議そうに瞬く。
子どもが何で遊ぶかなど知るはずもないので、本人に希望してもらうしかない。
もちろん、夢の国に行きたい!とかロボットに乗りたい!は困るが……いや、或いは……?
「したいこと……?」
「そう。何か、ある?」
「……」
尋ねてみるも、返事はなく。
その、どこか回答を探すような目を……それに、似た表情を。見たことある、と。何故か、そんな気がした。
***
いつも、覚えているわけではない。
そう何度も、思い出す時間があるわけでもない。
考える余裕も余韻も、それほどあるわけもなくて……それでも、もう、「忘れて」いなかった。
彼と。
その、ギャンブラーと。「友人」と呼びたかった男と過ごした日々は、忘れたままにするには長過ぎたから。
「アキラくん」
「あ?」
「フラペチーノ……て、何です?」
「何?何って……何だろうな」
「美味しそうではあるんですが」
「調べたら分かるだろ……フラッペとカプチーノを組み合わせた言葉だってさ」
「FrappéとCappuccino……Frappuccino?」
「なんかそれっぽい発音だな。甘いし、好きなモノ選んだらいいんじゃないか?」
「……『好き』……ですか……」
その時の、考え込むような……『好き』という言葉の意味を、己の中に探すような顔を。今でも、なんとなく、覚えている。
***
パチ、と軽い音を立てて黒を上にしたコマが盤上に置かれる。
2秒程考えて。手に持っていたコマを、白を上にして置く。挟まれたコマを5つひっくり返す。
「あ!」
驚いた声に様子を伺うと、向かいの一真はすぐに表情を引き締めた。
大きな薄茶の目が、真剣な光を宿して盤上を見つめる。
「……ココ、にします」
「いいのか?」
「はい」
頷きながら、コマを3つひっくり返す。それを待ってから、御手洗はコマを置いた。
「じゃ……僕はここ」
「ああっ!!」
さらに大きな声が上がる。
盤上は、一気に白が優勢となった。
「うーん……」
「今の場所は、僕が有利になるな」
「そうなんですね」
子ども相手に大人げないか?と、もちろん想いはする。
けれど、手加減せず本気で勝負したい、と願ったのは一真自身だった。それを無碍にするのは、許されないことだと予感があった。
だから、敢えて手加減せずに。考え考えてコマを置く一真を見ながら、白を置く。
徐々に……終盤に向かうほど勢いよく。白が領地を拡げていく。
「んー」
「……」
「ここ」
「ん」
「あ、ちがう。ちょっとまって!」
「待ってはなし。だ」
「あー!」
……望まれた通り。手加減は、しなかった。
結果。
14vs50で御手洗の圧勝となった。
「ありがとうございました」
「ん。ありがとうございました」
丁寧にぴょこんと頭を下げられるのに、同じく返す。
「強いです。あきらくん」
「そうでもない」
僕より強い人はいくらでもいる。そう言ってから……「でも」と続けた。
「強くないと、誰かの強さはわからない、かな」
「え?」
「初めてだろ?」
「……はい」
こくり、と頷いて肯定を示す。
何をするか悩んでいるところに、オセロ一式が目に入った。やることもないし、と始めたが、ルール説明から開始することになった。
「でも、僕に本気で相手をして欲しかったんだな」
「はい。しょうぶは、ぜんぶ、ホンキとホンキで戦いたいです」
「ナルホド」
コマをかき集め、半分に分ける。
「どうする?もう1回……」
「やります」
「ん。そか」
半分に分けたコマを手渡して、小さく笑う。
時間の限り、付き合ってもいいと。いつの間にか、そんな風に考えていた。
***
「では、ここ。で、どうでしょう?」
「ん……?」
「ボクも学習していますよ」
「むしろ、マスターするの早すぎだろう。色々と」
「そうです?」
「めっちゃ器用だな」
「……ありがとうございます」
「でも、この勝負はまた僕だ」
「ほう?」
「僕だって、そう簡単には負けてやらない」
***
「さて。次は、何をする?」
12回目のオセロを終えた頃。さすがに満足した様子の一真に、御手洗は尋ねた。
結局12回の勝利と12回の敗北をそれぞれ味わうことになったわけだが、子どもの顔に不満げな様子はない。
むしろ、借り物の紙とペンを手に、御手洗から教わった三目並べをひたすら1人紙に書き続けている。
次回は勝つ、と、言葉にする以上に伝わってきた。
……「次回」が、あるかはわからないが、それはもちろん言葉にしない。
「何か、したいことは」
「え?え、と……」
ゆるり、と、小首を傾げる。
薄茶の目を瞬き、考える仕草。形の良い眉が下がり、どこか困ったように笑う。
「……何か、あるなら言っていい」
「え?」
「僕に叶えられるかの保証は無いけどな。望むことがあるなら、言った方がいい」
「言った、ほうが……」
俯く。それほど、難しいことなのだろうか。よくわからないが、こらくらいの年齢ならば、むしろやりたいことばかり主張するものでは無いのか。
「それ、癖か?」
「え?」
「人差しゆび」
ふと指摘すれば、不思議そうに目を瞬く。その双眸の間に当てられた、細い人差しゆび。
今日、何度か見た仕草のような気もする。
「あ、いえ……うん」
「そうか」
別に、それならそれで構わない。ただ、何故か……そう、何故か、何かが気になっただけで。
「それで、どうする?」
「あ、えっと……」
きゅ、と。膝の上で小さな手が拳を握る。口が何度か開かれては閉じて、言葉を探すように。
「ぼく」
「うん」
「海が、みたいです」
「海」
思わぬ回答に、おうむ返しに単語だけを落とす。
海。
確かに、そろそろ暑くなってくる季節であり、海には良い気候かもしれない。
御手洗自身、街中でポスターを見かけた日には「海でも行くか……」と、やや逃避気味に考えることはあって。
「車で、どれくらいだったかな」
そもそも、遠出して問題無いのでだろうか。なんせ、彼の両親に確認をとる方法はない。
正確な時間は分からないとは言え、そろそろ試合は終わりに差し掛かる時間だ。
いや、それから許可を取れば或いは……だがそもそも、自分の仕事は、試合が終わるまでの子守の筈だ。
「……海、好きなのか」
問い掛ければ、こくり、と頷く。
「すき……です」
青いから。
続けられた理由に、なるほどなと笑う。
「でも、とおいから、無理ですよね」
御手洗の懸念を正確に読み取ってくるのに、聡明な子だと再度感心する。
「そうだな……」
ココで嘘を吐いても無理やり連れ出しても、おそらく、聡いこの子は満足しないだろう。
だから、考える。
車では遅い。電車やバスは論外だ。となれば……
「あきらくん?」
「あ」
「え?」
「…………飛ぶか」
「え!?」
ポカン、と見開かれる目が、あまりに歳相応に見えて笑う。
そう。これで、この顔で、良い筈だ。
「こっち」
部屋を出て、歩き出す。
スマホを取り出して、念の為、宇佐美主任に一報を入れてから、電話をかける。
相手がどんな反応をするか……読めなくとも、恐らく罵声から始まるだろうことだけは、妙な確信があった。
***
「クソバカゴミカスクズ」
「声に出てるぞ」
「出してるんだよ!」
前から響く声にツッコミを入れれば、ヘッドホンを通じて即座に切り返された。
隣に座る、一真の目が丸くなる。
「クソ、なんで俺が」
「あとで、一真の両親にでもチケットもらえよ」
「俺から請求できると思うなド低脳!」
怨嗟を撒き散らしながらも、周防要の操縦は正確だった。
狭い内部を、轟音が満たす。
「僕は、ホテルのヘリを飛ばしてくれと言ったんだ」
アンタに操縦を頼んでない、と言外に告げれば「クソが!」と吐き捨てる声が飛ぶ。
「お前がVIP同伴などと言うからな!」
「VIPだぞ。立派な」
「あ、いえ、ぼくは……ごめんなさい」
「お気遣いなさらず、カズマさま」
切り替えの早さに感心する。
服装か、何か。どこからの判断かは分からないけれど、一真がVIP側の人間であることは、疑っていないようだ。
「後ほど、ご両親に私めのことをお伝えください」
「はい……すおーさん」
「すおう、と呼び捨てで構いません」
さすがに、態度が違いすぎないか?と、御手洗の頭に不満は過るが、即「仕方ないか」と思い直す。
日刊・周防要にされるかもしれない、という恐怖を味わわせことは、そうそう、チャラになるまい(御手洗自身、特にチャラにする努力をした覚えもない)。
「あきらくん」
「ん?なに」
「おい、言葉!」
「ありがとう」
「ん」
ヘリは街中の空を飛び、一路、海へと目指す。
窓の外、視界の下を、ビル群が埋め尽くす。
「言っとくが、降りる場所も時間も無いからな」
「ああ。構わない」
「だいじょうぶです」
海が見たい。それが、一真の願いだった。文字通り「見る」だけにはなるが、ヘリであればそれは可能だった。
時速190km。新幹線よりは遅いが、車よりは速い。更に言えば空には道が無いので、もっと近い。
「あきらくん」
「どうした?」
「おい、だから言葉!」
周防のツッコミはとりあえずスルーして、隣へと視線をやる。
一真は窓の外を見ており、表情を伺うことはできない。「あきらくん、怖いものってありますか」
「ある」
それはもちろん、色々と、ある。
目標のため、夢のため。あの人の後ろに立ち続けて全てを見るため。色々と、超えてきた。
恐怖を感じたことなど、両手の指でも恐らく足りない。
「ぼくは……ぼくにも、あります。こわいもの」
それ何なのか、を、彼は口にしない。
VIPのことなど、御手洗は知らない。だから彼を取り巻く環境も、これから超えるべき未来も、想像さえたやすくできない。
ただ……きっと。子どもらしく、子どものまま、歩ける道ではないのだろう。
「……」
「ぼくは“あととり”なんです。だから……」
だから。
だから?
「きょう、たくさん、「やりたい」「すき」がいえて、うれしいです」
「………ああ」
「ぼく、パパに、それ言うの、とてもにがてです」
「………」
くるり、と、一真は振り向く。
ガラスの窓に切り取られた青空を背景に、笑う。
「でも、もうすこし、いいたいです」
「ん。いいんじゃないか」
「お前、何を偉そうに!」
「あ!」
叱責に被さるように、高い声が響く。
窓の外を指差す、その目が輝く。
「海です!!」
その時の、一真の笑い方は。興奮して頬を赤くして、目をキラキラさせた、その表情は……初めて見るものだが、今日で一番、この子どもらしい顔だと感じた。
同時に。何か……誰かを、思い出すような、そんな気がする。
ただ。一度だけ、こんな風に笑っていた……楽しくて仕方ない、と言う顔を。ほんの一度だけ、見せていた男がいなかったか。
「…………似てる?」
「え?」
「いや」
不思議そうな顔に、首を振る。
そう、何度か。既視感はあった。
好きなもの、について考える時。オセロの癖。青が、海が好きだと言った時。
「……ぼくは」
「あ?」
「ぼくは、ぼくの、おじさんに似てるらしいです」
「おじ?」
叔父だろうか。伯父だろうか。
「とうさまの、おにいさんです。ぼくは、あったことは、ないんですが……」
耳の端でその言葉を聞きながら、窓に視線を移す。
視界には、青い空と、負けずに青い海が広がっていた。
キラキラとした水面が、目に突き刺さる。
「……そうか」
「おい、そろそろ戻るぞ」
周防の言葉に「任せた」とだけ答え、海を見る。
青が好きだった男のことを、ぼんやりと、考えていた。
***
どんな表情をしていたんだろう?と、想像することがある。
数週間ぶりに帰った、自宅のリビング。
合鍵と、タバコと、メモ一枚だけが載せられたテーブル。
丁寧な筆記体。「星に願いを」の、ほんの一節。
your dream comes true.
キミの願いは叶うでしょう。
なんで、そこに続く「星に願いをかける時」が無いんだよと考えて。
けれど、その理由は何となく想像がついていて。それも、とても、『彼』らしいと感じていた。
そう。
彼、だ。
自分が帰らなくなったあの家で、彼が何日過ごしていたのかを、御手洗は知らない。
どれくらい、待っていたのか。
どんな風に、1人過ごしていたのかも。
あれから一年が経ち……その日々は、色濃く、慌ただしく、痛くて、立っていることにさえ必死で。
だから、それほど、多く思い出す機会があったわけではない。ずっと、覚えていたわけでもない。
ただ、時々、想像する。
1人、ペンを手にしたアンタは……どんな、表情をしていたんだろう。
***
轟音をたてて、ヘリがホテル屋上へと着陸する。
ドアを開け、外へと出る。時刻は、もう夕方だった。
西の空から、赤い光が射し眩しい。目を細めるようにしてヘリポートを横切り、屋上庭園へ。
建物への入り口が視界に入る頃、ぴたり、と、隣を歩く一真の足が止まった。
視線の先。ドアの前に立つのは宇佐美主任と……若い男女。
彼らが誰か、を理解して。隣に視線をやれば、子どもの瞳は揺れていた。
夢の終わり。
そんな単語が、頭に浮かぶ。
「一真」
呼びかけるが、続かない。何を、言えばいいのだろう。……何なら、言えるのだろう。
いや。僕は、何を言いたいだろう。
ほんの、数時間共に遊んだだけの。そしておそらく、もう二度と会うことのない子どもに対して。
特にないフリをして……黙ってこのまま、小さな背を見送ることは、あまりにも簡単だけど。
(……あ)
でも、そうだ。
1つだけ……自分にしか、言えないことがある。一真のためとか、その将来の為とか、そんな大それた話じゃなくて。
僕にしか言えなくて、ちょっとだけ、今、喋りたいと思うこと。
久しぶりに……アンタのことを、思い出したから。
「欲しいものが……願いがあるなら。まずは、その足でちゃんと立て」
「足で……」
それは、4歳の子には難しい。
自分だって、明確に意志を持って、己の足で歩いていると思えるのは良い歳になってからだ。
散々落ちて、揉まれて、叩かれて、痛い目見て、繰り返して……やっと、今、たどり着いた場所だ。
だから、きっと、この子どもも忘れるだろう。
今日のことも、今の御手洗のこの言葉も。
それでも構わない、と。一つだけ、言葉にしたいこと。
「アンタの……一真のおじさんは、そうしていた」
「え?」
13日しか、共にいなかった。
それでも、この子よりは、知っているはずだから。
「一真」
正面から、女性が呼びかける声がする。
あと、数歩の距離。
一真の目が、両親を見る。その表情は、よく見えない。
「帰りましょう、一真」
「……いや、です」
声は……ほんの小さな声は、それでも、確かに聞こえた。
「いや、です!」
繰り返す。
細い肩に、力が入ったことがわかる。
「ぼく、まだ、あそびたい、です」
微かな声。
こういった自己主張は、今まで無かったことなのか……明らかに、男女が戸惑った表情を見せる。
ちら、とこちらに送られる視線には、敢えて何も返さない。
「一真」
ドン、と。
大きな音が聞こえたのは、男性が呼びかけたのと同時だった。
パっと、空が明るくなる。屋上庭園の木々が照らされる。
「?」
一同、思わず空を振り仰いだその先で……空に咲く、満点の花。
空一面に大きく咲いて。そのまま、溶けるように散って、落ちる。
「……花火……」
呟いたのは、誰の声だったか。
ドンドン、と。規則的に音は続く。
その度、色とりどりの花が、都会の空に大輪に咲く。
「……」
くす、と。
隣から、笑う気配がして顔を向ける。
夜空を見上げた一真が、今日一日であまり見たことないような……歳相応ではないような。そんな表情で笑っていた。
心なしか、何か、満足しているようにも見える。
きれいですね……と、唇だけが囁いて。
ふと、人差し指が動く。何度か見た、目の間に当てられ、すぐ離れる仕草。
「とうさま」
「ん?」
「かえります」
「……そうか」
一真が、一歩を踏み出す。
父と、母の間に収まる位置に歩き出す。
かける言葉なく見ていれば……くるり、と。その背がふりむいた。
「アキラくん」
呼びかけられて、初めて。
先ほどの人差し指の動きが……何度か見た『癖』が、何の動作かわかった。
そう。“そこに無い眼鏡を、指で押し上げるような”。
「キミに、逢えてよかった」
言い残し、両親とともに一真は建物内に姿を消した。おそらく、迎えが来ているのだろう。
屋上庭園には、御手洗と宇佐美と、いつのまにか追いついていた周防が残る。
花火は、まだ続く。
「御手洗くん、ご苦労様ですね」
「あ、はい。宇佐美主任」
呼びかけられ、素直に頷く。
明らかに世話を押しつれられた一日だが……たぶん、そんなに、悪い日ではなかった。
「周防くんも」
「とんでもないことでございます」
おい、だから態度が違い過ぎないか。
一応、同じ行員だし同じ班だぞ。上司だけど。
「御手洗くん、次の試合が決まりました。真経津晨へ連絡を」
「え!?あ、はい!」
「頼みます」
それだけ言い置いて、宇佐美は屋上を去った。その背を追うように、周防も背を向ける。
「じゃーな、クソボケゴミカズクズ。もう俺を呼ぶな」
「そもそも、今日だって呼んでいない」
「クソが!」
おい、誉れ高き特5エリートどうした。
エリートさもエレガントさも完全にかなぐり捨てたような荒々しい足音が遠ざかるのを聞きながら、スマホを取り出す。
真経津へと会いに行きたい旨を連絡するも、既読はつかなかった。
あの人のことだ。寝ているか、ギャンブラーたちと遊んでいるか、トルティーヤでも作っているか、また衣装を身に纏って花でも活けているか……駄目だ、何も検討がつかない。
けれど、ただ、楽しんでいるなら良いな。と、思う。
「……」
空を振り仰ぐ。
いつのまにか、花火は終わっていた。
暮れたばかりの、今はすっかり静かになった空を見上げ……ため息を、ひとつ。
さて、仕事を片付けて……今日は、何時に眠れるだろうか。
***
深夜。
ふと。誰か、人の気配を感じて目を覚ました。
目を開け、ゆっくりと上体を起こす。
ベッドの脇に立っているのが誰か。顔を見ないでも、知っていた。
そのままベッドに腰かけ、視線を向ける。
そうすれば『彼』は……困ったように。けれど、面白がるように、笑ってみせた。
「なぁ」
呼びかけるが、返事は無い。
けれど聞こえてないわけではないようで。ゆるっと、小首が傾げられる。
何度か見た仕草だよな。などど、考えて。ベッドの下に放り出してあった通勤カバンから、あるものを取り出す。
二つ折りになっているそれを開き……白と黒の駒を、取り出して。
「オセロ、しないか」
声をかければ、すっと近寄ってくる。ベッドに並ぶように腰かけるも、シーツは少しも沈まなかった。
そのことが『何』を示しているか……とっくに分かっている事実を、今は考えないことにした。
コマを半分差し出せば、不思議なことにそれは触れたようで。
それぞれ2枚ずつ中央に並べて、準備を整える。お願いします、と声には出さずに目だけで示す。
コマを1つ手に取り、御手洗は盤に置く。2人のオセロは、いつも、御手洗が黒だった。
パチっと軽い音を立てて、白が置かれる。ふと視線をやれば、フレームレス眼鏡越しの眼差しは真剣で。……楽しげで。変わってないな、などと思わず考えて。
「なぁ、一誠」
黒を置きながら、名前を呼ぶ。
さいごに直接呼びかけたのは……ああ。そういえば、いつだったんだろう。
返事はない。けれど様子から、こちらの言葉が伝わっていることはわかった。
白が置かれるのを待ってから、言葉を繋ぐ。
「アレ、アンタだろ」
言ってやれば。困ったように……面白がるように。或いはそう。小さな子どものように得意そうに、唇の端が上がる。
「1回目と5回目と6回目のオセロの、手番26と18と28。アレを置いたのはアンタだな」
「………」
「癖が完全にそのままなんだよ。ミスの仕方も。その時の『ちょっと待って!』も。そのまま、僕の覚えているアンタだ」
「………」
「あと。『イヤだ』と言ったのと。それと……」
それと。
キミに逢えてよかった。
「霊?とか?乗り移る?とか、あるのか?」
全く詳しくない方面の単語を並べる。幽霊だとか心霊だとかに、興味を持ったことは一度もない。
当然ながら、今日1日の不可思議も今目の前に居る男のことも…………オセロをしている『現在』も説明などできないし、想像も理解も及ぶ筈もない。生憎と、まだ死んだ経験も無い。
「何か、言ったらどうだ?」
パチっと、黒を置く。5枚をひっくり返す。即、白が置かれる。6枚が白になる。
話せないのか?と思うも、どうも……表情を見る限り、オセロが楽しくて集中してしまっているだけのような。そんな気がする。
「一誠」
名前を、呼べば。
コマを手にしたまま、小さく笑って顔を上げる。薄茶の目を、ゆっくりと瞬いて。
「……」
待っていれば……男の口は動かなかったけれど。声が、聴こえた気がした。
言ってみたかったんです。
「何を」
嫌だ、って。
一度でいいから、思いっきり、何も遠慮することなく……「嫌だ」と、言ってみたかったんですよ。
「…………言えば、よかっただろ」
反射的に、それだけを口に出す。機会はあっただろう、いくらでも。そう、口にしかけて途中で止める。
何も答えになっていない。今、僕が訊いているのは……いや、いいか。
どうせ、聞いたところで理解できる筈もない。それなら、これ以上回答を求める必要もない。
それに。そもそも、だ。
「そもそも、幽霊なんか居るもんか」
声に出せば、目の前の切れ長の薄茶の目がまん丸になる。思ってもないことを言われた……と、そんな顔。
次いで、ハハっと。楽しそうに。声こそ無かったけれど心底おかしそうに、表情が崩れた。
アキラくんらしい、と。言われなくても何を言いたいのかわかる顔。
わかりやす過ぎるだろ……と、少しばかり呆れてしまう。
敢えて、伝えたくてのその表情なのか。或いは……
「まぁ。僕も、あの頃よりは、見えてる筈だからな」
1年間。
真経津さんの後ろに立って、何人も、見た。
自分の足で立って、見続けること。他者を見続けること。見続けて認めること。
だから……
「……」
黒を置く。4枚をひっくり返す。
後半に近付くにつれ、少しずつ、黒い陣地が増えていく。
オセロのマスは64個。最初に4つ埋めるから60個。
だから、あと……
「一誠」
細い指先が白を置き、3枚ひっくり返すのを見るともなしに見ながら呼びかける。
返事は無い。
けれど、もう気にならない。
「僕、朝になったら忘れていると思う」
正直に、告げる。
「だって、こんなの夢みたいなものだろ。いや、夢だろ」
死んだはずの男がいて。深夜で。オセロして。
夢以外、他に何だと言うのだろう。
いつも、夢は見ない。いや、朝目覚めた時に覚えていることはほぼ無いので、結局は見ているのか見ていないのかも分からない。
でもそんなのは『無い』とおんなじで。
だから……起きた時に、覚えているなんてとても思えない。
けれど。たぶん、それで、いい。
「あと、5枚か」
白が置かれる。2枚ひっくり返る。
あと、4マス。
くすり、と。堪らず……と言った様子で笑う声が聞こえる。
こんなに、笑う男だっただろうか。
「……なんだよ」
黒を置く。6枚ひっくり返す。
あと、3マス。
僕だって、色々あったんだよ……言いかけて、言葉に出すのはやめておく。
いくらでも愚痴も苦労話も出るけれど。あの13日間に、食卓を挟んで、拵えてもらった夕飯を食べながら深夜に語っていたことを覚えているけれど。
丁寧に箸を操る所作も、頷く仕草も、確かに、記憶にあるけれど。
今のこれは、夢だし……セブンアップが、ここには無いし。
白が置かれる。3枚がひっくり返る。
ああ、アンタいつもそこ置くよな……今日の昼もそうだったけど。癖って変わらないものだな。
少し、呆れて見てみれば、男の眉が下がる。レンズ越しの薄茶の目は、なんだろう。今は読み取りにくい感情を乗せていて。
あと、2マス。
「……?」
手持ちの、最後の黒を置く。3枚ひっくり返す。
あと、1マス。
この時点で、決着はついていた。けれど、置かないなんて認めない。
視線で訴えれば、理解したようで。はいはい、というように肩が竦められる。
白い指先が持ち上げられ……最後の、白を置いた。
「僕の勝ちだ」
宣言し、視線を上げれば。
お約束のように……そこに、男の姿は無かった。
ただ二人の間とも言える位置に、36vs28のオセロだけがあって。
「一誠」
誰も居ない部屋に、呼びかける。
何か言っていけよ、と愚痴ってみるけれど……これは、夢なので。言ってみても仕方がない。
けれど、アンタも一度くらい、僕を呼んでもよかったんじゃないのか。
あれから、もう、その5つの音だけは忘れていないのに。
アキラくん
文字にすると、一真と同じ。
けれど……発音が違う。『くん』が、違う。
少しだけ、跳ねる。一誠独特の……ほんの少し、スタッカート。
「……ふあ」
大きく、欠伸する。
オセロ板をそのまま適当に棚の上に移し、ベッドに横になる。
朝になったら、また仕事だから……時間通りに、夢から覚めないと。
***
「せめて、何か言ってからいなくなったらどうだ」
夢の中。誰も居ない、虚空に言った。
「すみません……」
誰か分からない、声だけが答えた。
「まぁ、夢の世界なんて、そんなものか」
「そんなものですか」
声だけの気配は、おかしそうに笑った。
「いいよ、だから」
でも、言いたいことがあるなら言えよ。と、言った。
「そうですね……『キミのままで、あってください』」
***
目を開ける。
ぱちぱち、と瞬いてから、御手洗暉は身体を起こした。
枕元のスマートフォンを手に取れば、時間は午前4時半。さすがに、起きるにはまだ早いと言える。
寝直すか、と考えて。その目が、窓をとらえる。
カーテン越しに、うすく、陽が挿していることに気が付いて。
「……」
スマホを握りしめたままベッドから降り、廊下を抜ける。リビングに入り、ベランダへ。
窓を開け、外に出る。
この時間独特の凛とした空気が、肌に触れる。
遠く。東の空がゆっくりと明るくなっていく。紫がかる空。滲む、白い陽。
「夜明けか……」
囁いて。
ちり、と微かに。その脳内に掠めた何か。
覚えていない。けれど……何か、夢を、見ていた気がする。
そのままもしかしたら思い出せるのではないかと考えてみるけれど……そうすればするほど、瞬いたそれは遠くに逃げていくようで。
徐々に焦点をなくし、薄れ……なので、諦めた。
短く、息を吐く。
不意に、手の中のスマホが震える。
ボタンを押し、端末を耳に当てた。
「はい。御手洗です」
「あ、御手洗くんー。おはよー」
「おはようございます、真経津さん」
こんな時間なのに、電話の相手の声ははっきりとしていた。
午前5時……いやこの人相手に、一般的な電話の時間を問う意味は、たぶんきっと、まったく、無い。
「さっきメッセージ見たよ。試合決まった?」
「はい。つきましては詳しいお話を……」
「いいよー。今日は、昨日からみんな泊りに来ているから明日ね」
なるほど。それで電話の向こうから、何人かの寝息のようなものが聴こえているのか。
「昨日は第3回たこ焼き大会だったんだ。でもタコに飽きちゃったから具材をみんな自由にしてさ」
「そうなんですね」
「天堂さんはキャラメル入れちゃって。叶さんは映えって言って桜てんぷら??ピンクの粉入れて……」
桜でんぶかなたぶん。僕も原料はしらないけれど。
「獅子神さんの竹輪と村雨さんのイカは美味しかった!」
真経津さんは何を入れたんですか?とは、怖くて聞けなかった。
「……そうですか」
頷きながら、目を細めるようにして東の空を見る。
すっかり姿を現した太陽の陽に、これから本格的に暑さを増す夏を想う。
「では、真経津さん。明日、お伺いします」
「はーい。お待ちしてまーす」
通話の切れた端末を握りしめる。
昨日はあまり仕事が進まなかった。そして明日は真経津さんに会いに行く。だから、今日は少し早めに行ってもいいかもしれない。
試合が終わる頃には本格的に夏だろう。海でも、行くか。今度は飛ばずに(どうせヘリコプターは飛ばしてもらえない)、自分の足で。
「あ……そうだ」
視線の先。取り残されたように控えめに瞬く、一つの星。それを見上げて、思い出す。
昨日、飲んでしまったからまた1本、セブンアップを買いに行かないと。
友と呼びたかった……いや。友の、誕生日がくるまでに。