ちょはん 知り合いの知り合い編⑤ 大体1時間経ったし、ハンくんの顔色も戻った。それでも一般人と比べるとずいぶんと青白いが。彼は受け取ったコートを脇に置いて、ガンベルトを腰にセットしている。フルオート付きのハンドガンが2丁に予備のマガジンは重たそうだ。それとは別に左脇の護身用。共闘の機会を得て初めて、本来のファイトスタイルがインファイトであることを知った。腰の2丁の本来の用途は緊急時の弾幕用であれば、あの雑な扱いも納得がいく。
装着し終えて、彼がコートに袖を通す。いつものスタンガンがちらりと見えた。他にもいつものナイフや薬品が仕舞われているのだろう。コートを受け取った時に重さしか感じなかったことを思い出して、ああやって音が鳴らないように上手く仕込むのだな、と感心した。だが、それと同時に彼の装備はバラエティに富んでいるのは不思議だった。そういえば別件はどうなったのだろうか、と考え込んでいると名前を呼ばれた。
「さ、行きましょうか」
目の前にいつものハン・ジュンギが戻ってきた。寝乱れた髪をまた整えている。あの取り乱していた様とあまりにも違う。俺はソファから立ち上がって、彼の前に立った。
「何です?」
彼の冷たい視線は無視して、両手を伸ばした。そして勢いよく頭をつかんで髪をおもいっきりかきまぜた。
「ちょっと!?趙!!何するんですか!!?」
ワックスがかかって少し軋んだ髪はそんなに手触りは良くない。よく考えれば、ここまできれいにシルバーアッシュに仕上がっているということはブリーチを3回は行っている。頭皮のダメージは大丈夫なのだろうか。両手を離しても、ただぼさぼさになっただけだ。
「もっと春日くんみたいになると思ったのに……残念」
そう適当に理由を作る。何だ、触れるじゃないか。こいつは形のない影ではない、ただのハンくんだ。
その当人は口元を歪ませながら爆発させられた髪をハムスターのようにせっせと整えている。
「もっと怒るかと思ってた」
「薬を飲んでなかったら一発殴ってました」
「良い度胸してるじゃない。その時は返り討ちにしてやるよ」
左肩を軽くトン、とたたいて執務机の方に向かう。机に浅く腰かけて、大げさに両手を広げてみた。
「そんなことよりも、収穫なしで帰るのも癪なんだよね~。何か良い案ない?」
2人してボウズでサバイバーに戻るのは本当に癪である。具合が悪いハンくんを休ませるための口から出まかせだったが、春日くんたちがガッカリする姿を見るのも気が引ける。
「そんな急に言われても……そうですね、選挙事務所の入り口にあった書類でも漁ってみますか」
「書類?あの中に青木遼につながる情報ってあるのかなぁ」
「つながらなくても近江連合と青木遼の間のレイヤーリングの一つくらいは把握できるかもしれません」
確かに彼らなら、ブリーチジャパンのメンバーの善意を利用して、資金を洗うくらい簡単だろう。春日くんから聞いた久米の雰囲気からいって、悪事に加担していると分かっていても正義のためだとか理由を付けてマネーロンダリングに加担する人間はいるだろう。NPOの闇だよなぁと言いかけて、星龍会も社会福祉法人をフロント企業にしているしそもそも贋札工場を運営していたのだから悪く言える立場にないことを思い出した。
「じゃあとりあえず、入口の書類漁ってサバイバーに帰ろうか」
この部屋での痕跡をできる限りふき取り、選挙事務所の方に戻った。入口に放棄されている書類は個人情報が多い。こんなずさんな運営が存在してもいいのだろうか。個人情報保護法とかプライバシー権とかそういったものが一気にばかばかしくなる。仮にこれが表ざたになったとしても、青木遼の力でどうにでもできるのだろう。それでも慢心がすぎるが。
分厚いファイルを確認する優秀な参謀は、ほうとかへぇとか言って、目を輝かせている。
「何かいいもの見つかった?」
「えぇ、とても興味深い」
新しいおもちゃをもらった子供のような顔をして、ハンくんはうんうんと頷いている。ファイルを覗こうと近づくと、無言でスマホを押し付けられた。カメラは動画モードにセットされていた。なるほど、ファイルをめくるから動画で取れと。嫌味を言うときはわざと総帥と呼ぶくせに、こういう時は簡単に顎で使う度胸はさすがだ。
紙がをめくられる音と通りを走る車の音が過ぎていく。2冊目のファイルを閉じて、ハンくんが俺を見た。頷いて録画を止める。スマホを返すと、手早く動画をチェックして口角をあげた。満足していただけたようだ。
「ありがとうございます趙。これを使う日が来ることを祈りましょう」
「それはどういたしまして。時間もちょうどいいし、サバイバーに戻ろうか。冷麺パーティしてるらしいよ」
「冷麵、ですか。美味しいのですけど、不思議です。なぜマスターはそこまで冷麺にこだわるのでしょうか」
それは本当にそう。でもそれ以上に、冷麺を美味しいと言えるのだなとなぜだか嬉しくなった。
***
タクシーで帰ろう、と提案をしたが断られた。少し歩きたい、とハン・ジュンギが先を行く。1時間前に転がっていた近江連合構成員の姿はなく、道路の血の跡も無くなっていた。前を歩く彼からは足音がしない。体に染み付いているのだろう。黒いコートも中に物騒なものが仕舞われているとは思えないほど軽やかだ。縫製がかなりしっかりしていたし、暗殺者のコートは型崩れしないよう作られているのだろうか。そういえば、と速足で追いつき尋ねた。
「ねぇねぇハンくん、そのコートってどこで買ったの?」
「突然ですね。どうかしましたか?」
聞かれて悪い気はしていないらしい。彼に並ぶと自然に歩調が合った。2人並んで大通りまで出る。
「そのコートかなり丈夫みたいだからさ、ウチの若い子に教えてあげようかと思って」
「あなた、そういうタイプでしたか?でも……さあ、どこでしょうね。私もどこで手に入るのか知らないのですよ。刃物に強いのでおそらくFRPかケプラーだと思います」
「ふーん。じゃあ今度ソンヒに聞こう」
彼が知らないというならコミジュルの調達先ということか。ソンヒが総帥になったことで流氓のメンバーにもそのうち支給されそうだ。
「なぜソンヒに?」
ハンくんは不思議そうな顔をする。数度瞬きをして首を傾げた。
「なぜって、それコミジュルで使ってる……のはハンくんしかいないね」
コミジュルの暗殺部隊が着ているのは短めの上着か黒のロングコートだ。モッズコート丈のものを使っているのは彼しか見たことがない。しまった、これは深入りしていい話なのかと迷っていると、ハンくんの足が止まった。大通りを渡る横断歩道の信号は青だが、彼は動こうとしない。この信号を渡ってしばらくでサバイバーだ。ここの歩行者信号は少し長い。早く渡ってしまいたくて腕を引こうと手を伸ばすと、彼は真っ直ぐ俺をみて笑った。
「……このコートは兄からいただいたんです。同じものを着るように、と。まさか同じサイズの物を贈られるとは思っていませんでしたが」
視界の端で青い光が瞬いている。しばらくして、エンジンの音が背後を通った。
「へぇ、ハンくんって兄弟いるんだ。いいなぁ。俺一人っ子だからさ、あこがれちゃうよ」
慎重に言葉を選ぶ。否定してはいけない。そんな予感がした。
「ふふっ……趙にそんな可愛げがあるとは思いませんでした」
「俺はいつでも可愛いでしょうが!で、お兄さんはどうしてんの?」
いつも通り何も知らない俺を演じる。ソンヒから聞いていた話、あの男の一言で冷静さを欠いた姿、あの頃食い入るようにモニターを凝視していた彼の後ろ姿。ただの影武者ではなかったことくらい察しが付く。答えはなんとなく分かっていた。
「3年前、広島で頭を撃たれて死にました。名前は、ハン・ジュンギといいます」
俺の顔を見て寂しく笑う彼は、ゆっくり目を伏せぽつりとこぼす。
「大丈夫。もう、大丈夫です」
その言葉に何も言えなくなって、俺はまた両手で頭をぼさぼさにしてやった。その時に彼の唇が動いたが、何も見ていないことにした。