牢屋 紙の束を持ち込む仕事以外でも、コミジュルに立ち寄ることは度々ある。大抵はそこの女王さまから呼び出しを受けて馳せ参じるのだが、今回は少し違っていた。なんでも「趙天佑を個人的に嗅ぎまわっている日本人」がいるとかで、あらかじめ攫ってくれていたそうだ。本来は 電話一本で、コミジュルに処理を依頼するのだけれど、彼らが先回りをして確保したということと、「俺個人の事を嗅ぎまわる日本人」という少し、珍しい存在に少し興味があった。面通しをする意味は特にない。ただ、俺が見たかっただけだ。男か女かしらないが、コミジュルにさらわれた時点で選択できる未来は限られている。
仕事とは少し違う、あえて例えるならば動物園気分でコミジュルの執務室に来ていた。一体どんな輩が俺の情報を探していたのだろうか、と内心ワクワクしていたのである。そもそもが、生きた状態で見られる保証はない。だが、例えば学生時代の顔見知りが何らかの経由で「横浜流氓の趙天佑」がかつての同級生だったと気づいて、同窓会の案内を持ってきたのかもしれない。もしかしたら、子どもの頃のゲーセン仲間がわざわざ訪ねてきたのかもしれない。もしそうだったら、丁寧に処理して口を割らせなければならないし、ソンヒへの報酬を追加で用意する必要がある。
しかし、当の本人は不在でいつまで経っても現れなかった。「執務室に来い」と言ったのはソンヒである。仕方なしに勝手に珈琲を入れてくつろいで、約束の時間からはや1時間をすぎようとしている。
どうするか。
コミジュル自体は何度も来ているし、施設の場所も把握している。例の日本人は攫ったというのだから当然「牢屋」にいるのだろう。勝手にコミジュルを歩くのは不躾かもしれないが、勝手知ったる取引先だ。それに制裁を受けた部下の死骸を何度も取りに来ているのから、道順も覚えている。「牢屋」に向かう途中でソンヒに会うだろう、と空の珈琲カップをそのままにして部屋を出た。
地下の居住区とは別の建物の地下空間が、コミジュルの「牢屋」だ。異人町に流れ着いたジングォン派の落人が、もともと在った建物を不法占拠したのが始まりである。一体元は何の建物だったのだろうか。増築して使っているにしても、地下に個室がある施設というのは珍しい気がする。建物について調べようにも、バブル崩壊で地権者が不明だとかで市も手を付けられないらしい。
古い団地を魔改造した蜘蛛の巣の奥深く。ケーブルの類が少ない一角の先が目的地だ。ここを歩いていてもコミジュルの人間は見て見ぬふりで、咎めもしたければ止めもしない。横浜流氓の総帥がうろついている時点で、声をかけても余計な面倒ごとに巻き込まれるだけだという理解をされている。一切迷うことなく「牢屋」の手前の金網に」辿り着き、ゲート前で手を振ると、門番が少し嫌な顔をした。まぁ、嫌だろうとも。
「ソンヒ、居る?」
そう満面の笑顔で尋ねれば、門番はすっと表情を戻して出入り口を開けた。
「ありがとね~」
と、思いっきり愛想を振りまいて先へ進む。廊下の両側には、鉄扉に小さな格子窓の「牢屋」が等間隔で並んでいる。俺は映画とコミジュルでしか見たことがないが、きっとこれが独房というやつだろう。ごうんごうんと換気扇の大きな音が響いていて、単純に地下独特の嫌な臭いが溜まっていた。
閉まっているそれぞれの扉からは人の気配がしていた。開いている部屋は少なく、ちらりと覗いたところで何も見えない。ベッドのようなソファのようなものがあるようだ。悲壮感漂うカラオ屋に来たみたいだ。とりあえずまっすぐ進むか、と廊下だけが蛍光灯で照らされた道を歩き始めたところで、途中の曲がり角からピンクの髪の女が現れた。
「やっほ~ソンヒ。来ちゃった」
デートの待ち合わせよろしく、大きく手を振る。彼女はギクリ、と立ち止まり俺を見た。彼女が来た先にも牢屋があったはずだ。確か、牢屋と尋問室だった気がする。ソンヒは仕事が長引いていたらしい。
「おい、どうして来た」
「どうしてって、それ1時間も待たせてる側が言うセリフじゃなくない?」
ソンヒが慌ててスマートフォンを取りだし、画面を見て目を丸くした。
「こんなに時間が経っていたとは。すまないな趙。このまま案内する」
例の「日本人」を尋問していたわけではなかったようだ。尋問対象が複数重なることもあるのか。
「あ、ソンヒが来た方じゃないのね。じゃあ、そのまま真っ直ぐこっち?」
行き先を尋ねると、ソンヒの気配が変わって、尋問室の方をじっと見ていた。それと同時に彼女の視線の先からかすかに声が聞こえてきた。何を言っているのかまではよく分からない。日本語ではないし、当然中国語でもない。
「韓国語?ソンヒ、もしかして誰かにお仕置きでもしてた?」
声は命乞いをするような悲壮感に満ちている。ここは「牢屋」だ。コミジュルもウチに負けず劣らず内輪の争いはあるのだろう。所詮はマフィア、足の引っ張り合いは日常茶飯事だ。
「趙、早く来い」
ソンヒが俺を見て、顎で行き先を促す。
「無視かよ」
今日のコミジュルの女王はご機嫌斜めなようだ。
その間も声は止まない。何度も同じ言葉を繰り返していて、少しずつ怒気が混ざってきていた。何と言っているのだろう。興味を惹かれ、ソンヒが来た道の先を覗き込もうとした。
「趙、見るな!早く来い!!」
「へ!?」
さすがに驚いてソンヒの方に向き直る。
「その言葉を聞くな。いいから私に着いて来い!!」
カツカツとヒールを鳴らして、ソンヒが先を行く。後ろ髪を引かれたが、怒鳴り声が獣の咆哮に変わった気がして俺は黙って彼女の後を追った。