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    尾月「手を繋いで眠るような関係」

    ※鶴月・鯉月の匂いがする

    尾月「手を繋いで眠るような関係」 月島は、自分は成人するまで生きていないだろうと思っていた。小学校の社会科の授業で見せられた第三世界に暮らす子供と、ほぼ同じ生活をしていたから。面倒を見てくれる親はおらず、食事は学校給食頼り、夜は地べたに丸まって眠り、年中同じ服を着て、必要な医療を受けられない。痩せ細って背丈も小さく、腹だけ飛び出しているところも似ていた。違うのは、日本の公園にある水道水は飲めるし、恐ろしい病を媒介する蚊はいないということくらい。
     あの頃と今と、生活は一変した。
    「はあ……地獄みたいだ」
     前にいる尾形がスーツの背中を揺すった。レジに並ぶ長蛇の列でも、ここだけ妙に空いていると感じるのは目つきのせいだろうか。二人とも極めて真っ当なサラリーマンなのだが、年末需要で残業が続き、ここ半月は夜勤シフトのごとく残業に追われていた。おかげで二人とも『絵に描いたような人殺し』と上司に笑われるほど目つきが悪い。その上司も目がキマっていて『団結して乗り越えよう』とか言うから、やばい教祖みたいな感じがしていたけれど。
    「あーあ。先週食べきらずに少し冷凍しておけば」
     尾形はどこへともなくブツブツ呟く。月島は周囲の人々が押すカートやカゴの中身を眺めた。牛肉、豚肉、鶏肉、刺身、魚卵、海苔、ビール、日本酒……誰もが溢れんばかりに食べ物を詰め込んでいる中、尾形が持っているのはねぎ一本だ。
    「諦めればいいだろ」
    「ようやく仕事納めて休みにはいったのに、味噌汁啜って『ねぎがあればな』なんてがっかりしたくないでしょう」
     月島は言われて初めてそれは嫌かもしれないな、と思った。尾形に従い、大人しくレジに並び、なんとかねぎを買って家に帰った。
     ネクタイを外しながら手癖でテレビをつけると、赤金に飾られた派手なステージで、着物やドレスを着たタレントがご馳走を眺めて『美味しそう』と笑っている。チャンネルを変えても似たような番組ばかりだ。
     部屋着でボケッとしていると、味噌の匂いが流れてきて、尾形に呼ばれた。
    「月島さん、運んで」
    「おう」
     築浅の単身者マンションに二人で暮らしている。特に関係を隠してはいないが、社内で初めてその話をしたとき、誰もが『どうして尾形なんだ』と眉をひそめたり、苦笑いをしたりした。笑って流したが、月島も内心『まあそうだよな』と思った。
     尾形はけして付き合っていて気持ちの良い男ではない。意地が悪いし、空気を読まないし、こだわりが強く、自他に厳しすぎるきらいがある。現に『ガサツだから』とキッチンへの立ち入りを制限されているし、一緒に暮らしていて何度『それくらいいいじゃないか』と言ったか知れない。恋人関係になる時だって、向こうも『どうして俺なんか選ぶかな』と口に出していた。告白してきたのは自分なのに。
     今夜の献立は鯖の塩焼きと、大根たっぷりの味噌汁と、菜っ葉のおひたし、白飯だった。ほわあ、と立ち上る優しい合わせ味噌の香りに頬が緩み、皮の下で弾ける鯖の脂にぎゅっと締まる。
     卓に皿を並べて、隣り合わせで座る。尾形はいくつかチャンネルを回して、また「くだらんもんしかやってない」と文句を言う。よくもまあそんなにぽんぽん怒れるものだ。月島は自分の情緒にも、世間のことにも怒るほど興味を持てないというのに。尾形は有料のストリーミングサービスに接続して、マイリストから何度も見た映画を再生した。
    「いただきます」
    「いただきます」
     月島は箸を取って真っ先に椀を啜った。温かい。味噌は薄目で出汁がよく香る。細く刻んだ大根はしんなりと透き通り、甘い。
    「ん。美味い」
    「……」
     月島が頬一杯の大根を噛みしめている様を、尾形はジッと見つめた。
    「味噌汁、もう熱くないぞ」
    「いや。これでいいのかなって」
    「何がだ」
    「今日みたいな日は、普通は寿司とかすき焼きとか蟹とか、色々食うでしょう」
     尾形はまた面倒なことを考えているようだ。察して月島は食事を保留した。尾形は月島から目をそらし、何も無い床を見つめて自分の髪をなでつけた。
    「俺じゃなければ、そういう正月迎えられたのになって。鶴見とか鯉登とか」
    「上司を呼び捨てにするな。クセになると本人の前で出るぞ」
    「人の話聞いてます?」
    「聞いてるよ」
     月島は椀の中身を飲み干した。行儀が悪いのは分かっているが、どうしても好きなものを真っ先に食べたい。
    「……尾形。俺は馳走には興味がない」
    「あれだけ高級レストラン連れ回されてて?」
    「うん。フレンチとか懐石とか、むしろどこからどう食べればいいか分からなくて嫌いまである」
    「相手は気にしないでしょう」
    「そういう問題じゃない」
     月島は鯖の身を真ん中から割り解し、ふっくらと脂の乗った身を一口に頬張った。幾度か噛みしめてから、白飯を追っかけると、脳味噌の真ん中がほかほかする。
    「これこれ。こういうのが一番飯と合う」
    「安上がりだなァ」
     尾形は自嘲気味に笑ったが、月島はこの日常が安いとはけして思わない。
     真っ当な仕事、清潔な家、温かい飯、それを分け合う喜び。どれも子供の頃は思い描くことすら出来なかった。いくら金を積んだって、これら全てを揃えることは出来ない。特に、同じ価値観を持っているパートナーは。
     過去の話なんてしたことはないから、尾形がどうして自分と似た生活を好むか、理由は知らない。しかしこうして二人でいることは得がたい幸運だと思う。
    「尾形。俺はお前がいい」
    「そうですか」
     尾形はもう一度髪をなでなでしてから、ようやく箸を取った。ずずっと味噌汁を啜る耳がほんのり、本当にほんの少しだけ赤い。
    「……相性もいいしな」
    「……誘ってますよね?」
    「うん。めちゃくちゃヤりたい」
    「ははは、正直」
     二人で食事をし、狭い風呂に交替で入って、ベッドに入る。
     尾形は月島の欲しいだけをくれる。執拗にいじめても来ないし、自分勝手に欲望をぶつけて抱き潰しもしない。「かわいい」なんて、月島自身も意外な言葉が出る程度に必死になってくれる。
     それに何より。
    「おやすみなさい」
     明かりを消した後、尾形は布団の中で手を繋いでくれる。月島が子供の頃からずっと、心の底から望んでいたものを毎晩与えているだなんて、尾形は知りもしないだろう。
    「……おやすみ」
     月島は尾形がそっと重ねた手を指をからめて握り直し、まぶたを閉じた。
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