春の星を見る会春の星を見る会
薄暗く無機質な通路に固い足音が響く。コツ、コツと強くしっかりとした足音が扉の前でぴたりと止まった。続いてバタバタと不規則で慌ただしい気配がそれを追いかける。青いスクラブに白衣を引っかけた青年はひぃ、はぁと空気を絶え絶えに吐き出してから顔を上げた。彼の目には、病室のネームプレートに穏やかな眼差しを向ける、平素とは異なるコミジュル総帥の姿があった。
すぅ、と息を整えてから、青年は身なりを整えて姿勢を正した。慌てて起きたのか髪はぴょこぴょこと跳ねている。
「ソンヒ、今日はもう遅いのでできればご遠慮いただきたく……」
慌てて後を追いかけてきた青年は、コミジュル医療班の当直である。そして、この病室には特別な患者が隔離されていた。収容当初に比べればかなり落ち着きを取り戻したのだが、何かあったときに医療班の手には余るため拘束していた。そんな危険極まりない患者の病室の前で、彼の指揮系統の最も高い位置にいるソンヒが武装もせずに仁王立ちしているのだ。万が一何かあれば、自分の命も無い。
緊張で強張った青年の顔を後目に、ソンヒは鼻で笑った。
「むしろこの時間が本番だろうが。今夜は『春の星を見る会』だぞ?あいつのことだ。どうせ今日も眠れていないに決まっている」
『春の星を見る会』
コミジュルでは毎月何かしらの行事を行っている。それは、その一つだ。
言葉通り、春の星座を楽しむ会である。星座版を見て夜空の星々を観覧し学習する、主に子供向けの夜の課外学習だ。しかし、娯楽が少ないコミジュルでは老若男女問わず人気のイベントで、それなりのメンバーが楽しみにしていた。
そして開催予定時刻は深夜二時。異人町で最も暗い時間帯である。コミジュルのアジトはこの辺りでは比較的高い建物のため、屋上に登れば横浜市内でも星が見えるのだ。
だが、回復の兆しはあるとはいえ彼は病人だ。たとえ総帥であっても、医療職の端くれの自負のある青年には、簡単に受け入れることはできなかった。
「そうかもしれませんが、まずは規則的な生活をですね――」
ソンヒは男の言葉を無視して入口の戸をゆっくり引いた。颯爽と病室に入る彼女の背中を見て、青年はがっくりと肩を落とす。総帥を止めるのは無理そうだ。
ソンヒは暗い病室を一通り見渡すと壁にある緑の小さな灯りを押した。パチッと軽い音と共に部屋に色が差す。縦に長く窓のない個室の奥では、半分白髪の男がベッドの上で半身を起こしていた。
「おはよう、ハン・ジュンギ。暇か?」
ソンヒが方頬を上げて笑いかけた。病室の主は表情一つ変えず女を見据え、微動だにしない。彼の目には濃い隈が刻まれており、見るからに不機嫌そうである。それもそのはずで、深夜に突然の来客。たとえ慢性的な不眠に加えて、睡眠薬が効きにくい体質のおかげで、毎晩退屈な時間を過ごしているとしても迷惑でしかない。
ハンは血の気のない顔で眉を顰めソンヒをじっと見つめる。暇かと問われれば暇だ。両手を拘束されているから天井の模様を数えるか、スクワットをするくらいしかできることはない。あれこれ考えるのも疲れ、眠れるものなら眠りたいのだが、無理な時はいくら願っても無理なのである。
そして、彼女の顔から察するに何か企んでいるのは容易であった。ハンはそんな彼女が苦手である。
「こんばんは、ソンヒ。これからそちらの彼に睡眠薬を頂いて眠る予定です。それではおやすみなさい」
ハンはソンヒを飛び越して、後ろに控える青年に声をかけた。青年は、その無礼な態度に背筋が凍った。コミジュルの女王にそんな口を叩ける人間は、組織にはいない。ソンヒは、ここコミジュルの総帥、そして女王である。女王は他人に蔑ろにされることを大層嫌っていた。己の意に沿わない返事には、老若男女問わず蹴り飛ばし、言葉通り鞭を打つ苛烈な女王であった。
総帥を蔑ろにするハンの言動に、当直担当は即座にソンヒの顔色を窺った。彼自身は患者を守る立場である。しかし、総帥に逆らってコミジュルから追放されるのは御免被りたい。彼も他のメンバー同様、ここ以外に行く場所は無いのである。
だが、青年の不安をよそにソンヒは上機嫌に笑った。カン、と高い音が部屋を震わせ、両腕を胸の前で組み仁王立ちした総帥は大きく頷き、ハンを見た。
「なるほど。では、私に付き合ってから寝ろ。これは命令だ」
声高らかに宣言し、鼻で笑う。この私の前で貴様に決定権などないと――事実そうなのだ――明言する。
「残念ですがお断りします。総帥の御尊顔を拝見したおかげで、今夜は薬が無くとも眠れそうです。せっかくのお誘いですが、療養に専念させていただきます。おやすみなさい総帥、都合がつけばお付き合いしましょう」
「貴様の都合など知らん。おい、お前」
青年がびくりと肩を揺らす。
「こいつに何か羽織るものと、そうだな……靴も用意しろ」
「いや、そういうわけには――」
青年がもごもご言い淀む様を、ソンヒは大きく目を見開いてから伏し目に鋭く視線を刺す。当直員にさくり、と目を合わせニヤリと方頬を上げた。赤い口紅が鋭い弧を描いている。あぁ戦闘訓練でそういった武器を見たことがあったなと、青年は息を飲んだ。盾を越えて鉤爪の如く懐に入る鋭さが総帥の持つ武器の一つであった。
青年は手汗をズボンの裾で拭って、こくこくと頷いた。
「かしこまりました、ソンヒ。すぐにお持ちします」
病室から逃げるように駆け出した哀れな当直員を見送って、ソンヒはハンに向き直る。一方でハンはソンヒに背を向けて頭までベッドに潜っていた。
ソンヒはため息をつくと、コツ、カツ、コツとまっすぐベッドに向かい、足元に腰かけた。キシ、とベッドを軋ませてから、すらりと長い足を組んで身を捩り、ハンの顔を覗き込む。
「異人町の夜はいいぞ。本当に星が見える。それに、以外にも空気はきれいだ」
柔らかく囁くも、シーツの塊はぴくりともしない。それでもソンヒは優しく続ける。
「雨は夕方前にあがって、雲一つない。皆今日の集いを楽しみにしていた。ふふっ、私も子供たちと一緒にてるてる坊主を作った甲斐があった。だからな、ハン・ジュンギ、お前にも今日の星空を見て欲しい」
ソンヒの声に反して空気が張り詰める。それが分からない彼女では無かったが、今ここで引く気もなかった。
「言っておくが、私の決定は覆らんぞ?だが、私は寛大だ。貴様が自分の足で歩くか、車いすに縛り付けられるか、選ばせてやろう」
「いいんですか?もしかしたら私はあなたを殺して逃げるかもしれません。両手と脚の自由は制限されていますが、女一人くらい簡単です」
「お前が?私を?」
フフッと口先で笑ってから、ソンヒはからからと嗤った。その声を遮るようにシーツが動いたのを確かめて、彼女は右手でそっとシーツを捲った。それと同時に露わになった左目がぎょろりと動き、ハンがのそりと体を起こす。体を捩って正面に見据えれば、彼の顔は静かな苛立ちと困惑で満ちていた。
「このままあなたの、その五月蠅い喉を嚙み千切って医務官から武器を奪って逃げられますが?」
「お前は、そんなことはしない」
ソンヒは穏やかにほほ笑んだ。ハンはそれを見てなお困惑し、思わず目を逸らす。
「なぜ、そう言い切れるのです?」
力なく言い返すと半分白髪の頭は項垂れて、背中を丸めた。両腕の裾が背で括られているせいで、その姿は変わった色味の芋虫のように見える。隠れる場所が無い彼は、ベッドの端に体を寄せることしかできない。
「ふん、お前が本気なら、私がシーツを捲ったときに私の喉は噛み千切られている」
ハンが、ハッとして顔を上げるとすかさず、声の主は、彼の左頬を撫でる。黒い柔らかな手袋越しでも分かる、たおやかな指先が傷んだ白髪で遊ぶ。どこか懐かしさを覚える指先に、ハンは青黒く染まった目元を緩ませた。
「なるほど。次はそうしましょう」
今にも寝入りそうな声に満足して、ソンヒはふわりとほほ笑んだ。
「そう、それでいい」
「ソンヒ!何をしていらっしゃるのですか!?すぐに離れてください」
二人して声の方を向くと、上着と靴を取りに行っていた当直員が戻ってきたところだった。彼は荷物を持ったまま目を白黒させて病室の入り口で右往左往している。それまで菩薩のような顔だったソンヒがキッと眉根に力を籠めた。
「まったく騒々しい……貴様、空気を読め!」
深夜二時、コミジュルの医療棟に総帥の怒声が響き渡った。
***
「お前、意外と足が小さいな」
ソンヒはハンの右足をまじまじと見て、ふぅん、とつぶやいた。ベッドに腰かけるハンの右の踝を少し持ち上げて、それから彼の素足を白いスリッポンに押し込む。
誰と比べられたのだろうか、ハンは小さな引っ掛かりを覚えた。頻繁とは言えないが、おせっかいを通り越して甲斐甲斐しいともいえる彼女の行動は、彼が抱くソンヒの印象と大きく離れている。ハンの目にはソンヒが男の世話をするタイプには見えなかった。むしろ逆だ。名実ともに男を傅かせてヒールを履かせる立場である。
ハンがその気になれば、顎を蹴り上げられる距離であっても彼女は身を竦めることもなく、慣れた手つきでもう一方の踝を掴む。親指から小指までなだらかに揃った形の良い左足をひとしきり眺め、こちらもまた靴に押し込んだ。
日常的な動作の一つとして男に靴を履かせる彼女に対して怒りを覚えなかったことに、温い違和感を覚えた。彼女は外見や振舞こそ女王然としているものの、ハンがこれまで見てきた女達とは明らかに異なっている。
よし、と頷いて立ち上がったソンヒの背の奥を見ながら、ぶらぶらと脚を動かす。中敷きのやや湿った感触に、ハンの脳裏に一瞬水虫の不安がよぎったが、知ったところで今更どうにもできないと判断し言葉を飲み込んだ。
「さて?」
そう独りつぶやいてソンヒが立ち上がって背を向けて、当直員が置いていった上着を両手で広げた。彼女の体をすっぽりと覆うほどに大きな黒のロングコート。ソンヒは意外にも華奢な普通の女である。
「まぁ、いいだろう」
向き直ったソンヒは両手で黒いコートを抱えて、ハンを見下ろす。所在なさげに動かしていた足を止めて、目線だけ彼女に向けるとすぐに目を逸らした。
「悪いが、腕はそのままだ。窮屈だろうが我慢しろ」
そう言ってコートを広げ、ハンの肩に掛けた。それから襟を整えて、上から二番目のスナップボタンを留める。彼の両腕は胸で交差するように拘束されているので、ファスナーを上げることができない。
「ほら、立て。行くぞ」
ソンヒは腰に手をやって、顎で催促した。
「あの、本当に行くのですか?この状態で」
ハンが拘束されているのは両腕だけだ。その上足は自由で靴まで履いている。確かにハンは今すぐどうにかしてここから脱出しようとまでは考えていなかった。しかし、自身の主の訃報を聞かされてから今日まで、様々な事がちぐはぐで、理由のない焦燥感とまとまりのなさに振り回されている自覚があった。そして、何が『自分の気に障るのか』はっきりとしない恐怖と苛立ちをも抱えていた。
「何だ?不満か?」
不満、ハンは喉奥でそれを反芻した。不満ではない。この窓のない部屋から、わずかな時間でも解放されるのだから。
ハンが渋っているのは他でもない、不安。常に己が見に漂う不安だった。
正直なところ、ハンは自分がいつ処分されてもおかしくないと踏んでいた。神室町のジングォン派を監視していたソンヒが、わざわざピックアップを指示してしてコミジュルに連れてきたと聞いたが、それはそれ。彼は怒りに任せて構成員を手を掛けている。コミジュルのビルは結構高さがあるそうなので、『星を見る会』の『星』が自分自身なのではないかという疑念もあった。真っ当なマフィアが季節の星を愛でる様子が想像できない。だが万が一にも、自分が赤い尾を引く流れ星になるのは御免被りたい。ハンにはまだ確かめないといけない事があった。
問いかけに何も返さないハンの様子に、ソンヒが深いため息をつく。
「うむ、まぁ……いいだろう。ほら立て、行くぞ」
自分から立とうとしないハンに仕方がないな、ともう一度深く息を吐いたソンヒが彼に近づく。そして迷わず腰に手をやってズボンのウエストを掴んで持ち上げる。ハンは黙ってソンヒの胸に体を預けてベッドから立ち上がった。
「歩けそうか?」
「はぁ、まぁ、歩けますが」
ベッドからハンを立ち上がらせたソンヒが小首を傾げる。ピンクの髪がふわりと揺れた。
「歩けますが、どうした?」
「縛らなくてもいいんですか?」
「問題ない。何かあれば、私がお前を始末する」
そんなことか、とソンヒは背を向けて先に部屋へ向かう。彼女の無防備な背中を目にしたハンの目が曇る。
「女のくせに大きく出ましたね」
途端にハンの膝が、がくりと折れた。そして、仰向けにベッドに倒された。ソンヒの蹴りは的確で、その右手は彼の首を絞めて喉を押しつぶす。黒手袋が擦れる音がハンの耳に入った。
彼女の迷いのない動きに彼の心が跳ねる。あっという間のことで、ハンは両腕ごとソンヒに上半身に乗り上げられていた。
「私をなめるなよ小僧」
ソンヒにとって、ハンの反抗的な態度は想定の範囲内だった。いくら主を失って失意の底にいたとしても、所詮は掃き溜め育ちの野良犬。『ハン・ジュンギの死』を伝えた時の彼の過剰なまでの拒否反応からして、ハンが対話でどうにかできる質ではないと、コミジュル総帥の直感がそう告げていた。
「あはははははははははははははははははははは」
ソンヒの手のひらが激しく震える。そして、彼女は左手を軽く上げて、背後の開け放たれた病室の先で渦巻く殺気に手のひらを向けた。
狂気じみた笑い声が深夜の病棟に響き終えるのをソンヒはただ黙って耐えた。右手を緩めて、ハンの気が済むまで待った。笑い声の終わりに咳と嗚咽が混ざって胸が大きく上下するのを見て、彼女はハンの首から手を避けて彼のうるんだ目元を拭う。生理的な涙が青黒い目元に沁み込んでいった。
「まったく。機嫌は治ったか?」
一気に空気が緩んだ室内で、ハンは上機嫌にほほ笑んだ。この女は容赦なく、慈悲深く、まともに自分を受け止めようと向き合ってくれる。それは彼にとって『ハン・ジュンギ』以来の人間だった。
「えぇ、それはもう」
体を捩って半分体を起こす。ふ、とソンヒに視線を向けて眦と口角を上げた。
「本当に、世話の焼ける奴だな」
つい先ほどまで彼の首を捉えていた右手で肩を抱き起す。一旦座らせてから、もう一度ウエストを引っ張ってハンを立ち上がらせた。咳き込んでよろめいたハンの体をソンヒがそっと支える。その肩越しにコミジュルの戦闘員の姿があった。面を被った、おそらく男が二人。ハンを殺したくて仕方がないと言わんばかりの殺気である。なるほど、ボスに振り回されるのはここも同じようだな、とハンは口角を上げた。
「それはそれとして」
彼は二人の戦闘員に目だけで嗤いかけた。
「私にハーネスを着けた方があなたの部下の寿命は延びるのでは?」
背後の金属音に、ソンヒが即座に右の手のひらを部下たちに向ける。
「……減らず口が。お前を星にするぞ」
「いつでもどうぞ。その時は、あなたも道連れにさせていただきますね」
ソンヒは何も言わずに、ハンの背中を強く叩いた。
***
屋上には多くの人々が集まっていた。夜空を見上げると、静かに星が煌めいている。
「この辺りは明かりが少ない。だからこの時間であれば星が見える」
「星、ですか」
ハンは目だけを動かして空をなぞった。街の灯りよりか弱い白い粒が黒い空に散らばっている。それでも神室町で生きていたハンにとってはただの黒い背景ではない空は新鮮だった。頭上の視界が開けていることも、ネオンの明かりが随分と遠くにあることも。
「コミジュルでは季節の行事を大事にしている。ここは、どうしても閉鎖された環境だ。小さな祭りでガス抜きをしながら、季節の移ろいを愛でている」
廃ビルの屋上には年齢様々な人々が集っていた。ここで生まれて暮らす子供たち、やっとの思いでコミジュルに行きついた男女、コミュニティが確立する前から生きていた老人。ハンの目には、屋上の人々がこの町で暮らす訳有の韓国人たちの全てに見えていた。非番の戦闘員と思わしき男数人が、ソンヒに気づいて敬礼する。彼女は軽くあしらって、ハンの肩を抱いてベンチへ促した。
その間ずっと、ハンはぼんやり星空を眺めていた。
「ほら、座れ」
ソンヒが彼の両肩をぐっと押して、ベンチに座らせる。心ここにあらずの表情で空を眺めたままのハンにつられて、彼女も空を見上げた。赤く小さく点滅する光がゆっくりと西から東へ動いていった。
「あれUFOじゃない?」
「ばーか。あれは飛行機だよ」
子どもたちの笑い声が心地よい。
「ねぇ、オモニこの星座はどれなの?」
「う~ん、どれだろう。あれかな」
親子が星座盤と空を見比べている。星が見えるとはいっても、季節もさることながら地上の明かりが強い都市部で星座盤通りの星空を見るのはとても難しい。飛行機は飛んでいるし、横浜の街は結構明るい。それでも異人町で星空が見えるというのは、ごく狭い土地で生きるコミジュルの住民たちにとって救いだった。
半ば無理やりベンチに座らされたハンは、居心地が悪そうに辺りを見渡している。その落ち着きのない様子にため息をついて、ソンヒもベンチに腰かけた。颯爽と足を組んで夜空を見上げた。満天には程遠い空ではあるが、明るい星は目視できる程度に天気がいい。晴れてよかった。ソンヒは心から安堵した。
地下の居住区で一日の大半を過ごす住民たち。彼らの暮らしを守るのも総帥の仕事だ。異人町の裏社会で役割を得ているコミジュルではあるが、暮らし向きは決して楽ではない。大半の住人は不法滞在者だ。いくら荻久保幹事長の威光があったとて、大手を振って街を歩いたり、仕事にありつけるわけではない。母国に戻っても親類縁者はおらず、むしろマフィア崩れの住人が生きていく場所はここ、日本屈指のグレーゾーン「肉の壁」以外に残ってはいないのだ。
来月はどんなイベントをしようか、ソンヒが夜空に心を飛ばしていると、
「彼らは何をしているのですか?」
と、ハンが呟いた。
その他意のない声色に、ソンヒは訝し気に耳を傾けた。
「何を、とは?」
「聞いているのは私なのですが」
ソンヒがハンの方に顔をやれば、困った顔で眉をひそめている。目の下の隈も相まって凶悪な表情なのに、仲間外れにされて拗ねた子供にも見える。
「お前、今夜が何の集まりかもう忘れたのか?」
「……春の星を見る会、と仰っていたかと」
不満げに口を尖らせて、ソンヒから目を逸らす。言葉にできない居心地の悪さがハンの胸に広がっていく。足元に視線を落とすハン姿に、眉根を下げてソンヒは微笑んだ。責めているのではない。しかし、ハンが天体観測を理解できない理由を察することはできた。
「そうだ。だから星を見ている」
ソンヒは、星空を見上げた。どん底の町にあっても空はある。望めば空を見上げることができるのだ。コミジュルの住民は、どんな境遇であっても、自分たちの頭上にある黒い空の先に星があることを楽しむことができる。
異人三の均衡が続く限りは。
はぁ、とハンが目だけで空を見る。ハンの目にはビルの隙間にあった暗幕が大きく広がったようにしか見えない。小さな光の正体が地球よりも大きいのだと知識で知っていても、実感が無かった。針で穴を空けた黒いカーテンを熱心に見上げるコミジュルの住民はとても奇妙だった。
「まぁ、いいものだぞ。お前も空を見て見ろ」
ソンヒに促されてハンは姿勢を戻す。背もたれのないベンチでは両腕が使えず、顎をあげて上を見た。
神室町に比べれば広く黒い空。幼い頃にも見たことのない小さな穴だらけの黒い空だ。スターダストのバックヤードで手渡された、星占いの本を思い出す。頭目には十二星座の謂れくらいは教養として抑えておきなさい、と釘を刺されたことを思い出す。
これまで知識と合わせて観ることのなかった隙間は空で、針孔は星。ハンの眼前に広がる夜空は、あの日ブランデーを飲みながら捲った春の夜空のページによく似ていた。
「おい、ハン・ジュンギ」
「なんでしょう」
ソンヒがすい、と空を指さす。ついさっきハンの喉を絞めたのと同じ右手が光を示す。
「春の……なんとかってやつはどれだ?」
「この時期の星空で『春の』で始まるものは二つあります」
ハンは、僅かに目を細めて思い出の中のハン・ジュンギの声に耳を傾けた。武骨で整った指先が紙の上の天球を示す。本物の星空は紙よりも広く、星は儚い。きっとあれだろう、と町の明かりに半分飲まれた南の空を見つめる。二つに関わる青白いおとめ座の一等星は、力強くそこに在った。
「二つ……そうなのか?ふむ、両方言え」
「春の大三角と春の大曲線です」
「ほう、詳しいな」
「いえ、ただの教養です」
「まったく。嫌味な奴だな。それで、どれが三角で曲線なんだ?」
「あいにく腕が使えないもので、お示しできかねますね」
ソンヒは眉をひそめて、ハンを見た。ハンはソンヒの顔を見て唇だけで笑ってから、夜空を見上げて口を開いた。
「ここの住人は、夜空を見上げるのですね」
その濁りのないまっすぐな声は、彼自身のものだった。
「当たり前だ」
険しい顔のままソンヒも空に視線を戻す。
「そうですか。少なくとも私は今日初めて、星を見るために空を見上げました」
「そうか。どうだ?」
うーん、という唸り声はしばらくでクスクスと笑い声に変わる。
「どう……どうでしょう。さっきから視界に光る輪が大きくなったり小さくなったりで、どれが星なのか分からなくなってきました」
ハンの口から、ふわと欠伸が漏れる。
「おい、そういうのはもっと早く言え」
「このままここで眠っても?」
数日ぶりの自然な睡魔に身をゆだね掛けるハンを、ソンヒが慌てて彼の体を支える。
「ダメに決まっている。寝るならベッドで寝ろ」
「そんなところで寝たら風邪をひくよ、ヨンス」
かつての星の囁きが優しくハンをまどろみに誘う。自分の体が浮き上がる感覚に何の違和感も覚えず、ハンはゆっくりと瞼を下ろした。