終電 ごおっと大きな音を立てて最終電車が目の前を走り抜けていく。アドニスを乗せた電車を苦虫を噛み潰したような表情で見送って、大きな溜息。
「もう今日は帰らないで」どうしてその一言が言えないんだろう。デートの朝に今日こそは……!と決意を固めるが、いざ別れ際になると終電に間に合うように送ってしまう。まるで学生の清く正しい交際だ。改札へと吸い込まれるアドニスの腕を掴んで少しだけ強引に引き留めてしまいたい、けれどアドニスに拒否されたら、そう考えると手を出すのを躊躇してしまう。
今夜もひとりで反省会だな、と自嘲気味な笑みを浮かべて踵を返す。その時、誰もいないはずの改札の前にぽつんと浮かぶ人影が視界に入る。こんな時間に珍しいなと思わずじっと見つめると、その人物はついさっき後ろ髪を引かれながらも手を振って見送ったアドニスで目を瞠らせる。
「アドニスくん!?」
静まり返った駅に驚愕の声が響き渡る。一瞬幻でも見ているような錯覚にとらわれたが、夜空に溶けるような紫の髪も、星のように煌めく金色の瞳も、間違いなく本物。状況を飲み込めないながらも慌ててアドニスの元に駆け寄ると、なぜか居心地が悪そうに目を伏せる。
「え、アドニスくんなんでいるの!?さっきの電車に乗ったんじゃ……」
「それが、間に合わなくて……急いで走ったんだが、目の前で扉が閉まって……」
「そう、なんだ」
目を白黒させる薫を一瞥して、アドニスは悪戯を咎められた子供のように視線を逸らしたまま口をもごもごさせる。不本意ながらもきっちりと時間を確認して送り出したから間に合うはずだが、と疑問がシャボン玉のように浮き上がるが、アドニスの言葉で綺麗さっぱり弾け飛んでしまった。
「だから、その、羽風先輩の家に泊めてくれないか……?」
そろそろと遠慮がちに手を伸ばし、薫のシャツの裾をきゅっと掴んだ。蛍光灯から発せられる冴え冴えとした人工的な光が、アドニスの赤く染まった耳を照らす。その瞬間、まるで電気が走ったかのような衝撃に心臓は激しく暴れ出し、全身がかあっと燃えるように熱くなる。アドニスも自分と同じ気持ちであるという事実を手放しで喜びたい。一方で、自分がぐずぐずしているせいでアドニスに口実を作らせてしまい、あまりにも格好がつかずのたうち回りたい。薫は相反する感情を抱えたまま立ち尽くす。
そんな心の中の葛藤を知る由もないアドニスの瞳は、全く反応を示さない薫に不安の色を徐々に濃くしていく。
「すまない、急に泊めてくれなんてお願い、やはり迷惑だったな。歩いて帰るから気にしないでくれ……」
「え、あ、ちょ、待って待って!!全然迷惑じゃないよ!!それに、こんな時間に歩いて帰らせるわけないでしょ!?」
鼓膜を突き刺した泣き出す一歩手前のような震える声ではっと我に返った薫は、離れようとするアドニスの腕を慌てて掴んで引き留める。そのままいじらしくシャツの裾に縋り付く手を安心させるように優しく撫でると、あからさまに表情を緩ませた。アドニスは勇気を振り絞って今ここに残ってくれた。だから今度は薫がそれに応える番だ。緊張の糸が切れたようにふっと力が抜けた指に、するりと自身の指を絡める。ビクリと身体を震わせる初々しい反応に身体の奥底から愛おしさが湧きあがる。
「じゃあ、行こうか」
「あ、あぁ」
にこりと微笑みかけると応えるように手を握り返される。いつもはひとり肩を落として歩く道のりを、手のひらから溶けそうなほどの熱を感じながら歩き始めた。