カタカタとキーボードを叩きながらいつになっても慣れないパソコンを睨みつける。
「また眉間に皺寄ってるぞ。」
向かいの席に座った同期から飛んでくるお決まりの台詞を聞きながら、冷めかけのコーヒーに手を伸ばした。
「今年は寒い時期だよな。来る方も俺らも大変だ。」
市の職員として働き始め、配属された観光課で帯同する隣県の宿泊学習。
住み慣れた街にも関わらず、昨年初めて参加したときには目まぐるしく変わるスケジュールに先輩の後を付いてくのに精一杯だった。
昨年の経験をぜひ活かすようにと2年目の自分には荷が重い作業まで今年は任されることになり、毎日山のように送られてくるデータにひとつひとつ目を通しながら今日も進まない資料の作成にほとんどの時間を費やしている。
再び作業に戻ろうとパソコンに手を伸ばす。
横に置かれた学校のパンフレットにコツンと手が当たり、視線の先に小さく書かれた住所に目が止まった。
【S県〇〇市…】
(そういえばあいつもここら辺出身だったな…。)
“前世”
なんて話をしたらどれくらいの人が信じるだろうか。
物心着く頃には一体誰に教えられたのか?と皆が首を捻る程昔の飛行機について詳しく話し出したり、持ってもいない白のマフラーはどこにあるのかと癇癪を起こしたりした。
TVでたまたま映った戦争ものの映画を見ては突然泣き出したりと家族は相当困惑したらしい。
心に引っかかった“何か”がはっきりと前世の記憶として思い出されたのは高校の修学旅行で訪れた九州だった。
初めて訪れるはずの場所に、体はカタカタと震え冷や汗が止まらない。
辛かった日々もその中で感じたささやかな安らぎもひとつひとつがパズルのピースのようにはまっていった。
(志津摩…。)
頭の中にずっとある名前をポツリと呟く。
このまま自分の胸に大切にしまって過ごしていこう。
そう言い聞かせるように、心に決め何年も過ごしてきた。
考え出せば正解のない問題がより一層纏まらない頭の中をぐちゃぐちゃにした。
*
「お疲れ様。明日は早いから遅れるなよ。」
直前までかかった資料の最終チェックを済ませ、明日からの宿泊学習のスケジュールをもう一度確認する。
(やっと終わった。)
手元の腕時計に目を落とし、定時退社とは程遠い時間に小さくため息をつきながら事務所を後にした。
ここ最近眠るのは日付を跨ぐのが当たり前になっており、無事に準備が終わりホッとした身体にどっと疲れが押し寄せてくる。
(根詰めすぎたかな…)
帰宅するなり体をベットに横たえ、少しズキズキと痛む頭に瞼も自然と重くなった。
『かっこいいです、世界中に自慢したいくらい!』
互いの襟巻きを交換した日は記憶を取り戻す前からよく見る夢となり、志津摩は何度も八木の元を訪れた。
(最近見ていなかったのに…。)
鉛の様にずっしりと重い身体とは反対に、まるで今日は本当に志津摩が目の前にいるように頭ははっきりと記憶を辿っている。
(志津摩…)
薄れていく意識の中、何度も頭の中で繰り返し名前を呼んだ。
握りしめたままになっていた携帯から流れるアラーム音がジリジリと耳元で響き、目を開ければカーテンからは薄らと日差しが差し込んでいる。
シャワーを浴びるのも忘れそのまま眠っていたようで、昨日見た夢のせいか体はびっしょりと汗をかいていた。
バタバタと大急ぎで身支度を整え、旅行用の小さなキャリーケースへ手当たり次第必要な物を詰めていく。
リビングに転がった仕事用のリュックを掴み慌ただしく家を飛び出した。
「こんなにギリギリなの珍しいな。てかお前こんなに寒いのにマフラー無しで大丈夫か?今は暑そうだけど…」
息も絶え絶え、なんとか間に合った集合場所で同期が不思議そうに八木を見つめながら呟いた。
何のことかと必死で呼吸を整えるのに膝の上に置いていた片手を首元へ添える。
冷たい風が何も巻かれていない汗ばんだ首元をヒヤリとなぞった。
適当に理由づけ、気持ちを落ち着かせようと少し離れた喫煙所で煙草に火を付けてみるが夢の中の志津摩の声は頭の中でどんどん大きくなっていった。
口を付ける気分にもならず、モヤモヤとした気持ちを打ち消すように煙草を灰皿にグッと押し付け、じきに到着するバスを出迎える準備に戻る。
綺麗に色付いた並木道が続く駐車場が徐々にバスで埋まっていくのを頭を空っぽにして見つめた。
ぞろぞろとバスを降り、集まった大勢の生徒達の前で苦手な自己紹介と挨拶を軽くすませる。
昨年と変わらない分刻みのスケジュールに次の移動先へと生徒たちが班を作り徐々にはけていくのを横目で見つめながら手に持っていた資料に目を落とした。
本当によくやったと自分を労う様に苦労して作成した資料をパラパラと捲っていると、ザクザクと駐車場の砂利を蹴る音が段々と大きくなり、八木の足元で白いスニーカーがピタリと止まる。
(そういえば実行委員が挨拶に来るって言ってたな。)
打ち合わせでの先輩からの言葉を思い出し、ゆっくりと音のする方へ顔を向けた。
「今日はよろ…」
ドキンと心臓が脈を打ち、頭を思いっきり殴られたような衝撃が体にビリビリと響いた。
(まさか…。嘘だろ…。)
俯き顔ははっきりと見えないが、目の前でハアハアと肩で息をしながら立ち尽くしている少年は八木が知っている志津摩そのものの背格好をしいている。
喉元まで出かかった「志津摩」という一言を何度も飲み込んだ。
その場にただ立ちつくすことしかできないもどかしい時間が過ぎていく。
俯いていた顔が少しだけ持ち上がると大粒の涙が頬を伝い地面にポタポタと落ちた。
ブレザーの中に隠れていたマフラーに添えられた手は小さく震え、不安を打ち消すように握りしめているのが八木の方までひしひしと伝わってくる。
目に飛び込んだ巻かれている黒のマフラーに胸がギュッと締め付けらた。
(あぁ、志津摩だ。)
「お前、ずっと持っててくれてたんだな。」
涙でくちゃくちゃになった笑顔が嬉しそうにこちらを向いた。
ずっとずっと見たかった笑顔がそこにある。
懐かしい匂いと温かな黒のマフラーが八木をそっと包み込み、最後のパズルのピースがパチンとはまるように首元に馴染んでいく。
「次は俺が返しに行くよ。」
志津摩の頬を伝う涙をそっと拭った。