キスの仕方なんて知らない「要クン。一年経ったし、そろそろ白状してもらうで」
圭と秋斗が二人で暮らすアパートのダイニングキッチン。そのダイニングテーブルで圭と向かい合い、秋斗はにこやかに笑いかけた。
テーブルには酒を注いだグラスが二つある。グラスを満たしているのは以前知り合いから譲り受けて飲んだところ、圭の反応がよかった桃の果実酒だ。今日のためにわざわざ通販で取り寄せたその酒は、圭が白状しやすいようにとの秋斗なりの気遣いと、尋問するのは多少心が痛むのでその詫びを兼ねたもの。
とろりとしたクリーム色の酒をグラスに注いだときの圭の目は、少しばかり喜色を帯びていたが、秋斗の言葉で一気に真顔に戻った。口が引き攣らないように努力している様子さえある。圭と大学野球部で共に過ごすようになってから早三年。二人きりのときはこうして表情が表に出るようになった。圭の思考は表情に出ていなくても概ね分かるが、出ている方が秋斗の好みだ。秋斗以外は圭のこんな感情を知らないという軽い優越感が理由の一つ。あともう一つは、本人が秋斗の前だけ表情筋の動きが違うことを理解していないのがオモロ……ではなく、可愛いからだ。
その可愛さに免じて、圭に「酒飲まんの?」と勧めてやる。ついでに秋斗もグラスに口付ける。圭の分は割りものを加えなかったが、秋斗は圭ほど甘いのは得意ではないので、炭酸水で割っている。桃のとろっとした触感は薄れてしまうが、甘さ加減としてはちょうどいい。
圭はこくりと唾を飲み込んでから、グラスを口元へと運んだ。その目元が少しばかり緩んだのを見ると、この酒を買って正解だったと思う。圭の誕生日にも用意しておくかと脳にメモ書きをしたところで、本題に戻す。
「ほな、要クン。まずは言い訳、聞いたるわ」
圭がグラスを机に戻したのを見計らって追撃する。圭は好みの酒を飲んで気持ちが落ち着いたのか、今度は秋斗の言葉に怯むことなく綺麗な笑みを浮かべた。野球部の後輩に崇拝されたり、震え上がらせたりする文句のつけようのない笑みを。
「なんのことですか?」
「冷たいなァ。最中はあんなに甘えて、中もなかなか離してくれんのに」
「はったおしますよ」
「おー怖い怖い。……言うても、要クンがあかんのやよ。同棲もセックスも許してくれるのにキスはダメとか」
「……それ、言わなきゃダメですか」
本当に素直になった。回りくどい話でもして誤魔化すかと想像していたのだが。
圭と付き合ってから二年、同居をしてからは丸一年。唇へのキスだけ一向に許してくれない圭をどれだけ問い詰めたかったことか。尋ねたところで答えをくれない気がしたので、深く追及する替わりに跡が残らない程度に身体中に隈なくキスの雨を降らせたのはここだけの話だ。秋斗としてはキスマークを残したかったが、野球をしている以上、チームメイトに素肌を晒すことになる。情事の痕跡を他人に見せるようなことを圭がよしとするわけがなく、むしろキスマークをきっかけに別れ話を切り出されかねないので、泣く泣く、翌日まで跡が残らないようにしていた。
「俺と要クンの仲やろ♡」
「……」
「……要クンが俺とはセフレでいたいゆうんなら、それでも構わんけど」
がたりと、圭が椅子から立ち上がりかけ、座り直す。
「そない驚く?」
「……桐島さんがセックスしたがるのは、性欲処理のためかと」
「要クーン?俺の告白、忘れとる?」
「忘れてはいないですけど」
言い淀む圭。仕方がないので、椅子を引いて机に両腕を載せ、その上に顎を載せて圭を下から見上げる。必殺、上目遣い。せっかくなので、追加サービスで首を右に傾けておく。これで普段は前髪で覆われた右目が圭からよく見えるようになるはずだ。行為の最中、圭が秋斗の前髪で隠れた瞳の奥を覗き込もうとしているのは知っている。圭にお願いして、明るめの室内でさせてもらうことが多いので。効果は抜群のようで、圭の視線が秋斗の右目に吸い寄せられている。
「……あざとくて鬱陶しいんですけど」
「こういうのが好きなんやろ」
「言えばいいんだろう、言えば。」
圭は諦めたのか、本気で秋斗の態度を鬱陶しいと思っているのか、急に投げやりな態度になる。「普通に座ってください」とお小言をもらったので、椅子に座り直す。圭は秋斗に命じた割には、少し残念そうな顔をしている。そんな顔をするなら言わなければいいだろうに。難儀な性格をしている。
「キスしたら、別れても桐島さんのこと忘れらないじゃないですか」
ぽつりと、圭が白状する。いつもの自信のある振りをしている口調ではない、圭の素。それはまるで、圭の心臓に触れたかのような。秋斗は圭と別れるつもりは一切なく、圭の想像は杞憂ではあるが、秋斗も「その日」を予習していたことがあったから圭の言動を無駄とは言えなかった。それに、よくない未来に備えるほどに秋斗との今の関係を気に入ってくれてると思えば、むしろ愛しさの方が募る。思わず笑みを零せば、圭に見咎められた。
「なんで笑うんですか」
「んー?俺が思ってたんより、ずーっと要クンに好かれとったんやなって」
圭の秋斗への感情を疑ったことはない。でも、一線は引かれていると感じていた。うかつに踏み込めば逃げられそうだったから、今日までは圭が望んだ距離で接するようにしていたけれど。でも、そろそろいいだろう。これ以上我慢したら、それこそ秋斗の気持ちを勘違いされ、圭に逃げられかねない。
圭は椅子から静かに立ち上がると、秋斗の方へと来て真横に立った。その動きに合わせて、秋斗も圭の方へと身体を向ける。
(──ようやっとや)
秋斗がずっと見たかった圭の心を、心の臓を、秋斗にだけ見せてもらえるのだ。歓喜に震えそうになる身体を必死に抑える。圭の手前、年上として少しでも格好付けたいではないか。
「桐島さん」
「ん?」
透き通るような金の目が、ひたと秋斗を見据える。ああ今度は、圭が秋斗の心臓を触る番だ。
圭は身を屈めて秋斗の頬に手を添えると、秋斗の唇に自らの唇をそっと寄せた。