ちょはん 初めての年越し(前編) コミジュルと横浜流氓が新体制になって早一年。
たかが一年、されど一年。昨年の異常事態に比べれば、時間の流れは緩やかだった。
離れていく者もいれば、この機会にと寄ってくる者もいる。これまでの事は脇に置いて、ここ異人町に流れ着いた異邦人同士上手くやっていこうとする者も僅かながら現れてきた。
趙は『流氓とコミジュルは水と油』だといい風に言ってくれているが、実際の所、コミジュルの方が圧倒的に弱い。油に火が着けば、水なんてあっという間に弾け飛んで霧散しまう。馬淵のクーデターがあったにもかかわらず、横浜流氓は横浜最大の武闘派中華マフィアである。いくらコミジュルが情報と暗殺に長けているとしても物量にはかなわない。それは、ブリーチジャパンと近江連合の襲撃で証明されている。
その気になれば、いつでもひっくり返すことができる横浜流氓がソンヒを新しい総帥と認めたのは趙のおかげだ。彼はコミジュルにとっての恩人で、私たちの仲間だ。自分の店に若手を招いて上手くガス抜きをして、支えてくれているのを知っている。
未だ「横浜流氓総帥 趙天佑」の名の力は強大だ。その実「俺は、佑天飯店の趙おじさんがちょうどいい」と言い張り、調理師試験の合格に大喜びする普通の男である。
コミジュルのある一室で報告書と身上書を確認しながら、別のことを考えていた。
趙に大晦日の予定を聞くのを忘れていた。クリスマスの存在を忘れていた先週と比べて、大晦日の今夜は穏やかだった。もっと忙しいという予想は外れ、夜勤の人員配置が多かったかもしれないと考える程度に平和だった。
ううん、と唸りながら書類に目を通す。男、男、老人、カタギのコミュニティの男、女、警察車両。目が滑るだけならいい。この時期は、ちょうど逃げ回っていたころなのだ。それはとても混乱していたし、余裕もなかった。時間が経って、落ち着いてきたからこそ思考の隙間と隙間に浮かび上がってくる。
あの日からもう4年。どうしても、ふとした事で思い出してしまう。
そういえば、人生の重大な事件はどういう訳か年の瀬近くに起こる。4年前の神室町の件は言わずもがな、昨年もそうなのだ。春日一番がやってきた事に始まり、肉の壁崩壊、異人三体制の見直し、選挙に爆発にミレニアムタワー。
「盛りすぎだな」
そう、思わず零れた一言に部下が不思議そうな顔をした。ふと彼と目が合い、部下はバツの悪そうな様子で部屋を出ていった。
今年は仕事で年越しすると自分で決めた。
仕事をしていれば余計なことは思い出さない。本当に大丈夫か、とソンヒに面倒くさいくらい何度も念を押された。暇なのが本当に誤算で、今日みたいな日は趙と一緒に過ごすべきだったと後悔していた。
目頭を押さえて、今帰るのはハン・ジュンギとしていかがなものだろうかと考えていると声が飛んできた。
「参謀」
顔を上げて、その方向を見る。別の部下が、モニター越しに私を見ている。
「電話、鳴ってますよ」
ポケットが細かく震えている。その振動音に気が付かないほど、考え込んでいたらしい。
「ありがとう。助かった」
震えっぱなしのスマートフォンを手に取ると、画面には待ち人の名が表示されていた。そういえば先週も同じ感じだったな、と通話ボタンをタップして電話を受ける。
『おつかれ〜。今外出てこれる?』
「唐突ですね。どうかしましたか?」
まさか、来てくれたのだろうか。さすが天佑。天の助けそのものである。ただ、自分で夜勤を希望した手前もあって長時間抜けるわけにはいかない。本当はこれを口実に帰りたいのだが、ハン・ジュンギとしての矜恃がギリギリのところで参謀の皮を保っていた。
『せっかく仕事で年越しするならさ、ちょっと俺のためにひと仕事してくれない?』
「大変ありがたいお誘いなのですが趙総帥、これでもデスクワークで忙しいのですが」
もちろん嘘である。暇だ。暇すぎてフラッシュバックで少々しんどいまである。電話の相手が誰なのか部下に聞こえるよう明瞭に声にする。案の定「趙総帥」という言葉に部下は身を固くした。
『まぁそう言わずにさ、俺コンビニの暖か〜い肉包子と冷えたルービーが飲みたいんだよねぇ。ちょっと買ってきてくんない?』
ちょっと買ってきてくんない?という言い方には引っかかるが、今それをつっこんで無闇に会話を長引かせるのは得策ではない。
「でしたらすぐにご用意いたしましょう。ご所望の品はどちらまで?」
さも、重要な案件である体を取り繕う様子は、もはや茶番である。部下を牽制しつつ、適度に仕事の手を抜き、心の安定を保つためなら恐らくぎりぎり許される範囲だろう。多分。多分大丈夫。
『やぁりぃ〜!じゃあバッセン裏まで頼むわ。よろしく〜』
「は?」
バッセン裏?
通話が終わり、一段暗くなった画面に眉をひそめた自分の顔が薄らと浮かんでいる。
「参謀、すぐに出られますか?必要でしたら何人か付けられますが如何しましょうか」
部下が深刻そうな顔で、私の様子を伺っている。そういった不測の事態に対応するための夜勤だ。彼は本当に有能な部下だ。
「いや、そこまで火急の用件ではない。少し外す。何かあれば連絡をくれ」
資料を閉じて、椅子に掛けたコートに袖を通す。それも真剣な顔を作って。
「かしこまりました。留守はお任せください」
そんな優秀な部下に心の中で拝みつつ、部屋を出た。
趙のリクエストは、コンビニの肉まんと冷えたビール。それを持ってバッティングセンター裏に来い。何をすればいいのかは分かるが、何を考えているのかさっぱり分からない。
出入り口の扉の先は、乾いた風に黒い空。よく見慣れた深夜の異人町がいつもより明るく見えるのは、趙に会えるからだろう。