西海岸のカラリと温かい空気は、気持ちまで軽くする。ロサンゼルスへのフライト明けの休息日、昼下がりの海岸沿いを軽くジョギングしていた風信は、ふと速度を緩めた。
視線の先、歩道脇の柵に腕を置いて軽く寄りかかりながら下に広がる砂浜と海を見つめているのは──南風だ。
見慣れているはずのその姿が、少しいつもと違って見えるのはラフな格好のせいか、それとも明るい陽射しのせいか。
サングラスをかけていない横顔は、鼻筋がくっきりとして端正な輪郭を描いている。膝丈のチノパンから覗くふくらはぎは、遠目にも、過不足なく鍛えられ力強さを秘めているのがわかる。操縦席でペダルを緻密に踏むだけではもったいないほどに。
ゆるりとしたTシャツを着たしっかりした上体。いつもはつい可愛い後輩として見てしまうが、こうして見るとやはり間違いなく大人の男性なのだと、そんな当然のことを感じてしまう。
景色を見ながら考え事でもしているのか、風信が近づいても南風は気づかない。
ふいに悪戯心が湧く。
「ヘイ、何してるんだい?」
西海岸風を気取った英語で声をかけると、南風は怪訝そうに顔を向け、そしてすぐにその表情はパッと輝いた。
「散歩か?」「ええ、あまりに景色が綺麗で」
サングラスを外し、南風の隣に立って景色を眺める。
観光客でごった返している有名な海岸から外れたここは、初夏の陽気でも、人が多すぎることもなく、皆ゆっくり散歩したり寝転んだり思い思いに過ごしている。
「あの、ちょっと砂浜に下りてみません?」
南風が風信の方を見る。
「その……砂浜でのんびりしてみたいなって」
南風が控えめに言う様子に、なるほど「ビーチで過ごす」というのをやりたいのだなと察する。
「ああ、そうだな」風信が笑顔を返すと南風は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
階段を降りてシューズと靴下を脱ぐ。温かく滑らかな砂が足の指を捉える感覚は随分と久しぶりで、思わず笑いそうになる。
何の用意もなかったが、良くしたもので、ちゃんと一式貸してくれる店があった。パラソルと敷き布を借り、空いている場所に二人のスペースを構える。敷き布に座り、体を伸ばす。
南風はTシャツを脱ぐとポケットからチューブを取り出して塗り始めた。日焼け止めらしい。脱いで焼くでもなく日焼け止めを塗るとは、近頃の若者はわからないな、などと年寄りじみた考えがよぎる。
「後ろ、塗ってやろうか?」
風信がそう言うと「えっ」と南風が驚いた声を上げた。その拍子にチューブから飛び出た中身を指で受け止め「ほら」ともう片方の手で促すと、南風は風信の顔と指を見比べたあと、おずおずとうつ伏せになり腕で体を支えた。
その背中にそっと触れる。うっすらと小麦色の肌は滑らかだ。もっと焼いても大丈夫だろうと思いながらも、クリームをまとった指を素直に滑らせる。
くっきりとした背骨の溝、がっしりとした肩甲骨と脇腹を指先で感じてしまい、今更ながら、変なことを考えていると思われたらいけないと、ゴシゴシと力を入れて手を素早く動かす。
「よし塗れたぞ」風信が言うと南風は「ありがとうございます」と言いながら体を起こして腰を下ろした。その頬が少し色を帯びているように見えるのは暑さのせいだろうか。少し手に残っている分で腕を軽く擦る。
「機長も塗りますか?」
「いや、俺は大丈夫だ。Tシャツ着てるしな」
二人で青い空と白い波を見つめながら、取り止めのない言葉をぽつぽつと交わす。二人の会話の空白は心地よい波の音が埋めていく。ゆったりとした波の音に、今を楽しめと促されている気分になる。
不意に南風が体を起こし風信の方を振り向いた。
「あの、やっぱり僕ちょっと波に足を浸してきてもいいですか?」
「別に聞かなくていいぞ。親じゃないんだし」
そのそわそわした顔に笑いかけながら返すと、南風は「じゃあ、ちょっと……」と言いながら波打ち際の方へ歩いて行った。
通りかかった売り子からレモネードの瓶を二本買い、一口飲むと風信もTシャツを脱いでごろりと横になった。片膝を立ててもう片方の足をゆったり乗せ、陽差しに体を預ける。
どのくらいそうしていただろう。英語で声をかけられていることに気づき、目を開けた。
「ハロー、あなたみたいなナイスガイがお一人?」
濡れた黒髪から水を滴らせながら見下ろす男性を見やる。
「いや、パートナーは波と戯れに行っててね」
そう返すと相手は風信の言葉に少し驚いたように固まったが、すぐに気を取り直して笑顔を浮かべた。
「それは残念。彼はどんな人?」
風信は少し考え込むフリをしてから答えた。
「そうだな、とても有能で頭がキレて勤勉で……その上、可愛らしくてハンサムだ」そう言ってニヤリと不敵な笑みを返す。
──どうやらもう限界だったらしい。
「……照れるじゃないですか、風信機長!」
顔を赤く染めた南風がごろりと隣に身を投げる。風信も声を上げて笑いながら南風の頭を軽く押し返す。
「仕掛けたのはお前だろう? 言っとくが嘘は言ってないぞ」
南風の耳が日焼けしたように赤くなる。
「張り合う奴は相当の覚悟がいるのは確かだ」
風信は日陰に置いていた瓶を手に取る。
「レモネード飲むか? ちょっとぬるいかもしれんが」
「わ、ありがとうございます」
南風が顔を輝かせながら受け取る。二人でカチンとぶつけた瓶の口が、太陽の光をキラリと弾く。
美味しそうに瓶を傾ける南風を横目で見つめる。見つめずにいられなかった。
南風が濡れた髪をかき上げる。その指も腕も肘も、よく見知っているはずなのに、海水に濡れているその肌にドキリとしてしまう。その髪と肌を濡らす水滴の粒一つ一つが陽光を反射して輝く様子は、まるで南風本人の持つ輝きを体現しているかのようだ。パイロットとしても人間としても、彼がその体に秘めているものは風信の想像を超えているのだろう。海を映していた黒い瞳が、すっと横を見る。
「どうかしましたか?」
いや、と風信は首を振り、前を見る。
「綺麗だな」「そうですね」
水平線に向かい始めた太陽の光が二人の顔を赤く照らす。
リラックスした横顔に浮かぶ満足げな笑み。気を抜くことが許されない仕事を離れ、そんな緩やかなひとときを全身で味わう様子をみていると、風信の心も満たされていく。横を見て南風の頬についた砂粒を指で払う。
夕陽に照らされた顔が風信を見つめて微笑む。
南風の笑顔は、満面の笑みでも、はにかんだような控え目な笑みでも、恥ずかしそうな笑みでも、いつも西海岸の空気のように風信の心を軽くする。
「きれいだ」
一日中人々を開放的な気分にさせてきた風が、仕上げとばかりに二人の髪をやさしく揺らしていった。