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    ※転生パロ?
    privatterからの移植

    #尾杉
    tailFir

    【年の差尾杉】人間一回目 ある時、俺はひとひらの葉の裏で眠る小さな節足動物だった。自慢……という概念は持ち得なかったが、己から伸びる八本の長い足が好きだったことは確かだ。長い足を繋ぐコンパクトな体も好きであった。俺は俺が好きだった。
     朝露を避けて眠り、夜が明ければゆっくり体を揺らしながら森の中を闊歩した。虫や木の実、なんでも食べた。まれに人間が落とすビスケットの欠片も食した。しかし食料が尽き、寒さにやられ、長い足が身体からぱらぱら外れるのを感じながら眠りについた。
    俺は自分が好きであったが、寝床も食料を溜め込む知恵もなかった。だから次はそれが欲しいと願った。

     ある時、俺は枯木の虚で眠る小さな脊椎動物だった。つやつやした暖かい毛皮が自慢で毎日何度も繕い、大事にしていた。安全で暖かい寝床まで一気に駆け上がれる足も好きだった。俺は俺が好きだった。
     木の葉や鳥の抜けた羽根を巣に持ち帰って暖を取り、苔から水を吸って木の実を食した。俺は油たっぷりの木の実が一等好きで、一年のほとんどをそうした食料集めに費やした。二年目の春にメスを巣に入れ、生まれた子供らのためにせっせと食料を集めた。
     そうして森を彷徨っている時、頭上からばさりと音がして身体にかたいツメが刺さり、血と共に意識が失せていくのを感じながら眠りについた。
    俺は自分が好きであったが、小さく無防備で身を守る爪も牙もなかった。だから次はそれが欲しいと願った。

     ある時、俺は檻の中で退屈する大きな脊椎動物だった。自慢の爪と牙と長い尻尾。大きな肩を振るえばどんな生き物も切り裂ける。毎日爪を研ぎ、大事にしていた。俺は俺が好きだった。
    以前は森に暮らしていたが、何者かに追われ、気がついたら妙な谷に閉じ込められていた。そこでは毎日二本足の毛のない生き物が、固まった水の向こうで口をパクパクさせたりジタバタしていた。反対側の穴蔵では、血のような匂いがする黒い石の隙間から二本足の毛無しが俺に死んだ獲物を投げて寄越したりした。最初こそ臭い石か固い水を切り裂いてやろうとか、壊してやろうとか暴れてみたが無駄だった。だから俺は日がな一日そいつらを眺めていた。日当たりは良いしいつでも綺麗な水がある。嵐も雪も敵もない。一日二回投げられる食事はまあ楽しくはないが、不便はなかった。
    飢えも凍えも怯えもしない生活は実際得難い。しかし季節が何度巡ったか忘れるほど代わり映えしない、退屈な場所だった。日向でぽかぽか、誰に見せるでもなく縞のある毛皮を舐めてみたり、木だか石だかわからん長い塊に登って寝てみたり、一人ぼっちで暮らしていた。俺には必要なものが全てあったが、とにかく退屈だった。
     やがて老い、息が苦しくなった。いつも隙間から声を掛けてきていた毛無しが俺の身体を撫でたり変な苦いものを呑ませたりずいぶん嫌がらせをしたあと、何事か呻きながら俺の喉元を優しく引っ掻いた。それが随分気持ち良くて、苦しみも忘れてゴロゴロ喉を鳴らしながら眠りについた。
     もしかして本当に足りないのはこういうものかもしれなかった。思えばこいつらはいつも手を繋いだり抱き合ったり、しょっちゅうくっついていた。全て持っていると思っていたが、”あれ”を手に入れれば、次こそ完璧になれるかもしれない。だから次はそれが欲しいと願った。



    ジャアーー

     鏡に映った顔は冬の冷たい水道水で洗われて白く、不気味な黒い瞳で見てくる。短く、無骨な五本の指でカミソリを繰って顎のひげを整える。これは”以前”好きだったひげを模している。俺の愛した短い幾つかの命のうち、もっとも記憶が近いトラを模した顎髭。最後に撫でられた髭だ。……それももう二十五年より前のこと。
    「ハァ」
     両顎の傷を撫でた。人間は身体が弱い。胃腸も弱いし、歯も弱い。身体能力も弱い。以前はぴょんと跳ね上がれば自分の何倍も飛べたのに、今じゃせいぜい膝の高さくらいだ。何かに逆さに張り付いてみたり、壁を昇ることもできない。妙に伸びた脊椎にくっつく個々のパーツは小さく細く進化し、細かい作業が得意だが少しぶつけただけですぐ骨が折れる。去年、階段から足を踏む外しただけで顎が割れた。毛皮がないから傷も丸見えだ。再手術すれば消せると言われたが、馬鹿馬鹿しくてやってない。それにこれはこれでまた髭っぽいのだ。
     
    ジャアーー  キュッ

     蛇口を捻って水を止め、タオルで顔を拭う。
     貴重な水を出しっぱなしで居られる己の鈍さにすらイライラする。人間は地球で一番偉い生き物のようだが、ザトウムシやヒメネズミやアムールトラに比べて美しくない。
     流れるニュースは不正・殺人・事故・詐欺・殺人・殺人・殺人……人間も自分が嫌いなのだろう。こんなに生きるのが面倒じゃ自分も周りも愛する余裕がないのも仕方ない。コミュニケーションが複雑で、大きな群れを形成して生きるくせにひがみっぽい。何をどう上手くやろうと必ずやっかむ者がいる。だから周りに好かれようとするのは止めた。無駄だ。生まれて二十五年経つが好きな人間は祖父母と母しかいない。……その三人も早くに死んでしまった。

     鏡の中、暗い瞳がじっと見つめてくる。黒い髪、白い肌、大きい眼、太い骨格。きっと俺も美しいはずなのに。人間なんか嫌いだ。自分と同じじゃないと認めないからしょっちゅう殺し合っているし、それでなくても小さいオフィスの中で排斥したりしあったり。なんでこんなものに生まれちまったんだか。あの時感じた暖かい気持ちは勘違いだったのか。……俺は俺が嫌いだ。

     テレビニュースで環境保護団体の活動について報道がされている。画面の中では髭の爺に撫でられた猫がごろごろと喉を鳴らし飯を強請っている。
    「……次は猫にでも生まれるか」
     しかし動物虐待や野良猫の収容に関するニュースを見ると悩ましいし、じっと見ているとなんだか”あれ”とは違うようにも思える。猫は餌を食べたらぷいっと顔を背けてしまった。
     群れで生きるものに生まれれば簡単なのかも知れない。牛だのヤギだの、野生でも家畜でも人間になるまえに一度経験してみれば良かった。人間になった今ではあれになりたいとは思えない。つがいをつくる小鳥も良さそうだが、どうせまた鷹に襲われてしまうだろう。もういっそ諦めて暗く冷たい海の底を泳ぐアンコウか、人の手を借りずとも生きられる山猫になってまた好き勝手に生きようか……。
     人間になった一番良いところは家族と会話ができたことと、こうしていろいろな生き物がいると知れたことだ。次、眠りに付くまでに考えておかないと。もしかしたらこれで終わりかも知れないが。

     築十年の古いアパート、人間に生まれて一番辛い原因(労働)のために靴を履いた瞬間、チャイムが鳴った。ドアを開くと、全身に縞かと見紛うような傷を入れた少年が一人立っていた。サラサラした黒髪の下、顔に三つの裂け目が入っている。半袖のシャツをさらに捲くりあげ出した腕にも、昔の俺が引っ掻いたかのような傷が無数についている。
    「おはようございます!隣に引っ越してきました!スギモトです」
    「……尾形です」
    「これ、粗品ですけどご挨拶に」
     目の前にファンシーな花柄の包みを差し出され、思わず受け取る。引っ越しの挨拶か。俺も数年前にした。
    「よろしくおねがいします!」
    「……どうも」
    「……あーっと、これから仕事ですよね?頑張って!じゃ!」
     スギモトは何秒か俺を見た後、さっと踵を返し、廊下の隅にある階段を登っていった。上階にも挨拶に行くのか。
    「……」
     包装紙を爪で破り中身を覗くと、花の形を模した石鹸だか入浴剤だかが入っている。風呂場で使うもののようだ。
     ……ずいぶん若かった。高校生?中学生?一人で暮らすのか?
     俺は無愛想だったのに、あいつニコニコ笑っていた。黒い髪がつやつやして手足が長かった。……歩く姿が綺麗だったな。
     その日の夕方、家に帰った時集合ポストを見ると、『杉元佐一』と名札がかかっていた。珍しい人間だ。俺も当初は出していたがセールスなどの面倒が増えるために、他所を見習って外した。あいつもすぐに外すだろうか。



    「こんばんわ。すんません、飯作りすぎちゃって、良かったら貰ってくれませんか」
     数日後の夕方、チャイムが鳴って玄関を開けたら鍋を抱えた杉元佐一が立っていた。匂いを嗅ぎ取る。肉の匂いだ。
    「あ、肉じゃがだよ」
    「……いただきます」
     熱いから気をつけて、と木の取っ手がついた両手鍋を渡される時、手と手が触れた。なぜか心臓が跳ね上がった。初めてメスを見た時の昂揚のような。
    「食い終わったら玄関先に置いといてください。じゃ!」
     まばゆい笑顔で杉元佐一は自室に帰っていった。玄関が締められた室内。隣の壁の向こうからドアの開閉音と軽い足音が聞こえる。人の気配は一つだけだ。やはり一人暮らしをするのか、それとも後から親が来るのか。いくら男性だからって不用心ではないか。
     ……まだろくに知らない俺に食い物を分けてくれるのか。優しい。それに笑顔が綺麗だ。

     その日、まったく理解が及ばず諦めていた小説を数年ぶりに最初から読み直してみた。
    最後に残った家族、祖母がくれた本だ。彼女は長く患っており、置いていかれるのが心細くなって病院のベッドで『人のこころが分からない』と泣きついたことがある。そしたら翌日、売店にあったからとこの本をくれた。彼女はただ平仮名三文字のタイトルを見て寄越しただけで、中身は読んでいないと思う。百年前の文豪が三角関係を描いたもので、人間一回目の初心者には理解し難く、本棚に飾っていた。

     が、今度はそこそこ理解できた。俺も杉元佐一のことを考えると心臓を掴まれたような心地になる。毎日顔が見たい、もっと話しかけられたい、優しくされたい、ズルしてでも誰にも取られたくないと思う。
     きっとこれが恋愛感情だ。
     しかし作中で同じように胸を患った男達の顛末はなんだ。なぜ愛が叶わぬからと言って死ぬのか、叶ったのに死ぬのか、意味がわからない。
     動物だったら例えば巣を見せたり身体の模様を見せつけたりすれば、相手の反応でイエスかノーかハッキリ分かる。三角関係もなくはないが、どっちのオスが強いかで決めればいい。それに負けたってあてつけで死んだりしない。別のメスを探すだけだ。ズルしてまで叶えたくせに相手を置いて死んだのも理解できない。
     でも、杉元佐一の代わりはこの世のどこにもいないのだと感じるし、人間の下手な俺が杉元佐一と仲良くなれるか考えると……このままではいつか作中の男たちのように心を病み死んでしまうかも知れない。
    「……死にたくない」
     この男達には恋愛の他に大きな葛藤があったようだが、宗教だの信仰のことは良く分からない。とにかく、杉元佐一と仲良くなりたい。きっと顎を撫でてもらったのと同じ気持ちになれる気がする。……見るからに未成年だから、触れ合うことは望んではいけない。

     これまで肉親以外とまともに関係を築いたこともなく、友情の始め方も分からない。まずは研究だ。
     ドラマや映画を履修した結果、『こまめな接触』『贈り物』が有効だと知った。どうやら人間は顔を見れば見るほど好意が勝手に高まっていく習性があるらしい。なるほど、人は未知への恐怖が強く過剰反応する生き物であるが、裏を返せば相手を知るほどに安心するわけだ。
     というわけで、物を贈ることにした。一番いいデパートで一番いい店へ行き、綺麗なハンカチを一枚見繕った。杉元が使っていた鍋と同じ、紺色だ。五人前はある肉じゃがをやっと食して鍋を空にし、ピカピカに磨いた中にハンカチを入れて玄関の前に置いておいた。

     翌日、夕方にチャイムが鳴った。
    「こんばんは。あの、ハンカチありがとう」
     まばゆい笑顔の口元に覗いた歯は白く、大きくてみるからに頑丈だ。こいつ、綺麗なだけじゃなく強そうだな。
    「いえ、とても美味しかった。こちらこそありがとう」
     作法に則り礼をすると、杉元佐一はヘヘッと笑って帰って行った。胸がじわっとする。それだけ言いに来てくれたのか。あちらの玄関扉に消えていく横顔はまだ幼く、ニコニコ笑ったままだった。
     もっと杉元のことが知りたい。なぜあんな年で一人で暮らすんだ。親はどうした。学校は?いくつなんだ?
     あまりしつこいと嫌われてしまうから数日空けよう。

     しかし数時間後に再びチャイムが鳴り、杉元佐一が鍋を抱えて立っていた。
    「また作りすぎちゃって」
     さっき返したばかりの鍋の蓋が外気温との差で白く曇っている。匂いを嗅ごうと顔を突き出すと、蓋がパカリとズレた。もわ、と湯気が立ち上る。
    「ぶた丼だよ」
     肉だ。鍋の縁ぎりぎりまで入った肉の海に、豆腐、しらたき、玉ねぎが沈み寄せられている。
    「熱いから気をつけて」
    「…………」
     受け取る時に、また手が触れ合った。今度は確信しているため強く意識してしまい、カァと背中が熱くなる。
    「……ありがとう」
     顔を上げると、杉元の頬が赤かった。寒いのに薄着だからだろう。
    「こちらこそ」
     さっさと隣のドアをくぐって消えてしまう。さっき考えていた質問もすっかり頭から抜けてしまった。頬が赤くなると、顔の傷も浮かび上がるのか……。毛皮が無いのもいいな。
     豚丼は三日分はあったが、肉は好きだ。それに脂身より赤身が多くて柔らかいし、卵を掛けたりして食べると最高だった。

     杉元が引っ越してきてから、何故か職場で女に話しかけられる回数が少し増えた。前は挨拶しかしなかったのに。今も、昼食から戻ってきて給湯室に茶を取りに行ったら土産の菓子を食べないかと声を掛けられ、分けて貰っている。なんとかロールというクリームをスポンジで丸めたケーキだ。美味い。今度は俺も食い物をやろうか。
     女達は好き勝手に俺に質問をしてくるので、適当に応えたり相槌を打ったりしていた。俺も質問していいのだろうか?
    「人に物を贈りたいんだがオススメの店を教えてくれないか」
    「どんな相手ですか?」
    「良くは知らなくて。若い、隣人だ」
    「相手の趣味とか分かります?」
    「……バラの形をした石鹸をくれた」
     そう告げた途端、甲高い声でキャアーイヤァーと皆が悲鳴を上げた。
    「何か?」
    「いえっ、なんでもないです!」
    「お風呂が好きな人なのかな?こういうお店どうですか?」
     一人がスマートフォンをかざして教えてくれたのは、ハーブや花の写真がデカデカと貼ってある店だった。

     混み合った店内で鼻をやられながら贈り物を選んだ。店内は混じり合った香りで森の生き物であれば即死しそうだったが、一つ一つを嗅ぐと良い匂いがした。商品数が膨大で当てなくさまよっていると、店員が寄ってきたので杉元の特徴を伝えて見繕ってもらった。
     傷がある若い相手だと言ったら、じゃあ保湿メインでと石鹸とオイルとクリームが入ったデカいセットを出された。ずいぶん値が張るが、きっと良いものなのだろう。迷うこと無く購入した。

     鍋をピカピカにして、玄関前に紙袋と一緒に置いておいた。



    「あの……」
     チャイムが鳴って戸を開くと、杉元が立っていた。胸に俺が置いた紙袋を抱えている。
    「ごちそうさまでした。美味かった」
    「口に合ってよかった。それで、これ」
    「人にもらったが自分じゃ使わない。良かったらもらってほしい」
     プレゼントの言い訳を考えておいてよかった。杉元はホッとした様子で破顔した。
    「そういうことなら」
    いつもならさっさと戻っていくのに、杉元はその場で紙袋の中身を改めて見ている。
    「…………学生か?」
     バクンバクンと心臓が鳴る。相手に一歩踏み込む時、こんなに怖いのか。
    「あ、うん。◯◯中学を卒業して。4月から近くの高校に行くから引っ越したんだ」
    「一人暮らしか?」
    「うん……尾形さんは……?」
    「ああ、ちょっと待て」
     聞くだけ聞いて杉元の顔を曇らせてしまった、やはり下手だ。玄関に掛けていたコートの胸元から名刺入れを取り出し、一枚渡した。
    「……ありがと。会社、学校の近くだ」
     ニカッと白い歯を輝かせて笑い、杉元は笑顔のまま隣の玄関に消えていった。
     ついこの前越してきたばかりで当たり前のことなのに、これからも隣に住み続けるのだと改めて思うと喜びが胸を締め付けて何故か切なくなる。嬉しいのに、歯がゆいのは何故だ。
     次はいつ来てくれるだろうか。
     次は何を聞こう。


     翌日、珍しく急ぎの仕事を頼まれ少し残業をして帰ると、玄関扉のノブにビニール袋がかかっていた。
     中身を見ると、アルミホイルに何かが包まれていて、焼けた砂糖の甘い香りがする。中には湿気で少ししっとりした紙が一枚折りたたまれていた。
     玄関に入り、中を開くとファンシーなキャラクターが踊っているカラフルなメモ用紙だった。
    『この前貰った石鹸のお礼です。すごくいい匂いだった。ありがとう』
     アルミホイルをめくると、形の不揃いなクッキーだった。まだ暖かい、手作りか。
     一部出っ張っていた箇所を千切って口に入れると、なんにも触れていないのに、顎を撫でられた時のような心地になった。まだあの時と同じ仕組みの喉だったらゴロゴロ鳴ったかもしれない。
     今回の礼は何か暖かいものにしよう。

     翌日石鹸を買いに行った駅ビルに入った。年若い女向けの店が多くて普段なら入らない。しかしこの前来た時に若い男向けの店を見かけたのだ。何度か見た杉元の服と似通った雰囲気だった。ここで買った衣類なら使ってもらえるかもしれない。
     いつもピラピラした薄い長袖を着ている杉元のために、カーディガンを買った。

     こちらから来るのは初めてだ。
     緊張して固くなった指を伸ばしてチャイムを押し込んだ。しばらくして「は~い」と間延びした声とチェーンの揺れる音と共に玄関が開く。
    「ひっ……こ、こんばんは」
    ひってなんだ。杉元はいつもの笑顔と違ってなぜか怯えていた。
    「……こんばんは。この前のクッキー、美味かった」
    「あ、ああ。良かった。調理実習で作ったんだ」
    へへっとやっといつもの顔で笑う。
    「これ」
    買ったままの袋を隙間から差し入れると杉元はさっそく中身を覗き、変な顔をした。俺が距離感を誤った時の同級や職場の人間と同じ顔だ。……失敗した?
    「……いつもありがとう。あの、最初に始めたくせにこんなこと言うのアレだけど、こんなにいいものばかりもらっても……俺、困るよ。返しきれないし」
    喜ばせたかったのに、困らせていたのか。気づかなかった。
    「……すまん」
    「いや、謝って欲しいわけじゃなくて!高いものばっかりくれるから」
    「高くなかったらいいのか」
    「えっ?いやそういうことでもなくて……尾形さんさぁ、友達いないでしょ?」
    「いない」
    「だよねー」
    ちょっとまってて、とドアが閉じられた。……室内からはドタドタ駆け回る足音が聞こえてくる。何を待てば良いのか分からないが、一分程突っ立っていたら再びドアが開いた。今度はチェーンが開いている。
    「はあ、お待たせ。上がって」
    「え」
     早く、と袖を引かれ、ドキッとしている間に引っ張り込まれた。
     室内は暖かかった。同じ間取りなのに自分の部屋とは全く雰囲気が違う。杉元の部屋は明るくて暖かい。室温だけではなく、色と密度が違う。白と黒の寒々しい自室と違い、黄色や緑の布で床や窓が覆われ、壁にはどこか外国の森林の写真が数枚飾られていた。実際に大きな葉が伸びる観葉植物も置いてある。それに本物の植物も三つ、鉢に入れて飾ってあった。
    「座ってよ。お茶でいい?」
    「あ、ああ」
     茶会に招かれたのか。六畳一間の部屋、真ん中に置かれたこたつを指されて座った。懐かしい。祖母はいつもこたつで編み物をしていた。学校から帰ると、温まった天板の上でゆるんだチョコをくれた。
     懐かしいぬくもりにもぞついていると、杉元が丸い木の盆にポットとマグカップ、クッキーなんかを持って戻ってきた。なぜまだ十代の杉元に、三十いくつでこの世を去った母や八十過ぎた祖母が重なるのか。
    「はい」
    「……ありがとう」
     湯気の立つマグカップを手渡された。
    「あのさ、こんなガキで良かったら友達になってよ」
    「友達?」
    「そう。尾形さん優しいし。俺、引っ越してきたばかりで一人だから」
    「……俺も一人だ」
    「じゃあ決まりね」
     差し出された右手を前に、固まってしまった。あはは、と笑って杉元がマグカップに添えていた右の手を取り勝手に握手をした。凍える指が体温で解けるだけじゃない。”あれ”を感じる。
    「よろしく、尾形」
    「……よろしく」
    友達が出来るのは何年ぶりだろう。それが杉元なのが嬉しい。浮かれて脳みその機能が低下した俺に、杉元は幼い笑顔でちゃんと飯を食ってるか、と祖母のようなことを言った。最初に俺を見た時、顔色が悪く心配になって飯をくれたと。
    「いつもコンビニののり弁を買ってる」
    「うん…………え?!他には?!」
    「昼は社食で日替わりを」
    「え~それでも夕飯毎日同じなんでしょ?」
    頷くと、また飯をやると言われた。
     優しい。
    「今日はもう食べた?」
    「まだ」
    「じゃあ一緒に食おう」
     鍋でいいかな、一人じゃ鍋しても美味くない、嫌いなものはあるか、鳥と豚どっちがいい、すぐ後ろの台所で、背中を向けたまま杉元は喋り続ける。
     鍋は好きだ、俺も随分食っていない、しいたけだけはどうにも駄目だ、鳥がいい、俺が答えるたび肩越しに眩しい笑顔が向けられる。
     どうして杉元は一人なんだ。こんなに暖かい部屋で暮らせる人間がなぜ。俺と同じように家族を亡くしたのだろうか。養親となる親戚もいなかったのだろうか。金はどうしているんだ、病気の時は、心細い時は?

     ぐつぐつ煮えるいつもの両手鍋を手に、杉元が戻ってきた。
    「友達出来たし、土鍋買っちゃおうかなぁ」
    「……なら俺が買う」
    「じゃあガスコンロとかは俺が買う。へへっ」
     まだ細い腕が菜箸とお玉を繰り、椀に色鮮やかな白菜や人参、キノコや豆腐、鶏肉を盛り付けた。その手付きがやはり母のようだった。
     頂きます、と手を合わせ箸を取り、後でうどん入れようなとか、卵も入れちゃおうとかに相槌を打ちながら食事をした。
     杉元はずっと話し続けていた。引っ越してきてすぐにいい感じのスーパーを見つけた、安いだけじゃなくてレジも早い、あの観葉植物はそのスーパーの横にある花屋で買った、高校までは自転車で通うつもりだから帰りに買い物ができて便利だ、この前食べたアイスの期間限定味が残っているから食っていけ……さっきの疑問がぐるぐる渦巻いていたが、杉元が話を外側へ外側へ向けていくのを聞いていて、知られたくないんじゃないかと思った。
     人間は自分が不幸であると自慢するのが好きだ。苦労しているとか、具合が悪いとか、とにかくそういう話で他人の気を引くのが好きだ。杉元はどう見ても職場の人間より苦労しそうな環境にありながらいつも明るい。たぶんそういうのを見せたくないのだ。俺もトラだった時、具合が悪いのを隠した。……鉄柵の向こうにいる飼育員を信用していなかったからだ。
     杉元は強そうで、綺麗で、俺に気を許していない。玄関先でも俺が立っているのを見て怯えた。台所に立つ間も、返事に微笑むと同時に大人しくこたつに入っているか確認していたように思う。なのに食事を真面目に心配するような優しさで巣に招いた。
     杉元が好きだから、俺はその恐怖を侵さないでおこう。

    「じゃあな!」
    「ああ」
     夢のような時間を過ごして玄関を出た。三月の夜気が頬を冷やす。自室に戻ればさらにひんやりとした空気に出迎えられた。
     思うに杉元の真似をすれば、俺もあのような人間らしい人間になれるのではないだろうか。人間は『違う』より『同じ』が好きだ。杉元が怯えたのは、俺があいつと違うせいかもしれない。ニコニコしたり明るく振る舞ったり言動などはさっぱりでも、金を出せば取り繕えるものはある。

     翌日の仕事帰り、杉元に教わった花屋へ行き、一番育てやすいと言われたポトスを買った。ポトスは葉っぱとともに蔓がどんどん伸びる観葉植物で、柱を立てて登らせてもよし、上から吊るしてもよし、窓辺に沿わせてもよし、木の柵や手すりに巻き付かせる人間もいるらしい。増やしたくなったら蔓先を切って水につければ根が生えて増えるという。……変な草だ。
     黄緑の葉がもさもさ伸びる鉢を窓辺に置いた。部屋の中には昔から無駄な物を置かない。祖母がそうしていたからだが、親族や友人との思い出を大事にする彼女と違い、俺には物への執着があまりないため、装飾品や嗜好品がないのだ。杉元が部屋に緑を飾っているのを見て寝食に不必要な草を買ってみたが、どこまで大事に出来るかも分からない。
     だが少し部屋に暖かみがある気がする。ネズミであった時、子供らのためにせっせと餌を運んでいたが、あれは結局自分の子孫を残したいという本能で最優先されていたからだ。自ら己以外の世話をしようなんて思うのは、生まれてはじめてだ。
     寒さと日当たりに気を使えと言われたからとりあえず窓辺に置いてみたが、伸びる蔓を床にべったりさせておくのもなんだか気分が悪い。どうしたものか……

    数日悩んだがネットの情報は膨大で漁るのも疲れた。わざわざ本を買うのも面倒だ。スマホで現状を撮影し、隣の家のチャイムを押した。
    「はーい」
    「俺だ」
    ドア越しに声をかけるとチェーンが外され、にんまりとした笑みがドアから覗いた。
    「オレオレ詐欺?」
    「は?」
    「冗談だよ、何」
    杉元は風呂上がりらしく、寝間着の襟から湯気を上げていた。濡れ髪がつやつやだ。
    「お前の言っていた店で草を買ったんだが、置き方が、」
    「草って、ははは、何買ったの」
    「これを……」
     スマホを出して操作していると、「ああ、いい、見に行く」とスニーカーをつっかけた杉元に押しのけられた。……俺の巣に入るのか。
     自分の家のように勝手に入っていく後ろ姿を、なぜか見送ってしまった。

    「ポトス可愛いね」
    「……草が可愛いのか?」
    「可愛いじゃん、ライムグリーン」
     そういう概念が良く分からない。
    「確かにこのまま置いとくと冷たくて可哀想だ。テーブルでも買えば。でも尾形の部屋何にもないから柱立ててでっかく育てても良さそう」
     杉元は葉に触れぬよう四つん這いになって鉢を覗き込んでいて、捲れた寝間着の裾から骨の浮いた背中が見えている。寒そうだ。俺のやったカーディガンを着たら良いのに。とりあえずクローゼットから適当な上着を出して、どの店に行けば必要なものが見つかるか、ブツブツ言う背にかけてやった。
    「あっ」
    「なんだ」
    「いやっ……あんがと」
     杉元は少し固まった後、上着の襟を掴み、こちらへ向き直って正座をした。
    「そういうテーブルだの柱だの、どこで売ってるんだ?」
    「ホームセンターでしょ、ほら、国道のところ、うどん屋の先。ていうか、なんで最近引っ越してきた俺のほうが知ってるの。尾形は家具とかどこで買ったんだよ」
    「ずっと買ってない。実家を引き払う時に持ってきたものをそのまま使ってる」
    「……実家ないの?」
    「ない。もう誰も住まないから売った」
     少年は何か言いかけたが、口をつぐみ考え込むフリをし、俺はそれを認めた。
    「とにかくホームセンターいけばなんとかなるよ」
    「分かった。テーブルを買ってくる」
    「うん」
     三秒、目が合い続けた。帰らないのか。帰ってほしくない。
    「……コーヒー飲むか」
    「砂糖と牛乳入れて!」
     ベッドに座りながら即答され、冷凍庫から一番良い豆を出して淹れた。小鍋で牛乳に砂糖を入れて温め、香ばしい香りのするコーヒーへ注ぎ手渡す。
    「ずずっ……んまぁい」
    「寒くないか」
    「寒いよ。この部屋寒い。尾形も寒いだろ」
     おもむろに手を伸ばされた。マグカップの熱で温まった掌に手首を握られ、血が駆け上る。大人になってからこうして人に触れられることはほとんどない。満員電車で受ける肘鉄くらいだ。胸までぎゅっと握られた心地になる。柔らかくしっとりした掌が離れる。
    「ほら冷たいじゃん。ホームセンターでストーブも買えば。もう春だしきっと安いよ」
    「……買ってくる」
    ベッドへ並んで座った。
    「もうすぐ入学式か」
    「明後日な!朝、制服見せてあげようか?」
     ニコニコ輝く笑顔が、それだけで暖かい。杉元はそのまま二時間ほど新しい学校の話をして、九時過ぎに眠いと言って上着を着たまま帰っていった。
     翌日早速ポトスに柱を、投げ売りされていた赤外線ヒーターを買って帰った。
     
     数日後に真新しいブレザーを着込み、黒いピカピカの革の鞄と靴を履いた杉元が玄関先に来た。
    「似合うな」
    「だろ?!採寸の時、スタイルいいねって褒められた」
    「ああ。親も喜んだだろ」
    「めちゃくちゃ喜んでるよ」
    杉元は満面の笑みブレザーのボタンを撫でた。
    「……これ」
    簡便なのし袋で用意していた祝い金差し出すと、急に拗ねたような表情になってしまった。
    「友達は金のやり取りはしない」
    「そうなのか。物はいいのに」
    「んー、物も嬉しいけど、ごちそうするとか~」
    「金をそのまま渡すのと何が違うのかわからん」
    「一緒に過ごすのがいいんじゃん。尾形、そんなんで社会人やってて大丈夫なのー?」
     ケラケラ笑い、杉元はじゃあなーと朝の光の向こうへ消えた。
     なるほど。

     その日の夕方、帰宅後すぐに着替えて隣の部屋のチャイムを鳴らし、食事に誘った。杉元はすぐに俺の買ってやったカーディガンを羽織り、さらさらの前髪を整えて出てきた。
    「何食わせてくれるの?」
    「杉元の好きなもの」
    「なんでもいいってこと?」
     頷くとパァと輝く。駅前の安い焼き肉屋の前で立ち止まったので、食べ放題にしようと言うと大喜びでドアをくぐった。
     最初は自分の分は自分で、と思っていたが杉元が忙しく箸とトングを持ち替え、口の中が空にならないようにしているのを見ていたらいつのまにか手が出ていた。
    「焼いてやるからどんどん食え」
    「えっいいよ、尾形自分の焼きなよ」
    「もう腹いっぱいだし、食べてる所を見るのが楽しい」
    「な、なぁにそれ。……じゃあ、よろしく」
    少年は少し赤面すると、ガツガツ食べるのに勤しみ始めた。次何を食べたいか聞く間もない。並べた皿からぐるぐる順に網にのせ、無くなる前に注文する。杉元は軽く五人前は食べた。白飯も五合くらい食べたんじゃないだろうか。見ていて清々しいし、嬉しそうに微笑みながら頬を大きく膨らませているのを見ると、今まで食事や睡眠で満たされなかったどこかの隙間まで満ちていく気がする。
     杉元はおしまいにデザートのアイスを頼み、ふぅと息をついて腹をさすった。平らだった腹がボールを詰め込んだかのように丸く膨らんでいる。
    「すごいな。帰り歩けるのか」
    「ははは、無理かも。そしたらおぶってよ」
    「いいぜ」
    「冗談だって!歩けるよ!」
    杉元が腹の重さにふうふう言うのんびりしたスピードに合わせて並び歩いた。家族と過ごした日々と同じかそれ以上に楽しかった。杉元も楽しそうだったと思う。たしかに現金を渡すだけでは、この暖かい時間は生まれない。



    入学式から数週間、とっくに夜の寒さも和らいだ。買ったストーブはビニールを掛けてクローゼットにしまったし、ポトスは南国の植物らしく毎日明るい色の新芽を輝かせている。杉元はあっという間にブレザーを脱ぎ、金と赤と紺の校章が入ったワイシャツとチェックのスラックスになった。通う学校と職場が近いのは本当で、銀行や取引先への集金に外回りに出ると夕方同じ制服を来ている学生たちがうろうろしているのをよく見る。
    杉元も一度だけ見かけた。カフェテラスで女達にわらわら囲まれて、教科書だかノートだかを開いて、笑顔でクリームの乗ったドリンクを飲んでいた。
    それを見てやっと物語の男たちが死んでしまった理由が分かった気がした。きっと己が情けなくなったのだ。
    杉元を自分の手の中だけで輝かせたいと思ってしまう。トラであった時、同じことを人間にされてそれはそれは退屈だった。あんなに求めていた爪と牙が何のためにあるのかすら知らなかった。選択肢もなくそのような環境に置かれたことを今は”哀れ”と表すことができるのに。自分がされて嫌だったことを好きな相手を思い通りにしたいがために押し付けたくなる。きっとこれが嫉妬だ。なんと醜い感情なのか。身を焦がされるように苦しいのに、焼けた鉄のようにひっついて離れない。
    俺にとって杉元の友達でいることは良いことだと思う。これまで他人事で理解できなかった感情やこころを知ることが出来るし、何より楽しくて、暖かい。
    ……杉元にとってはどうだろうか。

    <未完>
    ※書くかもしれないし書かないかもしれない
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