【若トマ】タイトル未定の長編予定③ 夫人に叱られ、綾人とふたり布団を並べて眠ったあの晩から数日たったある昼下がりのことだ。
もう一度、離島に行かないかい、と。そう、綾人に誘われたのは。
その時、トーマはちょうど長い長い廊下の床拭きを終わらせ、ざぶざぶと桶で洗った雑巾を硬く絞りあげたところだった。
濡れた手に触れてしまわないように滴る汗を腕で拭い、ひょこりと柱の影から顔を出しついでにかけられた言葉を反芻しながら噛み砕く。
もう一度、離島に行く。
誰と――綾人と。
どこに――だから離島に。
どうして――そんなこと、わからない。知らない。
教養の行き届いた綾人の考えることなんて、すこし前までモンドで自由気ままに走り回っていたトーマには、ちっとも理解できやしない。
はた、と瞬き首を傾ぐ。柱の影からととんっとリズムよく抜け出した綾人は、探したんだよと肩を竦めて言うわりに、随分と涼しげな様子だ。汗などもちろん一滴も頬を滑っていやしない。
いつも通り美しく正された襟元に、一寸の乱れもない衣。髪色と同じ涼しげな色の衣装は、今日も今日とて綾人に良く似合っている。
こうした綾人の姿を見ると、数日前の夜がすべて夢であったように思えてしまうのは、仕方のないことだろう。そう思うほどに、あの夜の――浜辺でトーマを迎えにきた彼は見慣れない姿をしていた。
「お稽古は?」
「今日はもう終い」
硬く絞ったばかりの雑巾を叩き広げ、尋ねる。間髪入れず応えた声は、どこか楽しげだ。
トーマと出掛けようと思って、今日だけは少し時間を早めてもらったんだ。弾むような調子で続く言葉に合わせ、綾人のかんばせには笑みが浮かんでいる。
今度はいったいなにを企んでいるのやら。果たしてどんなことに巻き込まれるのやら。思わずそんな風に身構えてしまうのは、きっと先日のようなことがあったから。
「……お嬢は?」
「お母様と外に出ているね」
「また拗ねてしまわれるのでは?」
「美味しい菓子でも土産を買ってくるとしようか」
悪あがきに重ねた問いかけも、難なく返されあっけなく藻屑へと成り果てる。
土産を買ってきたって、許してくれますかね。そうトーマが一概に言えないのは、先日の一件で頬をぱんぱんに膨らませるほど拗ねてしまった綾華の機嫌を取り持ってくれたのが、綾人が部屋の戸棚に隠し持っていた菓子であったからだ。
『お母様には秘密だよ』
まるで、とびきりの秘め事でも囁くように。
ゆったりと立てた人差し指をくちびるに触れさせた兄が、妹に向ってそっと囁く。そうすれば、ふくれていた頬はみるみるうちに柔く綻んで。涙で潤んだ眼を文字通り瞬く間にきらめかせた綾華の顔は、まだトーマの記憶にだって新しい。
あのとき、甘味と大好きな兄との秘め事。その双方が綾華の心を慰めてくれたのだと思う。
幼い頃のトーマも、そうだった。
母に叱られ、自室の片隅で頬を膨らませていたトーマに、母さんには内緒だぞ、と。そう言いながら父の差し出してくれた菓子の味は、残念ながらもうたいして覚えていないけれど。その時の高揚感も。特別感も。途端に持ち上がった単純な機嫌も。いまだってきちんとトーマの胸に刻まれている。
なにより、彼女の最愛の兄が手ずから土産を選んでくれるのだ。
それがどんな甘味であろうと、なんであろうと。それだけで、彼女にとってはとびきりの甘露となるに違いない。そこに共に土産の菓子を食べるという名目で綾人との時間も確約されてしまえば、いよいよ彼女の機嫌は右肩上がりになるに違いない。
さて、どうしたものか。打てる球を打ち尽くした。それでも、悪足掻きに抜け穴を探し求めて思考を巡らせてみる。
もとより、まだ新参者の範疇から抜け出せないトーマに振られる仕事は、そう多くもない。
床拭きに埃叩き。それから庭掃除と水やりが、いまのトーマに命じられるモノだ。
なんなら、今日は思いのほか別の使用人の手もあって、すべき仕事は――できる仕事は、いましがた終えてしまった。
あとは汚れた水を捨て、綺麗に洗った雑巾を干す程度。当然ながら綾人の誘いを断る理由には弱い。
そも、彼からの誘いをトーマは本当の意味で拒むことなど許されてはならぬ立場であるのだ。
命じられれば、仕事を振られた時と同じように従うだけ。
いくら綾人がトーマを友のように接してくれようと。綾華がもうひとりの兄のように慕ってくれようと。
トーマは、神里家に拾われた身である。彼らからの情けを、受ける側だ。その事実に変わりはない。
衣食住を恵んでもらうばかりか、こうして勤めまで与えられて。返しきれないほどの恩を感じている。
でも、だからこそ。恩は、返さなければならない。与えられたものに、見合うものなど、今のトーマはまだ持ち合わせていないけれど。この身で差し出せるものがあるのならば、惜しみなく差し出す覚悟は持ち合わせている。
それが、いまだ会うことの叶わない父からの教えでもあるから。
それが、いまとなってはたったひとつの、父との繋がりのように思えるから。
「わかりました。いきましょう」
角を揃えて雑巾を畳み、頷いて返す。
満足げに細められた眼は、けれどはじめからトーマに断られるとは思っていないようで。では、半刻後に裏門で、と。歌うように告げ、綾人はひらりとその身を翻した。
空気を含んだ袖が宙を舞う。
柔らかな陽の光を浴びた艶やかな髪が肩の先で弾んで。訪れた時よりもわずかに浮足立ったような足音を鳴らして去ってゆく綾人から、トーマはどうにも目を離せずにいた。
数日振りに足を踏み入れた離島は、まるで別世界だった。
否、日常に戻ったと言う方がきっと正しい。
あの日、悲しみに暮れ、沈んでいた街は賑わいを取り戻し、活気ある声が右へ左へ飛んでいる。
良い魚が捕れたよ。めったに入ってこないスメール産の香辛料だ。さぁ、ものは試しだ。匂いを嗅いでみな。あぁ、お前さん。今日はいいものがあるよ。どうだい。呼びかける声も、応える声も。溌溂としたやり取りに、あの日のような精彩を欠いた様子は見られない。
誰もかれもが、ただ今日を生きている。今を、生きている。
そこに在るのは、トーマにも覚えのある光景だった。
あの日、この地にたどり着いてはじめてみた。これこそが稲妻と思える景色であった。
外界を拒む様子を見せながら、それでも城郭から外れた地はまるで治外法権のように。あるいは、その地だけが彼らの居場所であるかのように。様々な国の人間が行き来する。
スメール人。璃月人。物陰に佇むスネージナヤ人に、興奮した様子でからくりを見せて語るフォンテーヌ人。それからもちろん。モンド人の姿だって。ただそこに、トーマの探し人だけがいない。みつからない。
それは、いまだって同じ。変わらない。変わってやくれなかった。
嵐を乗り越えた人が、離島の生活をまわして行く。トーマを置いていく。
暗がりから抜け出して、陽の下で高らかに声を響かせて。そうして、新たな日常が溶け込んでゆく。
そうした彼らの『生』を自覚した途端、トーマは綾人があの日語った言葉を思い出していた。
『葬儀と言うものは、死者の魂を見送るというより、生者がただひとつの区切りを告げるために執り行うものなのだろうね』
酷い言葉だ。なんとも痛い音だ。
死者を悼むのではなく。ただ、生者を慰めるため。人は葬儀を行うのだと。
そう語る酷く平坦な声は、数日が経った今でもトーマの耳にこびりついて離れない。
でも、少しだけ腑に落ちた。
いまこの街に生きる人はきっと、あの日正しく区切りをつけたのだろう。
帰らぬ人を待たず。前を向いて生きてゆくのだろう。
これまでが、そうだったように。
これからが、そうであるように。
残りの人生をただ泣き暮れるより、随分と良い。
薄暗い部屋の中に蹲っているより、ずっと良い。
トーマだって本当はわかってる。理解している。
でも、やっぱり。それでも、どうしたって。
区切りなど、つけたくもない。認めたくなどない。そう、思ってしまうのだ。
――だって、そうしないと父さんが本当にいなくなってしまう。
「っ、」
それを自覚した途端、トーマの背を厭なものが這い上がった。
ドっと心音が大きく跳ねる。息が詰まった。
狸に化かされてはぐれてしまわないように。そう言って屋敷を出て少ししたところで繋がれたままの手が、くんっと立ち止まったトーマの腕を引く。
数歩前を行く綾人が振り返り、はたと瞬いて首を傾いだ。
トーマ、と伺うように名を呼ばれて、我に返る。知らず知らずのうちに喧噪へ向けていた意識を引き剥がしてかぶりを振って返せば、綾人はそれ以上なにも問いただすことはせず。ただ繋いだ手を引いてまた歩き出した。
もとより、行き先は決められていたのだろう。こっちだよと言いながら前を行く綾人の足取りに迷いはない。
隣接した島とは言え、神里家の屋敷からここまでそれなりに距離がある。
一介の使用人であるトーマはおろか、剣術の稽古に、勉学にと忙しい身の上の綾人だって、こんなところさほど足を運んだこともないだろうに。トーマと正反対の滑らかな歩みは、町を行き交う人の間を縫うように進み、やがて一軒の店屋の前で立ち止まった。
ガラリと戸を開けば、店内に居た大人たちの目が好奇の眼差しを向けてくる。
どうしてかと辺りを窺えば、なるほど。そこは。おおよそ子供が立ち寄ることのない場所であった。
菓子を置いているわけでもなく。使いの食材を買い求める所でもない。
通りに面したカウンターの向こう側。ずらりと棚に並んだ瓶はみな、光を通さぬ色をしていて。その光景に、トーマも覚えがあった。いまよりもう少し幼い頃――まだ、父と母と三人でモンドの片隅で暮らしていた頃。父の姿を探しては潜り込んだ酒場のカウンターに、よく似ている。
「お待ちしておりました。仰っていたものはご用意していますよ」
なにをいうより先に、カウンターの内側に居た店主が目を細める。
こちらの正体を知っているのか。先触れでも出していたのか。子供を相手にするにしてはどうにも丁寧な口調で言われて、トーマの方が腰が引けた。
居たたまれなくなって右へ左へと視線を移したところで、待っているのは相も変わらず向けられる好奇な色をした大人たちの視線ばかりで。一歩、綾人の方へ身体を寄せた。
少しばかり繋いだ手に力を籠めてしまったトーマに、気づいた綾人がちらりと向けた眦を和ませる。
心配せずとも、とって食われやしないよ。そう、ほんの一瞬絡んだ眼差しが言葉なく告げた。
そりゃそうだ。ただ、物珍しさが彼らの視線を集めているだけだ。親の目がなくとも外を駆けまわることが当然の齢とはいえ、未だ少年の範疇から抜け出しきらぬ子どもがふたり。それも質のいい衣を着て、酒屋に赴き、店主が恭しく相手するだなんて。なかなか見られぬ光景だ。
モンドで酒場に父を迎えに行ったときだって、はじめのころは同じ視線をよくよく大人たちから向けられた。
子供が来るにはまだはやいぞ。なんてゲラゲラ笑いながら言われたことだってある。
でも、やっぱり異国の地で浴びせられる視線というのは、故郷の地で向けられるそれとどうしたって違って思えた。
「なんだ、坊ちゃんたち。親父さんの使いか?」
「ええ。そんなところです」
頼んでいた酒を用意しに店主が背を向けたところで、船乗りの男らしい大きな声で問われる。ここの酒は美味いからなぁ。親父さんいい判断だ。なんたって、俺が仕入れてきた酒だからな。美味いに決まってる。と、自慢げに語る男に、トーマが肩を跳ねさせる横で、綾人は平静を崩さぬまま返す。
その返答にトーマはようやっと、合点がいった。
ああ、なるほど。そういうことか。
彼の言う通り。使いを頼まれたのだろう。
それが綾人の父からなのか、母からのものかは、知れないけれど。
少なくとも、神里家の竈の番人と呼ばれているばあやからではないだろう。
誰もかれも頭が上がらない人とはいえ、さしもの彼女も当主の息子に使いなど頼めようはずもない。
なら、厳しくも優しい彼の両親が渡した、稽古に勉学にと精を出す息子への束の間の休息時間だろうか。
否、もしかしたら、トーマをこの離島に連れ出す口実を、綾人が彼らに求めたのかもしれない。
なんとなく、そちらのほうが的を得ている気がする。
であれば、彼が見せたかったのは、嵐の痕跡が拭われた町の姿か。はたまた、区切りをつけた人々の様子だろうか。
まったく。酷い人だ。わかりきった現実を、見せつけようとするだなんて。
でも、不思議とあの日のような嫌悪感や苛立ちが、トーマの頑是ない胸に湧くことはなかった。
そうしている間にも酒瓶を包んだ店主が、カウンターから代金と引き換えに包みを差し出す。
それを両腕でしかと受け取った綾人は、いつも通り人好きのする笑みを浮かべ、丁寧に礼を述べて美しくその身をトーマの方へと翻した。
帰ろう。そう言うより先に受け取ったばかりの包みを胸に差し出され、受け取る。
そりゃそうだ。主人に荷物を持たせ、自分は身を軽くしたまま隣を歩く従者などこの稲妻にはいない。
受け取った包みを胸に抱き、ふと風呂敷のあわいからわずかに覗く酒瓶を見遣る。
その、瞬間。息が止まる心地がした。
目を瞠り、わななくくちびるを噛み締める。飲んだ息が喉の半端なところに引っ掛かり、情けない音が耳朶をうった。
「探していたんだろう」
傍らを通り過ぎた綾人の姿を追いかけ、その悪戯の成功したように笑う顔を見開いた双眸に宿す。
ああ、そうだ。
ずっと、欲しかった。探していた。
多分、父の姿を探すのと同じくらいに。
それがお守りだったから。父に会うために、必要なアイテムだと思うから。
「わ、か?」
「さて、用事も済んだことだし、綾華への土産を見繕って帰ろうか」
驚いたかい、と綾人は問うことはしなかった。
多分、聞かずとも答えは明白であったからだ。
機嫌よく持ち上げられた口端に、なにか言って返したいのに声が出てこない。
ただ、受け取ったその酒瓶を決して離さぬようにしかと抱きしめ、頷き。もう繋がれてもいないはずの手に引かれるまま、トーマは一歩二歩と離島の地を踏み締めた。