いつものように墓を手入れしに来ていた。
墓地に足を踏み入れれば、いつも見かける人が墓参りを終えて帰ろうとしていた。名前も知らない顔見知りに挨拶し、先祖のもとへ向かう。
水を汲んできて、荷物を降ろした。
飛んできていた葉っぱや花びらを拾う。申し訳程度に墓石を磨く。打ち水をして、新しい花と水を供える。
この墓に入った人たちのことはよく知らない。好きで世話しているわけではない。親の怪我やら親族の死やらでお鉢が回ってきただけだ。だから好物を供えるなんて気の利いたことはできないし、並べたお菓子もありあわせのもの。
線香に火をつけ、墓石に向かって手を合わせた。
この一連の流れと墓地で会う人は、私の人生に染み込みつつあった。知らないなりに彼らのことを考える時間もできた。
私が去るころにはすでに、新しい花びらが墓石に張り付いていた。墓地の隅にある藤棚から飛んできたのだろう。ちょうど花が咲く時期だ。
藤棚の下にはベンチがあった。時間帯によっては井戸端会議の会場になる。
今は昼食時だし、こんなところでピクニックをする人もいないだろう。そう考え、そちらに一歩踏み出した。
目的のベンチには先客がいた。
右目を眼帯で隠した、見知らぬ青年。
大した荷物は持っておらず、私のように掃除に来たわけではないようだった。墓を見るでも花を見るでもなく、ただ宙を見つめていた。
歩き出した手前、立ち止まることができなかった。そのまま藤棚の陰に入り、ベンチの左端に座った。
非常に居心地が悪い。少し休憩しようと思っただけなのに、なんだってこんなことになるのか。溜息すらつけない、窮屈な時間だ。
この青年が何をしに来ていようが、私の知ったことではなかった。ただ、どこか浮世離れした様子に妙な違和感があった。今考えれば私は、彼をよそ者として警戒していたのかもしれない。
墓地の近くを通る人も皆、この青年を無視していく。遠いのか、知らないのか、視界に入っていないのか。あるいは、私以外に見えていないのではないか。
そんな自分の心を読んだかのように、青年が視線をこちらに向けた。自分の非現実的な疑いを、排他的な感情を見透かされるようで、恐ろしかった。
ぎこちなく会釈をすれば、彼は同じように首を動かした。
そのまま沈黙が続くかに思われた。
「あの」
青年が口を開いた。
「……なんでしょうか」
「他人でもお墓参りって、していいと思いますか」
私は墓参りの詳しい作法なんて知らない。隣の墓にすらしっかりと手を合わせたことはないし、他人の墓に挨拶して回る人なんて今まで出会ったことがない。無礼なことをした覚えはないが、何が無礼に当たるのかはわからない。そもそもどうして知らない墓地に来たんだろうか? この人は何を考えているのだろうか?
「すみません、突然」
私が考え、黙り込んでいるうちに、青年はうつむいてしまった。
「いや……」
何と取り繕おうかと思って必死で考える。目線が泳ぐ。そのうちに見えた彼の横顔が寂しそうに見えてきた。暖かくなってきたというのに、白っぽいシャツが冷たそうに、寒そうに見えた。
何か言わなければ。焦りが先んじて、考えがまとまる前に口を開いてしまった。
「バチは当たらないんじゃないですか、線香あげるくらいだし……、私もお供え物はお粗末なものですし」
また青年がこちらを見た。
「悪い霊とか……いないと思うし。供養されてるわけですから、その……」
私がしどろもどろになって喋るのを、彼は黙って見ていた。
やや黙ってから、彼は「ありがとうございます」と言った。表情は変わらなかったが、寒さが和らいだ気はした。
そんな会話をしたものの、やはり彼は何も持っていない。ポケットにも、線香の入るような余地はなさそうだった。
「これ、使いますか」
線香の箱を取り出して見せると、彼は「いや」と言って立ち上がった。
「いらない……です」
「そうですか」
箱をしまいなおす私を置いて、青年はゆっくりと歩き出した。
彼は墓石を見て回り、一つの墓の前で立ち止まった。そこで手を合わせ、少ししてそこを離れた。去り際、すれ違ったお婆さんの挨拶に応えているのが見えた。
それから今まで、その青年を目にしたことはない。
彼は今、どうしているだろうか。誰かを偲んでいるのだろうか。全部忘れて、仕事でもしているだろうか。
5分も会話していないのに、あの出来事が思い出される時がある。また私の人生に、知らない人が焼き付いていた。