さあ、起きて 目の前に白い壁が広がっている。良く知っているコンクリートの壁ではない。一体これは何なのかと右手を伸ばすと、腕に重力を感じた。どうやら自分は横になっているらしい。ゆっくり右腕を下ろせば手のひらに布が触れた。数度瞬きをして首を動かせば、細やかな衣擦れとなめらかな感触が肌をくすぐる。どうやら寝室のベッドに寝かされているらしい。良く知ったシルク混の質感と懐かしい香りに瞼が半分下りてきた。
「おはようヨンス。よく眠っていたようだね」
自分の声が鼓膜を震わせ、脳がざわめき揺らめく。自分の喉以外から耳に届くはずのない声が頭の上から降ってきた。目線だけをやると、ハン・ジュンギが私の顔をのぞいていた。
「おや、まだ寝ぼけているのかな。昨日は大変だったようだね」
ハン・ジュンギは笑っている。そうここはアジトの私の部屋だ。頭目は、どうしても行かないとならない仕事が、約束があって、私はハン・ジュンギだからスターダストを空けるわけにはいかないのだ。私はここで頭目の帰りを待っていた、と思う。普段であればアジトに戻る前に連絡があるはずだ。
どうして頭目が帰ってくるまで気が付かなかったのか、どうして寝入ってしまったのか。寝ぼけた頭ではうまく思い出せない。
「なんてね。まだ2時を回ったところですよヨンス。でも少し遅くなってしまった」
逆さまにみる自分の顔はとても穏やかだった。起き抜けでふわふわした頭が、この現実味のない状況はは些細なことだとささやく。頭目の顔を見るのはいつぶりだろうか。
「何を言っているんだ。毎日鏡で見ているだろう」
そうそう、毎日鏡で見ている。だから良く知っている。ほくろの位置も髪の色も化粧の仕方も何もかも良く知っている。
「ほら、いいから早く起きなさい。早く戻らないといけないんだろう?」
ハン・ジュンギの顔が遠のいた。白い天井とお気に入りのシーツに紅茶の香り。それらに潮の香りが混ざっている。私は海風はあまり好きじゃない。髪が傷む。
「そうなのかい?ヨンスは川や海が好きだと言っていただろう。———ああそうか、遘√′繧ェ繝弱Α繝√〒豁サ繧薙□縺ィ閨槭>縺ヲ闍ヲ謇九↓縺ェ縺」縺溘°」
ごうごうと機械の音がする。船着き場と書かれたアーチの奥に小舟がみえた。私はハン・ジュンギに腕を引かれるままに小舟に乗った。暖かい風は凪いでいて、星が見えた。それはいくつも瞬いていて、眺めていると心がざわつく。
「瞬きが美しいですね、ヨンス」
兄の口元がほころんでいる。ハン・ジュンギはあの瞬きが好きだ。
「はい、頭目」
「それでは、送りましょう。皆が待っています」
「はい、頭目」
トクトクと独特の音を鳴らしながら小舟が進む。少しずつ靄が浮き出てきて、視界が霞んでいった。この海で、この船が座礁しやしないか心配する意味などないと、操舵輪を握っているハン・ジュンギは微笑んだ。
靄が晴れた方向に黒く大きな壁が見える。壁に沿ってハン・ジュンギが器用に小舟を進めると、金属の塊のようなそれが私の視界を埋めた。その朽ちて潮で錆びた鐵の壁からかなり遠のいていってようやく、おぼろげな輪郭を捉えられる。自分の知識と照らし合わせたその形は、船であった。
「頭目、あれは船ですか?」
私の問いかけに「うん?」とハン・ジュンギが黒い空を見上げた。
「あぁ、船だね。まさか、ここで見ることになるとは思わなかった」
「頭目がそうおっしゃるという事は、あの船は珍しいものなのでしょうか」
「まぁ、そうだね。私としては少々複雑な気持ちだが、あれが蟆セ驕薙 遘伜ッ ですよ」
ハン・ジュンギが眉を寄せて笑っている。あなたが笑っているのなら、きっとあれは良いものなのだろう。
小舟は暗い海を進んでいる。星の瞬きはずっと変わらずそこにあり、ふたつの時もあれば、もっと多い時もあった。彼らはいつも優しく瞬いて、私を見てくれる。
「そうだね、ヨンス。あなたのことを皆、待っています」
「それは当然でしょう。私はハン・ジュンギなのですから」
操舵輪を握る兄は、声を上げて笑った。
「違いますよヨンス。あなただからです」
「そうなのですか?」
「そうなのですよ。私もそうですから」
そうなのか、と頭上の星を眺める。ひとつ、ふたつ、みつよつ。今日はよっつの星が瞬いている。手を伸ばすと、星に手が届いた気がした。
朝もやが明けて、見慣れた建物が目に入る。ハン・ジュンギは細く、くすんだ川に船首を向けた。
「この川を遡るのですか?」
トクトクとやはり独特な音を立てて小舟は進む。小舟はバッティングセンターを左手に、高架下を過ぎてスナック街へ。電線がなくなったスナック街の明かりは消え、川側から見ても不思議な秩序が分かるほど静かであった。
「そういえば電力はどうしているんだい?」
「電力、ですか?印刷機が無くなったので、電力消費はかなり抑えられていますよ」
そう言って、はてと違和感を覚えた。
「そうなのか。それは良かった。盗電なんて美しくない真似をしてると知ったときは、ぶん殴ってでもやめさせなければと思いました」
「そうでしたか。どうやら私は命拾いをしたようです」
ハン・ジュンギの拳は重い。鍛えていただいた過去の痛みを思い出し、自然と笑みがこぼれた。
「あの店はクッパが美味いのです。日本風のクッパ、きっと頭目の口にも合いますよ」
「そうだね。ヨンスが言うなら間違いない。今度、ごちそうしてくれないか。あと君の友人が作る麻婆豆腐とエビチリも是非いただきたい」
「えぇ、もちろんです。兄さん」
櫻川は相変わらずのドブ川で、海とは違うてらてらとしたぬめりで輝いている。光があたればドブ川もきれいに見えるらしい。そして、不思議なものでコミジュルとコリアン街に近い福徳橋よりも、あの日の葬儀の後、皆で集まった朝焼け橋の方が懐かしく感じる。
朝焼けの空に星がふたつ瞬いている。
小舟が岸に寄り、トクトクと音を立てている。
「到着だ、ヨンス。それじゃあ、ソンヒによろしく伝えてくれ」
操舵輪を手放して、兄が私を抱きしめた。懐かしい紅茶の香りと潮と血の香りに顔をうずめ、私はその背をそっと抱きしめた。
喉が異物を押し戻そうと動く。柔らかな乳白色のカーテンと天井に機械の音。一定の感覚でリズムを刻む高い信号音。なるほどトクトクとはこれの音だったのか、とひとりごちた。
冷たく鋭い、熱いまどろみが脳裏を掠める。
星が、太陽のようにまぶしい星がふたつ、もじゃもじゃと揺れる頭が私を見ている。
「ハン・ジュンギ。なぁ、ヨンス?俺が分かるか?」
そういえば、このまなざしはハワイぶりだな、と暖かい左手を握ると、彼の目から涙が零れ落ちた。
太陽の光を浴びるのは久しぶりだ。