新たな土地で「はぁ……」
城下を離れ、水音だけが響く木陰でやっと気が休まる。
赤壁の大敗から、一月。とはいえ正直、勝敗に興味は無かった。ただ何故か城下に行くと、目立たない筈の俺を見つめてくる民が増えている。しかも酒を頼めば摘みを付けてくれたり、買い物をすれば妙に笑顔で接してくれる店主も現れ目線を合わせられない。被るだけでは足りず、顔を布で覆いたくなる。俺は、何をしでかしたのだろう。いや、素性を隠し打診も断る様な人間に悪い噂が立たない筈は無いか。それでも、俺は決めたんだ。川面に垂らした糸を眺め、靄の掛かる脳裏を整理していた時。
「……釣れますか」
ふと響いた冷静な声に驚き、飛び退いてしまった。
「うわっ」
「えっ、あ……申し訳無い」
「いや、ええと……じ、荀攸殿……ですよね……此方こそ、済みません」
同じ様に肩を震わせてしまったことを謝罪すると、無造作に跳ねた髪を掻きながら頭を下げてくれた。殺気が無く、緩やかな気配しか感じさせないから気付かなかったな。
「……隣、宜しいですか……徐庶殿」
「あ、はい……」
徐に座り込まれ、整然とした平服姿を眺める。小柄だが、靭やかな筋肉の付き方だ。武芸にも励んでいるのだろう。見識を新たにしていると、突如深蒼の瞳と視線が合う。
「あ、あの……」
くまなく此方を観察され、緊張が走り目線は外した。何処か品位を感じる所作と相手を分析する様な眼差しで、あの荀令君と親族であることに納得がいく。
「失礼……前々から貴方と良く似ていると言われていたので……一度近くでじっくり拝見させて頂きたく」
「そ、そうですか……」
「特に、文若殿が」
その言葉で、先日俺を説得しに来た表情が浮び上がった。誰もが振り向く様な美貌に見つめられると、流石に心音が跳ね上がる。だが、この意志だけは変えることが出来ない。
「……だからこそ、俺が此処に来ました」
そうか、君もか。だが同じだ、俺は決して。
「献策は、しない」
「ええ、それで結構です」
「え?」
冷静に即答され、眼を見開いてしまう。無精髭の口元が緩み、再び話が続いた。
「……人材獲得となれば、意外と頑固な文若殿が諦めた程です……しかも『公達殿と、同じ眼をしていたから』と」
俺はただ、自らの意志を告げただけで。荀攸殿は再び俺へ視線を合わせ、強く射抜いた。
「益々、お会いしたくなりました……俺に似ているなら……絶対に折れたくない、確固たる理由があるのだろうと……純粋に、貴方を知りたい……要するに、興味本位というものです」
笑みを称えた言葉に、つい安堵してしまった。押し付けたい訳でも、強要する訳でもなく。ただ俺自身を、知りたいと考えてくれている。確かに、似ているかもしれないな。自然と、唇が開いていた。
「……その通りだよ、これだけは譲れない」
「宜しければ、ですが……お聞かせ頂くことは」
此処で逃げ回っていても、仕方無さそうだ。漸く見つけた目的の為にも、進まなければならない。それに、君の泰然とした態度は信に足る。一つ頷き、静かに言葉を紡いだ。
「……先ずは、共に学んだ友の為」
俺に残されているのは『償い』と、『願い』。たとえ道を違えても、邪魔だけはしたくない。彼等の道に、光あるよう祈る。それが俺に出来る、遠く離れた大切なものへの全てだ。
「もう一つは、此処で……俺なんかでも友と、呼んでくれた人の為だ」
裏切り者で在るつもりだった、彼に逢うまでは。俺なんかでも信じてくれた、眩し過ぎる程の光を照らしてくれた。享受するには重い、それでも守りたい。気付けば友と対峙し、残る決断までしてしまった。此処を離れれば、何時か彼と敵対しなければならなくなる。それだけは、受け入れられない程。
「……俺は何方も、捨てられない……甘いことは解っているよ、ただ……それが全てだ」
正直に、応えた。向き合う表情は変わらず、毅然としている。睫毛を瞬かせると、何故かとても晴れやかだった。
「お聞かせ下さり、ありがとうございます……やはり貴方は、興味深い方でした」
「そ、そうかな……」
ただ惑い流されて居る人間の話は、それ程面白いのだろうか。不意に立ち上がり、強い眼差しを向けられる。
「……では徐庶殿のご希望に添える様、俺が掛け合っておきます」
「えっ」
「俺が来たのは、その為でもありまして……説得に応じて頂けず保留になってしまった、徐庶殿の配属先をそろそろご相談しようかと」
「え?!」
まさか一連の話は、その為だったのか。傭兵の如く、何時までも一人転々としている訳にもいかない様だ。突然の申し出から、荀攸殿からの冷静な質問が続いていく。
「献策されないなら、一軍率いてみませんか」
「要らないよ、俺は俺に出来ることをするまでだから」
「流石、実力を誇示するお言葉を堂々と……」
「え!いや、そういう意味では無くて」
「冗談です」
「わ、解りづらいよ……」
これは、見透かされてしまっているな。笑みを溢した後、明瞭な言葉が届く。
「……もう、お決まりですね」
やはり、伝わっている。俺が重い口を開くと、静かに頷いてくれたことに感謝した。
「……では、その様に致しますので……俺はこれで失礼」
「ええと、あの……何故、君は」
そこまでしてくれるんだい、と言いかけた瞬間に堂々と応えられた。
「……俺も、譲れない人間なんです……たとえ投獄されようが、荀家の名に傷を付けたと揶揄されても」
君も、生涯背負わなければならない過去があるのか。澱んだ重い枷を、理解してくれる。何も聞かずに居てくれる分、君にも。
「……どうか、礼をさせてくれ……俺も、君の為なら何だってしてみせる」
口元を緩め、突如釣り竿を指差した。
「……では……釣った魚を肴に、今夜一献お付き合いを」
「え、あ……引いてる……!」
「期待して宜しいですか」
「と……潰れるまで、付き合うよ……っ」
「その言葉、お忘れなく」
針に食い付き跳ね上がった魚の水飛沫と共に、心身を洗い流された気分になる。
「……あと」
「何だい」
「曹休殿は、明白に示さなければ伝わらない方なので健闘を祈ります」
「そ、それは違うよ!」
今はそう、言い聞かせておきたい。彼の傍に居られるだけで、僥倖なのだから。虚無感で何も見い出せない筈だった大地に寝そべれば、熱を帯び身体へと染み渡るのを感じた。
「え……?」
「そういう、ことです……」
頭を下げ、決定した職務を告げると曹休殿は竹簡を手から滑らせ微動だにしなかった。まさか、数日で通ってしまうとは思わなかったけれど。
「……つまり、貴方の部下になりました」
此処で見つけた、たった一つの願い。
『彼を、守りたいんだ』
あまりに直情的でも、荀攸殿へ告げたことは正しかったのだろう。しかも主に対呉軍という配属は、もう一献だけでは済まされないな。黒曜の瞳が大きく瞬き、真っ直ぐな言葉が耳に届く。
「待ってくれ、俺はそもそも曹家を……皆を守るのが役目だ」
「知っています」
「それに、徐庶殿には助けられたばかりで……寧ろ俺が」
「貴方自身も、曹家の人間です」
そもそも立場上、護衛も付けずにあれ程の単独行動は危険過ぎる。彼自身が望まないことを理解して、曹丕殿も上手く言い包め傭兵を置き対処していた筈。彼も聡明だ、疑念の消えない俺が最も目の届くところに居る方が都合が良いと許したのだろう。寧ろ好都合だ、孔明と士元の様に今後標的にされる事態へ備えたい。
「……迷ってばかりの俺を、救ってくれた」
身動きを止めた手を取り、強く握り締めた。これだけは、決して。
「その分俺が、貴方の道を守ってみせます」
誰かの為懸命に駆けてしまう、その背だけは必ず。絶望の淵に居た俺にやっと、居場所を与えてくれた。未だ残された生を、この身を懸けて支えようと決めることが出来る。
「……解った、貴方を信じている……徐庶殿」
晴れやかに快諾した笑みは、初めて声を掛けてくれた日と変わらず眩い。裏表なく言葉は温もりを帯び、身体中を満たされる。此方も、口元が緩んでしまう程に。
「……ただ、少し残念だな」
「えっ?!」
気落ちしたように瞼を伏せるので、思わず焦ってしまう。やはり、こんな俺では期待外れだろうか。目線を外し、何故か気不味そうに呟いた。
「……酒を飲んで、互いのことを沢山話したり……徐庶殿とは、遠慮の無い友で居たかったから……部下なんて、困った……」
危惧するところは、そこなのか。出自は曹家なのだから、何なりと命じてくれて良いのに。何て、君らしい。拍子抜けした分安堵し、髪を掻きながら一つ提案をした。
「はは……ええと……なら、仕事以外では遠慮無く、君と話をしよう……それで良いかい?」
砕かせて話し掛けると、一気に表情は明るく変わる。
「勿論」
「解った、これからも宜しく頼むよ」
「此方こそ、宜しくお願いします!」
丁重に頭を下げられ、戸惑いで辺りを見回してしまう。これは見られたら不味い。
「え、いや……参ったな……これだと君の方が部下だよ」
「あっ、有り難くてつい……」
素直過ぎる上官で難題はあるものの、君となら乗り越えていけそうな気がする。こうして、笑い合えているのなら。
「……なら手始めに、徐庶殿が自軍に加わってくれた、と民にも紹介しないと」
「え?!」
「当然だろう、赤壁の時に助けてくれて、俺の掛け替えない友だと……皆にも報告した」
「君か!!」
「?」
どうりで傭兵扱いで良かったのに、蓋を開ければ副官となっていた訳だ。兵や民の急変、荀攸殿まで動かしたのはやはり。
俺は今後、君にどれだけ人生を変えられてしまうのだろう。考えれば恐ろしい筈だが、何故か身を委ねるのも構わないかと思えてしまう。
「共に頑張ろう、徐庶殿」
甘いと罵られても、構わない。一度このまま終焉しようとした生に、再び命を吹き込んでくれた君の為なら。
「……ああ、君が望んでくれるなら」