夜空に輝く都心のビルの明かりと星明かりの間を、人工的に点滅する光が近づいてくる。夜の空気を震わせて一機が着陸すると、すぐに今度は別の一機が離陸する。
都心にほど近いこの空港の門限は夜九時。少しでも過ぎれば遠くの空港へ回されるとあって、離陸機を縫うように着陸ラッシュが繰り広げられている。
とはいえ、この時間ともなると展望デッキに見物客は少ない。しかもその隅にひっそりと佇む人影にはなにか訳があろうというものだ。
「ここにいたのか」
近づいてきた人物の低く静かな声にも、その背中は沈黙していた。
「扶揺」
名前を呼ばれて、諦めたように――だがたった今気づいた風に――彼はちらりと振り返った。
「ああ……慕情機長」
どうも、と言いながら扶揺はさっと顔を柵の向こうに戻す。彼の視線の先には建物の影と駐機しているいくつかの機体くらいしかないのだが。
鷹のように鋭い慕情の視線は、その僅かな一瞬の間に、彼の目元が濡れているのを見逃さなかった。
慕情は特に返事もせず、そのまま静かにベンチの反対側の端に腰かけた。その姿は扶揺に背を向けていたが、そのフクロウのような耳は、背後で、遠くのエンジン音に紛らせるように啜り上げた音を聞き洩らさなかった。
だが慕情は何も言わず、ただ手に持っていた鞄を無造作に置き、後ろに腕をついて空を見上げた。
九時まであと十分。滑走路では着陸と離陸がにぎやかに繰り返されている。
だが、手を少し伸ばせば届く距離の二人の間には手に余るほどの重い沈黙が横たわっていた。
離陸機が飛び立ったあとの静寂に、慕情が口を開く。
「扶揺、上で言ったあれだが――」
「なんのことですか」
遮るようなその切り返しは、何の話かわかっていると認めているようなものだった。
「お前を傷つけたなら――」
「いいえ。機長は何も間違っていません」
扶揺の言葉は静かで落ち着いていたが、慕情は口をつぐんだ。だが続く沈黙に静かに言った。
「何か言いたいことがあれば聞くぞ」
扶揺が小さく息を吐く。
扶揺は慕情が機長のときのフライトが好きだ。だが飛行機が動き出せば、副操縦士として、どの機長の時とも同じように任務をこなすのみだ。
「機長、その出力で大丈夫ですか」
離陸体勢に入り、慕情が操作しながら口に出したエンジンの出力数を復唱しようとした扶揺は、通常とは異なる数値に軽く眉を寄せて言った。
「ああ問題ない。忘れたのか? 左のエンジンがあの状態だから、こういう場合は――」
安定飛行中に突如左のエンジンのトラブルを示す警告が表示された。再起動で異常なしに戻ったが、不穏なことには変わりない。幸い目的地までは遠くなく、そのまま向かうことを慕情が判断した。
「あ……そうでした」
飛行中のあらゆる状況は常に記憶して判断材料にしなければいけない。そのことも、今必要な手順も、わかっていたはずが頭から抜けていたことに愕然とした表情の扶揺に、慕情は説明しながらちらりと目をやった。
「お前にそんなことを教えることになるとはな」
扶揺の表情が固まり、色を失う。
だが目線を前に向けた慕情は、そのまま指示を続け、扶揺も何事もなかったかのようにそれに従った。
無事地上に戻ってから、扶揺の頭の中ではさっきの慕情の一言がこだましていた。
同じ時期にパイロットになり一緒にスタートを切った仲間よりも、前を走っている自信はあった。筋がいいと言われたこともあるし、寝る間を惜しんで勉強した成果でもある。
だが、副操縦士としてもう随分年数を積み上げていた最近、扶揺はふと不安になるのだ。
これまでのように、自分がめきめきと力をつけている気がしない。
先輩パイロットに、若いのによくできると褒められるのが何より嬉しかった。だが最近ではそんなことも滅多にない。そして扶揺は時折どうしようもなく不安になるのだ――今の自分は、今の自分が出来て当然のところまで達していないのではないか、と。
一気に駆け抜けてきて、ここにきて足踏みしているうちに、他の副操縦士たちに追い越されていくような気がした。
「その気持ちはよくわかる」
何も言わずに聞いていた慕情は、扶揺が黙り込んだところで静かに言った。
「私も同期よりはずっと先を行っていた、いや、行っているからな」あっさりとそう言い切る。
「だが心配しなくても、新しく学ぶことは空にも地面にも無数に転がっている。この仕事のいいところかもしれんな」
慕情は風に乱れた髪をかきあげ沈黙した。あとは自分で考えろということだろう、と扶揺は頷く。
「これだけ長く飛んでたって、新しいことばかりだしミスもする」
「慕情機長がミスを?」
「ああ。現に今日だってミスをした」
扶揺が思わず振り向く。「でも機長の操縦は何も――」
「機長として、あれは言うべきではなかった」
慕情が顔をしかめ、眉間に手をやる。
「考えてみろ。もしもあのあと私が本当に何か見落として間違ったとする。お前は私に指摘できるか?」
扶揺は黙り込む。副操縦士として指摘すべきとわかっていても、ああ言われたあとで出来るだろうか。
「そういうことだ」
慕情がふっと小さく自嘲の笑みを漏らす。
「私も、まだまだなんだな」
決して弱いところなど見せず、常にツンと上を向いているイメージしかなかった慕情のそんな声音に、思わず扶揺の体から力が抜け、その背が慕情の背中に触れる。
「だが心配しなくても、お前もまだ他の連中とのリードは守っていると思うぞ」
「……自信ないですね」
翼の光を点滅させながらまた一機が着陸する。
「ほら、少なくともあの南陽航空機のコックピットに座ってる副操縦士より、絶対にお前のほうが優秀だ。間違いない」
扶揺を元気づけるためなのか、南陽航空をこき下ろす機会を逃さないだけなのか、扶揺には測りかねたが、それでも思わず笑みが漏れる。そっと目元と鼻を拭う。
「まあだからつまり、私が上で言ったことは……機長として正しくない言い方として、謝る必要があるものだった、と思う」
「いえ、僕がうっかりしていたことは事実だったのですから、機長の言葉を必要以上に気にしてしまったことは正しくないと、思います」
二人とも、下手な翻訳文のようなぎこちない言葉に静かに苦笑する。
「私は……こういうことを言うのが苦手だ」
「僕もです」
触れ合う背中から、互いに苦笑いをしているのが伝わってくる。
不意に慕情が体を起こし、鞄からごそごそと何か取り出した。
「食べるか?」
売店で売っているような袋入りのエクレアだ。だがパッケージには有名シェフの名前が書かれており、凝ったデコレーションが施されている。
「いいんですか? 綺麗ですね。さすが機長」
扶揺の明るい声に慕情も口の端を持ち上げる。
「機長のは?」
「私はいい」慕情は素っ気なく言うと、またくるりと背を向けた。それじゃあと扶揺は袋を開けて早速一口齧る。「おお、美味しいです」
後ろから慕情がちらりと目をやる。
「私はずっと――」慕情がぽつりと言った。「一人で駆けて昇ってきたが、それでも――」
静かに頬張りながら扶揺は耳を傾ける。
「たまに寄りかかれるような誰かがいればと思わなかったわけでもない」
いつの間にか滑走路は一日の役目を終え静まり返っている。時折、作業車の音がかすかに聞こえるだけだ。
二人の間の静寂は、そっと触れ合った背中の間で、柔らかな温もりに変わっていった。