ライオネットゴールド(前半)オーブには、昔から数多の神を祀る習慣があるという。
科学が劇的に進化し、宇宙進出も人間の遺伝子操作も一般的になった時代において、宗教の意義は薄れつつあるが、それでも人々は神々を詣で、婚礼の儀を行う際には神殿の神の前で愛を誓う。
プラント対地球(最終的にはオーブ)の二度目の大戦が始まったばかりの頃、オーブの国家元首が婚礼を挙げた(そして、その最中に旗色不明のMSによって拉致された)神殿も、それ以来はずっと静けさを保っている。崖から海に向かって伸びる石畳の階段が、神殿らしい重厚さを演出する。
マジックタイムとも呼ばれる、薄紅色の夕闇に沈みつつある神殿に、ひとつの人影が現れた。海を背に、崖へ上がってゆく石畳の階段を眺めながら、ある場所に思いを寄せていた。
(あの時のあそこに、似ている…)
初めて来た場所であるにも関わらず、神殿は彼が二度目の大戦の終焉地で見たあの場所に、そっくりであったのだ。
やがて、彼は石畳の階段に、崖側を背にして腰を下ろす。その傍らには2人分のアイスキャラメルカフェラッテのペーパーカップがある。ここに来る前に、カフェチェーンで買ってきたものだ。
彼の者の翡翠色の瞳は、闇に染まりつつある空に、ひとすじの光が流れるのを見つめていた。
光は、先程オーブからプラントへ飛び立った、シャトルの光…。
そして彼も、明後日にはオーブの特使としてプラントへ旅立つことになっていた。
彼の思いは、シャトルでプラントへ「戻った」者たちと、これからここに現れる待ち人にあった。
しかし、待てども待てども、彼の待ち人は来ない。アイスキャラメルカフェラッテは、すっかりぬるくなってしまい、カップから水滴がしたたる。
(遅いな…この状況でなかなか行政府を抜けだせないのは分かってはいるが)
彼がそう思いかけてカップに手をやったその時、後ろから走って来る足音が聞こえて来た。
「待っててくれたか、アスラン!」
快活な声の主は、まさに彼の「待ち人」だった。終戦後の処理に追われ、プラントからの客人をゆっくりもてなす余裕もなかった国家元首・カガリが、お忍びで神殿を訪れたのだ。急いで行政府を抜け出したからか、執務服の乱れを直す間もないままで駆けてくる。
「いやー、なかなか抜けだせなくてな、ここまで来るのも大変だったぞ」
「お疲れ様だな…ほら、すっかりぬるくなったけど、アイスキャラメルカフェラッテだ、飲みたがってた」
アスランは、カップの一つの水滴を拭って、カガリに手渡す。
「すまんな…アイスコーヒーがぬるくなるまで待たせて」
カガリは、アスランの傍らに座る。そして、すっかりアイスでなくなったキャラメルカフェラッテを、少しづつ口に入れる。
「はあ…美味しいな」
市中のカフェチェーン店のごくありふれたメニューで、しかもすっかりぬるくなってしまったカフェラッテは、国家元首として舌が肥えているはずのカガリにとって「物足りない」のではと、アスランは思っていたが、完全な杞憂であった。
「ここのアイスキャラメルカフェラッテ、飲みたかったんだー、お前と」
キャラメルソースの甘さとミルクの優しさが、戦後の政治的事案に追われてピリピリしていたカガリの気持ちを、少し和らげてくれる。
気持ちが和らいだ理由は、キャラメルカフェラッテのせいだけではなく、むしろ側にアスランがいるから。
キャラメルカフェラッテの氷が溶けて中身が薄くなっても、ぬるくなっても、一緒に同じものを飲んで、一緒の時間を過ごすだけで、無意識に常に気を張りがちなカガリの心が、自然とほどけていくのだ。 少しづつほどけてゆくカガリの気持ちは、本音を語る。
「…ここに来るのは、あの結婚式の時以来だ…」
「!」
カガリは立ち上がると、広場状になった場所に顔を向ける。黄金の髪が、わずかに残った夕陽に照らされている。
「あそこで誓いの言葉を言おうとした時、…フリーダムが現れて、私をさらっていったんだ」
カガリがフリーダムによってアークエンジェルに連れてこられたことは、アスランも知ってはいた。セイバーでミネルバに赴任して来てすぐにこの事実を知った時のアスランの動揺は、計り知れない。
「あの時、私をさらったのはキラだったけど、」
しかし、次のカガリの言葉は、アスランを更に動揺させた。手にしていたカップを落としてしまいそうになる程に。
「フリーダムを目の前にした私は、一瞬『アスランだったらよかったのに』って思ってしまったんだ…キラには悪いんだけどさ」
珍しく「乙女」なカガリの発言に、アスランは声も出なかった。
「…」
それほどまでに、結婚前のカガリが追い詰められていたことを、
追い詰められた中でアスランの存在を欲していたことを、
改めて実感した。
「だから、クレタでお前と会った時、ザフトに復帰したことが分かって、ものすごくショックだった…そして、キサカがアークエンジェルにお前を連れて来た時も、嬉しかった…お前が生きていてくれたから」
カガリの表情が、珍しく柔らかな憂いを帯びる。琥珀色の瞳が潤み、カフェラッテのカップを持つ仕草も女性らしく見える。
でも、すぐにいつもの強気なカガリの口調に戻る。
「だから決めたんだ!私はお前を死なせないって…国家元首として、お前の力を生かせる場所くらいは用意できるからな」
再び、晴れやかな表情になったカガリに、アスランはほっとした。
乙女心満開なカガリも捨て難いが、何よりも強気でまっすぐな心を隠さない彼女が、一番魅力的だと思っているから。
男に対して「私がお前を守ってやる」くらいのセリフを言って、初めてカガリは彼女らしいのだ。それによって「守られる」立場の男がどう思うかは、極めて微妙なところだが…。
カガリは、再びアスランの横に座る。神殿は、すっかり闇の中となっていて、常夏のオーブとはいえ、海から吹いてくる風もあって、人肌の温かさが恋しい気温となっていた。
「カガリ…何か上に着なくて大丈夫か?春先はまだ冷えるというのに」
「大丈夫だ、お前の側にいれば、いつでも温かいから」
自らの上着を脱いでカガリにかけようとするアスランを、カガリはそっと制して、アスランにもたれかかる。
「ああ…あったかい」
アスランが温かいのは、体温だけではない。
ひとりの女性としてはガサツな自分を、ただ受け止めて側にいてくれること、
受け止めて、離さずにいてくれること、
何より、自分のような「人を統べる立場の者」を、「ただの一人の人間」としていさせてくれるのが、
カガリがアスランのことを「恋情を抱く相手として」温かいと思う所以である。
そんなカガリのアスランに対する愛情表現は、あまりに異性への恋情表現として無自覚かつ大胆である故、アスランの心をざわつかせる。
カガリが一国の国家元首でなかったならば、「二度と離したくない、傷つけたくない、他の誰にも渡したくない」と、自分の肩にもたれかかってきたカガリを抱きかかえて、どこか護衛の目の届かないところへ逃げていたであろう。
しかし、カガリは国家元首、アスランはMSパイロットでオーブ国防軍特使としてプラントへ派遣される「部下」の身分、どちらも現実から逃げることは許されない。
「明日…朝10時までは仕事から抜けだせることになった…ようやく」
「そうか…」
「お前がプラントへ行く前に、少しだけ一緒にいたかったから、今の時間まで頑張ってきたんだ」
アスランの側にいることに安心したのか、これまでの疲れがたまったカガリは、アスランにもたれかかってウトウトし始めた。
「寄りかかるのでは、落ち着いて休めないだろう…休むなら、俺の膝の上で休め」
アスランは、肩にもたれかかってきたカガリの頭を、手慣れた様子で自分の膝の上にそっと移す。両腿の上に、心地よい重さがかかってくる。
「ありがとう…もう何度目になるのかな、お前の膝枕で休むのは」
カガリがアスランの膝枕の上で休むのは、これが初めてではない。
一度目の大戦後、国家元首としてオーブを立て直そうと奔走するも、何度も現実に打ちのめされそうになって、執務室の傍らにある休息用ソファでひとり涙していたカガリが、「私設秘書・アレックス」であったアスランの膝に頭を委ねたのは、一度や二度ではない。
「本当は、私がお前に膝枕をするのが、普通なんだよな」
「でも、俺たちはそもそも立場が普通じゃない」
「私とお前の立場が普通じゃなくても、私がお前に膝枕したいと思う時はあるさ。ただ…してやれる余裕がないだけで」
寝ぼけ気味の頭で、カガリはぽつぽつと話し続ける。二人きりでいられる時の貴重さを誰よりも知っているから、少しでも目を覚ましていたいと、たわいのない言葉を続ける。
アスランは、そんなカガリの髪を撫でる。黄金の髪は、夜は暗闇の中で子獅子の産毛のような落ち着いた色。
「…お前も、私から膝枕されたいよな、本当は」
「う…」
もちろん、アスランにだって「カガリの膝枕に頭を委ねて、そこからの「景色」を見ながら、たわいのない言葉を重ねたい」という欲はある。
しかし、それは「今の自分達らしくない」と思うからこそ、「カガリに膝枕をして欲しい」とは、とても言えなかったのだ。
「安心しろ、お前が無事にプラントから戻ってきたら、膝枕してやるから…ちゃんと戻って来いよ」
「はいはい」
「『はい』は一回で十分だ」
「ふふ…」
カガリに、いよいよ睡魔が迫る。
「安心しろ、私はお前みたいな居眠りヘタレ大王とは違う…そう、肝心な時にウトウトするお前…とは…」
ついにカガリは、アスランの膝の上で寝息を立ててしまった。
(やれやれ…俺はいつまでたっても居眠りがトレードマークなのか)
両腿の上の快い重さと温かさと髪の毛の柔らかさを感じつつ、アスランも意識が遠のいていった。
二人は、空のカフェラッテカップ1対とともに、夜明けを迎えた。何もやましいことは起きず…。